神田雑学大学 2月2日 講義

講師:坂田 純治
 



目次

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はじめに
巨星ジーグフェルド
トップハット
オズの魔法使い
雨に唄えば
巴里のアメリカ人
世紀の女王
オーケストラの少女
シェルブールの雨傘
会議は踊る
アニーよ銃をとれ
南太平洋
王様と私
サウンド・オブ・ミュージック



【はじめに】

"PART1"では、ドラマ、ラブロマンス編、"PART2"では、サスペンス、ウエスタン、 コメディ、音楽家の伝記映画編ということで話しを進めてきた。 本日の"PART3"前半は「シネミュージカル」と称して映画の世界だけで独自に作られた ミュージカルである。後半は、「ブロードウエイミュージカル」。これはかつてブロードウエイで、 舞台で上演されてヒットした作品を映画化したものをいう。すなわち前半、 後半も本日はミュージカル一辺倒である。

《各論》

【巨星ジーグフェルド】

1936年NGMメトロの作品で、「巨星・ジーグフェルド」である。 このジーグフェルドという人は、当時アメリカのレビュー界の王様と言われた。 別名アメリカ人はフローを称している。本名はフローレンツ・ジーグフェルド。 この作品はレビュー映画の集大成のような作品でフローの伝記映画で、 内容が非常に良くできていた。

1936年のアカデミー作品賞を取っている。 フローはアメリカで1907年から29年までの間実在したブロードウエイの 大プロデューサーである。ミュージカル界の国民的英雄とまで言われている。 バックステージものが得意で、いわゆるステージの裏話のような「42番街」という名作もある。 パリに行ったときアンナ・へルドというフォリーベルジェールの大スターを発見して アメリカに連れて帰った。後のフローの奥さんである。

アンナヘルドの影響が非常に強く ブロードウエイで「フォリーズ」とか、「レビュー」とかこういう言葉を使ったのは このフローが初めてである。 フローは頂点を極めたが1929年の株の大暴落で破産して、まもなく亡くなった。 その臨終の際に"階段をもっと高くしろ"ステージの階段をもっと高くしろと叫んで亡くなっ たと伝わっている。

巨星ジーグフェルドに扮するは当時の人気スター、 マーナ・ロイなどと夫婦役で出ていた「影なき男」などを演じていたウイリアム・パウエルである。 アンナ・ヘルドを演じるのは、ルイゼ・ライナーという名女優である。 この人はウイーン 出身で、マックスラインハート劇団で演技の勉強をしていた。この「巨星ジーグフェルド」 で作品賞と並んで女優主演アカデミー賞を取っている。翌年、37年にパールバックの 「大地」という作品にも主演して二年連続主演賞を受賞している名女優である。

「巨星ジーグフェエルド」に使われた歌曲は、アービングバーリンの作曲である。 アービングバーリンはポピュラーの名作曲家である。日本で言えばスケールも曲風も 全然違うが、古賀政男と古関裕而と吉田正の三人を合わせたような存在ではないかと思う。 終生注目の名曲を沢山残して1989年の9月101歳の長寿を全うし、この世を去った。

* フィナーレを聴く

【トップハット】

1935年"R.K.O"の作品で主役はフレッド・アステア、相手訳はジンジャー・ロジャース、 この二人は1932年から39年の間に"R.K.O"で9本撮っている。 「トップハット」は9本のうちで一番油の乗り切った頃の最高傑作の作品である。

フレッドアステアは1899年生まれ、今、生きていれば102歳。 お姉さんのアベールという人とコンビを組んであちこち巡業しながらダンスを踊っていたが、 このアベールが31年に結婚する事になり、彼はシングルになってしまったので コンビを捜していたところに、丁度1933年に「空中レビュー時代」 という大変大掛かりなダンス映画に脇役でアステアが出る事になり、 その相手役を務めたのがジンジャー・ロジャースである。

ジンジャーロジャースという人はそれまで中堅女優であまり、パッ!とした作品はないが、 このアステアとロジャースのコンビ「空中レビュー時代」でキャリオカという踊りを 踊り、これが大変評判になり次の作品からは9本連続主役級ということで、名コンビが生まれた。

