神田雑学大学 9月21日 講義


講師:来宮 洋一


目次

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講師紹介
川端 康成
エピソードその1
エピソードその2
越路吹雪
コーちゃんのポスター
菊田一夫
数寄屋橋公園の石碑
英雄色を好む
緘口令
草笛光子(くりちゃんとの想い出(その一)
くりちゃんとの想い出(その二)
高木東六
水谷八重子
おわりに





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講師紹介

1927年東京生まれ。湘南高校、青山学院大学卒業。東宝株式会社宣伝部勤務を経て、1962年独立。 テレビ・ラジオのCM、社歌、讃歌などの作詞・作曲、制作。作品数約500曲。その他テレビ、 ラジオ、舞台の脚本・演出、各種ショーの構成・演出・プロデュース多数。

ピアノ、作詞の教室にて新人の育成に力を注ぐ。 前回は宝塚の綺麗どころと云うことで、八千草薫、浜木綿子、国土交通大臣になった扇千景とか、 時の人の話題を紹介しました。今回は毛色を替えて小説家の大先生から始めましょう。

川端 康成

川端康成 週刊読売 昭和49年4月29日号 私が川端康成先生にお会いしたのは、昭和20年の後半から30年にかけて、当時、私は30才前でした。 そんな若僧が、大先生と二人きりで一時間近くお話が出来たのは、たまたま私が鎌倉に住んでいたこと、

先生も自宅が鎌倉であったこと。もう一つは、私の祖父が先生と親しかったことで時間をとって下さったと思います。 いつもお会いするときは、鎌倉の、明るいガラス張りの食堂のある海浜ホテルで、 コーヒーを飲みながら短い時で30分、長い時で一時間以上もお話を伺った。

先生はお天気やさんで、 その日によってご機嫌のいいときと悪い時が激しく変わる方でした。風貌は小柄できゃしゃで、 折れそうなくらい細い方ですが、目はぎょろ目で、当時の喜劇王のエノケンさんと非常に似ている感じがしました。 しかしお話をすると、静かで穏やかな話の仕方でした。

エピソードその1

いろいろ覚えている話の中でも、「小説というのはね」という話で、つまり小説を書くというのは、 まず題名を決める。題名は大切であり、そして最初の書き出しの一行が大事である。 この題名と一行目の文章が決まれば、小説の半分以上が完成したのと同じであると云うのです。 たとえば、先生の代表作である『雪国』。

「長いとんねるを抜けると、雪国であった」。 これで半分以上が書けたも同然ということになる。私も当時、もしかしたら作家になろうという 夢があったので、鎌倉を題材に「夏」というタイトルを考え、「賑やかな商店街を抜けると、 そこは材木座の海だった」と書いたが、二行目からあとが続かなかった。知能指数の違いでしょう。

エピソードその2

銀座6丁目の文芸春秋ビル、そこのホールで文春関係の講演会があり、川端先生も何回となく講演をされた。 その日も時間が来て川端先生は演壇で、例のぎょろ目でお客様を見回し、暫くして 「今日は何も申しあげることがございいません」と云い、そのまま演壇を下りてしまった。 文春の主催者は大慌てでした。私も、途中から先生と一緒に会場を抜けてしまったので、 あの場をどう始末したか知らないが、見事なお天気やさんぶりでした。

父が材木座の海岸を孫を連れて散歩していたある時、私も一緒だったが、材木座の岬の先に、 思わぬ4階建てのマンションが建ったのに気付いた。油絵が趣味の父は、材木座の海岸を好んで描いていたから、 このマンションのために、景色がだいなしになったと不服を洩らしていた。ところが川端先生は、 このマンションの2階に部屋をお買いになっていた。

作家というのは、ある時は家族と離れて一人だけの 仕事部屋が欲しかったのであろうと、私は何気なく思っていました。 まさか、あの部屋でガス自殺をなさるとは。材木座に住んでいた私は、すぐに駆けつけた。 大勢の人が集まっていたが、机の下に書かけの原稿があった。これは和紙を綴じたもので、 2cm幅の縦罫のついたものだった。

