神田雑学大学 5月19日 講義録<

 

戦火のレバノン脱出記

〜子どもを抱いて砲弾を潜って〜」

講師 ハブハッサン洋子


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講師紹介

"島国根性%本!

"女の意地"で海外へ雄飛

戦火の花嫁

中東の世界

ジョーの瞳に賭けて

戦友・ジョーを男≠ノしたい

21世紀は女性と平和の時代!



講師紹介

ハブハッサン洋子


"島国根性%本!

「グローバル時代だ」と自分たちで言いながら、実は私たち日本人は海外の本当のことを知らないし、外国語すらも喋れない。 ましてや、「中東」となるとチンプンカンプン。われわれは彼らの国や言葉や歴史や宗教を知らないし、また知ろうともせずに平然としているところがある。

2月25日に神田雑学大学の講師としてご登板願った中村明さまはこう言われた。「日本でスペイン語を習っても、喋る時と場所がない。英語以外はすべて『流行らない』の一言で片づけられる。」

"島国根性≠ニいう用語を使い始めたのは、明治の米欧特命全権大使として岩倉倶視(1825〜1883)に随行した佐賀藩士・久米邦武(1839〜1931)であった。対して、「20世紀・21世紀の島国根性≠ニは、アメリカ一辺倒の日本人のことだ」と誰かが言ったが、まさにそうであろう。そんななか度胸ひとつでオーストリア、カナダ、そしてレバノンへと渡り、しかもそのレバノンで砲火の下を潜りぬけ、現在新宿でレバノン料理のレストランを開業された女性がいる。それが「アブハッサン洋子(日本名:仲島洋子)」さんである。先ず、彼女の話を聞いてみよう。そうしてわれわれは、彼女の爪の垢でも煎じて呑んでみる必要があるのかもしれない。

女の意地≠ナ海外へ雄飛

私は、最初はあるデパートに勤務していました。しかし、当時はまだまだ女性に仕事を任せるという時代ではありませんでしたので、私の心のなかには何か不満のようなものが燻っていました。そんなころ、神戸のインターナショナルスクールの卒業生たちと交流をもつようになったのですが、私は英語がほとんど話せませんでした。負けず嫌いの私は、英語の達者な友人たちを見て発憤して勉強することになったのです。

そうして、グアム・サイパン〜小笠原航路の客船スチュワーデスになりました。当時は豪華客船時代の幕開けのころでしたが、スチュワーデス35人の募集に受かったのです。あとで聞きますと、私は女性船員第一号だったといいます。

それから、日本のある企業がウィーンに日本料理店を出すという記事を見つけてまた応募し、事務職の仕事に就きました。ここで「私の試験突破法」というのをご披露しますと、正直に申しますと私は筆記試験に強くありません。そこでどうしようかと考えた結果、「注視法」とでもいうのでしょうか、「この仕事をしたい!」という意志を身体で示す、つまり喰い入るように相手を見つめるのです。そうやって私は、関所を通過してきました。

次が、カナダでの日本料理店勤務ということになりますが、ここで運命的な出会いが待っていようとは私は思いもしませんでした。つまり友人の紹介で、今の主人と知り合ったのです。主人となったジョー・アブハッサンは、レバノンからの留学生としてオタワにおりましたが、当時の日本もそうかもしれませんが、特にレバノンの女性は開放的なカナダ人と比べて保守的だったんです。それで日本女性である私に自分の理想に近い印象をいだいたのだと思います。

ところが、私の方は7歳も年上だし、仕事で成功したいという思いをもっていましたから、結婚なんて全く考えてもいませんでした。しかしながら、恋愛感情が一番高まったときに結婚という意識が生まれるのは自然なことだと思います。ですけど、ジョーはアブハッサン家の長男でした。日本でも長男に嫁ぐというのは色々あるといいますが、レバノンの家族はもっと大変なことなんです。ですから、全然迷わなかったといえば嘘になります。しかし、「いま直ぐでも、考えて1年待っても決めたことに変わりはない」と思い結婚を決めました。

