神田雑学大学 2001年3月23日 講義録

お も し ろ 古 代 史

講師 塩野谷 博山


目 次

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★造形作家・塩野谷博山という人

☆日本文化のルーツは?

☆日本の焼き物はどこから来たか

☆日本の遊びはどこから来たか?

☆日本の住居はどこから来たか?

☆なぜ越ノ国か? なぜ巨摩郡か?

☆天皇はどこから来たか?

☆日本の神様はどこから来たか?

★いかがでしたか?






★造形作家・塩野谷博山という人

 1932年東京青梅市の生まれの博山先生は、青梅勝沼に住まわれ、青梅御獄本町にアトリエとギャラリーを構えられる造形作家です。

 元々、先生は日大芸術学部で油絵を専攻しました。
 その後3000m以上の日本の山々を踏破し、山中で出会った風倒木の力強さにうたれ絵筆を捨てられたそうです。

それから1957年、勅使河原蒼風師のもとで、自然木や石によるオブジェに取り組み、以後、銀座松屋の「野性木芸の創造展」、東京晴海の「日本国際家具見本市」、池袋西武デパートの「博山の木芸展」、聖跡桜ヶ丘京王デパートの「特別展」、フランス・アンチーフサンタンドレ美術館の「博山の世界展」、スペイン・カタロニア州展示館の「作品展」と大活躍をされました。

 その成果として、ピカソ美術館には博山作の卓子「まがたま」が永久保存となり、スペイン・バルセロナ市とサンゴッサ市でも彼の作品が所蔵されています。
最近はNature-wood Artistの真骨頂として、歴史ある地名や、伝統ある屋号が醸し出す温もりを大切にしたいとして、多くの木製看板をてがけておられます。

 例えば、日本酒バー「天之川」、ホテルニューオータニ「十和田」、「福生のビール小屋」、「向蔵ビール工房」、「酒世羅」、「雑蔵」、「太陽の家」、「御獄美術館」、「御獄山駅」、「滝本駅」、「澤乃井」、わっぱ屋「蔵亭」、「幸神堂」、「山崎しょうゆ」、「たまり漬」、「麦酒堂の館」、ブリジントンの「奥多摩園」、ひのはら「都民の森」などを手がけられています。

そんな博山先生は、一方で古美術の収集日本文化のルーツを探る旅を続けられておられます。どういうお話が飛び出すか、楽しみです。

☆日本文化のルーツは?

私が、「日本文化のルーツ」に興味をもった最初のきっかけは、子どものころの修学旅行からなんです。自由行動の時間に、みんなは遊びに行ったり、楽しんだりしていたのですが、私は骨董屋に入って骨董を買ったのです。子どもにしては、変わり者だったのですかね。

 それから、骨董・焼き物に関心が深くなり、「それは本物か」、「何処でできたものなのか」という視点でモノを観るようになり、さらには「現地へ行ってみよう」という探求心がわいてきて、「日本文化のルーツを探る旅」を続けているわけです。

 しかし、私は学者じゃありません。だから、文献に出ているようなことは話しません。文献に出ていないことだけを話しますが、私が申し上げる真実に、驚かないでください。

☆日本の焼き物はどこから来たか?

 神田雑大の前回の講座で、皆さん方は陶器を作られたようですから、先ず焼き物の話から始めます。

 焼き物には、土モノの土器・陶器と、石モノの磁器があります。
 そのうちの弥生土器というのは、縄文晩期に大陸や半島から渡来した弥生人たちが始めたものなんです。それ以前の列島は縄文土器の時代でした。

 少し下って、須恵器というのがあります。これは古墳時代〜平安時代の素焼きの土器で、あな窯で1250度ぐらいの高熱で焼くから鉄のように硬く仕上がります。
これも大陸や半島から渡って来た人たちが始めたものです。

さらに下って、現在私たちが日常使っている茶碗、すなわち磁器は佐賀の有田焼から始まっています。文禄ノ役後に佐賀藩の鍋島氏に伴われてやって来た李三平という人が窯を初めて日本の地で開いて磁器が開発されました。以来、九州・中国地方は磁器の先進地帯になっています。例えば、萩焼は長州の毛利氏に伴われて渡って来た李敬・李勺光らが始めました。薩摩焼も半島からの渡来人が始めました。

 日本の磁器の発展は、いえば朝鮮戦争の遺産ともいえます。
 という風に、茶道などで日本が誇る焼き物は日本生まれではありません。ただし、縄文土器だけは別です。

☆日本の遊びはどこから来たか?

