神田雑学大学 2000.12.15 

謎の皇太子をシンガポールに追え


目次

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講師紹介 
 
高丘親王との出会い
 
文献及び現地での調査
高丘親王の生い立ち
出家して真如親王となる
渡唐の願い
大陸に上陸
天竺・祇園精舎へ
「ラオツ」とはどこか
真如親王の歌


講師紹介 

講師:葮原 幸造

旅行ジャーナリスト
日本旅行作家協会常任理事

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私は旅行の物書きだが、若い頃は旅行業をやっていた。
海外旅行が一般的になる前、まだ業界が混沌としていた時代である。
東京の旅行学校やオーストラリアのツーリズムカレッジで教員をしたり、旅行案内、パンフレット、機内誌などを書いている。

高丘親王との出会い

30数年この仕事をやってきた私と、千年以上前の日本の皇太子との出会いをまず話したい。
日本人いわゆる大和民族で、最初に海外に出かけた著名人といえば、ほとんどの人が山田長政を思い浮かべるであろう。
長政は16世紀にシャムの国で活躍したのだが、それより600年以上前、西暦800年代にマレー半島に渡り、そこで死んだ日本の皇太子がいる。それが今日お話する高丘親王である。

旅行会社の企画部長だった私は、旅行の新しい企画を考えたり、現地に行って旅行のルートを探ったり、観光開発をしたりという仕事をしていた。
それで、まだ日本人観光客のほとんど行っていないマレー半島に行き、ガイドの女性と一緒にあちこちまわったときに、南に下って、ジョホールバルの近くにきたとき、突然ガイドが「このへんでプリンス高丘が亡くなったんですね」といった。

そのときはさほど気にならなかったが、よく考えてみると、そんな歴史は初めてきくことである。
私も山田長政以外は知らなかった。
現地手配会社の日本人社長にその話をすると、「一緒に調べませんか」という。

それから東京に帰り、図書館でいろいろな本を調べたり、大学の研究者に会って聞いたりしてみると、意外に文献があることがわかった。

文献及び現地での調査

その「日本のプリンス」というのは皇太子のときの名前を高丘親王といい、出家して真如親王となる。
この真如親王に関する資料が、古い仏教関係の文献に残っていた。ところが、日本にいたときの資料はあるが、現地での亡くなるまでのことがまるでわからない。

そこで、現地でシンポジウムを開くことにした。
それをきっかけに、何かを知っている人が現れるのではないかと期待したのである。

やはり、本尊は北から来たプリンスだという寺の住職など、いろんな人が現れ、さまざまな思惑もからんで、当時、現地でひと騒動がもちあがった。
何故なら、もし高丘親王の墓や遺物などが発見されれば、たいへんな観光名所になるでろう。

現在でも、初めてバンコクを訪れた人は必ずアユタヤの日本人町を訪問し、山田長政の遺跡に行く。
シンガポールに行く年間100万人の日本人観光客のうち、その半分としても、約50万人が高丘親王の遺跡を訪れる可能性があるのである。
つまり、たいへんなビッグビジネスになる、という思惑が観光業の関係者にはあったのだ。

その騒動の経緯を書いた本が「謎の皇太子をシンガポールの追え」である。
これをきっかけにして、また新しい情報が得たいという気持ちもあった。

今日は、現地での調査やそれにまつわる出来事は抜きにして、高丘親王に関する史実の部分だけを抜き出して話そうと思う。

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高丘親王の生い立ち

785年(延暦4年)、第50代桓武天皇は、弟の皇太子相良親王を謀反の疑いで淡路島に流したが、相良親王はその途中、無実を訴え食を絶って亡くなった。
この事件は、時の天皇の側近貴族の権力闘争である。
当時、宮中というのは権力闘争の場であった。
権力闘争に破れた多くの親王は、権力の外で歌人の道に入るか、地方に逃れ豪族となるか、あるいは仏門に入るかしないと、皇位を狙う者として殺された。

