神田雑学大学4月6日講義録

「華のエアガール一第1期生」

和久田嘉祢子



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講 師 紹 介

講演趣旨

最近の心境と生活

天下一品二題

講師紹介 

和久田さんは1920年生まれだというから今年81歳の筈だが、背中もしゃんとして、とてもそんな年齢にみえない。同級生が一人、二人と欠けていくのをみて60歳を契機に健康のため水泳に挑戦されたという。最初は浮くことも出来なかったが、いまでは2000メートルぐらい泳いでも平気で、週に2〜3回はプールに通っているという。

70歳になってボケ防止のために、朝日カルチャー教室に入ってエッセイを書くことを始めた。吉祥寺雑学大学の大竹さんとは、ここで同級生になった。 ここで書いた「飛行機物語」を吉祥寺雑学大学で「飛行 機の話」として紹介したのを皮切りに、京都ロータリー倶楽部まで講演に出かけたり、月刊誌サライでのインタビュー記事などで紹介されるようになった。

講演要旨

私は大正9年、山梨県の甲府でごく普通の家に生まれ、山梨県立甲府高等女学校(現在甲府西高等学校)でもごく普通の女学生でした。当時は、学校をでればすぐお嫁にいくのがあたりまえで風潮でしたが、私は少し背が高すぎたのでお嫁の貰い手がないのではないかと心配したほどでした。 ただ、私自身は、普通の人のように、すんなりお嫁にいくっていうタイプじゃなくって。 むしろ、そういうワンパターンな女性の生き方を打破したい、なにかをしたいって気持ちをいつも持っていました。

昭和11年に女学校を出て、東京の兄のところに遊びがてらいた時に、たまたま新聞で初の定期航空便・女性乗務員募集の広告を見て"これだ!"と思ったんです。 もちろん、飛行機のことは全然知らない。ただ、募集の少し前に,朝日新聞の神風号って 単発機が東京~ロンドン間を94時間あまりで飛ぶ世界記録を作った。

それが大きなニュースになっていたんです。私と飛行機の縁はそれくらいで、試験にうかるなんて思ってもいませんでした。 選考基準は「背の高さが5尺2寸以上、書類審査があって筆記試験と面接」で200人に 絞られて、最後の試験飛行までいった15人のなかに入りました



イギリスのエンボイっていう飛行機に交代で乗ったんですが、飛行機を見るのも初めてですから、嬉しいやら不安やらで胸がドキドキ。でもみんなおとなしくて、キャッとも叫ばない。声を上げたいのをぐっと我慢していたんですよ。 合格の電報を受け取ったときは、手が震えて、それこそ天にも舞い上がる気持ちでした。

ただ当時、"飛行機は飛べば落ちる"ものだというのが普通の感覚でしたから、親が許してくれない。だから、むしろ試験飛行で終わってくれればいいという気持ちもあったんです。それが合格しちゃったから、親をどう説得するか、困りましたね。 それに、会社に両親承諾書というのを提出しなければならない。つまり、会社も事故の可能性があるということを想定しているわけですね。

ところが、新聞の全国版にエア・ガール5人の記事が出ちゃって、しかもトップニュース。すごく華やかな記事も写真も出たんですね。それで、親にバレちゃって"スグ、カエレ"って電報がきたんです。でも、帰ったら、それっきりでしょう。 母親なんか熱を出して寝込んでしまったんですけど、"私は地上勤務だから、心配しないで"って手紙を書いて、そのウソを最後までつき通したんですよ。

当時としては、時代の先端をいく仕事だったかもしれませんが、だからといって,受かって"おめでとう"なんて時代じゃないんですよ。今はスチュワーデスも一般的になって、それでも"すごいわね"っていわれるでしょ。 でも私たちの頃は"まあ、変わった娘さんねえ" 銀座へ遊びにいったら、デパートのウインドウに私たちエア・ガールのニュース写真が大きく出ていたんですけどね。誰かが"どうでも、ええやガールか"なんていっているのが耳に入ってきたり。