 「貝コマ」が訛った「ベーゴマ」は、要するに独楽ですね。この独楽回しというのは、唐の「散楽」が日本に入って来てから定着したのです。

散楽・猿楽は現在の能・狂言の元ですが、「雑戯」芸能と見ればよいでしょう。「縄跳び」や、「凧揚げ」や、9世紀にはやっていたという「ブランコ」もおそらくそうしたものの流れで日本に入ってきたのでしょう。

ただし、今のブランコは明治になって西洋式が入ってきたとき、ポルトガル語「バランコ」が日本語化して残ったのです。「石蹴り」は、明治になって輸入された西洋式の遊びです。

 というわけで、私たちが子どものころに遊んだ遊戯は、一部明治になって西洋から入ってきているものもありますが、たいていは中国から渡って来ています。

☆日本の住居はどこから来たか?

 皆さんは、日本古来の建築様式である燕尾つぎ、棟持柱、埴輪で観られる千木(社殿の屋上、破風の先端が延びて交差した木)、玉垣などは日本独自のものと思われているでしょうが、それは違います。

また、社に必ずある一種の門である「鳥居」や、道路の悪霊を防いで行人を守護する「道祖神」なども日本製ではありません。

 東南アジアや、中国雲南省つまりベトナムの北に位置する高原で少数民族が最も多い(約20種族)省ですが、これら各地を旅しますと、日本古来のものだと思っていた方式をもつ家がたくさん見られます。日本の建築が南方から伝わってきた証です。

☆なぜ越ノ国か? なぜ巨摩郡か?

 中国・春秋時代の列国の一つに、「」(前660ころ〜前334)という国がありました。それが楚に滅ぼされ南へ追われ、「越南(ベトナム)」ができました。

 また、その人たちがボートピープルとなって日本の北陸道にやって来て、「越の国」を作りました。越は後代、越前(福井)・越中(富山)・越後(新潟)に分かれて今に続きます。

これはここだけの話ですが、ほんとうです。越南の人はフンドシをしています。日本の、長さ1m布を巻いて隠すあの越中褌と似ています。
一説では、越中褌は、安土桃山時代の武将・細川越中守忠興の発案といわれていますが、私は同じ民族だから、当然同じ褌をしているのだと推理しています。笑っちゃいけませんヨ。

 香川県に金比羅さんがあるでしょう。金比羅は、Kumbhira=鰐のことです。元ガンジス河に棲む鰐が神格化され、仏教に取り入れられ、薬師十二神将の一つとして金比羅童子(または宮毘羅大将)として祀られているのです。

 インドの鰐さえ、渡って来ているぐらいだから、越南が日本の北陸に渡ってもおかしくないでしょう。
 他に、日本各地に、例えば「巨摩郡」なんていう地名がありますね。これは古い昔に高麗人が住み着いた所なんです。

そんなわけで、日本人は単一民族なんて言っていますが、実はあっちこっちからやって来た人たちが混じり合った混血民族なんですヨ。

☆天皇はどこから来たか?

 それじゃ、日本人の象徴である天皇とは何者か?ということになります。

 神や天皇に関する物事の上に冠して使う言葉に「スメラ(皇)」という言葉があります。また「天皇」のことを「スメラギ」「スメロキ」と呼びます。
この「スメラ」って何ですか? ズバリ答えます。「光の王」という意味で、楔形文字を作成したあの「シュメール、スメル=Sumer」つまり前4000年にメソポタミア南部に侵入し、前3000年に都市国家を建設した)からきています。

まだまだ驚いてはいけません。アダムとイブの10代目にノアがいますね。ノアの方舟で有名です。そのノアの子がセム、ハム、ヤペテです。そのヤペテの子に「テラス」がいます。つまりアダムとイブから12代目ということになりますが、これが何を隠そう「天照大神」のことです。

日本の天皇は太陽信仰の象徴なんです。太陽信仰は、火の起源と関連しており、古代エジプトなど北アフリカや中央アジアで始まったのです。
 天皇のことを「日(火)継ぎの御子」って言うでしょう。