当時のニューヨークのサラリーマンがこういうことを漏らしてる記録がある。 「彼のタップの音が聞きたいんで僕は家路を急いだもんだ」ラジオの時代のエピソード である。

一方ジンジャー・ロジャースは、作品が増えてきてすっかり落ち着いた いいパートナーになるわけだが、 後年告白自叙伝では、あのアステアとの6年間というのは、まるで喧嘩のし続けだったという。 しかしこれは良いことで、いかにアステアにしてもロジャースにしても コンビのダンス芸術を大事に育てたかというエピソードの現れである。

ロジャースはアステアとコンビを解消してからは、演技派に転じて40年「恋愛手帳」と いう作品でアカデミー主演女優賞を獲得している。この「トップハット」の全曲は、 やはりアービング・バーリンの名曲である。


【オズの魔法使い】

この「オズの魔法使い」というのは、ライマン・フランク・バウム作の童話である。 無声 映画時代二本ドラマとして映画化された。1978年にはダイアナロスが主演 「ウイズ」と題名を変えてミュージカルで映画化されている。 メトロの1939年のシネミュージカル「オズの魔法使い」はジュディー・ガーランドを 起用し製作された。因みに"オズ"というのは、原作者ライマン・ランク・バウムの 書斎にファイリングキャビネットがずーーーと、並んでいる。

一番最後の棚が「O」〜 「Z」になっている。彼はタイトルを付けるのに目に止めて、あっ この題名は"オズ"だ。 と生まれたという風に言われている。 この映画化権をバウムから買った"MGM"は大変な額を支払ったようである。

当時は 承知のように、スターも監督も各社の専属制の時代であるから、メトロが出した条件は、 うちのクラーク・ゲーブルとプラチナ・ブロンドと言われて大変人気のあった、 ジーン・ハーロー、この二人をこちらから貸し出すので、当時20世紀フォックスの専属 であった、シャーリー・テンプルを主役の少女ドロシーの役に使いたいと申し込んだ。

が、20世紀フォックスはそれを拒絶した。それでメトロはガッカリして、 自分の専属の中に少女役をやれるのはいるか探し出したのが、ジュディ・ガーランドであった。 当時彼女は16歳、幸い顔立ちもあどけなく小柄であった。 ジュディ・ガーランドは三歳から舞台経験があり、子役でちょこちょこ出ていたが、 何と言っても決定的になったのは「オズの魔法使い」のドロシー役である。

そしてこのオズで評価を得て、その後ミッキー・ルーニーと「アンデーハーディ」シリーズ。 など青春物とか、学園物というかそういう作品に何本か出て、 だんだんスターの地位を築いていった。24歳の時ヴィンセント・ミネリ監督と結婚。 ヴィンセント・ミネリ「巴里のアメリカ人」などを監督した当時の著名監督。 このミネリーと結婚して生まれた子がご存じ「キャバレー」のライザ・ミネリである。

ところが、 ライザを生んでからガーランドは産後のひだちが悪かったみたいで睡眠薬を多用する ようになる。そしてその睡眠薬でもよく眠れなくなりアルコール漬けになってしまう。 それならまだいいが、手首を切ったりと自殺癖が生まれ、 ヴィンセントも手に負えなくなっていった。娘のライザ・ミネリが成長して 有名になればなるほど、自分の娘であるのにも関わらず、 ライザにやきもちを妬くような状態に陥り、1969年6月47歳の若さで急死。 監督はビクター・フレミング。


ガーランドは「オズの魔法使い」の成功後大スターになる。 10年後メトロシネミュージカル初期の作品「イースターパレード」を撮ることになった。 当初ガーランドの相手役はジーン・ケリーであった。ジーンケリーが準備万端の時、 ダンサーとはあるまじきくるぶしを痛めてしまった。

そこで、指名されたのがフレッド・アステアである。彼は当時引退宣言をしていた。 1948年、昭和23年戦後まもなくのメトロシネマの大作。日本封切りは1950年、 昭和25年である。この作品は戦争後我が国輸入された最初の豪華絢爛たる ミュージカルである。音楽はアービング・ヴァーリング。

* イースターパレード など三曲を聴く

【雨に唄えば】

ジーン・ケリー、スタンリー・ドーネンの共同監督。ジーン・ケリーという人は、 大学を出てから兄弟でダンシングスクールを経営していた。 そしてブロードウエイに挑戦してだんだん注目され、ポスト"アステア"の第一人者になる。 クラシックダンスとモダンバレーを習得。面白いのはそれに加えて ボードビルタップを習得した。非常にダイナミックでどちらかというと、 アクロバティックな雰囲気を出すダンサーである。