昭和12年に日本航空輸送(現・日本航空)が羽田~博多間に定期便を開設したとき、使用した飛行機は、21人乗りのダグラスV型機と11人乗りのロッキードでしたが、ロッキードなんて通路の幅は、人がやっと通れるぐらいで小さなものでした。 気象予報も不十分で、滑走路で機長が空を仰いで自分で判断して飛ぶといったありさまでした。当時、飛行時間は3時間あまりでしたが、エアガールの仕事というのは初めてのことで、マニュアルもなく最初のうちは、ただ乗っているだけでマスコットみたいなものでした。


それでも様子がわかってくるにつれて、乗り物酔いに効く医薬品や、サンドイッチやコーヒーを入れた魔法瓶などを持ち込んで、 乗客にサービスを始めました。 羽田を飛び立ってすぐ、箱根の上空は気流が悪くいつも揺れましたが、慣れるにつれて、そんなことも平気になりました。

飛行条件のいい時は操縦士も呑気なもので、お客さんのいない時は、客席へ来て"一眠り するから、操縦席に座ってていてくれ、博多に着く頃に教えてくれよな"なんていう具合で、操縦席では操縦桿任せで座っているんです。隣に機関士もいるし、天気がいいと、自然にハンドルが動いていますからね。雲海がどんどん流れて行く快感は、こたえられないものでした。

私は運がいいのか、事故にも遭いませんでしたが、たまたま私たちが乗っていったロッキードが、機材のやりくりの関係から急遽青島向けに変更になり、離陸した直後、私の目の前で松林に突っ込んで、炎上したのを見て呆然としたことがあります。 事故にあわなかったといえ、悪天候の時の飛行は操縦士も機関士も必死で、一度、豪雨の中で視界を失いかけ、浜松の陸軍の飛行場に緊急着陸したこともありました。

当時の料金は、大卒の人の初任給が60~70円の頃に片道50円でしたから、乗客は政治家や軍人さんとか、大きな商売をしている人が殆どでした。 私は、旧陸軍大将の山下奉文さんとご一緒したことがあって、太って貫禄のある方でしたけど、とってもきさくな人でした。 ある宮様が、芸者さんと戯れている写真をみせてくれて"みんな同じ人間なんですよ"っておっしゃったのを覚えています。

あとは、日産の創設者の鮎川義介さんとか、経済界の方が多かったですね。私の同僚は、作家の菊池寛さんから"エアガールは近代的天女である"って色紙を貰っているんですよ。 私の飛行時間は、700時間ぐらいだったでしょうか。

昭和15年に同じ会社のパイロットと結婚して退社しました。 新婚当時、大森に住んでいましたが、夫が羽田に帰る途中に、航路を外して我が家の上空を飛んでいくので、およその帰宅時間がわかるわけです。爆音を聞いてから、夕食のおかずの材料を買いに出かけたりしたものです。 まもなく上海に転勤になりましたが、文字どうり飛行機を一機チャーターしたように、荷物も一緒に積んで、夫と飛んでいきました。夫は運良く生き残りましたが、当時の同僚の方々は殆ど戦死してしまわれました。

最近の心境と生活


私は今、80歳ですが、これまで自分が80歳になるなんて考えたこともなかった。いま80歳になってみて、こんなものかしらと改めて感じ入っています。同級生が一人、二人と欠けていく現実を見て、どうしたら健康を維持できるかと、かんがえたのは60歳のときでした。

私はやると決めたら徹底的にやる性質なので、若い男性のコーチに、先ず浮くことから教わりました。最初、息づかいが苦しくて「このプールで死んだ人はいませんか」と尋ねたくらいです。 コーチは大勢いましたが、なるべく若いコーチについてもらいました。逆三角形の身体の若い人のそばにいると、自分の歳も忘れて活性化するものです。

パンパシフイック大会がオリンピックプールで開催されたときに、わたしはピンクの水着を着て70歳以上のグループで待機していました。


そのとき、隣の黒い水着をつけたおばさまが「あなた、ドーバー海峡を泳ぎましたか?」と話し掛けてきたのです。よもや、ここでドーバー海峡の話題がでるとは思わず、ショックを受けました。 果たして、その婦人はいいタイムで泳いで優勝しましたが、わたしは「お洒落で優勝したんだから・・」と自分を慰めました。

