神田雑学大学4月20日講義録

第67回神田雑学大学

「江戸時代の藩」

講師 前田 勤さん


今日(平成13年4/20)の神田雑学大学は、前田 勤さんの「江戸時代の藩」の講座でした。
前田さんはある損害保険会社の代理店の元部長さんですが、 目的をもった旅行を心がけ、江戸時代末期の二百七十六藩をすべて現地に赴いて調べるという実践をしました。 平成八年末に、その記録を「ふるさとの藩」(朝日出版社)として出版されました。「ふるさと」をもつ人の心に訴える何かがあるのか、 盛況でした。

● 私は学生時代から、旅行が好きでした。鉄道地図で、乗った所を赤く塗りつぶしたりして楽しんでいました。 会社に入ってからもそれを続けていたが、あるとき旅好きの上司から、何か目的をもって旅行をしたら旅はもっと楽しくなるぞ、 というアドバイスをうけ、江戸時代の藩を調べることにしました。

江戸時代の藩は二百七十六藩あります。 (但し、二百七十五藩という説もある。)なおかつ、せっかく行くのであれば、 その土地の美味しい物も味わおうと考え、実際にはそれが主となることもありました。 最初、この結果を自費出版したが、平成八年末、資料を再検討して朝日出版社から「ふるさとの藩」という名の本を刊行しました。

「ふるさとの藩」が書店の店頭に置かれたときは、嬉しいやら恐ろしいやら、非常に複雑な気持ちになりました。 お集まりの皆さんは、それぞれ、懐かしい ふるさとをお持ちだと思います。 私は東京育ちですから、直接の故郷はありませんが祖先は加賀藩の出身です。天保時代に江戸、牛込・神楽坂で町医者をやっていました。金沢がいわば、心のふるさ とです。

1.藩とは
さて、「藩とは何か」というところから、具体的な話を進めたいと思います。 藩とは、江戸時代に大名が徳川幕府から、その土地を領有し、支配することを認められた仕組みです。 例えば、十万石の大名がいたとすれば、それは徳川幕府から土地の支配を許され、年貢取り立てを依頼された存在であります。 戦国時代の領主は、領主自らが勝ち取った土地が領地ですから、領主が当然支配し、年貢を領地から取りたてていました。

江戸時代には徳川幕府が全土を支配しており、大名に領土を預けるという制度を取りました。従って悪政をひいたり、支配に失敗したりすると、お家取り潰しが容易にできたのです。

江戸時代の藩は上記のように、一時期存在したが、取り潰しにあったり、譜代大名のように、あちこちに移封されたりするものが多くありますので、数は特定できません。藩の数は、二百七十六藩としていますが、これは明治維新直前に存在した藩の数で別に二百七十五藩という説もあります。 では、次に藩の石高、大名の種類、格式、江戸城の詰所、江戸屋敷、府県別分類、明治時代の爵位などのお話しに進みたいと思います。


2.石高 まず、藩の石高
総石高2,640石。内71%が大名領です。大名と旗本の違いは何でしょうか。大名とは一万石以上の領主を指します。 一万石以下は旗本といいます。旗本でも将軍 にお目見えできるのが旗本で、それ以外は御家人であります。

江戸時代には、旗本は約五千人。御家人は約一万七千人いました。大名の家臣でも、前田家の本多家老などは五万石でしたが、陪臣であるため、大名とはいわれません。 大名の石高は一万石から百二万二千石まであります。中には一万石といっても、喜連川藩のように実質は五千石の、最小の藩もありました。

藩の石高には表高といって、表高が一万石ですが、実高五千石という場合もあるし、逆に表高十万石でも、実高十五万石の場合もあります。 表高が多いと藩財政は苦しいが、実高が多いと藩は裕福です。最大の石高の藩は加賀藩で、加賀百万石といっていましたが、実高は百二万二千石でした。

石高二十万石以上の藩は二十二あり、全体の8%。十万石から二十万石未満が三十一藩で11.2%。五万石から十万石未満が四十六藩、16.7%。 一万石から五万石未満が百二十六藩、45.6%。一万石が五十一藩で18.5%。すなわち五万石以下 の藩で、全体の約60%を占めていました。

3.大名の種類
まず、親藩とは将軍の一門から発する二十二藩です。譜代とは徳川家に代々使えていたもので、百四十三藩があります。 準譜代は八藩。外様、すなわち信長、秀吉時代には家康と同格だったもの百三藩。家康にとって煙たい存在でした。しかし、石高は外様大名の方が圧倒的に多いのです。

