神田雑学大学 2001年8月3日 講義録

なぜ戦争体験を語り継ぐのか

講師 村上 二郎


目 次

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  はじめに

  1.講師紹介

  2.難病「骨化症」を克服

  3.ライフワークを悟る

  4.所沢雑学大学を開校す

  5.戦争体験を風化させてはならない

  6.玉音放送の思い出






はじめに

平成13年8月3日の講座は村上二郎さんの「なぜ戦争体験を語り継ぐのか」です。

村上さんはニフテイサーブのハンドル名「獅子王」としてご存知の方も多いかと思いますが、所沢雑学大学の主宰者としても活躍されています。

1.講師紹介

 私の実名は村上二郎。「獅子王」とは熱烈な西武ライオンズファンであるがゆえ。
ID取得以来10年間不変のハンドル名。もっともニフティ以外の他のネット(アサヒネットほか)では別の名を使っていた。

私は昭和10年2月1日、伊豆(静岡県)に生まれた。
名前のとおり次男坊。上に長男と2人の姉、4人目。
親から「除夜の鐘が鳴っている間に産まれた」と聞かされた。当時の伊豆は旧暦で、除夜の鐘は1月31日の夜に鳴る習わしであった。戦後までずっと続いていたように覚えている。
産めよ増やせよの国策時代。結局、下に弟が3人できて七人兄弟の大家族。

家は決して裕福でなく、高校も奨学資金を受けて卒業。一期校の国立大学入試に失敗。もとより一浪であっても許されるわけはなく、二期校の静岡大学教育学部に入学。既にオリエンテーリングも終えていた。昭和28年春のことである。

たまたま受験雑誌「蛍雪時代」の付録の進学案内で、入学金も授業料も要らないどころか毎月手当までもらえる国会の速記者養成所があることを知り、応募。
入試は受けていたのだが、何千倍の倍率とか聞いていたので私は無理だろうと半ば諦めていた。

そんな4月の中旬ころ。
「選抜試験に合格したので、下記の入所式に出頭せよ。出頭せざる者は事由の如何を問わず合格を取り消す。」の知らせ。
急遽帰省し、静岡大学を卒業して中学校の教職の道に進むか、国会速記者への道を選ぶか、自分一人では判断できず苦悩していた。

そんなある夜のこと。
「7人もの子どものなかで一人ぐらい変わった仕事をする子がいてもいいずらかねぇ」
母親がふと洩らしたこの一言を炬燵のなかで耳にした瞬間、私は自分の人生を変えることに決めた。

2年で速記術を習得。半年の研修を経て、昭和30年10月に奉職。
それから定年まで39年間、国会議事堂のなかで速記の仕事に従事。
1964(昭39)年に結婚。一男二女の子も現在はそれぞれ独立し、巣立つ。
なかでも高校生時代にアメリカへ交換留学させたのが縁で国際結婚した長女の、今は都下に住む混血の5歳と4歳の孫と遊ぶのが何よりの楽しみ。

2.難病「骨化症」を克服

「文武両道」のモットーを忘れず、勤務の傍らスポーツをずっと楽しんできた。
例えば、20歳代の初め(昭和33?34年)、国道地図さえない時代、自転車により埼玉→九州、埼玉→北海道を単独走破。30?40歳代には日常の執務の傍ら皇居の周りをジョギング。
青海マラソン30キロの部に15回連続出場。
ベスト記録は2時間15分19秒。市民ランナーとしてはまあまあのレベルか。

1983(昭和58)年12月には現地で調達した中古自転車で台湾を周走。
12月22日の現地紙「中国時報」に写真入りで報道された。

ところで私は、現在、「骨化症」という難病患者である。
原因不明、機序不明、治療法未確立の30余ある特定指定疾患の一つとされている。
50歳を前にしたころ、慢性的になった異常な肩凝りを訴えて近所の整形外科医を訪ねると「普通の肩凝りではない、頸椎後縦靱帯骨化症の疑いがあるので大学病院などでMRI検査をぜひ受けるように」と勧められる。

地元の防衛医科大学校付属病院で精密検査の結果「脊柱靱帯骨化症」の診断。
長年にわたり負荷をかけ続けたスポーツのゆえか筆圧のかかる仕事ゆえか、原因不明。いずれにしてもウィールスなどによる感染症でないことははっきりしている。