戦火の花嫁

そんなわけで、私は結婚式を挙げるためにレバノンに渡ったのです。すぐカナダに戻るつもりでね。主人の実家は首都ベイルートから北へ80km離れたトリポリという港町にありました。当時はベイルートには日本人がおりましたが、トリポリにはいません。私は、町の人たちにとって初めての日本人だったのです。

それに長男は一家の柱というような慣習の国ですから、長男の嫁というのは重要なんです。それが東洋からやって来た年上の女・・・・・・。連日、親戚の人が私に会いに来る、というより見に来るんです。ところが、私は言葉(アラビア語)がわかりません。もう、パニック同様でしたね。

そんなこんなで1週間が経ちました。そこへある晩、大きな火事が起きました。遠い親戚一家が焼き出されて、主人の家に逃げ込んて来たのです。実はこの火事が爆弾による火災だったのです。いわゆるレバノン内戦の勃発でした。たちまちのうちに町は、兵士と民兵そして戦車であふれました。 日本の一般の女性なら、結婚式は最高にハッピーのときでしょう。

ところが私の世界に、いきなり爆弾・戦車・兵隊が飛び込んで来たわけです。「いったい何なんだ?」という感じですよ。「これはカナダに戻った方がいい」と思ったときには、あっという間に道路が閉鎖され、ベイルートへ行く道もないのです。「万事休す」というのはこのことでしょう。一家は山の上に避難して、小屋のような所で生活しました。

ただ、義父や何人かの男たちは家を守るために残りました。というのは、全員が逃げ出してしまうと、同じ避難民に家を占拠され、そうなってしまうと取り戻せないのです。土地や家を失った集団が難民です。だから、一家が家を守らなければ難民になるのです。そういうわけで義母は自分たちの本来の家と山の仮小屋 とを往復する毎日です。郊外にも爆弾は落ちてきます。いつ死んでもおかしくない毎日、こんな生活を1年半ほど続けました。<

正直に言いまして、私には「逃げたい」という気持もありました。しかし、それをやると「主人や家族を置き去りにして逃げた」という十字架を一生背負うことにもなります。そんな葛藤のなかでレバノン残留を選びました。しかし、この選択が主人の家族の心を動かしたのでしょうか、「遠くからやって来た嫁にこんな目にあわせて」という風に思ってくれるようになったようです。特に、両親からは大切にされました。

ところで、内戦というのは1年365日、弾が飛び交うわけではないのです。ある町や村が集中的に攻められ、次は別の村が攻撃を受けるのです。ですから、数ヶ月だけ空白、平和もどきの期間があるわけです。このとき彼らは働きに行きます し、遊びにも行きます。映画館は営業してますし、ディスコもやっています。この感覚が私には理解できませんでしたが、束の間の平和を楽しむノウハウなんでしょうか。

弾が飛んで来ない日、丘の上に坐って美しい地中海を眺めながら、この海の向こうの、向こうに生まれ故郷の日本がある。そこには私の両親がいる、という想いにふけっていますと無償に日本に帰りたくなります。でも、こちらにも私の家族がある。本当に辛い心境でした。そうしているうちに戦況は一段と厳しくなり、いよいよ危ないという状況に陥ってしまいました。

とうとう、私たちは家族会議を開いて主人と2人だけで、レバノンを脱出することになったのです。送る両親もまた苦しかったと思います。心情的には「息子とは別れたくない。しかし家族が全滅するより、この方を選択しなければ」という気持だったと思います

とにかく、私たち2人はマイクロバスでエジプト・ヨルダンを走って、シリアのダマスカスにある日本大使館に飛び込みました。すると、いきなり「仲島洋子さんですね」と訊かれたのです。もうびっくり。でも、よくよくうかがってみて、理由が分かりました。何しろ、私は両親に何も言わずにレバノンにやって来た身です。

以前、銃が火を吹き始めたころ、ノートの切れ端に鉛筆で殴り書きしたような手紙を書いて両親に送っていたのです。それが運よく届いていたのですね。驚いた両親は世界中の大使館に捜索願を出していたのです。本当に親とは有り難いものです。その捜索願のお蔭で大使館は動いてくれました。主人はそのシリアの日本大使館で働けるようになり、私は大使館の勧めもあっ て一時日本へ帰国することになったのです。でも、ダマスカス空港で見送る主人の、哀しみを凝縮したような瞳、私の脳裏 に深く焼き付いてしまいました。