先の準譜代とは、出自は外様だが願い出て譜代扱いとなったものを指します。幕府の老中とか、若年寄などの政治機構に関与するのは、全て譜代大名です。中には政治に参加することを望んで、外様から譜代にと、お願いして、譜代になるのもいたので、それを願い譜代といいました。
親藩の中、徳川御三家の石高を調べると、筆頭は尾張藩六十一万九千石(支藩、高須藩三万石)。 紀州藩は五十五万五千石(支藩、西条藩三万石、および吉井藩一万石)。 水戸藩三十五万石(支藩、府中藩二万石、宍戸藩一万石、守山藩一万石)でした。ほか十九藩あります。

4.格式
格式の最も高いのは、御三家。つぎに国持(くにもち)大名でした。国持二十藩とは、加賀藩、薩摩藩、仙台藩、熊本藩、福岡藩、 広島藩、長州藩、佐賀藩、鳥取藩、津藩、福井藩、岡山藩、徳島藩、土佐藩、久留米藩、久保田藩、南部藩、米沢藩、松江藩、 対馬藩などで、いずれも大藩であります。

大名の格式、三番目は城主です。城主大名は百三十五家あり、その次の城主格が十八家あります。 これは無城といって城とは言えない陣屋の主でしたが、戦功などによって格上げになったりするものを含んでいます。秋月藩、泉藩、岩村藩、亀田藩、三田藩、三上藩など十八家あります。

5.江戸城の詰め所 さて、時代劇に時に見かける江戸城の「詰所」とはどんなところだったでしょうか。まず、「大廊下」これは最上席で御三家クラスでなければ入れません。座敷に続く通路の廊下ではありません。ついで大広間、溜間(たまりのま)、帝鑑間(ていかんのま)、雁間(かりのま)、菊間(きくのま)、柳間(やなぎのま)となっています。「大広間」これは親藩の大名。外様の上席。国持大名の中の、外様の詰所です。

「溜間」は譜代大名の中の特別の家柄の大名、例えば井伊家、酒井家などの詰所。 「帝鑑の間、雁間」は譜代大名の上席の詰所。 「菊間」は一般の譜代大名の詰所。「柳間」は一般の外様大名の詰所です。 江戸屋敷。大名は、幕府から江戸詰めのための屋敷を拝領していました。現在の東大のある場所が、加賀藩の上屋敷跡であることはあまりにも有名です。 赤門は、将軍家の息女、溶姫(やすひめ)が加賀藩に嫁入りしたことを記念して造られました。

6.府県別藩数二百七十六藩を府県別に分類してみると、兵庫が十六。千葉が十五。茨城十三。岡山、愛知、新潟が各十一。東京、沖縄、山梨がゼロ。山梨は元禄時代に甲府藩がありましたが、藩主柳沢吉保が大和郡山に移ったあとは、天領として幕府直轄となりました。

藩の数の多い県は、ゴルフ場の多い県と一致するのも、面白い偶然です。 ゴルフ場と藩の関係が深いのは、栃木県の烏山城カントリークラブです。荻野山中藩は神奈川県厚木市にありましたが、厚木国際カントリークラブの一部です。 新潟県巻町にある新潟カントリークラブは、長岡の分家、牧野家一万一千石の「三根山藩馬場跡」の石碑を、OUTの2番でナイスショットすると、すぐ横に見ることができます。

7.明治時代の爵位明治維新のあとに
藩籍奉還をした大名に与えた称号が、公侯伯子男の爵位です。「公爵」は大名では薩摩藩の島津家と長州藩の毛利家の二家のみ。明治維新の功に報いたものと思われます。 徳川宗家はあとで公爵に追加されました。加賀藩は百万石なのに「侯爵」となっっています。鳥羽伏見戦争に遅れをとった失態 が響いたと思われます。鍋島、細川、松平(福井)、伊達(宇和島)などが侯爵に列しました。

伊達家では、宇和島の分家が一時反政府行動をとった仙台伊達家伯爵の上席になりました。 大きな大名は、「伯爵」になりました。 例外的に十万石以下でも、九州の大村家など五家が伯爵になった藩があります。その他のほとんどの大名は「子爵」になりました。しかし、付け家老であった大名格のものは、禄高が高くても「男爵」とされました。 付け家老は、管理能力を評価され、乞われて御三家の補佐役となったもので、あとに不満が残りました。