不思議なことに日本などのアジア・モンスーン地域の農耕民族に多く、欧米人には発症例がほとんど見られないとのこと。
発見されてまだ20年余の新疾病。医学先進国の我が国でこそ問題にされるになったに過ぎず、潜在患者の多くが「一種の老化現象」として医療を受けられず放置されているとも。

根本的な治療法はまだ確立していないとはいえ、医師としては、当面「頸椎の除圧術と腸骨からの移骨固定術を施す必要がある」との診断。
それからの数年間というもの難病、難手術と聞かされた恐怖心と不安感から、言うに言われぬ重苦しい苦悩の日々を過ごす。

しかし、結局たどり着いた結論は、現代医学を信じて手術を受け、天命を全うするしかない、と。
1993年10月14日、10時間にわたる難手術を乗り越え、あの世をかいま見る臨死体験までも得て、3カ月間で退院。

翌年、定年まで何とか勤め終えることができた自分自身への慰労と快気祝いと病後の静養を兼ね、84日間の「地球一周クルーズ」の長年の夢を実現させる。
もともと時差のない、ゆったりのんびりした大型客船の旅は、クルーズそれ自体が楽しい上、寄港する未知の地の観光を含めて予期以上に快適であり、見聞を広めることができた。

特にアフリカ大陸の各地(モンバサ、ジプチ、チュニス)で目の当たりにした想像を超える酷暑、貧困、飢餓、種族間抗争の実情を初めて知り、私は激しい衝撃を受けた。

3.ライフワークを悟る

厳しい闘病体験を通して身につけた私なりに日々を前向きに生き抜いていくしかないという人生哲学のようなものと同時に、地球一周クルーズで受けたアフリカ大陸の恵まれぬ人々の暮らしの衝撃から、定年後は何か社会の役に立つことを自身のライフワークにしたい、とりわけ難手術を克服できた私には何かしら余生をボランティア活動に捧げる使命が与えられているのではないかと考えるようになった。

そこで、私がリタイア後にまず始めたことは、自分の特技である速記技術を活かして先輩たちの「戦争体験」を聞き書きし、整文の上、パソコン・ネットに登録するというボランティア活動であった。

当時、パソコン通信の某ネットで「戦争を語る」フォーラムのシスオペを務めていた私は、所沢市内の老人憩いの家や福祉施設を訪ねて囲碁やカラオケを通して高齢者と人間関係を築き、「あなたは、どこで玉音放送を聞きましたか?」と尋ねることからそのボランティア活動を始めた。
聞き書きの場合、特に「玉音放送」をキーワードにすることが大切であり、どこで聞いたかということが戦争体験を知るポイントになるからである。

そのころ、私は朝日新聞の読者の「」欄に、21世紀を前に「戦争体験を後世に語り継ぐ市民運動を起こそう」と投書した。すると、すぐ東京・大阪両本社が掲載してくれた。
「かなりたくさんの読者から原稿が届くと思うがフォローアップは大丈夫ですか」と係から念押しもされた。「うれしい悲鳴を上げさせていただきたい」と思っていた私だが、残念ながらそれは杞憂に終わった。

4.所沢雑学大学を開校す

確かに新聞社を通して届けられた原稿の数は「戦争体験」の風化を教えていた。
しかし、数は少なかったとはいえどの体験談も涙なしには読めない内容で、私は心の底から感動した。
その感動の体験談を肉声で直に伝える場を設けようと考えたのが所沢雑学大学を私が旗揚げする原点ともなった。

と同時に、当時バソコン通信で知り合っていた三上卓治さんに勧められ、吉祥寺村立雑学大学で1997年6月に講師を務めさせていただいた私は、それまで漠然としていた構想が具体的な体を成してきたように感じた。
当日の講座後の茶飲み会の席で「私も所沢で雑学大学を始めたい」と意中を打ち明けると、三上さんは「あなたならできるから始めなさい。継続こそ力なりですよ。」と温かく激励してくださった。私はいつまでもそれを忘れられない。

それから2カ月後の1997(平成9)年8月3日に「玉砕島サイパンから帰還した無線通信士の証言」で所沢雑学大学は講座のスタートを切ることになった。
 今からちょうど4年前のこと。