794年、桓武天皇は都を平城京(奈良)から平安京(京都)に移す。平安時代の始まりである。
ところが、平安遷都以来、天皇の近親者が次々と死に、天変地異が頻発する。
これは相良親王の怨霊の祟りと考え、慰霊の祭を行う。当時、すべての不幸不吉は悪霊の祟りと信じられていた。
800年には、亡くなった相良親王の怨霊静謐を願い、「崇道天皇」の称号を贈る。

806年、桓武天皇崩御。
四家ある藤原家の1つ、藤原式家を母にもつ平城天皇が即位する。
このころ、天皇の側近貴族の中では、藤原家がいちばん勢力があり、北家、南家、式家、京家の四家に分かれて権力闘争をしていた。

807年、平城天皇は、弟の神野親王を皇太子に立てる。
809年、平城天王が病弱を理由に譲位して上皇となり、嵯峨天皇(神野親王)が即位する。
嵯峨天皇は平城上皇の第三皇子・高丘親王を皇太子にした。
これは兄・平城上皇の譲位に感謝の意を表したものと思われる。
皇太子になった高丘親王は伊勢の豪族・伊勢継子という人が母である。

ところが、権力を譲ったかにみえた平城上皇は大勢の家来をつれて奈良(平城宮)に新宮殿を建設したため、朝廷は二重権力構造となる。
これは平城上皇の妃・藤原式子の母である藤原薬子の陰謀である。
薬子は秘薬を扱う魔力をもった魔女だといわれているが、娘の夫である上皇とも関係をもち、平城上皇の再即位を狙ったものである。

さて、教科書にも出てくるこの藤原薬子の乱の翌日、嵯峨天皇は皇太子・高丘親王を廃し、自分の弟の大伴親王を皇太子に立てる。
このとき12歳だった高丘親王は、すべての階位を剥奪され無階位の皇族にされてしまう。

出家して真如親王となる

その後、高丘親王は18歳でお寺に入り、真如という名前になる。
このころ、中国からきた空海(弘法大師)が東大寺の別当になり、816年には高野山を開いた。
真如親王(高丘親王)はこの空海の弟子になり、修行を積んでやがて高僧となる。

855年、奈良の東大寺の大仏の頭が突然落ち、時の天皇は真如親王にその修復工事の最高責任者を命じる。
5年かかって東大寺の大仏の修復が完成。完成のお祝いの行事は、すべて真如親王の指示に従うべしという勅令が出たが、その文書が残っている。

861年、大仏慶讃の総指揮をした真如親王は、そのとき63歳。当時としてはたいへんな長命である。
かつての廃皇太子・高丘親王は、名実ともに日本の仏教界の最高位になったのである。

渡唐の願い

これからが、いよいよ本題に入る。
この大仏慶讃の翌日、真如親王は次のように天皇に申し出る。
「出家以来四十余年経ち、余命もそう長くはありません。
諸国の山林を踏み越え、仏道修行の優れた古跡を訪れることを願い憧れております。」

3月30日、突如として、住僧など28人をつれて西街道、南街道の行脚に出発したとあるが、実はその正史記録はない。
ほぼ同時に渡唐の誓願を出し勅許を得ているので、国内行脚は、勅許を得るための仮想行動であったと推測される。

これ以降は供をした伊勢興房の書いた「頭陀親王入唐略記」という日記による。

861年、6月に高野山および奈良の高僧たちに挨拶をしてまわった後、浪波津(大阪)に行く。
8月9日に船で瀬戸内海を西に向かい、九州の太宰府に到着する。さらに壱岐の斑島より松浦湾柏島に行き、そこで、唐の通訳・張支信に外洋船の建造を依頼する。