中東の世界

ここでレバノンという国をちょっとご紹介します。レバノンは地中海に面した共和国ですが、第一次大戦後はフランスの委任統治領、1944年に独立しました。面積は約1万平方kmですから、日本でいえば岐阜県ぐらいの国土でしょうか。 また人口は約300万人ですから、広島県民ぐらいとイメージすればよいと思います。面白いことに、彼らは「自分たちは、フェニキア人の子孫である」という誇りをもっています。

フェニキア人は、紀元前3000年ごろから歴史に登場し、ビブロスなどの都市国家群を建設して、交易を中心にして活躍した民族です。というわけで、彼らの誇りというのは自分たちは交易・金融ビジネスが得意なんだというものです。そんなことから、レバノン人は世界に雄飛しており、日産の社長、あるいは歌手のポール・アンカ、ニール・セダカなどが知られています。

  因みに、私の娘はキャロルといいますが、ニール・セダカの歌に「おぉ、キャロル」というのがありましたね。勃発したレバノン内戦というのは、そう簡単な構図では説明できませんが、敢えて言えばカトリック教(マロネット系)とイスラム教との戦いなんです。キリスト教徒は国民の約30%、イスラム教徒は約70%という分布ですが、キリスト教徒には生活レベルが比較的高い人たちが多く、イスラム教徒はそうではない人たちが多いという具合になっていまして、後者の不満が溜まって爆発したとも言えるわけです。

また、レバノン南部問題というのは、1985年以来、イスラエルが一方的にレバノン南部地域を「安全保障地帯」と定め、レバノンの親イスラエル派の民兵組織「南レバノン軍」の協力を得て占領してきたため、レバノンのイスラム教シーア派民兵組織「ヒズボラ」が反発し、双方で戦闘を繰り返してきたものです。それからもうひとつイスラエルとパレスチナ問題というのがあります。

これは紀元前千数百年前という気が遠くなるような太古からの、言い換えれば「旧約聖書」の時代からの歴史の流れの上の問題です。どういうことかといいますと、先ずイスラエル人はパレスチナの東南方の荒れ地に起こり、紀元前千数百年ごろエジプトに居住していました。その後、彼らはモーゼに導かれてエジプトを出国し、カナン(パレスチナ)に至り、前1250年ごろヘブライ王国(イスラエル)を建設しました。

しかし、前926年に北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂し、前722年にイスラエルはアッシリアに、前586年にユダは新バビロニアに滅ぼされてしまったのです。そうして前1世紀にローマ帝国の支配下に入り、このころからユダヤ人の流浪が始まりました。その後も苦難の歴史がありますが、話を簡単にするために一気に飛んで、1948年にはパレスチナに流入したユダヤ人がイスラエル共和国を建設しました。が、当然そこには先住のパレスチナ人がおりました。彼らは難民となり、両者の戦争へと発展したことはご存知の通りだと思います。

ジョーの瞳に賭けて

話を戻しますと、日本に着いた私ですが、もうみんな「レバノンへ、行くな、行くな」の大合唱です。ある意味では当たり前ですね。そんなこんなで6ケ月が経ったころ、シリアの大使館の方が休暇で帰国されました。その彼が私に言われたのです。「ジョーは貴女を信じて待っている。決断するときがきましたよ。」私は別離のときの主人の哀しい瞳を忘れていませんでした。私は、彼に賭けようと決心したのです。

シリアの大使館に戻ったあと、私と彼との間に子どもができました。大使館で産むわけにはまいりませんので、2人は戦火のレバノンに帰りました。それからの8年間は本当にハードでした。飛び交う銃弾の中を逃げ回ったこともありました。

子どもを抱えて弾の下を潜り道路を渡ったこともあります。留まればまちがいなく死ぬんです、ですからたとえ弾が飛んでても渡るしかないのです。続いて、2人の間には長男も誕生しました。