この映画はサイレントからトーキーに移った20年代後半というのは、 大変な時代でいろいろ悲劇が生まれた。無声映画の大スターが没落していくわけである。 その新陳代謝が激しかった頃の撮影所の風景を背景に描いた物語である。 発音訓練所などというシーンもこの映画のは出てくる。ジーンケリーの相手役は、 デビー・レイノルズ。

デビー・レイノルズは、この映画を撮り終わった後、当時の大シンガーの エディー・フィシャーと結婚。二人の間の赤ちゃんは70年代「スターウォーズ」 のお姫様で出てくるキャーリー・フィシャーである。幸福の絶頂期に エリザベス・テーラーが現れ、夫の エディーフィシャーを略奪してしまう。 作曲はナシオ・ハーブブラウン、作詞はアーサー・フリード


【巴里のアメリカ人】

ジーン・ケリーが企画、ヴィンセント・ミネリとプランを練った大変な名作である。 1951年「巴里のアメリカ人」は作品賞、音楽賞、脚本賞、撮影賞、美術賞 、デザイン賞,etc…. と、アカデミー賞を8部門取っている。 音楽映画のジャンルでアカデミー賞を8部門取ることは前代未聞のことである。

相手役はレスリー・キャロン、この人は当時パリのシャンゼリゼバレー団の バレーダンサーである。キャロンはこの後「リリー」「足長おじさん」 に出演して人気者になっていった。作曲はジョージ・ガーシュイン、 作詞はお兄さんのアイラ・ガーシュイン。

* フィナーレ巴里のアメリカ人を聴く

【世紀の女王】

エスター・ウイリアムス。1940年代の人気スター。全米水泳選手権で自由形の 300mで全米チャンピオンになる。1938年に100mの自由形で世界記録を取った。 1940年、昭和15年「東京オリンピック」が開催される予定であったが、 戦争で中止になった。エスター・ウイリアムスは、そのおりの全米女子派遣団の一人であった。

アマチュアからプロに転じた。美しい姿態と笑顔を持った彼女は一躍メトロのドル箱 スターになった。水中バレー、現在のシンクロナイズスィミングの元祖である。 この映画にはゲストが素晴らしく、ハリ・ジェームス、ザビエル・クガート、オルガンの エセル・スミス、ビギンザビギンを歌って有名になったカルロス・ラミレスなどが ゲストで顔を揃えている。

* フィナーレ《青きドナウ》聴く

【オーケストラの少女】

ヒロインはディアナ・ダービン、ダービンは21年にカナダで生まれた。デビュー以来 21本の作品に出ている。大変可哀想なエピソードがある。デビュー作を入れて 22本目になるはずが21本になってしまった。

デビュー作の時にカメラテストを受けた時、何を間違ったかスタッフが ジュディ・ガーランドと間違えて、チビの太っちょはダメだということで 降ろされてしまった。爽やかな個性と美しい声、そしてこの映画には ストコフスキーという大変なゲストが出ている。

ストコフスキーは、フィラデルフィアシンフォニーの常任指揮者で、 白髪の非常に綺麗な音楽家である。ホームドラマと、 本格的なクラシックが結合した最初の成功作品であると言われている。 1938年、昭和13年に封切り、日本にも直ぐに輸入されてきた。 戦後も再三日本でも公開されているが、熟年のご婦人方にアンケートした結果是非又、 観たいという映画のトップであった。


【シェルブールの雨傘】

1964年フランス映画、ジャック・ドミーという音楽をよくする監督の作品。 79年には日仏合作で「ベルサイユの薔薇」などを撮っている。 実験映画で台詞は生のまま音楽のリズムに載せて、オペラ形式で歌われる。 台詞に全部メロディが付いている。この 「シェルブールの雨傘」の題材は、マルゼル・パニョールの名舞台劇「ファニー」である。

ジュヌビエーブを演じるは当時19歳のカトリーヌ・ドヌーブ、 相手役ギーはニーノ・カスステルヌーボ、イタリーの二枚目である。 深く愛し合った若い二人が戦争のために引き裂かれる。そして5年の歳月が流れる、 それが偶然出会う。しかし女は二人の間に生まれた子供を連れたまま、 優しい中年の紳士と一緒になっている。

