神田雑学大学 2000.10.27 

旧東海道五十三次の話あれこれ


『はじめに』

今日の神田雑学大学は、村田 稔さんの「旧街道あれこれ」です。
旧東海道五十三次ぎを歩き、いろいろな情報を目から耳から、はたまた 口から集め、深みのある一つのストーリーを作りだした。

10月15日で77才の誕生日を迎えた村田さん、神田大学雑学大学 代表の三上さんはそのお話の内容は、俳句を見てるような、或いは 山水画をみてるような雰囲気のお話だという。

『神田神保町と私』昭和18年九州の専門学校を当時の繰り上げ卒業して東京で就職、下宿は 神保町に住んでいた友人の世話で、当時の岩波書店の裏すずらん通り近くに 2階の3畳間の部屋に住いをなした。
当時、神保町界隈は中小の製本業者の町 で、朝から晩まで五月蝿いほどであったという。

『情報の断絶』

平成6年10月27日に町田から夜行長距離バスに乗り、京都に出て、28日 に京都三条大橋を出発、山科を経て大阪に出、大津に至る。
当時の一般庶民はどういった生活を送っていたか、まず第一に情報が断絶し ていた。
情報といっても御上からのお触書、これは断絶どころか高札場で もって、つづ浦浦まで通達する。

かといって、一般の庶民はそのようなことを通知する手だてもなければ方法も 知らない。
お触れ書きの中には、「女性の一人旅はもってのほかだ」と書いて あったそうだ。

旧東海道の時代は、そこで生まれ、そこで育ち、そして子を育て死んで行く という人生のサイクルの中に、旧東海道時代の一般の庶民は生活をしていた。
そして、そこに訪れてくるのは、まろうどであり、まれ人である。
たとえば 説教師であるとか、俳諧師であるとか、さすらいの人がやってくる。

彼らの話は貴重な情報であった。
ごく一部ではあろうが、戦前の庶民のライフ サイクルはおそらく、敗戦の前後までこの日本の片隅ではあったと村田さんは 言う。
在所を離れ、旅に出るということは、極めて稀なこと、水杯という言葉の 意味が生きてくる。

『その歩行日数』お江戸日本橋から京都三条大橋まで百二十六里六町、約四百九十二キロ これを滝沢馬琴は、滞在は別にして18泊19日で行った。
広重が描いている「参宮上京双六」これによると、途中までだが11泊 12日、村田さんの場合は足掛け三年、夏と冬を除く春、秋を重点に 歩いた。
『その始まりと終わり』東海道が出来たのは慶長六年(1601年)その後明治五年(1872年)には 本陣制度廃止になり、東海道がなくなった。
ところが明治五年に新橋から 横浜まで鉄道が開通した。
日本橋の橋が出来たのは慶長八年(1603年)

『記録』

村田さんの記録によると、平成六年十月二十八日朝早く京都三条を出て 旧東海道を行ったり来たり、気ままに歩き。
平成八年四月十六日 名鉄岡崎公園前駅で終了。
丁度71才〜73才まで。
『別れと再会』「デタチ」出発のお祝い。
「坂(酒)迎え」旅から郷里へ帰って来る、当時は坂で見送り坂で出迎えた。
「水杯」再会できるかどうかわからない訣別の時などに水盃を交わして出発 「坂祝ぎ」(サカホギ)などという言葉もある。
『東海道は戦車の道』東海道は徳川幕府の戦略的な重要なルートであった。
物資輸送はさることな がら兵の移動をも考えていた、これは紛れもなく戦車の道である。
真っ直ぐの道は、箱根峠から静岡まで下る坂がある、いちもくさんに坂を 下る、只一つ例外は、宇津谷峠、そこはジグザグな道がある。
東海道は戦車 の道、旅するには命がけの道であった。

『投げ込み塚』

横浜にある「投げ込み塚」ごんた坂は昔は極めて険しい坂であった。
坂の途中 に亡くなった旅人の亡骸を投げ込んでいた跡が最近になってわかった。
これは 昭和36年宅地造成の時に発見された。
難儀なものであった。
『箱根石畳と竹』箱根の石畳は皆さんご存知だと思うが、その石畳を敷く前は、竹を敷いた。
どのように敷いたかというと、箱根竹という細い竹を編んで束にして道路に敷 いたのである。
雨の日の旅は大変だったのではなかろうか。
『旅篭』「大橋屋」は東海道時代からの宿屋で、現在も名鉄本線「名電赤坂」駅で下車 し,国道1号線を渡ると旧東海道赤坂宿(宝飯郡音羽町)である、少し名古屋方面 に戻ると「大橋屋」がある。
昔は鯉屋と言った。中に入ると右側に帳場があり 左から奥まで入る土間がある。
左側にはへっついが沢山並んでいる。
現在の 当主は14代目、唯一残っている宿屋である。

『飯盛宿と飯盛女』

「留め女片袖もってわびている」これはどういうことかと言うと、飯盛り女、 遊女のことである。
飯盛宿とは、遊女を置いている宿のことである。
旅篭への客引きのすさまじき風景が想像される。
夫々の宿場に本陣、脇本陣 があり、又、飯盛女を置いてない宿屋「平宿」「講宿」などがあった。
『食べ物』吉田(豊橋)の菜めし田楽、少し甘い。島田と藤枝の間に瀬戸の「染め飯」 と言ってクチナシの実で焚く黄色いご飯で身体にもいい。
] 腰の痛みに効能 ありという。
現在は作ってはいない。
「うなぎ」は吉田から海岸沿いに名所があ る。「どじょう汁」水口では朝昼晩どじょう汁ばかり食べさせられたと、当時の 日記に残っている。

