神田雑学大学 8月11日 講義録 


神田川あれこれ

−神田上水について−

講師:『神田川芭蕉の会』

事務局長・大松騏一


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★神田学:その1−「神田上水

☆神田上水の歴史

★神田上水と松尾芭蕉

☆神田上水と水車

★神田川を愛するということ




★神田学:その1−「神田上水」

ここ神田神保町で開校しています『神田雑大』は、頭に「神田」の字を冠していますので、たまには「神田」について学ぼうという声が上がりました。 そこで今回は「神田川」についてのお話を企画しました。
講師は『神田川芭蕉の会』の事務局長・大松麒一さんです。
大松さまの本業はコピーライターです。その傍ら、街づくりの核として神田川を考える会『神田川芭蕉の会』を組織され、機関誌『桃青』も発刊されています。

さて、今日のお話の「上水道」というのは生活用水として飲用可能な水を人々に供給する施設のことをいいます。歴史は古く古代メソポタミアや古代ローマ帝国の諸都市に認められます。 また、日本においても弥生時代には灌漑用水がみられますが、市街地内に細かく配されるようになったのは江戸初期の神田上水からです。 というわけで、「神田上水」についてのあれこれをうかがってみましょう。

☆神田上水の歴史

東京都区部を東西に流れている全長25.5kmの神田川の水源は、武蔵野台地最大の湧水池である井の頭池(三鷹市井の頭)です。 途中、善福寺池(杉並区善福寺)から流れ出る善福寺川と妙正寺池(杉並区清水)から流れる妙正寺川の二流が合流し、 隅田川へと流れています。

井の頭池の湧水は、昔は7ケ所から湧き出ており、徳川二代将軍・秀忠(在職:1605〜1623)か三代将軍・家光(在職:1623〜1651)が「江戸の井の頭」と呼んだと伝えられていますが、 昔はうっそうと茂っていた森も太平洋戦争ごろから伐採されて宅地化し、現在はポンプで地下水を汲み上げている状態です。 神田川というと、古くからの名だと思われていますが、実はこの川を「神田川」と称するようになったのは 最近のことで、1965年の河川法の改正からです。   それまでは上流から、「神田上水」「江戸川」「外堀」という風に呼ばれていました。

「神田上水」は井の頭池から文京区関口の大洗堰まで、「江戸川」は関口から飯田橋まで、「外堀」は飯田橋から隅田川までです。
さらに言えば、神田上水の水と善福寺川と妙正寺川の水を大洗堰で合わせて水位を上げ、その勢いで水は小日向台の南麓を流れて水戸屋敷(後楽園)に入り、埋樋で屋敷を出ると、掛樋で外堀を渡って、神田・日本橋地区へ給水されていたのです。

実は、この「神田上水」の水が水戸屋敷を通っているということが、たいへん重要な意味があると私は考えているのです。というのは、文京区のもうひとつの上水である「千川上水」は柳沢吉保(1658〜1714)の屋敷を通っており、 あの「玉川上水」は内藤屋敷の庭を通っているからです。 正史には出てきませんが、この三氏は上水の権利・管理を握っていたのではないかと推理しているわけです。さて、その神田上水ですが、起源に3説があります。

1.1590年、旗本・大久保藤五郎忠行(?〜1617)が徳川初代将軍・家康(在職:1603〜1605)の入府に あたって開削した。大久保忠行はこの功により「主水」の姓を賜った ただし、水が濁らないようにという縁起をかついで「もんと」と称したという。

2.1596〜1615年ごろ、武州玉川の百姓・六次郎が家康・秀忠の命令で開削した。

3.1629年、家光の時代に完成し「神田上水」と命名された。

いわゆる「歴史」というのが明確に記録され始めたのは江戸時代になってからです。したがいまして、江戸初期あたりのことは、まだ伝説の域であることが多いのです。 神田上水についてもそうであり、その起源は明らかではありません。

しかしながら、これら伝承されていることから推理しますと、1590年、旗本・大久保忠行が家康入府にあたって開削したが、それは神田上水の前身「小石川上水」ではないか、 その後小石川上水は拡張されたり、外堀(現神田川)が開削されたりして、家光の代に完成して「神田上水」と命名された、ということではないでしょうか。

何しろ、開削とか、干拓とかいった治水・土木事業は短期間では完成しないことは、現代ですら然りですから。次に神田川の要所を日本画でご紹介しましょう。 先ず、長谷川雪旦(1778〜1843)という人が『江戸名所図絵』に描いています「大洗堰」というのがありました。今の駒塚橋から大滝橋にかけた辺りになります。 駒塚橋付近には現在「新江戸川公園」(旧細川邸)があります。

