神田雑学大学 2001年6月9日 講義録

ヘボンさんてどんな人

講師 石川 潔


目 次

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講師紹介・はじめに

 1.ヘボンの略歴

 2.日本に来たのは

 3.33年間 日本(横浜)に滞在

 4.へボン式ローマ字を考案

 5.和英語林集成の編纂・出版

 6.聖書の翻訳

 7.施療という名の社会事業

 8.米国では無名な人・・・


・講師紹介
いわずとしれた八いろとんがらし博士にして、武蔵国石川村の古き家系を次ぐ生っ粋のハマっ子。明治学院大学卒業、(株)白洋舎に勤務の経験を持つ。
現在は著述、講演にご活躍。神田雑学大学講義は既に3回というご常連です。
2000年10月「ドクトル・ヘボン関連年表」編纂の功績により、スウェーデン国際文化アカデミーより表彰を受けられました。

・講座内容

はじめに
ドクトル・ヘボンの来日140年にあたる1999年を記念して、「ドクトル・ヘボン関連年表」を刊行しました。私は八いろに拘って888冊刷りました。
何故年表にしたか?
客観性を重んじ、伝記、小説の筆者の主観性を排除することを考慮しました。

国会図書館に納本しましたら、その月報の「本屋にない本」に詳細な紹介が載りました。

内容については、「100を超える参考文献をもとに、ヘボンの行状だけでなく日本の歴史的事件や横浜の事柄が写真や図を通して立体的に把握できる」とあります。ドクトルは、オランダ語のDOCTOR、で異人のお医者さんの意味です。

何時も通り、八に拘って、レジュメも8項目で纏めて有ります。

1.ヘボンの略歴
姓名はJames Curtis Hepburn、あのハリウッド女優のヘップバーンと同じです。しかし日本人にはPの音が聞こえないためヘボンとかヘイボンと伝えられました。自分でも「平文」と号しています。1815年3月13日ペンシルヴァニア州ミルトンのピューリタンの流れを汲む敬虔な長老派の両親から生まれました。

父親は法律家でした。
そもそもHepburn家はスコットランドからアイルランドへ移住、更に18世紀半ばペンシルヴァニア州サスケハナに移住した家族を祖としています。


長じて16歳でプリンストン大学に3年編入で入学、17歳で卒業(M.A.)、次いで21歳でペンシルヴァニア大学で医学博士号を取得しました。(M.D.)

2.日本に来たのは
1859年10月(44歳)。それ以前に彼はジャワ、シンガポールを経て、アモイで宣教医として従事するも、マラリアのため、4年ほどで帰国しています。

ニューヨークで開業医として13年活躍しますが、開国した日本への渡航を決心し、病院や自宅を処分したお金(1万ドル)を上海銀行に預金します。(1$=0.7両、1両=10万円とすると、約7.5億円)宣教医とは、平信徒のボランティア医師で必要経費のみが支払われますが給料はないという身分でした。妻の手紙には、日本での生活費は母国での石油代にしか相当しなかったと書かれています。彼の日本行については周囲の人たち全員が反対しました。たった一人の賛同者が妻のクララでした。

3.33年間 日本(横浜)に滞在
まず、神奈川の成仏寺に3年強、横浜居留地39番(現山下町)に13年、最後に山手245番に16年6ヵ月(現在の日本銀行社宅)に住みました。多くの外国人の中でも33年も滞在した人は珍しく、その間欧米文化の導入に努めました。

4.ヘボン式ローマ字を考案
「ローマ字」とは、ラテン文字即ちアルファベットの意味ですが、一般的には「日本語のラテン文字表記法」のことを言っています。

その表記法は3種類あり、標準式(ヘボン式)、日本式、訓令式です。現在公式には、1954年内閣告示によって、訓令式が定められ使われていますが、標準式(ヘボン式)は、特に駅名に使用されており、国際的関係上パスポートの記名はヘボン式と定められています。

5.和英語林集成の編纂・出版
1867年4月ヘボンさんは8年間の成果である日本最初の本格的和英・英和辞典を編纂しました。この辞書の特色は例文が付けられている点で、本来外国人に日本語を理解されるためのものでしたが、むしろ日本人に珍重され、海賊版まで出て困ったヘボンが文部省に後の著作権の必要性を訴えたと言われています。この辞書は、初版、第2版は上海で発行され、第3版からは丸善から発行されました。上海でのカタカナ活字は助手の岸田吟香に書かせました。

吟香はその後、点眼薬「精き(金偏に奇)水」の販売(ヘボンさんが調剤を指導)や「横浜新報もしほ草」等の編纂で活躍した人です。

6.聖書の翻訳
ヘボンは宣教に不可欠の日本語聖書を翻訳チームのリーダーとして準備から完成まで纏めました。その結果、新約聖書が1880年4月に、旧約聖書が1887年12月に完成しました。

教育分野では、後の明治学院大学の母体となる「ヘボン塾」(英語塾)を1863年創設しました。

7.施療という名の社会事業
ヘボンさんの診療は施療(無料診療)であり、社会福祉事業であります。ですから日本人がヘボンさんの診療を受けたいと押すな押すなの況でありました。 医療は全科目診療ですが、圧倒的に眼科の患者が多かった。従来の日本の眼科治療は塗り薬だけでしたが、ヘボンさんは点眼薬を施したので成果が挙がったようです。そのためヘボンさんを「眼科医」と呼ぶ人たちもいます。

ヘボンさんの西洋医学を身近で学ぶ見習いが8人ほど診療に通って来ていました。後にそのメンバーが政府公認の横浜診療所に派遣された早矢仕有的を代表に、丸善(丸屋善八商店)を起こし、医療器具や洋書、衣料品等の輸入販売を開始しました。ヘボンさんと懇意だった医師では、後に順天堂を起こした佐藤泰然が居ました。

8.米国では無名な人・・・
33年間日本のために尽くしたヘボンさんは老境を実感し遂に1892年10月22日帰米の途に着きました。1893年ニュージャージー州イーストオレンジに引退。(自らINKYOと称しました)
日本に渡来した外国人でも異例に長い滞在のヘボンさんと”Boys be ambit-ious.”で有名なクラーク博士(滞在期間8ヵ月)を比べてみても如何にその功績に比べて無名さが際立ちます。極東の島国日本での活躍は人は知らず自らも自慢話をしないので米国では無名で生涯を終えました。

引退後のヘボンさんを訪問したヘボン塾で英語を学んだ高橋是清は夫人が入院中であるという状況下ではありましたが、室内に家具もまばらで侘びしい生活だったと回顧しています。ヘボンさんは、96歳の天寿を全うし、1911年9月21日自邸で永眠されました。

この東西文化の交流に貢献した非凡な偉人。しかし、そのお名前はヘイボン!
ーおわりー

文責: 鈴木 一郎

写真撮影:橋本 曜
HTML制作、編集:山本 啓一
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