来宮洋一講師 表紙に筆で「雪国抄」とある。一頁目にはやはり「長いとんねる・・・…」と書いてあった。 筆で書いてある原稿の頁をめくると、楷書できちんと書いてある頁もあれば、 墨汁べったりの乱暴な字

の乱れた頁もある。これは想像だが、絶対飲まない筈のお酒を亡くなる前には、 大分お飲みになっていたらしく、それに睡眠薬と併用したために錯乱状態の日もあったようだ。

以前、先生の原稿を何度も見ている私には、まったく信じられないことだった。 几帳面で、きっちり小さい字で書かれるのに、「雪国抄」に至っては、 まったく普通の精神状態ではなかったような気がした。川端康成先生の自殺の原因は、何だったのだろうか。

文芸評論家などが、色々な角度から自殺の原因を探った。その中に、 たとえばお手伝いさんとの仲ではないかというのがある。先生は出版社の招待で銀座のバーへよく行かれた。 ところが先生は酒を飲まない。ホステスさんも少女っぽい娘を呼んで、 トマトジュースなどを飲んで話をなさる

。そんなことからの連想だろうが、 これは根も葉もない、馬鹿ばかしい推測に過ぎない。 私は、何といってもノーベル文学賞を受賞したことが原因だと思う。 自殺は受賞から4年目の出来事であるが、やはりノーベル賞の重みに、先生の繊細な神経が、 耐えられなかったのではあるまいか。私の知る限り、それ以外の原因は考えられない。

越路吹雪

越路吹雪 「戦後日本映画黄金時代」日本ブックライブラリ社 刊 演歌の女王と言えば美空ひばり、シャンソンの女王と言えば越路吹雪と言って 大半の人は異論がないでしょう。亡くなった今も「愛の讃歌」や「枯れ葉」など、 コーちゃんの歌は残っているが、コーちゃんがシャンソンの女王と言われる幾つかの理由であるが、 本人の実力が第一である。もう一つ忘れてならない大きな理由は、大変力強い恵まれた助っ人がいたことである。

と、言うのは、みなさんもご存知の、作詞家の岩谷時子さん。この人のアドバイスがなかったら、 それほど大物にはならなかったと思う。 岩谷時子さんは、元々はコーちゃんが宝塚の男役でいたときに、 「歌劇」という月刊誌の編集長をしていた。

コーちゃんが、宝塚をやめて歌手になりたいと、 岩谷時子さんに相談をした。岩谷さんは、「それは賛成。もしコーちゃんがシャンソンをやるなら、 自分も宝塚歌劇の編集長を辞めて一緒に東京へ出る」と言い、東京へ出てからはコーちゃんのマネージャー、 付き人、いわば金銭感覚が全くダメなコーちゃんの財布持ちをしたのである。

岩谷さんがコーちゃんに言ったこと、それはシャンソンを続けるのはいい、しかし、 原語で歌わないで欲しい。この事を岩谷さんは確固たる信念でコーちゃんを説得したのである。 全部どの歌も訳詞があるわけではないので、それは岩谷さんが自分で作詞した。又、 訳詞が合わないものは新たに考えた。現実に「愛の讃歌」は日本流に作った詩で、訳詩ではない。

才能を持っている岩谷さんがコーちゃんに助言し、コーちゃんも言うことを聞いて、 それからずっーとコーちゃんが亡くなるまで歌った歌は、八分から九分通りは日本語であった。 余談であるが、

或る豪華な結婚式場の披露宴で、お客様の一人が言語でシャンソンを余興で歌った。 ところがフランス語を少し知っている人が後で、「あれは別れの歌だ」と言ったのである。 言語の意味も知らず歌ったのである。 コーちゃんが歌った日本語のシャンソンは、聴衆が感動し、越路吹雪を大きくしたのである。