「大洗堰」は、家光のころの1629年に初めて小規模なものが築かれたものと推測され、上水の需要にともなって大型化してきました。 1786年の洪水で堰が崩れ、再び堅固に築きなおしたりしています。同じく、雪旦の『江戸名所図絵』に「関口八幡宮」や「水神社」が描かれています。今の胸突橋・駒塚橋付近にあります。 

「水神社」の社伝によりますと、神田上水の堰堤を設置してまもなく、水神が八幡宮司の夢枕に立ち「我水伯なり。この地にまつらば堰の守護神となり、 村人はじめ江戸町人ことごとく安泰なり」と告げたので、当社が建てられました。 祭神は罔象女命(みつはめのみこと)です。「関口芭蕉庵」というのがあります。松尾芭蕉(1644〜1994)が住んでいた跡だ と言われていますが、これについてはあとの章でお話します。「石切橋」と呼ばれていたのは江戸川大橋のことです。

『御府内備考』という本によれば「長さ約8間、幅約2間1尺」と記録されています。『新編江戸誌』には「赤城下へ行く通り」で 「昔ここに石切りがあった」から、そう呼ばれたと書いてあります。安藤広重(1797〜1858)が『江戸名所』に「御茶之水」を、また雪旦は『江戸名所図絵』に 「御茶ノ水・水道橋神田上水掛樋」を描いています。 そもそも「神田」とか「神田川」という名は、昔から現在のお茶の水付近は神田山の台地であったところから、そう言うようになりました。

  「お茶の水」というのは、上水の源「井の頭」と定められ、「お茶によい水」と賞賛された故事によって名付けられています。ところで、外堀が開削されたことはお話しましたが、 そのために市中への給水に「掛樋」で渡す必要が生じました。1624〜1644年ごろに描かれた『江戸図屏風』には、水道橋に沿った細い掛樋が描かれています。 川を渡ろうとする馬も描かれていますが、これで見る限り浅い川だったようです。 掛樋は、1677年には大きくなり、さらに1849年には「長さ18間3尺、幅6尺、深さ5尺、うち14間4尺は胴張りの屋根付き」になったようです。

★神田上水と松尾芭蕉

次に、松尾芭蕉が神田上水工事に関わったという話が伝えられていますので、これについて触れたいと思います。 先に、長谷川雪旦の『江戸名所図絵』に「関口八幡宮」や「水神社」が描かれていると申し上げましたが、もうひとつ「芭蕉庵」も描かれていました。 ご承知のように深川にも「芭蕉庵」がありますが、なぜ神田川に「関口芭蕉庵」 があるのでしょうか。

その前に、俳聖・松尾芭蕉という人について年表風に触れます。 1644年、父・松尾氏、母・桃地氏の子として伊賀国(上野市)に生まれる。

1672年、28歳、俳諧の道を目指し、江戸へ下向、日本橋の魚問屋・小沢ト尺宅 (日本橋大舟町)に草鞋を脱ぐ。

1677年、34歳、ト尺の貸家(日本橋小田原町)で宗匠として立机、「桃青」と号 した。

1680年、37歳まで、神田上水の工事に携わる。

この後、深川にて隠棲する。となっています。

芭蕉の故郷である伊賀国の殿様は、藤堂和泉守高虎(1556〜1630)です。藤堂氏というのは近江国の藤堂村の出身ですが、豊臣秀吉(1536〜1598)にも家康にも認められ、 1608年に伊予国から伊賀国に転封されました。 芭蕉の母方の桃地(百地)氏というのは、その折に伊予から伊賀へ従って来た者のようです。芭蕉の最初の 号である「桃青」は、桃地氏の「桃」を採ったものと思われます。

芭蕉(桃青)が水道工事に携われたのは、大家さんの小沢ト尺が日本橋の名主で、江戸町年寄(樽屋・奈良屋・喜多村)のひとつ、喜多村家と交流があったからです。 当時の水道の管理は町年寄の支配下にあったので、その人脈がものをいったのでしょう。

なお、『武江年表』には「芭蕉が藤堂家の家来として奉行をつとめた」とありますが、これは著者・斎藤月岑(1804〜1878)の誤りと思われます。 というのは、藤堂家が関与した工事は天下普請といわれる江戸初期の築城工事 であり、芭蕉が働いた延宝期(1673〜)の神田上水改修工事とは時代がかけ離れて いるからです。

芭蕉が神田上水の工事に関わったことの文献的な証拠として、次のようなものが残されています。
1.芭蕉十哲の一人である森川許六(1656〜1894)の『風俗文選』
2.蓑笠庵梨一(1714〜1783)の『奥の細道菅菰抄』
3.国学者である喜多村信節(1783〜1856)の『いん庭雑録』、などです。 「いん庭」というのは信節の号です。
では、芭蕉は工事現場でどのような仕事をしていたのでしょうか。

