神田雑学大学 2001年3月9日 講義録

横濱・Yokohama・横浜・よこはま・ヨコハマ

講師 石川 潔 


目 次

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    はじめに・講師紹介

    1.横濱村とは

    2.YOKOHAMA

    3.横濱市の誕生

    4.関東大震災

    5.横浜大空襲

    6.YOKOHAMAこと始め

    7.同じ港町・神戸と比べて

    8.いまのよこはまとヨコハマ






はじめに・講師紹介


石川 潔 さん
「横濱・Yokohama・横浜・よこはま・ヨコハマ」の石川潔さんは、八いろとんがらし博士として、昨年ご登場戴いておりますが、今回はタイトルにも表現されているように、国際都市・横浜の文明開化の歴史探訪をお願いしました。

八いろとんがらしの講演のときの講師紹介を引用すれば、石川潔こと初代 香辛道宗家 「辛子家八いろ」さん、真っ赤なブレザーにとんがらしをあしらったエンブレムの瀟洒な紳士。
本業は毛皮など高価な衣料品クリーニングの社長でしたが、現在は「八いろとんがらし」博士&「香辛道」宗家、とあります。

最近ヘボン先生の伝記を出版、その業績に対しスウェーデン国際芸術アカデミーから表彰状を贈られました。

今回は石川の在に住んで19代目のご当主として、ゆかりの地横浜を語っていただくことになりました。今日はその第一回目(総説篇)です。

1.横濱村とは

 「横濱・Yokohama・横浜・よこはま・ヨコハマ」の前に実はもう一つ、ワープロでは出てこない旧い漢字の「よこはま」があります。
私は横浜の「面白い所」の紹介をするつもりはありません。横浜の近代史という切り口で、お話を進めて行きたいと思います。
この度もレジュメは末広がりの八項建てです。八項は8項の誤りではありませんよ。(笑)

横濱という名前が最初に現れた文書は、磯子にあった宝生寺という寺に田畑を寄進した記録で、1442年のことでした。当時は通称横濱村で、正しくは石川村横濱です。
正式に横濱村が生まれたのは、文禄4(1595)年の検地のときです。
石川村を三つに分けて石川中村(中央)、堀之内村(西側)、横濱村(海側)が誕生しました。

今も石川町という有名なJRの駅があります。元町へ行くときは石川町の先の方で降り、中華街へ行くときは後ろの方で降りるというコースです。(笑)
山手にはたくさんの女子校があり、女子校生が大勢降りる駅としても有名です。

このとき横濱村は125石で戸数僅か13戸でした。石川中村(292石)、堀之内村(67石)、そして根岸村、本牧村、磯子村などの中でも格の低い村だったのです。
こうして横濱村が生まれましたが、親村の石川村は、私のご先祖が作った村です・・ちょっと言わせてやってよ。(笑)

石川が出てくるのは「将軍家、藤原頼経政所下文」で、貞永2(1233)年平子(たいらこ)郷石河村の記録があります。当時の川はサンズイの河で書いてありますが。
さらに先ほどの宝生寺文書に、石川村という記録が1389年に出て参ります。
石川という名前がこの土地に定着したのは、石川帯刀源家重がここに菩提寺弘誓院を建て定住を決定した天文5(1536)年のことです。

横濱村の起源はこのように石川村でありますことを、念頭に入れて頂きたいと思い、石川一族の一人として、先ず申し上げておきます。(笑)

2.YOKOHAMA

YOKOHAMAという名前が国の内外で脚光を浴びたのは、なんといっても安政5(1858)年7月に結ばれた、日米修好通商条約からです。
ペリー艦隊が1854年に作成したYOKUHAMAの海図をご覧下さい。これ以前の日本の鳥瞰図と比べてかなり正確です。

YOKU HAMA(ヨック ハマ)は南の方の「象の鼻」と呼ばれていた砂地です。湿地帯であまり良いところではありませんね。掘れば海水が出てきて米も作れず、漁もナマコや海苔くらいしか採れませんでした。海辺の貧しい村だったのですよ。
海辺に点々と集まっているのが、人家だったと思われます。

英文でTreaty House とあるのは、ペリーが1854年に日米和親条約を結んだ場所です(条約小屋)。海には錨のマークと7隻の船の位置も書かれています。
数字は、ヤードで表した海の深さではないかと思います。