『お菓子』

今だに残っているお菓子で、江戸から京都までの間の道中で村田さんが記憶に 残っているもの、一つは「関の戸餅」これはぎゅうひを餡子で包んだ小さな お菓子で店ではこの一品だけを売っていた。
京都御所ご用達のお菓子でもある。
シンプルな趣向でお茶請けに格好なもの。

草津の「姥が餅」小豆のこし餡を餅でくるで白砂糖をチョンチョンと乗せた お菓子。
清水から静岡寄りにある「追分羊羹」これは竹の皮で包んで蒸した 羊羹で、この店も羊羹専門の店である。庭が綺麗である。
諸大名の休み茶屋 として使われた。

『道中薬』

道中薬には二種類あり、一つは小田原にあるお菓子の「外郎」(ういろう) 頭痛に効くといわれる漢方薬の外郎、透頂香(トウチンコウ)である。
今でも、一般の知るところであり。
念の為に寄ってきたが、お菓子の外郎同様、 求めるお客が絶え間なく店を訪れていた。
この二つを別々の窓口で売っている。 当主の苗字は外郎という。

草津と石部の間にある和中散本舗の所在する六地蔵は、梅の本村といい、 360年前、元和の頃には大きな梅の樹があってその木蔭で旅人に薬を売って いた「和中散」である。
こんな所にと思われる田舎の「合いの宿場」にあり、 豪壮としか言い得ない程の建物であった。
今度一度訪れる予定である。
今は閉めているようだが重要文化財になっている。

『ウォーキングハイとジョギングハイ』走り込んで走り込んで行くと、地球の裏まで走ってもいいくらいの気持ちになる。
これをジョギングハイという。
これを村田さんが実感したのは北岳に登るのに 6月10日頃から7月北岳出発前日まで走り込んだら、地球の底まで走りたい気持 ちになったという。

今思うと、極めて残念なことに、登頂後帰宅してから、ジョギングは一切やって おらず、恐らく、忘れてしまったんでしょう。
つづけてやっておれば。

ウォーキングハイを経験したのは、袋井から浜名湖の舞阪まで9里近くある 舞阪で日の入りを見たいと思って歩いた、その時に歩いても歩き足りないと 言う気持ちになった。

『大きな足の豆とばんそう膏』翌日、逆に袋井から掛川まで、二里十六町、僅かな距離であったが豆で降参。
何時ものこと、足に豆が出来たら、歩きも一休み。
良くなったら歩くの連続 であった。
豆の大きさといったら三、四センチ四方。大きなものであった。
ばんそう膏もまた特大。
旅必携の代物である。

『 関 』

古代日本三関の一つ「鈴鹿関」が置かれていた。現在のような町並みが出来 上がったのは、16世紀末のことである。江戸時代には、参勤交代、伊勢参り 等で大いに賑わった。

東の追分(伊勢別街道との分岐点)から西の追分(大和街道との分岐点) までの長い町並みが続き、昔の街道の面影を色濃く残している。主な道路 には電柱が無く、向こうの筋から手甲脚反、菅笠の旅人がひょっこり顔を 出しそうなと言ったらオーバーかな。
「伝統的重要建物群保存地区」に選定されている。

『大名行列』「下にぃ下にぃ・・・」と槍を高く上げて振るのは宿場の中だけで、途中は だらだらと歩いていた。
大名の漬物石から漬物桶、中身、トイレ、風呂桶に至 るまで全部持ち運んだ。
『桑名』焼きはまぐりの名所で知られている。町並みを歩いていると古い建物があった ちょうどそこにいた高齢のご婦人に訊ねたところ、「私が嫁に来たときに百五十 年経過していた」といった。
村田さんより同い年くらいかそれよりも年上、とな ると建って200年以上経ってもまだ現役として使える、手入れが行き届いて いるのだろう。
『出会い』一番記憶に残っているのは、「京都日ノ岡丘陵」である。
神社らしい建物の前で 一休みしていたら、歯ブラシを抱えた年配の方が出てきて、話をしている内に家 の中に招かれ、昔話。
今は水は無いが、昔は山のあちこちからしみずが流れてい たという。
実に美味しい水であったそうな。
その方の趣味やらいろいろ話を聞い ているうちに、村田さんは東海道を歩こうかなぁと言う、軽い気持ちが本格的に なった。
言って見れば、古い民家のたたずまいを尋ね、人と人との出会いを求め ての旅であったと言える。

『あなたが経験した最上の年代は?』

考えて見ると、一番華の人生は60才〜70才であった、定年は当時57才で、 年金支給は60才であった。
65才まで働き、その間もその後も、箱根の山か ら大山に行き、北岳に登りそして、北海道の大雪には5〜6回行った。
九州の九重(くじゅう)には3回ほど行った。
その他あちこちの山を登った、 それほど体力があったのである。

体力がなくなってからは山歩きを平地に変え、旧東海道を制覇した。
吉祥寺 村立雑学大学で講演、そして本日神田雑学大学での「旧東海道あれこれ」の 講演。ファイトのかたまり村田さんは現在77才である。

−おわり−

               (文責 和田 節子) 


会場写真撮影:橋本 曜
HTML制作:鍜治 正啓