コーちゃんのポスター

映画「七人の侍」の当時、宣伝部でポスターを作っていた私に、 岩谷のお時さんからコーちゃんのリサイタルのポスターと、チケットを作るのでデザインを お願いできないか?と、依頼があった。ポスター作りは、顔写真だけ使うときは、 ポスターに載せる寸法が30pだと、その寸法を指定して写真屋に白黒の引き延ばしを頼む。

あがってきたものを丁寧に鋏みで切り抜き、大きなケント紙に糊で貼る、 それがポスターの原稿作りである。女優さんの髪の毛がバラバラになっているところも落としてはいけないし、 まして付けまつげなどうっかりすると切り落としてしまうので、それはそれは、 慎重に丁寧にしなければいけない繊細な仕事なのである。それをやったときに「やっぱりコーちゃんって、 顔が長いなぁ」と思ったのである。

コーちゃんのイメージから、あまりいろいろな色を使ってポスターを作るのは合わないと思った。 当時、総天然色のカラー映画がどんどん出始めた頃であったが、わざとモノクロでポスターを作成し、 それに合わせて、チケットもモノクロで作ったのである。 それが、とてもコーちゃんに喜ばれ「私の大好きなポスター」と言ってもらえた。 そういうことがなかったら、私とコーちゃんは、宣伝部員とミュージカルのスターというだけの関係だったと思う。

菊田一夫

菊田一夫 帝劇 宝塚公演「風と共に去りぬ」プログラム 菊田先生は、私の恩師であり、来宮 洋一の名付親でもある。私が菊田一夫先生を知ったのは、 終戦二年目のころである。京橋の公会堂が焼け残っていて、そこで公演が出来るというので、 私が在学していた青山学院と慶応日吉予科の演劇部が合同で公演をやることになった。

青山学院からは裏方、演出、装置とか照明などのスタッフが出て、慶応日吉予科からは、 役者が何人か出た。慶応から出てきた中にはフランキー堺がいた。私は演出助手を務めた。

その時の出し物は菊田一夫作「花咲く港」と言う喜劇であった。この作品は後に松竹で映画化された。 上原謙と小沢栄太郎が兄弟の、ペテン師の話である。 東京から九州の鹿児島まで悪巧みをし、鹿児島では造船場を作るというでたらめな話を持ちかけて、 町の有力者からお金を集め、沢山集まるととんずらするという話である。

これは菊田先生の出世作になった。時々あちこちの劇団で公演されている。 フランキー堺は、鹿児島の港の網元の役をやったが、その演技はピカ一であった。 他の役者がみんな霞んでしまったというくらい、一人芝居をやっているみたいに素晴らしく、 堺くんは凄いなぁ〜 と思ったのである。

まさか、将来フランキー堺としてドラムをたたいたり、 役者をやって大活躍するとは、その時の私は思いもよらなかった。 昭和29年、今まで米軍に接収されていたアーニーパイル劇場が接収解除になって、 昔懐かしい東京宝塚劇場に戻った。

それまで眠っていた東宝の演劇がパッ!と花が咲いたように盛んになり、 まず、宝塚劇場、その向かいに東宝本社が建ち、4階の芸術座が、その後、新宿コマ劇場が出来た。 その少し前には、大阪に梅田コマ劇場が出来た。

こそで、菊田先生を演劇担当重役に迎えた。 あの頃の菊田先生の作、演出と云うのは、絶対お客が呼べる芝居と云うことで定評があり、 他の作家がみんな霞んでしまったように見えた。幾つもの劇場に毎月替わって出し物があるが、 そこに東宝歌舞伎あり、東宝ミュージカルあり、東宝現代劇あり、そして宝塚歌劇あり。 宝塚歌劇には座付き作者がいたので、毎回菊田先生が書くわけではなかった。

東宝ミュージカルと東宝現代劇の殆どが先生の作、演出で、コマ劇場の方も書いていたので、 それはもう殺人的スケジュールであった。菊田先生の筆が遅い遅いと評判であったが、 これだけダブって書いていれば、普通の人であればとても受けられない量だ。 宝塚劇場の舞台事務所には、先生専用のデスクがあった。