一方男は、戦争から帰って来たら、彼女が結婚しているということで幼馴染みと 結婚して子供がいた。という悲劇的な物語である。 二人の間に生まれた男の子をみせて女は男に言う。「あなたにとてもよく似ているわ」 この年のカンヌのグランプリを受賞した。 作曲:ミシェール・ルグラン、ジャック・ドミー作詞

* 街角の別れを聴く

【会議は踊る】

1931年、昭和6年のドイツ映画。この映画はナポレオンが没落したあと、 オーストリーにメッテルニヒという謀略にとんだ宰相がいて、 これが声をかけてヨーロッパ各国の宰相をウイーンに集めてウイーン会議というのを 開いた時を背景にしている。

メッテルニヒはオーストリーに、自分の国に有利になんとか展開が持って行けるようにと、 彼が企んだのは、いわゆる色仕掛けであった。リリアン・ハーベイ演じるウイーンの下町娘。 ロシアからはるばるやって来たロシア皇帝との二人の淡い恋物語りである。

リリアン・ハーベイは当時の大人気スターで、父親はドイツ人、母親はイギリス人。 彼女が生まれたところはロンドンである。バレーや歌を習得して18歳から映画界に 飛び込んで人気スターになった。ロシア皇帝を演じるは、ウィリー・フリッチ。 マックスラインハルトの劇団で基礎訓練をして映画界に入った。

トーキーが始まったらこの人は大変声が良くて歌が上手だということでさらに人気が高まった。 リリアン・ハーベイとのコンビもの作品は沢山ある。 メッテルニヒ宰相を演じるのはコンラッド・ファイト、当時のドイツ映画の名優である。 監督はエリック・シャレル、音楽ウェルナー・R・ハイマン、ロベルト・リープマン。 1937年ナチスはこの映画を非国家映画と烙印を押して以後公開を禁じられた。


《是より、ブロードウエイ・ミュージカルの章に入る》

【アニーよ銃をとれ】

1946年、昭和21年インペリアル劇場で初演されて、1950年に映画化されたのが メトロの作品「アニーよ銃をとれ」である。1147回の上演ということは、三年強の続演。

この「アニーよ銃をとれ」の舞台での主役はエセル・マーマンが演じているが、 映画化に当たってはジュディーガーランドが指名された。ところが、 企画がすっかり深まった頃にガーランドは又自殺未遂を起こした。

困ったメトロはガーランドを降ろして指名したのがベティ・ハットンである。 このベティ・ハットンは、ヤンキー娘で強烈で個性的な女優さんであった。 1974年、映画に主演してから24年後小さな教会で床を拭いたり、 廊下を掃除したりする家政婦をしていたのがベティ・ハットンであった。

往年のスターがこんなことをやっているのは可哀想じゃないかということで、 篤志家が集まってコンサートを開くが往年の声は出なかった。 涙ながらに歌ったハットンが旧知の人たちの温かい行為に泣いたというエピソードがある。

* ショウほど素敵な商売はないを聴く

【南太平洋】

1949年マジェスティク劇場で初演された。その続演が1925回というから、 5年半という連続上演。9年後の1958年、20C−FOXによって映画化された。 監督はジョシア・ローガン。舞台も映画も両方を演出している。ヒロインは ミッツイ・ゲイナー、この人はアメリカのオペレッタ出身で健康美に溢れた女優さんである。 舞台の方はブロードウエイの名女優メリー・マーチンが演じている。

相手役はロッサノ・ブラッツィ、"PART1"のキャサリン・ヘップバーンの 「旅情」の時ロマンスグレーという言葉を流行らせた俳優である。この「南太平洋」 をお話するにあたってはどうしても漏らす訳にはいかないミュージシャンがいる。 リチャード・ロジャースとオスカー・ハマースタイン二世、このコンビである。

作曲はリチャード・ロジャース、作詞はオスカー・ハマースタイン二世。 9作この二人のコンビは名作を創っていて、そのうちの6作はヒット作で映画化されている。 この二人が最初に組んで公開した舞台ミュージカルは1943年「オクラホマ」である。これは12年後の映画化されている。