1.帳面付け
2.水方の役人
3.普請奉行
4.水役だった、などと言われています。
なぜ、芭蕉は工事に携わったか。これもいろいろな説があります。

1.宗匠では食べていけなかったのでアルバイト説。
2.世に功を残そうとした説。
3.藤堂家の家来として手伝った。
4.パトロンまかせの生活から脱皮を図った。
5.営利的な点取り俳諧を忌避した

ここで俳諧というものをご説明しておきます。
ご承知のように、古来わが国には『古今和歌集』によって確立したとされてい る「和歌」というのがあります。その和歌が、「連歌」という形式になり室町時代に全盛となりました。上の句(五・七・五)と下の句(七・七)を交互に 別の人がよみ続けるのです。今度は、この連歌から「俳諧連歌」というものが生まれました。

俳諧の意は、滑稽という意味です。つまり機知と笑いをねらったものなんです。これは山崎宗監(?〜1540)に始まり、荒木田守武(1473〜1549)・ 松永貞徳(1571〜1653)になって連歌から独立して「俳諧」と呼ばれるようになりました。 こうした俳諧に芭蕉という人は疑問をもち、詩情を深めて「寂」の境地を開いたのです。

そのため芭蕉は俳聖≠ニ称されています。これが明治の正岡子規の「俳句」につながるのです。話を芭蕉庵に戻しますと、芭蕉が1677〜1680に住んだ所だと伝えられているのです。当初は「龍隠庵」と呼ばれていました。 芭蕉の33回忌の1726年に「芭蕉堂」も建てられ、像も祀られています。

というわけで、「庵」としては深川の芭蕉庵が正統かもしれませんが、明確な芭蕉ゆかりの跡としては関口(芭蕉庵)の方が古いわけです。ちなみに、「芭蕉」という号は、深川の庵に門弟たちが芭蕉を植えてくれたことによりますが、彼はこの芭蕉を気に入っていたようです。

☆神田上水と水車です。

世界における水車の歴史は古く紀元前から使用されていました。起源はさだかではありませんが、西アジア近辺で穀物を粉にする石臼を回すことに使われていたようです。 日本では推古天皇の時代にはあったようです。ですが、本格的になったのは江戸中期になってからで、精米用として、あるいは後期になって菜種や綿実の油絞りに水車が使用されていたのです。その水車が神田川で最初に登場するのは、1674年に造られた「淀橋水車」、すなわち今の新宿区と中野区の境の青梅街道辺りにありました。

直径約4.85m、幅85cm。建屋の間口20m、奥行10mです。最初は製粉用でしたが、幕末期には火薬の製造も行われて1854年に爆発事故を起こして破壊されました。あと、鈴木春信(1725〜1770)も『関口の水車小屋』として描いておりますが、 関口、つまり江戸川橋の上流に2カ所ありました。 一つは、1700年製造の「半兵衛水車」です。 直径1丈7尺、幅8寸。建屋の間口8間、奥行6間半です。用途は製粉です。

もう一つが、1774年製造の「善左衛門水車」です。直径1丈5尺、幅2寸5分。建屋の間口18間、奥行4間半です。 用途は綿実油絞りです。二つとも、明治中期ごろまで稼働していましたことは、伊藤晴雨(1882〜1961)が『関口大洗堰と水車』の絵を画いている ことからもうかがえます。

ところが、幕末になってからこの水車の力を武器製造のために使用する動きが出てまいりました。1853年のペリー(1794〜1858)黒船来航から、 江戸防衛のために幕府はお台場を建設し、そこに備える大砲づくりを「湯島鉄砲鋳立所」で開始しました。

その関係から動力源を水車に求めて、1862年に関口に移転しました。 ここで「フランス式山砲」40門、「カノン砲」28門を製造し、「山砲」は影義隊の戦い(1868年)で使用されました。
 
その後、「関口大砲製作所」は明治政府に引き継がれ「造兵司」となり、「東京砲兵工廠」の母体となったのです。余談ですが、 九州の雄藩≠ニ呼ばれていました肥前佐賀藩も大砲製造に水車を使っていました。武器製造の方はともかくとして、 自然の動力としての水車の活用を再度考え直してもいいのではないかと思います。

★神田川を愛するということ

いかがでしたでしょうか。
大松さまのお話をうかがっている間に伝わってきたことがあります。ひとつは、私たちのよって立つ所を理解し愛することが自分自身を 大切にすることだということと、もうひとつは、そのためには歴史を知ることが大事だということです。 それにしても、松尾芭蕉と神田上水の話は意外でしたね。2,400kmを半年かけて歩いて歩いた『奥の細道』に見られる、 芭蕉の現場主義の源泉は、神田上水の工事に携わったことにあるかもしれません。だとすれば、 「関口の芭蕉庵」が俳聖・芭蕉の原風景かもしれません。一度訪ねてみるのも一考だと思いませんか。
ー完ー

(文責:ほし ひかる)
会場写真撮影:橋本 曜
HTML制作・画像データ−挿入:上野治子