神田雑学大学
  2001年3月16日 講演録 



著名人の隠れたエピソード

講師:来宮洋一

目次
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1 講師紹介
2 三国 連太郎
3 3人の美女
       八千草 董
       浜 木綿子
       扇  千景
4 浜尾 侍従
5 服部 良一
6 林家 三平



来宮洋一氏経歴
1927年東京生まれ。湘南高校、青山学院大学卒業。東宝株式会社宣伝部を経て、1962年独立。テレビ・ラジオのCM、社歌、賛歌などの作詞・作曲、制作。作品数約500曲余。その他テレビ、ラジオ、舞台の脚本・演出・プロデユース多数。ピアノ、作詞の教室にて新人の育成に力を注ぐ。趣味はドキュメンタリー、エッセイなどの執筆と中国語。弓道初段。アルコールは相当強く、健康にも自信があったが、昨年六月中旬に脳梗塞で入院し以来禁酒。自称永久32歳。祖父は国文学者・歌人・佐佐木信綱(文化勲章受賞)

著名人の隠れたエピソード
昭和27年から6年間,私は東宝株式会社の宣伝部に勤めていた。当時は映画の全盛期で三船敏郎、池部良、原節子、山口淑子など錚々たるスターが出入りしていた。
司葉子(当時大阪ガスの受付にいたのを池部良がスカウトしてきた)白川由美、宝田明などがニューフェイスだったがその中に三国連太郎もいた。

三国連太郎
彼とは年齢もあまり違わないせいもあってか、不思議にうまがあった。その頃大映の俳優だった宇佐美淳が鎌倉の自宅でよくダンスパーテイを開いており、私はジャズバンドをやっていたのでピアノを弾いていた。パーテイには佐田啓二、岸恵子、桂木洋子などがよく来ていたが、三国連太郎(連ちゃん)は、一風変わっていて印象に残っている。

まず彼は極端な犬嫌いだった。宇佐美淳の家には犬が放し飼いになっていたが、連ちゃんが宇佐美惇の家にやってくるときは、事前に電話をかけてきて犬をつないでくれという。しばらくしてまた電話があり、もう犬はつないであるかと聞いてくる。そこで確かに繋いだことを確認すると、自転車に乗ってやってきた。

私生活でも少し変わっていた。しょっちゅうギャラの前借にきて、その足で高価な皮のジャンパーを衝動買いしたりして、いつもピイピイしていた。ただ演技に対する姿勢は信念があって、台本をもらっても納得できないときは、配役を辞退した。これは映画俳優にとってなかなかできないことである。
しかし、いったん引き受けると台本をボロボロになるまで読んで、私生活でも、その役柄に徹しきってしまうものだから、周囲から誤解されることも多かった。

彼は二回、離婚しているが、そのような真面目すぎる性格が影響していたのかもしれない。真面目といえば、かなり大俳優になってからも地下鉄で通勤していたことがある。実は人に頼まれて、小さな会社の社長に祭りあげられたのである。頼むほうは飾りのつもりだったのに彼は真面目に取り組み、社員の給料も自腹を切ってやっていたのである。

三人の美女
昭和29年、それまで米軍に接収されていたアーニーパイル劇場が東宝に返還され、懐かしい東京宝塚劇場の看板が掲げられた。東宝の演劇活動が、そこから急に盛んになり、東宝ミュージカル、東宝歌舞伎、現代劇、宝塚歌劇と一斉に花開いた。

そのとき、演劇担当重役として招かれたのが菊田一夫先生である。私の演劇好きは有名だったので、宣伝部の仕事も演劇担当に移された。その中で宝塚歌劇は、殆ど私一人で宣伝を賄っていた。また、宝塚は1回の公演に70名ほどの生徒が上京してくるので、その面倒もしなければならず、多忙を極めていた。

昭和20年代の宝塚には、絶世の美女と騒がれた生徒が3人いた。その中のひとりが、本名山田瞳という女性である。なぜ本名でいうかというと、歌劇団内では本名で呼ぶことになっているからだ。新聞社が取材に来ると、芸名で呼ぶ。友の会などでファンの人たちが来ると、ニックネームで呼ぶ。

宝塚は、一人の女の子に対して、三つの名前があるから、70人の生徒が東京にやってくると、私は合計210の名前を覚えて、それを使い分ける。若いときにはそれが出来た。たとえば、ファンが「まっちゃん」というと、本名は「松平さん」で、芸名は「寿美花代」である。春日野八千代は、本名「石井良子」。普通は「よっちゃん」と呼ぶ。