862年5月、ようやく船が完成し、いったん大宰府へ戻って、唐渡の最終準備をする。
7月、太宰府を出発。
弟子たちや親族の伊勢興房など、船の乗組員を含めると総勢60名の大部隊である。
8月19日、五島列島の遠値嘉島に到着し、約半月間、風を待つ。

9月3日、順風がきて出発。
9月7日には明州(今の杭州湾南岸)に到着した。
3日に出発して7日に到着というのは、非常に早い。
いかに風が強く、そして幸運だったかがわかる。

大陸に上陸

役人がきて、渡航目的などいろいろ取り調べがあり、12月、入国要請が許可されて現在の紹興に到着。
9月に上陸して、許可が下りたのが12月だから、気の長い話である。
ここでさらに唐の都・長安に入京したいという要請をする。

863年、一緒に来た水夫たちを日本に帰し、親王一行は入京の許可を待つ1年余りの間、その辺りの仏教のお寺をお参りしてまわった。
入京の許可が届き、陸路洛陽を経て唐の都長安にたどり着いたのは864年5月である。

唐の皇帝はたいへん感動したという記録がある。
真如親王は高僧・法全上人について勉強を始めるが、当時、中国では既に仏教が衰退し、ここではもう学ぶべきことはないとして、ついに、祇園精舎の地・インドへ行く決意をする。

天竺・祇園精舎へ

10月中旬、長安を出発、中国大陸を南下し2か月かかって広東に着く。
天竺に行くには広東から船に乗るのである。
当時、中国はインド、アラビアと交易があり、広東にはアラビアやインドの船がきていた。

865年1月、荷物をもって合流するはずだった伊勢興房が遅れたので、待たずに「チャンスを失いたくない」と書き置きを残して一行はインド船に乗り込む。
これ以後、真如親王の消息は絶えてしまう。

その年の6月に、唐に渡っていた留学僧と伊勢興房が日本に帰り、「真如親王一行は天竺に行った」という報告を朝廷に出しているので、出発したことは歴史に残っている。

881年、親王一行が出発してから16年後、唐にいる留学僧から「真如親王がラオツという国で亡くなった」という報告書が届いた。
これが、真如親王の消息を伝えるただ一つの文書である。
亡くなったのは広州(広東)を出発した865年の暮れと思われる。
67歳。
その後、遺骨の一部なるものが日本にもたらされて大和の長承寺に埋葬されたと書かれているが真偽のほどはわからない。

「ラオツ」とはどこか

真如親王が亡くなったというラオツという国はどこか、ということになるが、当時、南アジアには、カンボジアのクメール王国をはじめ多くの国があったが、その中で、現在のシンガポールのあたりに、ラオツという海洋民族の国があった。
ここからベンガル湾に向かおうとしていたのではないかと思われる。

死因については、途中で病気になった、ラオツで虎に食われた、などの説がある。
虎に食われたという説は、仏教の中に、虎に食われて、虎になって祇園精舎にとんでいく、という信仰があって、そこからきているのではないか。

当時の状況からみて、60歳をすぎてから異国に旅立ち、生きて帰るつもりであったとは考えられない。
天竺・祇園精舎に行き、そこで天命を全うしたいと考えていたのであろう。

5年ほど前、ジョホールバルの日本人墓地に、高野山のお坊さんが高丘親王の慰霊碑を建てた。
立派な慰霊碑である。

真如親王の歌

最後に真如親王の歌を紹介しよう。 
* さくら花 咲けば散るとぞ 知ればこそ
          後の青葉をはや見せにけれ

* 炭窯の 煙るに染むる 山ころも           雪そそげども変わる色なし

       (西方寺縁起の二首) * かくばかり タラマを知れる 君なれば           タタギャッタまでになり登りけり

        (師・空海への賛歌)

(注)タタギャッタは如来(悟りを得られた仏)、タラマは菩薩(修行に励んでいる仏)の意である。                                  ( 文責 大井 ) 

会場写真撮影:橋本 曜
HTML制作:鍜治 正啓