8.百姓一揆について  
  百姓一揆とは、支配者の悪政に反抗する百姓群の暴発をいいますが、歴史の中では、百姓一揆を起こさなかった藩と、変わった一揆が起きた藩があったので、それをちょっと披露したいと思います。 百姓一揆は、すなわち政治の失敗であることから、お家は取り潰しになることが多いです。

諏訪高島藩は、百姓一揆を起こさなかった藩です。農民の信仰の中心にあった諏訪大社が、藩の中心になっていたこともありましたが、初代 諏訪頼水が新田 開発、湖岸開拓など、藩政確立のため民政面に力を注いだ結果であります。

庄内藩(山形県鶴岡市)の一揆は、領主を慕うあまりに起こした転封阻止 を目的としたもので、幕府は庄内藩主 酒井忠器を牧野忠雅の長岡へ、川越藩主松平斉典を庄内へ転封させるべく命じ、同時に、牧野忠雅の領地を川越領に替えることを命じました。 これを「三方領地替」といいます。

酒井家にとって庄内は二百年来の父祖の地であり、ここを移されるのは耐え難いことでありましたが、江戸に越訴(おっそ)したのは農民の代表でした。
種々の背景から、結局転封は取り止めになりました。 越訴は厳罰に処せらるべきところを、前代未聞であると役人が感心したため、お咎めはありませんでした。

9.特異な大名 
久留米藩(21万石) 七代 有馬頼僮(よりゆき) 数学大名 関流和算の大家。
古河藩(8万石)土井利位(としつら) 世界初、雪の結晶「雪華図説」出版。長島藩(2万石)増山正賢(まさかた) 山水画家 雅号 雪斎。
松江藩(18万6千石)七代 松平治郷(はるさと) 不昧公、茶人、茶道具の系統的分類。 
足守藩(2万5千石) 木下利当(としまさ) 槍の名人、秀吉の妻ねねの兄から出ています。
平藩 (7万石)内藤義泰(よしやす) 俳人(風虎) 百人一句(中公新書)に「寒声や名乗をしつヽたが子供」とあります。特異な大名を北から南にご紹介致しましょう。

松前藩は若狭から移封(福島城)。
庄内藩は酒井家で幕末以来西郷と親交あり。
会津藩は京都所司代をしていた関係もあり幕末に痛めつけられました。
二本松藩は霞ヶ城で少年隊の討死。
喜連川藩は最小石高、大久保家の子孫。
烏山藩は「蛇姫様」の舞台、大久保家子孫、和紙、うどん。
吉井藩は公家出身。
請西藩は木更津近接の藩。
村上藩は内藤家五万石、「〆張鶴」。
高遠藩は信州「江島」幽閉の地。
西大平藩は茅ヶ崎在の大岡越前守所領。
今尾藩は尾張藩付家老竹越家、なまず料理。
高須藩は尾張藩分家。
郡上藩は金森家から青山家が引継、盆踊り。
加賀藩は前田家、最高石高。
丸岡藩は桜名所。
彦根藩は井伊家、船寿司。
姫路藩は酒井家、画家酒井抱一、玉椿。
竜野藩は兵庫県、そうめんと薄口醤油。
篠山藩は青山家、猪料理。
備中松山藩は岡山県板倉家。
松江藩は茶の不昧公、小泉八雲。
長州藩は維新の故郷萩。
高松藩は水戸家、平賀源内生地。
宇和島藩は幕末四賢候の一、伊達宗城(十万石)。
日出(ひじ)藩は大分県別府湾に面し、城下鰈。
秋月藩は黒田家分家、黒門茶屋、いわたけそーめん。
柳河藩は北原白秋の生地、割子そば、鰻蒸篭。
対馬藩は朝鮮通信使との窓口。
五島藩は隠れキリシタン、バラモン凧、きびなご田楽、石積み住居で有名であります。

10.質疑応答
島津七十七万石と細川五十四万石では、どうみても島津藩の石高は少なすぎないか?
これは、検地の評価であり、その後の経済政策などは反映されていない。
国替えは理由からか?
多くは藩政の失態であるが、一概にはいえない。
城主格はどういう基準からか?
多くは功労により陣屋からの格上げ。例は七戸藩、八戸藩等。



(文責 三上卓治、鈴木一郎)
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