さて、「山田瞳」こと「瞳ちゃん」は「八千草薫」である。結婚してからは「谷口瞳」となった。
谷口という相手は、谷口千吉監督である。「瞳ちゃん」は宝塚に居る間に映画出演を許された生徒である。夏目漱石の「三四郎」が映画化されたときに、お嬢さん役が「瞳ちゃん」だった。映画の中で、お嬢さんがピアノを弾く場面がある。ワンカットだから、指先がアップになる場面は15秒。ここはプロのピアニストが弾いた指先だけを撮影し、あとはお嬢さんの演奏する上半身を撮ることになっていた。ところが「瞳ちゃん」は、実際にピアノを弾くと言い出した。
宝塚といってもピアノを弾ける娘は、そんなにいない。撮影所のスタッフが、私のところにやってきて、なんとか二週間で「瞳ちゃん」が両手で15秒弾けるように特訓してくれという。私が進駐軍相手のバンドでピアノ弾きをやっていたことが、撮影所内で知れ渡っていたのである。

宣伝部員が、役者にピアノを教えるなんて、前例のないことだったが、二週間、砧の撮影所へ特訓のために出向いた。撮影をしていないスタジオの隅にあった、ガタガタのピアノで「瞳ちゃん」に弾き方を教えた。曲目はトロイメライで、8小節を弾けば15秒が過ぎる。それだけ弾ければいい。
ところが「瞳ちゃん」、右手でメロデイを弾くことが出来た。左手も伴奏は弾けるのに、両手で弾こうとすると、どうしても合わない。
日が暮れてスタジオも真っ暗になるから、「また明日にしよう」と帰りかけると、「瞳ちゃん」が手を合わせて「お願い、もう一回,もう一回」とせがむのである。

「もう一回」が何回にもなり、ほんとに日が暮れて真っ暗になってしまう。その頃「瞳ちゃん」は、砧撮影所のすぐ近くに家があり、そこにはピアノがあったから、その後は家に行って続きのレッスンをした。そして二週間後には、トロイメライの8小節をなんとか弾くことが出来た。

小柄で華奢な女性なのに、ものすごい勝気というか、負けん気を感じさせた。あれだけの根性であればこそ、彼女は大女優になり得たのであろう。その頃は二十八歳の八千草薫であったが、頭が下がる思いであった。1年ほど前、帝劇の舞台に出ていたので、楽屋を訪ねた。

化粧を落として、楽屋着姿の八千草薫(昭和7年生まれ)はどうみても四十七、八のかわいいお母さんにしか見えなかった。これも芸のなせる技なのだろうか。「瞳ちゃん」の偉いところは、その勝気さを全く表に出さず、いつも優しくニコニコしていることである。
いまでも頑張っているが、変なコマーシャルなんかに出ないで欲しいと思っている。

つづいてもう一人、これは絶世の美女ではないが、満月のような真ん丸顔をしていた娘役の「香川あつ子」。息子が東大を出て「香川」という俳優になっている。「浜木綿子」である。宝塚というのは、入学試験を受けて合格すると音楽学校で2年勉強する。それを卒業すると研究科1年になって、2年、3年と進む。

これを省略して研1、研2、研3という。研2になって初舞台を踏める。私が宝塚に関係していたころ、「浜木綿子」は研5でその他大勢組であったが、大変賑やかな子で、楽屋でもひときわ目立っていた。ファンが、私を呼ぶのに「はまもめんこ」というから、「あたし、悲しいわ」などといって大騒ぎしていた。この娘は自分の売り込みにかけては、すさましいばかりの熱意があった。私は宣伝の材料を、月に何度か宝塚に仕込みに行く。それを知っていた「浜木綿子」は特急の私の隣の空席に座り、東京までの4時間あまりの間、自分を売り込むのだった。

彼女の目的は、「浜木綿子」の名を何とか新聞に出して貰いたいということだった。私も彼女の熱意にほだされて、二三日中に何処かの新聞に載せるようにすると約束してしまったのである。そして、報知新聞の親しい記者に話して、その他大勢だけど、将来性がある娘だから取り上げてくれと頼んだ。
翌日、その記者から電話があったので、「浜木綿子」を連れて日比谷公園へ赴いた。記者のインタビューのほか、カメラマンがいろいろなポーズで写真をとったりしたが、翌日の報知新聞を見て驚いた。
芸能面のトップに三段抜きで「浜木綿子」のアップの写真が出ているではないか。さすがに名前には「はまゆうこ」のルビがふってあった。私は彼女との約束を守ることが出来た。