  大会のあと皆で渋谷のパブで打ち上げをしました。 お酒を飲んで、ワアワア楽しく過ごしましたが、それも水泳をやっていればこその初体験でした。 それを機に、あちこちの大会に出場するようになりました。

スタート台に立つと胸がドキドキします。これも久しぶりの体験でしたが、泳ぐことも身体にいいが、この若やいだ興奮も捨てたものではないと感じました。いまは水中ウオークが盛んで、腰痛の人や術後のリハビリの人達が参加する教室もあります。 おれまで、水に入ったことがないお年寄りが、こわごわプールに浸かっているのも微笑ましい情景です。水着を着て水の中を歩くことは、こんない楽しいことだったのかと喜んで通って、半年もたつと、腰の痛みも忘れるようになりました。地上で歩くときには、自分の体重に重力がかかりますが、水の中では私の体重は3Kgの重さになってしまいます。

私はいま、1時間に2000メートルほどクロールで泳いでいます。プールで泳いでいると自然に肩が廻るせいか、この歳で日常肩がはることはありません。それも楽しみながらやっていることですから、全く苦になりません。水泳ができるから健康なのか、健康だから水泳ができるのか、よく判りませんが、先日、健康診断で骨の密度を測ったら、58歳相当といわれました。肺活量はだいたい30歳レベルとのことです。

とはいえ、人間いつ死ぬか判りませんが、水泳をやっていることに、悪いことはないと思います。これまで、体を精密に測ったことはありませんが、健康には自身がもてました。 しかし、頭の方はどうか心配でした。

ある日、二階に上がって「はて、何しに上がったのかしら?」と一度階段を降りて用事を思い出すことがありました。そんなことがあって、70歳のとき、エッセイを始めました。 もともと書くことは嫌いではありませんでしたが、だんだん楽しくもなり、書くことに好奇心も湧いてきました。

日常の生活の場で、[あっ、これをテーマにしよう]と思うことが再々あります。 娘には、お母さんにはみんなテーマにされちゃう、といわれていますが、好奇心とは、心の運動ではないでしょうか。歳をとってから、家のなかでテレビをぢっと見ていても長生きはできるでしょう。そんなお年よりもいるでしょう。私のように、好奇心をもって元気に飛び回っても、バッタリ死ぬかもしれません。 ですから比較はできませんが、じっとしている人生よりいいのではないでしょうか。

私はプール通いに自転車を使っています。だらだら坂を漕いで上がることが、腿の筋肉を鍛えることになるからです。温泉旅行などで風呂場で裸を比べると、比較にならないほど、私の腿の筋肉は発達しています。お友達のはお豆腐のように見えるくらいです。

ついこの間、親しいプールの仲間が,私の自転車をもう少し格好のいいのに買い替えなさいというのです。私の自転車だって、スーパーで買ったものですが、そんな安物だったわけでもないのです。 乗りつぶしたらあとは、バスで通うつもりにしていました。

ところが、友達があまり買え買えというものですから、金具の太い新車を買いました。緑と白のツートンカラーのお洒落なボデイーで、私好みのデザインが結構気にいっています。 買ったとき、しげしげと自転車を眺めて、これで十年は乗れると思いました。 顧客カードにアンケート用紙がついていました。

アンケートに未来の夢は・・・という項目がありましたが、この歳になると、この種の設問はあまり面白くありません。ところが、この自転車に十年乗れるということは、わたしの未来もあと十年あることだと気がついて、急に嬉しさがこみ上げてきました。 こんな風に思えばアンケートの設問も、別に失礼には当たりません。

私のコーチは、「和久田さん。動けなくなったら、僕が家までお迎えに行きますよ。プールサイドまできたら、ポトンと入って泳げるでしょう」といいます。 これも未来の夢のひとつです。 エッセイグループの、次の合評会のテーマは「未来」でしたが、そのことをエッセイに書きました。 80歳の私にも未来があったのです。これもお年よりの方が読んでくれたら、なにかの力にならないでしょうか。 ここで私の書いたエッセイをちょっと読んでみます。