爾来、毎月2回。原則として第1、第2日曜日。いつも15時からの2時間。
毎年7月と8月の計4回を「戦争体験を語り継ぐ?21世紀への証言」として開学記念特集講座で埋めている。
そして会場は無料の公営施設、しかも自宅からも至近の新所沢コミュニティセンターと決めている。

「このたび埼玉県所沢市にちょっと変わった新しい大学ができました。それは入学金も授業料も一切要らない、しかも遅刻・早退・居眠りも自由という所沢雑学大学です。」

NHKの美人アナウンサーが紹介してくれたのが開学3回目の講座「ハワイアンダンス」を収録したテレビ番組。夕方6時からの「いっとろっけん」という関関東エリア枠で放映されたのが翌9月のこと。

また、8月にはNHK・FMの生番組にも出演した。「このたび旗揚げされた所沢雑学大学の学長さんにインタビュー」と題して30分間、私のリクエスト曲「昴」「群青」(谷村新司曲)を挟んで開学の趣旨などをお話しさせていただいた。「軽井沢の別荘で聴いたよ」と友人から連絡を受けたことも楽しかった。
そのほか、地元紙の埼玉新聞や朝日、毎日新聞の「人」欄などで写真入りで掲載していただけた。

そして1998(平成10)年8月17日(月)付朝日新聞の朝刊第2社会面。
「長江に捨てた800発の毒ガス弾 50数年隠してきた」「元日本軍少尉、初の証言」「少し気が軽くなった」

今は故人となられたが、当時83歳の証言者の横顔写真を入れて前日の「戦争体験を語り継ぐ−21世紀への証言」の開学記念2年目の講座の模様が報道された。

<今年8月5日付朝日(朝刊)37面(県域版)トップは「戦争 風化させぬ」
 「5年目迎えた所沢雑学大学」「元歩兵ら体験語る」と見出しを付けて当日の
 講座「元歩兵暗号班」と翌週12日の「戦艦大和元乗組員」の「戦争体験を語
 り継ぐ」講座を予告(案内)報道していただいた。>

5.戦争体験を風化させてはならない

私たちはあのような愚かで悲惨な戦争を二度と再び、将来決して起こしてはならない。

と同時に今の我が国の平和も、無念の思いのまま亡くなった多くの貴い犠牲者のおかげであることを私たちは忘れてはならない。

そのためにも、あの戦争体験を風化させてしまってはならない。
しかしながらはや戦後56年目を迎えた今夏、過去の歴史の単なる一ページとしてしか語られなくなった現実がある。

これからは年々、益々その風化は進むのは必定。実際に体験した人の高齢化が進むとともに、体験者の数が減少していくのも自然の成り行き。

しかし「新しい歴史教科書」問題や靖国神社問題などが世間を賑わしていることにつけても、あの戦争体験を未来を担う世代に確実に伝承していく作業は一層必要性を増し、重要度を加えていくに違いない。そしてその伝承作業こそ私たち戦中世代に課せられた歴史的使命であり、義務でもあると私は考えている次第である。

  <15年戦争(1931―1945)の歴史記録>
 あの戦争を当時は「大東亜戦争」と呼んでいた。政府(軍部)も新聞もラジオも
国民も。戦後になって「アジア・太平洋戦争」とか「第2次世界大戦」とか呼ぶ者
もいたが、私はやはりいわゆる満州事変、1931(昭和6)年9月18日の日本
軍部(関東軍)による柳条湖の満鉄線路爆破事件から始まったと考える。

 これより3年前の1928(昭和3)年6月4日、関東軍河本大作らによる奉天
軍閥張作霖の爆殺が軍事行動に至らず、息子張学良が国民政府側について抵抗した
ために満州制圧を企む軍部の発言力が次第に強まってきていた。
 一方、1929(昭和4)年10月24日にニューヨーク株式の大暴落が引き金
になって世界的な経済恐慌が起こり、我が国では昭和5年、6年と続く北海道・東
北の記録的冷害による大凶作、いわゆる農業恐慌が続いたことも大陸侵略の背景に
あった。