その後、「浜木綿子」はスターダムに乗り、歌舞伎俳優と結婚して子を作り、離婚して、65歳過ぎの現在も、いくつかのレギュラー番組の中で活躍している。「八千草薫」にしても、「浜木綿子」にしても、この分野で活躍している人は、実に若い。比べれば、ミッチーや、サッチーも、年齢に変わりはないのだが。

さて、先ほど絶世の美女三人といったが、一人は「八千草薫」。もう一人は木村寛子である。この人は神戸の生まれで、お父さんは神戸銀行灘支店長(当時)である。
昭和30年の暮れ、私宛の、巻紙に筆書きの丁重な手紙を貰った。私は木村さんという銀行員は知らない。何事かと思って封を切った。手紙には、こうあった。娘は初舞台の正月公演で東京へ行く。娘は体がひ弱なので、家をあけることは親として大変心配である。申し訳ないが東京にいる間、何かと面倒をみて戴けないかという頼みごとであった。

入社して三年程度の平社員。何で私が、と思った。その頃、日劇で構成演出を担当していた山本紫朗という人がいた。この人が宝塚映画のプロデユーサーを兼ねており、多分、神戸銀行灘支店長の木村さんから相談があって、私の名前を出したものであろう。

その時の宝塚公演は、菊田一夫作・演出「ワルシャワの恋の物語」である。春日野八千代、八千草薫のゴールデンコンビの正月公演に、準主役に選ばれたのが美女「カンコちゃん」であった。初舞台の彼女は、演技がぎこちない上に、セリフは頭のてっぺんから出るような声で聞き取りにくく、美人だがいまいちだった。

この娘は、それから半年も経たないうちに退団して、しばらく映画の仕事をしていたが、まさかその娘・木村寛子・「扇千景」が45年後に、国土交通大臣になるとは夢にも思わなかった。扇千景は現在の夫、中村扇雀(旧名)の熱狂的フアンであることから、扇の一字を貰い、宝塚の先輩淡島千景の千景にあやかった名前である。

歌舞伎役者 扇雀と結婚して 木村寛子は林 寛子となった。参議院議員に出馬した当時は、国会議員に芸名は許されなかったので、林 寛子と名乗っていたが若手人気タレントに全く同姓同名の子がいた。最近、芸名が許されるようになって、扇千景と名乗っている。
保守党の党首になったことも驚きであるが、になったときは、もっと驚いた。

先日、テレビ朝日の久米宏のニュースステーションに生出演をした寛子ちゃんを見た。今の防災服は地味で目立たないからと、自分でデザインした派手な蛍光色の防災服を着てみせていた。宝塚時代の彼女と全く変わっておらず、性格というのは、いくら大臣になっても変わらないものだと、懐かしい思いでそれを見た。もともとは、家庭的な普通のお嬢さんだった。しかも、お父さんから「ひ弱で、1ヶ月も東京へやるのは心配でたまらない」という手紙を戴くほどの病弱な娘だったのが、政党の党首になったり、大臣になってヘリコプターで三宅島に飛んだりの大活躍をしている。45年の歳月で、女性はこうも変わるものかとの感慨にふけった。

今、私が国土交通省の大臣室を訪ねて「カンコちゃん」と云ってみても、多分、秘書に阻まれて中に入れて貰えないだろう。しかし、在任中になにか方法を考えて実行したいと、それを楽しみにしている。


浜尾侍従

娘が、ずーっと学習院でお世話になっていたので、私もPTAの一員としてお邪魔することがあった。ある年の文化祭で催し物をみていた時に、隣に立つ人と言葉を交わした。その方は東宮侍従の浜尾実さんであった。宮中におめでたなどがあると、皇族方の後ろに控えめに立っている方である。のちに聖心女子大あたりで講師をされていると伺っている。その浜尾さんと急に親しくなったのは、昭和40年頃の話である。

新橋にミュンヘンというビアホールがあるが、そこでビール好きの15人のメンバーで金曜会という会を結成していた。一業種一人で初代のメンバーは、現在4人しか生き残っていない。会長は一橋大学のドイツ文学の植田教授であった。
毎週、金曜日午後5時から、ミュンヘンで一杯飲みながら話を交わすのである。毎週一回だから年五十数回になり、現在は三千六百数十回となって続いている。欠員が生じると、会員の誰かが推薦した人物を、全員の賛成によってメンバーに加えるというルールがある。
たまたま一人が亡くなって、私は浜尾さんを推薦して、メンバーになって頂いた。

その時は、浜尾さんは現役の侍従で、赤坂の東宮御所の中にお住まいだった。浜尾さんはビールがお好きで、ワイワイ集まって肩を組んでドイツ民謡を歌うドイツ・ビアホールが特にお好みだった。私も赤坂、溜池、新橋、銀座などのドイツ・ビアホールを何軒か案内して、一緒に楽しませて頂いた。