天下一品二題

「みっともない」
大阪府の知事の一件が新聞、テレビで騒がれていたころのである。夜遅いテレビに経済企画庁長官の堺屋さんが出演していた。経済的話題に入る前に、司会者の、今度の問題、おなじ関西人としてどうおもわれますか?の問いに、「みっともないことです」と堺屋さんはひとこと言われた。

私は瞬間、どんな批判よりも適切だと思った。みっともない。字数はたった六字であるが、全部を語り尽くしている。久しく、この言葉、自身口にしていないし、身辺からも聞こえてこない。二人の娘はほぼ三十年前に結婚して、家を構えてる。 注意する事情もなくなり、たとえみっともない状態であっても、変わっているわねー、ちょっとおかしいんじゃない、が日常語である。子供の頃馴染んでいた「みっともない」を、いつのまにか忘れていた。あまりのぴったりさに、懐かしさがよみがえってくる。

広辞苑を開いてみると「みっともない」とは、「見るに耐えない」または「外聞が悪い」とある。大昔になってしまうが、小学校一、二年のころでした。母方の祖母と親類の家を訪ねた思い出がある。広い庭に、当時としては珍しく色とりどりの華が咲き競っていた。




時代は昭和四年ごろである。通されたお座敷に座ると、お花畑が一面に目の中に入った。多分、わたしは我を忘れて花の美しさに見とれていたのだろう。 「庭に下りて、花を摘んでいらっしゃい」 そこのおばあさんに言われて、思わず立ち上がろうとした。

祖母は素早くわたしのお尻をつっついた。というよりつねった感覚が残っている。出されたお菓子に手を出すと、これもまた、たしなめられた。耳元で「みっともないよ、行儀よくしていなさい」 祖母は確か、紋付の黒い羽織を着ていた。 わたしはわたしで、よそ行きのワンピースを着せられていた。ウキウキしていた。このことは、長い間ふしぎに思っていた。

大きくなり理解できたのは、母の兄、つまりわたしの叔父が二度目の妻を迎えたばかりの時期だったらしい。訪ねた家は、その妻の実家だった。 母の話では、叔父は駆け落ちして一緒になった女の人が、病死してしまった。 今度は正式に見合いをして、結婚したのだという。日ごろきちっとしていた祖母には、人の道に少しでもはずれている行いは許されるものではなかった。先様に篤く礼を言わねばと思いながらも、きまりが悪かった。

そこで、母に相談して、孫の私を連れていけば、雰囲気を保てると考えた結果らしい。花を摘みたい、お菓子を食べたいでは、祖母にすれば「みっともない」の上塗りになってしまう。はるか昔を思うとき、「みっともない」は絶えず言われていたおうな気がする。この言葉、わたしだけが忘れていたのだろうか。 偶然堺屋さんが低い声で言われたとき、的の外れていない気持ちの良さがあった。 天下一品と言えようか。

「新春随想」
夫は、はじめは原稿を書くのに私に頼むよと、わたしに全面的にやって欲しいといっていた。ゴルフは分からないので、何を書きたいか、感じたままをまとめて、書きあがってから読ませて戴きますと、わたしはおどけて、特別丁寧に口上風に述べた。 夫は慣れない原稿用紙を手にしながら、いらいらしだしていたのであろう。

夫は所属するゴルフクラブから、「2000年・本命の龍年」ということで、随筆かエッセイか知らないが、頼まれたと頭を抱えていた。そのクラブは一年に四回情報を兼ねて本を出している。彼は大体週一ゴルフに出かけているが、これから先いつまでやれるか不安そうにしていた。 健康だからプレーできると思っていたが、いまここに来ると、プレーするためには、どうしたら健康を維持できるかに変わってきたという。