  1931 満州事変  内閣は浜口雄幸(民政党)
 3年前(6/4 5:23)奉天軍閥張作霖爆殺が軍事行動に至らず張学良が国民政府側に
 ついて抵抗(いわゆる満州制圧謀略事件)軍の発言力が強まりつつあった。
 9/18 柳条湖で関東軍がでっち上げの満鉄爆破をおこない、これをいいがかりに
 満州の制圧にかかった。
 これが以後15年間の軍国主義の始まりであったと見てよい。

 1932 第1次上海事件(1932 5/5 停戦協定) 若槻礼次郎内閣(民政党)
  ハルピン占領
 満州国建国宣言(1932/3/1) 石原莞爾らが奉天(潘陽)で建国宣言をおこない、
 溥儀が執政に就任した。(3/9) いわゆる王道楽土は日本の傀儡であった。

 5・15事件(1932/5/15) 軍縮協定交渉で弱腰の政府の方針に軍部の一部が反発、
 犬養毅首相を暗殺した。これにより日本の政党政治は終焉したとみてよい。
 首相に挙国一致内閣の斎藤実が就任、(9/15)日満議定書が調印され満州国を正式
 に承認した。
 この年ドイツでヒットラー政権が誕生した。

  1933 国際連盟で満州国不承認(42:1 棄権1)日本は国際連盟を脱退(3/27)

  1934 満州国溥儀皇帝に即位(3/1) 首相は岡田啓介(海軍大将)
  皇道派陸軍青年将校がクーデターを計画(11/2)

 1935 天皇機関説問題(2/26)

 1936 2・26事件(2/26) 陸軍青年将校らが重臣殺害 戒厳令が布告される。
  首相に広田弘毅(準戦争体制)が就任
 外務省が国号を「大日本帝国」元首称号を「天皇」と統一した。
 このときベルリン五輪が開かれる。ヒットラーのファシズムの宣伝

  1937 日中戦争開戦(7/7) いわゆる盧溝橋事件 近衛文麿内閣
 これを契機に以後8年間、戦争の泥沼に落ち込んでいくことになる。
 第2次上海事件(8/13)
 日独伊防共協定調印(11/5)
 日本軍南京城陥落(12/13)(南京大虐殺)

  1938 近衛文麿首相声明(1/16) 「国民政府を相手とせず」

  1939 ノモンハン事件(5/11) 平沼棋一郎首相
 独軍のポーランド侵攻によって第2次世界大戦がはじまった。(9/1) 
 阿部信行首相
 
 1940 朝鮮で「創氏改名」により6ヶ月以内に日本名に変えるよう強制した。
 米内光政首相
 中華民国南京政府樹立(3/30) 日本軍が汪兆銘を支援 近衛文麿首相

 大政翼賛会(挙国一致体制の中心機関)発足(10/12)

  1941 独宣戦布告なしにバルカン半島を侵攻(ユーゴースラビア、ギリシャを
 占領)4/6 日本軍南部仏印(ベトナム)進駐(7/28)
 米国 対日石油輸出禁止(8/1)
 東条独裁内閣(首相が陸相・内相を兼務)が成立(10/18)
 真珠湾攻撃(12/8) 戦争布告 イギリス東洋艦隊壊滅 香港占領

  1942 フイリッピン マニラ占領(1/2)
 シンガポール占領(昭南島)(2/15) 山下奉文:英パーシバル中将

 ビルマ(ミャンマー) インドネシヤ占領(3/8)
  ミッドウエー海戦惨敗(6/5)

 1943 日本軍ガダルカナル島撤退(2/7)

 山本五十六連合艦隊司令長官戦死(4/18)

 学徒徴兵猶予廃止 出陣学徒壮行会(10/21)

 東京で大東亜会議開催 日/中/満/比/ビルマ/タイ(11/5)
 カイロ宣言(ルーズベルト/チャーチル/蒋介石 首脳会談)(11/27)<
 
 1944 サイパン島陥落(7/7) 東条英機内閣総辞職(7/22)  小磯国昭首相
  学童疎開はじまる

 1945 ヤルタ会談(ルーズベルト/チャーチル/スターリン)秘密協定(2/4)
 東京大空襲 10/9夜半から10早朝にかけて東京の殆どを焼き尽くす
 米軍 沖縄本島に上陸(4/1) 6/23日本軍玉砕
 戦艦大和轟沈(4/7) 鈴木内閣発足 ルーズベルト大統領急死 (トルーマン
 昇格)
 ヒットラー自殺(4/30) ポツダム会談(トルーマン/チャーチル/アトリー/
 スターリン)(7/17)
 原爆投下 広島(8/7) 長崎(8/9) ソ連軍参戦(8/9) 御前会議 ポツダム宣
 言(7/26)を受諾
 米戦艦ミズーリ号上で降伏文書調印式(9/2)