それから「回転木馬」これは45年のブロードウエイで11年後の56年に映画化されている。 総監督はアルフレット・ニューマンがほとんど取り仕切っている。

* バリハイ、魅惑の宵を聴く

【王様と私】

1951年に上演されて5年後の1956年に "FOX" で映画化された。 この「王様と私」の連続記録は、1246回、だいたい三年くらいつづいた。 マーガレット・ランドンという女性の原作である。1946年に原作を忠実にドラマ化した 「アンナとシャム王」という作品が生まれている。

シャム王になったのが名優「マイフェアレディ」に出てくるレックス・ハリスン、 アンナを演じたのは、アイリン・ダーン。1999年ジョディーフォスターが原作を取り上げて 「アンナと王様」三度目の映画化をしている。今日観るのは1956年の映画化、 デボラ・カー のアンナ、ユル・ブリンナーの王様である。

アンナの役を舞台で演じたのは、ガートルード・ローレンス。 ユル・ブリンナーは舞台も映画化にあたっても、両方出て生涯キャラクターという 言われかたをしている。 デボラ・カーは知性派で、悪く言うと女性の美しさとしては少し冷たい。 演技はまあまあやるのでアカデミー賞に6回ノミネートされたが、アカデミー賞は取れなかった。

ユル・ブリンナーは1920年にサファリンで生まれた。 お父さんはモンゴルー人お母さんはルーマニア人であるがジプシー族の出身であった。 両親はブリンナーを教育させる為に最初北京にやり、10歳の時パリに留学させる。 が、勉強はしないで、ジプシー楽団に入り歌の勉強をしている。 その後サーカスに入ったが大怪我をしてサーカスを クビになった。

結局両親の暖かい教育熱心さに反省して、ソルボンヌ大学の哲学科を出ている。 ところが大学を出ると演劇の道に進んで放送、テレビなどに顔を出しているうちに ブロードウエイに飛び込んでだんだん注目されてる時に、1950年「王様と私」 の舞台に応募してシャム王の役に抜てきされ、以後映画も舞台も両方務め、 生涯キャラクターと言われるようになった。 これもロジャースとオスカー・ハマースタイン二世傑作の作品である。



【サウンド・オブ・ミュージック】

1959年ラント・フォーンテン劇場で1443回続演された。 4年後の1964年に "FOX" によって 映画化された。監督はロバート・ワイズ。この作品の前に「ウエストサイド物語」 を撮っている監督である。トップシーンはいずれもヘリコプターからのフカン撮影である。 音のない状態で主人公にカメラが近づいていく手法で二作共撮っている。

本人曰く、「舞台からの映画化というのは私のやりかたが本物なんだよ。」 と豪語している大変自信家の監督である。「ウエストサイド物語」「砲艦サンパブロ」 「深く静かに潜行せよ」などという軍事物もやっている硬派の監督である。 さて、主役のマリアに選ばれたのは、ジュリー・アンドリュース。

このブロードウエイの舞台は、メリー・マーチンが熱演して当たり役になっている。 今回はロバート・ワイズ監督の決断でジュリー・アンドリュースが選ばれた。
この映画化に当たってマリア役をやってもらえないかと、 アンドリュースが要請を受けた時アンドリュースは当時ロングランの 「マイフェアレディ」が大当たりでイライザの役をやっている真っ最中であった。

そして「マイフェアレディ」の映画化が持ち上がっていた。 当然アンドリュースに指名があるだろうと思っていたら、オードリー・ヘップバーンに決まった。
ワーナーに言わせると、この映画はワーナーブラザースの社運を賭けた大作である。

それで知名度の点においてはということで、オードリー・ヘップバーンが選ばれた。 失意のどん底に落ちたジュリー・アンドリュースであった。処が「メリーポピンズ」 という映画に出たところ、その年のアカデミー主演女優賞を取って気分の治まったところに、 「サウンド・オブ・ミュージック」の話しが持ち込まれたというエピソードがある。 ロジャースとハマースタイン二世最後の9作目の作品。 日本では1966年、昭和41年に淀かおる、高嶋忠夫で舞台初演をしている。

* サウンド・オブ・ミュージック聴く




*(本論上映作品の制作会社)

20C-FOX
COLOMBIA
M.G.M
PARAMOUNT
R.K.O
U.A
UNIVERSAL
W.B
セルズニック
東宝東和(配給) ほか。


−おわりー


文責 和田 節子
HTML制作 和田 節子