 話を変えます。なぜ、日本の国旗は「日の丸」で、皇室の紋章は「菊」ですか?
 実は、皇室の紋章は太陽を図案化したものなんです。図案化して「菊(十六の重弁)」にしたのです。この説は文献には出ていませんが、私だけが知っている真実です。一方では、菊は中国から797年に輸入されていますから、どうなんでしょうネ。

 「日の丸」はもろに太陽ですね。日の丸は昔から軍扇に使用され、江戸幕府は船印として使っていましたが、島津氏の意見により1870年から国旗と定めたのです。
というわけで、日本の天皇が、われわれ日本人が、太陽族だということがお分かりでしょう。

☆日本の神様はどこから来たか?

 じゃ、そもそも日本の神様はどこからやって来たかという話になります。

 たとえば、浅草神社の三社様、すなわち土師真中知命・桧前浜成命・桧前武成命は異国人です。だいたい、御輿を担ぐときの「ワッショイ」というのは古代韓国語「来ました」の意です。

他の例を上げますと、出雲の杵築神社を移した大宮市氷川神社の祭神は須佐之男命です。全国あちこちにある八坂神社の祭神もそうです。
 この須佐之男というのは、天照大神の弟なんですが、何者だと思いますか?
 記・紀には、いろんなことを記載しています。
 先ず、彼は天の岩屋戸の事件を起こしています。長野の戸隠は、天手力雄命が開けた岩戸がすっ飛んで行った先だとか、手力雄命の子孫がこの地にやって来たからだとか伝えられています。

 次に、須佐之男が出雲で八岐大蛇を斬った話も有名です。この時に得た『天叢雲剣』は後の「三種の神器」の一つになっています。

 ところで、この神話には非常に重要なメッセージがこめられています。
 皆さんは、「ひょっとこ」と「お亀」は知っていますね。
 「ひっとこ」は「火男」が転じて、「お亀」は「丘女」の意味だったんですが、「火男」つまり青銅器・鉄器文化を持った異国の男たちが列島にやって来て、原住民をやっつけ、丘の上に逃げていた女をものにしたという歴史が、「八岐大蛇神話」になったのです。

 また、須佐之男は植林の神様だと言われています。つまり、新羅へ行って檜・杉・楠などを持ち帰り、列島の山地に植えていったというのです。
檜は神殿建材として、杉は一般人の家の建材として、楠は舟をつくるために欠かせないものです。
いえば、須佐之男は古代の産業育成の功労者といえなくもない面があります。それはともかく、「新羅へ行って」というのは間違いで、史実は「新羅からやって来て」なんです。

 したがって、須佐之男一族は半島から列島へ渡ってきて住み着いたのです。
 その証拠だと思われるのが、出雲の青銅器・鉄器文化の遺跡です。1984年と1985年に発掘されたの神庭荒神谷遺跡では358口の銅剣、16本の銅矛、6個の銅鐸が発見され、また荒神谷からわずか3kmの地点で今度は1996年に岩倉加茂遺跡が発掘されました。岩倉では39個の銅鐸が地底に埋納されていたのです。

 これらの出雲の遺跡の凄さは、たとえば今まで日本列島各地で発見された銅剣の総本数の約半数が荒神谷一カ所から見つかったということです。
 これらの遺跡は大陸や半島から渡来した青銅器鉄器族、つまり「火男」族の夢の跡であることはまちがいありません。

以上で本日の話は終わりますが、日本の神様はどこから来たか? 天皇は? われわれの先祖は? 日本の文化は?われわれとは何者か? 皆さまのお考えの一助となりましたでしょうか!

(拍手・拍手・拍手)

★いかがでしたか?

いかがでしたでしょうか? 知りませんでしたね。アダムとイブの12代目が天照 大神なんて!
博山様のお話は奇想天外のようですが、実は歴史的には事実ばっかりでした。
ただし、ある事実とある事実を思い切って繋いだとき、壮大な話になるのです。
これが芸術家ではないでしょうか。おそれいりました。

おわり


文責: ほし ひかる
会場写真撮影:橋本 燿
HTML制作、編集、画像データ挿入:大野令治