誕生日がくると八十四歳になる。 もともとエンジニアであるから、文章は苦手であった。 長女は「お母さんに頼めば楽じゃないの」少しは父親を立てて、励ましの言葉でも差しむけてくれればいいものを、あっさり言ってしまう。 わたしは慌ててアウトラインだけでもと、重ねて念を押した。つとめて口実をつくり、外出して家を留守にした。夫はその間に、落ち着いて集中できると思ったからだ。

三日ばかり経って、どうかなあと言いながらノートを出してみた。略字が多く、句読点がはっきりしていないので、よみづらい。文章も飛び飛びになっている。エッセイを勉強しだした十年まえ、自分も似たりよったりだったのを思い巡らす。わーこれでは駄目だわ、と言いそうになったが、言葉を飲む。

六十年連れ添った夫婦であっても、傷つけてはあとが気まずくなる。深呼吸してから、ゆったりと読んだ。彼の読書はわたしの数倍である。書くのは別だと、機嫌がいい場合は説明するように話したりする。十日ばかりは、食事のときも無口になっていた。気を遣いながら批評すると、ぶつぶつ言っていた日が何日かあった。

ある日、盗み読みしたら、なんと読みやすく流れにそっているではないか。 年が明けて、一月五日。ゴルフクラブから本が届いた。トップはクラブの理事長の新年の挨拶。その次に、出ている、出ている。四十年まえ、はじめは会社の接待ゴルフから始まった。書き出しもすっきりしている。 やりだした際、レッスンプロに付いたが初回で止めてしまった、というくだりに、何で止めたかを書いたなら、読み手が納得する話をしたことがあった。案の定、えらそうと言いたげな顔をしていたが、「ラジオ体操でもやってくるように。といわれ、ガツンと来て以来、我流一筋になったとある。

わたしは思い出しながら、ニヤ二ヤし出した。活字がいきいきと見えてきた。夫より一回り下の龍年会員が、五、六人次のページに続いてあった。殆どが壇上に立って演説しているような文章を感じた。気がつかなかったが、タイトルは「新春随想」になっている。 やるじゃありませんか。ゴルフ仲間から電話がかかってきた。 「善かったねぇ。いい感じの文章で」やっぱり「天下・・・一品」にしておきましょうか。と、こんな風にエッセイを書いている。



書いていて分かったことだが、エッセイはあまり長いとよくない。ぱっと見たときに、読み手に読みたいと感じさせる何かが必要である。初めてやりだした方は、字ずらがばーっとあることが多い。それだけで一見論文のようで、読む気になれない。感じがびっしりというのもよくない。

お洒落というのか、あか抜けというのか、同じ意味で漢字が続いたら、続きの文字はひら仮名にするとかの操作は、十年やっていると自然に分かってきた。 エッセイグループの本の、末尾に載った私の文を読ませて戴いたが、これまでは飛行機関係のことを思い出しながら書いている。

わたしは、若かった時代のウキウキした思い出を、むしろ誇りに思っている。あの当時、親の反対を押し切って危険な飛行機に乗った、若さの勇気があったればこそ、素晴らしい経験や、いい重い出をたくさん持つことができた。 それらが、元気に生きて行くための糧になっているような気さえする。

水泳は、たまたま自分の体の、健康のためにやりだして、エッセイは頭の刺激のために始めた。しかし、学校ではないが、留年しつづけている。だからといって途中で止めるのも難しい。前に述べたように体は悪くないが、娘たちにいい加減にしたらなどと言われている。

ツートンカラーの自転車に乗るにも、スニーカーを履いて、派手なスポーツウエアに身を固めてペダルを踏む・腰をかがめて自転車を漕ぐと、なにか買出しに行くような感じでよくない。わたしは、そんな毎日を過ごしているが、果たして九十歳まで続けられるかどうか。 娘に「お母さんはせっかちだから・・・」と言われるまでもなく、交通事故には気をつけている。しかし、人間、どういう死にかたをするか分からないが、最近、死というものが怖くなくなってきた。この歳まで生かされて、水も滴るいい女でいたいわたしは、今一番いい毎日を送っていると思う。  終わり



 文責 得猪外明
会場写真撮影:橋本 曜
HTML制作上野治子