その間、幼い児を残して亡くなった母の遺体をいくつも見ました。ある時は、夫が長男を、私が長女を身体でかばって地面に伏せたこともあります。自分たちが犠牲になってでも子どもだけは助けたい、そんな思いです。私た ち夫婦は、共に戦火を生き抜いた戦友≠ナす。主人の弟のフィアンセは、彼の腕の中にいるとき弾に当たって亡くなりました。以来彼は40歳になるのに独身です。まだ衝撃から立ち直れないのです。あちらにいたか、こちらにいたかで運命が違ってきます。

それが戦争です。また戦争の真ん中におりますと、「殺される恐怖」は勿論ありますが、「殺す恐怖」もわいてきます。いつ自分が人を殺してしまうか分からない状態に陥るのです。内戦規模は最大に達してきました。もういけません。子どもたちを殺しちゃいけない、日本へ連れて行こう。そう思っていたときに政府の勧告がありました。しかし、夫にはビザがおりません。私は、4歳と2歳の2人の子を連れて日本へ向かうことにしました。

戦友・ジョーを男≠ノしたい

その飛行機の中で、私はある方と出会いました。レストランを経営されている日本人でしたが、夢みたいな展開になったのです。その男性は、幼いころに父親を亡くされて「父のない子の寂しさが分かるから、ジョーを呼ぼう」というのです。日本の土を踏んでから、兄と半信半疑で彼の店を訪ねました。その方の話は本当でした。半年後、夫は私のところにやって来ました。そうして夫はその方の店でコックとして、私はウェイトレスとして働くことになりました。これまで私は多くの恩人と出会いました。彼はそのなかでも大きな恩人の一人です。

そのうちにその方は夫のホテルマンとしての力量を見抜き、転職の相談にものってくれました。私も、ビジネスやりたいという若いころからの夢は捨てておりませんでした。その後もホテルや貿易会社や電機会社など色んな仕事に就いて、頑張りました。私は、どんな場面でも自分にできることは最後まで頑張り通します。そこまでやれば必ず局面は開けてくると思います。

こうしてレバノン料理のレストランを開業したのです。レバノンのことをもっと多くの人に知ってもらいたいとい思いで始めました。しかしながら、フェニキア人の末孫であることを誇りにしているジョーには、やりたいことが沢山あります。あんなに良くしてくれた彼と彼の両親のためにも、私は戦友・ジョーを男≠ノしたいと思っています。

21世紀は女性と平和の時代!

「どんな場面でも自分にできることは最後まで頑張り通します。そこまでやれば必ず局面は開けてくると思います」。これがハブハッサン洋子の真骨頂である。どん底を生き延びた彼女だからの言葉だろう。

この日の神田雑大の皆さんからの質問に彼女はこう答えた。

「レバノンに帰る日は?」

「主人の故国だから、行きたい。しかし、戦争のレバノンではなく、平和のレバノンに」。

 では、レバノンに、中東に、平和が訪れる日はくるのだろうか。

先日からの報道によれば、レバノン南部からイスラエル軍が撤退を始めたという。これは中東和平への第一歩ととらえられがちだが、それはあくまで表面的なことで、逆に紛争を激化させるリスクもありうるという。なぜならば、レバノン(ヒズボラ)はイスラエル攻撃の意思を捨てていないし、もしそうなればイスラエルの方も黙ってはいない。

なぜ、中東の平和がそんなに難しいのか。理由は、一口では述べられないほどの歴史の積み重ねの末であろうが、一つだけ言えることがある。それは中東地域の国防費がGDP(国内総生産)比7%以上と異常に突出していることである。

振り返れば、20世紀は戦争の時代であったといわれている。換言すれば「力の論理」「男の論理」が20世紀を支配した論理であった。であれば、21世紀の論理とは何だろう。ハブハッサン洋子さんを動かした「子どもを死なしてはいけない」という親の 情、それに3月3日にご登場いただいた熊谷知恵さんの「異文化コミュニケーション」。これらの女性の感覚には、21世紀の和平への鍵があるような気がする。今日の話をうかがっていた何人かは、そう予感したにちがいない。
− 完 −

(文責:ほし ひかる)


会場写真撮影:橋本 曜
HTML制作:上野治子
HTML編集、画像データ挿入:田口和男