6.玉音放送の思い出

村上二郎さんの「私の8月15日」より 「玉音放送の思い出」

1945(昭和20)年8月15日。
その日,伊豆地方は朝から真夏の太陽が照りつけていた。
国民学校5年生の私は、物心がついてからというもの、朝に夕に家の近くの神社
に頭を垂れて掌を合わせ「神州不滅」「皇国必勝」を祈願する軍国少年に育って
いた。

 その神社の境内には防空壕が掘られ、森の裏手には共同利用の水車小屋があっ
た。
 私は、村長をしていた祖父に言いつけられていた稲田への引水作業を早朝に済ま
せ、正午が来るのを落ちつかぬ気持ちで待っていた。
 神社の境内には、朝早くから村民全員が隣組単位に集まっていた。
 ゴウジゴト(合仕事)で水車小屋の修理をするというのは名目で、実は正午から
の重大放送を村民全員が一緒に聞くのが目的であったことは後でわかった。

 暑いのに、ゴウジゴトのならわしに従って皆、綿入りの防空頭巾を頭に巻き、草
履を履いていた。私たち子供はだれもが裸足であった。
 鳥居の下に置かれた真空管式のラジオから流れる玉音は、ガーガー鳴る雑音とけ
たたましい蝉時雨ではっきりとは聞き取れなかった。しかし不思議に「耐へ難キヲ
耐へ忍ビ難キヲ忍ビ・・・」というくだりだけは耳朶に残った。
 起立して聞いていた大人たちは、放送が終わると一斉に嗚咽を上げながらその場
に崩れ伏してしまった。

 何が何だかわからないままにその光景を見ていた私は、すぐに我が国は戦争に負
けたのだなと悟った。
 その瞬間、「何だ、カミカゼはとうとう吹かなかったのか!」と裏切られた気持
ちでいっぱいになり、虚脱感が全身を襲った。と同時に、子ども心にホッとした安
堵感と言い知れぬ解放感が湧いてきたのを覚えている。

「空襲警報発令! 東部軍管区情報。敵機数編隊ハ、目下、伊豆半島並ビニ相模
湾上空を富士山目指シテ北上中ナリ。ヤガテ進路を東方ニ変へ、京浜地帯ニ向カ
ウ模様ナリ。コノ方面ハ重大ナル警戒ヲ要ス。・・・」

 ラジオ放送と同時に村のサイレンが短く3回鳴り響く。
 すると、間もなく京浜地帯の空襲に向かう米軍の艦載機とB29の編隊で伊豆半島
の上空は一面真っ黒に埋め尽くされた。そして恐怖の爆音が大地を揺さぶった。

 特に忘れられないのは3月初旬の、連日の東京大空襲のある夜のことである。

 灯火管制の中、そっと雨戸を開けて空を見上げた母が「怖いねえ、今夜もまた
おおぜいのの人が殺されるよお・・・」と泣きながらつぶやいていた。
 村の寺院には大日本帝国陸軍の兵隊が陣取り、小室山頂には伊豆大島の沖合に
現れる敵戦艦を見張る監視所が造られ、そして村の外れには高射砲要塞が築かれ
ていた。
 しかし、とうとう一度も発射されることはなかった。

 半世紀以上たつ現在でも、あの愚かしい戦争の思い出は8月15日がめぐりく
るたび、玉音放送の記憶とともに私の脳裏によみがえる。
 このとき国民の誰もが現人神(アラヒトガミ)昭和天皇の声を初めて耳にした
こと、「終戦ノ詔勅」は奇しくも815字から成っていたこと、日付は8月14
日であったことなどを私が知ったのはずっと後年になってのことである。(手
記・JIRO「私の8・15」より)


おわり


文責: 得猪外明
会場写真撮影:橋本 燿
HTML制作・編集:大野令治