それはアポロ11号が、初めて月面着陸した時のことである。縁があって私はフジテレビで48時間生中継の構成を頼まれ、脚本を書いた。まるまる48時間の放送だから、色々なことを盛り込まなければ間が持たない。浜尾さんとお話した中に、皇太子殿下は天体がお好きで、よく望遠鏡を覗かれたり、星座の話をなさるので、自分もかなり詳しくなったと言われたことを、たまたま思い出した。

そして、浜尾侍従にフジテレビまでお越し願えないかと申し上げたところ、非常に喜ばれて、出演することになった。当時、露木 茂アナウンサーが総合司会だったから、随分古い話だ。侍従にはフジテレビで、かれこれ2時間ばかりお付き合い願って、皇太子殿下の天文へのご興味ぶりなどを披露して頂いた。

あるとき、その頃問題になっていた、銀座のタクシーの乗車拒否が話題になり、浜尾侍従が実際に乗車拒否を、自分の目で見てみたいといわれたことがある。それではと、午後11時半まで銀座のクラブで飲んで外に出ると、タクシーの空車の列である。酔っ払いの中から遠距離の客を狙う一発勝負の連中である。手を挙げても全然停まらないのを、侍従は珍しそうに見学しておられた。

さて、我々が帰る段になって、赤坂御所といっても誰も停まってくれない。そこで、もう一度飲み直して午前1時まで待って、やっとタクシーを拾うことが出来た。侍従を赤坂御所で降ろして、あとは自分の住まいの四谷左門町まで帰った。侍従はタクシーに乗っても普段の癖がでて、「そこを曲がりなさい」「その先で停まりなさい」などの命令調になる。
結構威厳があるから、知らない人には怖い感じを与える。おまけに東宮御所の通用門付近は真っ暗だ。侍従が降りた後、運転手は「私はやられるかと思って、ドキドキでした」といっていた。

翌朝、早々に侍従から電話がかかった。「イヤー。来宮さん。夕べは大変なことでした。もう10分帰りが遅かったら、捜索願が出るところでしたよ。私はこれまで、午前様になったことがありませんでしたから・・・」

服部良一
昭和40年頃、私は日本放送のラジオのおしゃべり番組を担当しているときに、向田邦子さんと知り合いになった。そして向田さんの紹介で、新橋のセレナーデというバーに連れていかれた。ママがしばらく私の様子を窺っていたが、どうやら御気に召したらしい。
この店は会員制で、ママの面接に合格しないと店に入れてもらえないのである。
有名な人で、ここに入れて貰えなかった人に森繁久弥がいる。なんでも借金を払いにこなかったとかで、出入り禁止になったと聞いている。

ここで知り合いになったのが服部良一先生である。週に2~3回、お会いしてはいろんなことを教えて頂いた。印象に残っているのは、絶対に人の真似をするな、自分のスタイルを作れといわれたことだ。
先生はセレナーデがお好きで、「銀座セレナーデ」という曲を作詞・作曲して自分でもよく唄っておられた。また、客同士で合唱した。私はピアノでバンブル・ブギをよく弾いた。落語家の小さん師匠も顔を出して唄っていた。先生の音楽葬が青山で行われたとき、藤山一郎が「銀座セレナーデ」を一番から三番まで通して唄った。私は事情を知っているので感無量だった。

林家三平
三平師匠には忘れられない思い出がある。 12チャンネルの開局記念に「コンピューターと人間頭脳」というタイトルで三平師匠、横山道代、私の三人がコンピュータと人間とどちらが頭が良いかという話で、13週連続出演したことがある。
そのうち三平師匠に、私がおごるからと飲む約束が出来て、先に飲み屋へ行って待っていると、外でがやがや人の声がする。やがて三平師匠は弟子を大勢つれて入ってきて、皆に遠慮なく飲めといった。しかし、なにをやっても憎めない人で、本当に生まれながらの落語家だったと思っている。


終わりに
私は昭和2年生まれだから73歳。古希を越えて世間では老人の部類かもしれないが、自分ではまだまだ若いと思っている。残念ながら昨年、脳梗塞をわずらい身体が少し不自由になった。しかし、気持ちは30台のつもりだし、まだまだやりたい事もあるので好きだった酒もきっぱりやめて頑張っている。

本日は有難うございました。


終わり

(文責 得猪 外明)

会場写真撮影:三上 卓治
HTML制作・編集:山本 啓一