図の上の方がKANAGAWA(神奈川宿)です。ここにTemple と書いてありますが、今もある本覚寺という寺で、アメリカ領事館になったところです。

日米修好通商条約を結ぶときアメリカは神奈川開港を要求し、神奈川に居留地を置くことを規定しました。ところが、ご存知のように神奈川は東海道のなかでも、かなり大きな宿場でした。交通の要衝です。
攘夷派や大名行列などとのトラブルを恐れた幕府の大老井伊掃部頭直弼は、「開港するのは横濱」と考えておりました。

アメリカ始め条約を結んだ5カ国は、神奈川の開港に固執しましたが、幕府は長崎の出島をモデルにわずか4ヶ月で、横濱に埋め立て地を作ってしまいました。

東側を外国人居留地、西側を日本人商人の町、真ん中に運上所(税関)を置きました(現在神奈川県庁がある場所)。周囲には運河を作って三つの橋に関所を設け、不審者の出入りを監視しました。
関所の内を関内、外を関外と呼びました。関内という言葉は今でも残っておりますが、埋立地、外国人居留地、日本人商人の町として、横濱でも格の高い町になったわけです。

神奈川に固執した5カ国も、造成地が出来てみると横濱の方が便利なので次々と移ってきました。
最初に移ったのがイギリス領事館だったといわれます。こちらは土地があるので、寺などを借りる必要がなく、借地権(後に所有権に変わりましたが)を買えばよかったのです。商社は有名なイギリスのジャーデン・マディソンが最初に来ました。英一番館と呼ばれ、現在シルク博物館のあるところです。

この時の地番、1859年に作られたハウスナンバーが、今でも山下町一番、二番・・と残っていることが素晴らしいと思います。

幕府にとっても横濱の方が管理しやすかったので、1865年ころには神奈川居留地は実質的になくなってしまいました。
やがてこの横濱は、日本のシルクロードと呼ばれた武州、甲州、信州などから商人が集まり、商業地になってきます(地元の人で成功した商人は殆どいません)。
それで住み難くなった居留民は切り立った崖の上、海の見える山手(Bluff)に移り住むようになりました。そして外国人がこの山手居留地を含めて、横濱と呼ぶようになったのです。

新政府になり東京が政治の中心になると、東京への交通が重要になってきました。当初は馬車で、横濱(馬車道)から東京まで4時間半かかったそうです。
鉄道がひかれたのは、明治5年になってからでした。その結果、明治10年ころの時刻表によると、横濱(桜木町)から東京(新橋)まで、1時間7分にスピードアップされました。
汽車の運賃は横濱・新橋間が上等で1円(1ドル)、中等60銭、下等30銭と書かれています。

3.横濱市の誕生

明治22(1889)年4月1日、全国主要31都市に市制が施行されました。
当時の横濱市の人口は121,985人、申し訳ありませんが、港北区だとかは未だこの中に入っていません。(笑)

明治5年のわが国初の人口調査時に比べて、約2倍になっています。
ほかに外国人がたくさん住んでいました。その中ではシナ(清国)人が一番多くて、通訳、コック、雑役、商人、建築などの仕事に従事し、チャイナタウンが形成されていきます(現在の中華街とは違って料理店はほとんどない)。

港の整備も進み、明治29(1896)年3月15日、わが国初めての定期便日本郵船土佐丸(5千トン強)がロンドンへ向け出航しました。

日本郵船は明治18年にライバル会社の共同運輸と合併、一大郵船会社として成長してきたのです。 同社のマーク、2本の赤線はそれを表すものです。二本郵船ではありませんよ。(笑)

造船所(後の三菱造船)も併設して、戦前の日本を代表する豪華客船、浅間丸(16,942トン)、龍田丸(16,955トン)、秩父丸(17,498トン)などが次々に建造され、日本の大航海時代が始まりました。
しかしこれらは戦争中、海軍に徴用されて全て沈み、現在も残っているのは山下公園に係留されている氷川丸(11、622トン)だけです。

こうして横濱は、国際的にも有名になってきました。私が子供の頃1930年代の世界地図を見ますと、右の隅の日本に書いてあったのは東京・横濱・日光でした。
外国人観光客は横浜に船で来て、東京・日光を巡ったのです。

日光で最初の(明治6年)外国人専用ホテル金谷ホテルは、ヘボンさんの勧めで出来たといわれます。
そのヘボンさんは横濱に33年おられました。当時こんなに長い間横濱に住んだ外国人はヘボンさんだけです。
ヘボンさんについては、また別の機会にお話しいたします。

横濱は貿易港としても神戸と並んで栄え、輸入の横濱・輸出の神戸と称されました。輸入額は1999年、成田に抜かれるまで日本一を維持していました。

4.関東大震災

さて、第一次世界大戦による好景気が終わった頃の、大正12(1923)年9月1日、関東大震災という大きなショックが横濱を襲いました。

その集中的な被害は、東京より大きかったのです。当時横濱の人口は44万8千人でしたが、死者23,335人、罹災者(全・半壊あるいは焼失)42万2千人(91%)、全く無事だった世帯はわずか4%に過ぎません。私の父は、もう横濱は復興できないと思ったそうです。

チャイナタウンも壊滅し、全住民(約6千人)の三分の一が亡くなりました。生き残った人達は全て神戸へ逃げたといわれます。
ところが彼らは強いんですね。昭和3年頃から戻り始め、現在の中華街の礎が出来上がっていくのです。

横濱の復興は港湾から始まりました。港が出来ると物が入ってくる、人が集まってくる、そして家が建ちました。
それまでは耐火建築のレンガ造りの家が多かったのですが、関東大震災で全て倒壊し、多くの人が下敷きとなって亡くなりました。

そこで大正末期から昭和初期にかけて、鉄筋コンクリートの建物(耐震建築)が造られたのです。この時の建物は現在歴史的建築物に指定され、夜ライトアップされています。海岸通り(Bund)は海岸に面さなくなりました。
山下公園は、大震災のときの瓦礫を埋め立て造られました。ここで横濱復興博覧会を開催、その後公園にしたものです。

5.横濱大空襲

次の横濱の試練は、第二次世界大戦時下の空襲です。
空襲は鶴見の工業地帯を含めて計25回ありましたが、居住地に対する最大のものが5月29日の空襲です。横濱の空襲の特徴は、それが昼間行われたことでした。

昭和20(1945)年5月29日午前9時15分、B29−500機、P51−100機襲来、女子供・年寄りしか残っていないところに、焼夷弾が雨のように降ってきました。市域の44.2%を焼失、死者・不明者8,000人と推定されています。
身元不明者の遺体は、無造作にトラックで運ばれて穴に埋められました。当時は皆異常な感覚になっていたので、それを見ても子供だった私でさえ、怖いとは思いませんでした。
あの大勢の無縁仏は、何処へ行ってしまったのでしょう。

関内も徹底的にやられましたが、どういうわけか海岸通りのアメリカ領事館、イギリス領事館、県庁、銀行などのあるところはやられませんでした。それから山手も殆どやられていません。
戦後の8月31日、マッカーサーが厚木から横濱にやってきて、ホテル・ニューグランド連合軍総司令部にしました(9月末には皇居お堀端の第一生命ビルに移りました)。

焼け跡は接収され、かまぼこ兵舎が建ちました。
横濱の特徴は接収解除後もしばらく何も建たず、復興が大変遅れたことです。関内は「関内牧場」と呼ばれ、ぺんぺん草が生えていました。伊勢崎町も同様でした。
そのために「西口」が生まれてしまったのです。あそこは、私どもが子供の頃は「裏口」といって、切符を売っていなかったところです。この何もないところを相鉄(相模鉄道)が開発したのです。

このように復興が非常に遅れたため、関東大震災後に辛うじて横濱に残っていた企業も、全て本店・本社を東京に移してしまいました。
明治屋もフジヤも丸善も、みな横濱から始まったお店です。
領事館も不必要となり、アメリカ領事館跡は創価学会に、イギリス領事館跡は開港資料館になりました。
最後に横濱正金銀行も解体され東京銀行となり、東京へ移ってしまいました。

6.YOKOHAMAこと始め

この資料「ヨコハマことはじめ」は、あるケーキ屋さんが作ったものですが、他にも以下のようなものがあります。

入港商船、外国人の開業、生糸売り込み、夜会、海外渡航・移民、射撃・スケート・テニス、ドレスメーカー、クリーニング、気象観測(ヘボンさん)、歯科医・義足、プロテスタントの洗礼。

資料の娯楽のところにある写真屋は、横濱野毛に開業した下岡蓮杖よりも、2ヶ月ほど先に神戸で上野彦馬が開業しております。

横濱には最初に外国人居留地が開かれ、外国人居留者の数も多かったので、このように横濱から始まったと言われる事物がたくさんあります。横濱で記念碑などが建ってしまうと、函館や神戸といえども文句を言えなくなってしまうんですね。(笑)

後に東京に出来た居留地は築地で、ここは規模が小さく主に住宅地であって、学校、病院、キリスト教宣教師などの町でした。商業の地ではなかったことが特徴です。
一方、商業の地であって商売としていろいろなもの、そして住んでいる人達を相手にしたいろいろなことが始まった、というのが横濱の特徴です。

7.同じ港町・神戸と比べて

横浜は同じ港町として、よく神戸と比較されます。
しかし横浜の歴史は1859年からしか始まらないのです。横濱村の歴史は横浜の歴史ではありません。

神戸は福原京といって治承4(1180)年、僅か6ヶ月とはいえ帝がおられたがあったのです。
横濱に帝が来られたのは明治5年、鉄道の開業式のときですよ(笑)。ただ、お祝いのとき国旗を掲げる習慣は、このとき横濱から始まったといわれます。

元町とか南京町(横浜では現在中華街)とか、共通するところも多いのですが、何といっても「輸出の神戸・輸入の横浜」で、輸出入額が大きく違います。
また、横浜が東京と同じ顔を持っているのに対し、神戸には神戸らしさがあり、大阪とは言葉からして違います。ファッションも以前は大阪と違っていました。

決定的に違うのは地形です。神戸は海に向かって均一の斜面のため眺望がよい(百万ドルの夜景)のに対し、横浜は凸凹があり高いビルにでも上らなければ眺望がききません。(笑)
また神戸は六甲を抱えイノシシやシカ、なによりも但馬牛がいます。あれは生きている時は但馬牛、死んで肉になると「神戸牛」。ただし神戸牛(コウベ・ビーフ)という名称は、横濱で生まれたものです。

八.いまのよこはまとヨコハマ

人口3,432,558人(2001年1月1日現在、「広報 よこはま」による)。
1985年に人口3,000千人を超えました。区の数18区(世帯数1,373,714)、市としては疾うに大阪・名古屋を超し全国最大です。

東京のベッドタウンという面もあります(横浜都民)。青葉区の田園都市線沿線の住民などは、横浜市役所より渋谷区役所の方が近くて便利です。(笑)
市営地下鉄が田園都市線に結びついてから、ようやく横浜市民という感覚が生まれてきたそうです。

しかし、東京は3代続いて江戸っ子ですが、横浜は住民票を移すと3日で浜っ子だ(笑)というくらい、何でも受け入れる素質があります。私のように、先祖から470年住んでいても、4年7ヶ月の人もあまり変わらないわけです。(笑)

いま「よこはま」と言った場合には、汽笛の聞こえる範囲のことです。
最近は車の騒音で大分聞こえ難くなりましたが、新年になりますと港にいる船が一斉に汽笛を鳴らします。横浜は船が多いですから大きく聞こえます。

あるいは海が見える範囲が横浜だと言ってよいのではないか、この条件にかなわないところは「新横浜」と呼ぶべきではないかと(笑)・・・・思います。
「ヨコハマ」は、外人墓地とか中華街とか元町のショッピングセンターとか、お客様が異国情緒に憧れて訪ねて来る場所です。こういうお客様にはどんどんお金を落としていって頂きたいですね。(笑)

このような横浜ですが、一つ欠点もあります。横浜市に長い間住んでおりますと、上に伸びないのです。どうしても、このように横に張って参ります。なにしろ名前が「ヨコハバシ」でございますから。(拍手喝采)

おわり

吉祥寺雑学大学「ヘボンさんてどんな人?」

文責: 大野令治
会場写真撮影:橋本 燿
HTML制作、編集、画像データ挿入:大野令治