先生はそこで、翌月の芸術座でやる現代劇を書いている。 騒々しい中、神経を集中してよく書けるものだと感心したのである。 私が菊田先生を側で見ていて、この先生でなければと思ったことが幾つもある。 菊田先生は、すれ違いドラマが得意である。「君の名は」はご承知の通りすれ違いで、 映画、芝居でもすれ違いでハラハラさせる処が売り物であった。

先生が書いたドラマで、ここはお客様が泣くであろう、笑うであろうと、計算をして書いた処で、 お客さまが、必ずしもきちっと泣いてくれたり、笑ってくれるとは限らない。 そういった誤算も出てくる。それを先生はとても気にして、初日が始まると3日間や4日間は、 劇場二階席の一番後ろのドアを入った所にずーっと立っておられた。 これは芝居を見ているのではなく、

お客様を見ているのである。自分が計算した通りの処で笑ってくれたか、 泣いてくれたか見ていて、計算違いが分かるとすぐ修正して、翌日役者に修正した台本を渡すのである。 一方ではお客が絶対納得するように筋運びをするのである。 映画で右側の路地から意地悪な婆さんが出てくるなぁと思うと、ちゃんと出てくるわけである。

泣くところでは、芝居でも映画でも、1分か2分は大事な台詞を言わないし、あまり大きな動きもない。 これは何故か?先生に聞いたところ、ハンカチを出して泣いてる間にストーリーが先に行ってしまったら悪い。 そこまで計算しているのである。先生は「百人のお客が来たら99人に椅子の堅さを忘れて貰う。 これが演出家の仕事なんだ」と云う。

そこで私が、百人のお客さまがみんなキップを買っているのに、 何故99人なのか聞いたことがある。先生は「百人に一人くらいはへそ曲がりがいて笑いたいのに、 ぐっと唇を噛みしめ額に皺をよせ我慢している人がいる、それまでは面倒見られないよ」 「あとはみんな素直だから、そしてお金を払って電車に乗ってきて劇場に座っていてくれるのだから、 こんな有り難いことはない。サービスをするのは当たり前じゃぁないか」。

そこまで神経を使ってやるからこそ、必ず客が入る芝居が書けるのだと思った。 台本を書いている万年筆は、直径が2pから3pくらいある太いものを使っていた。 私が何故そんな太い万年筆を?と尋ねると、重みで力を入れなくても字が書けるというのである。

それにインクが沢山入るという。なるほど。私も先生と同じような万年筆を使えば、 いいものが書けるのではないかと思い、あち らこちら探して買って来たのである。でも、ダメですねぇ 万年筆が同じでも書けません。

数寄屋橋公園の石碑

宣伝部にいた頃、数寄屋橋の橋が無くなり、川が無くなり数寄屋橋センターが出来た時に、 センターの理事からの電話を受けた。偶然受けた電話の内容は、数寄屋橋公園に石碑を建てたいので、 菊田先生に何か書いてもらえないか?というものであった。

平(ひら)の宣伝部員であった私、本来なら係長とか課長、部長にお伺いをたて菊田先生の所へ行くべきだが、 普段から馴れ馴れしくおつき合いさせて貰っていたので、直接重役室へ駆け込み、 「これこれしかじか…」と先生に云うと、「ああ いいよ」と簡単に 色紙に

      数寄屋橋ここにありき 菊田 一夫

と、書いて下さった。後になってお伺いをたてなかった事について、上司から大目玉を食ったのは云うまでもない。 今でも数寄屋橋に石碑がある。

『第二部』
英雄色を好む

第一部では、菊田先生のいいことばかりお話しましたが、人間誰もいいところもあれば、 悪いところもある。"英雄色を好む"という言葉がありますが、菊田先生もまさにその中の一人で、 次から次ぎへ彼女が出来て、それも立派な女優さんたちばかりであった。

重役で入ってきて、 大変な高給を取っている他に、毎月どこかの劇場で作演出をしているのだから、どんどんお金が入ってくる。 それを彼女探しには湯水のように使う方で、どちらかというと、悪い言葉であるが 「お金でものにする」と言ったことが多かった。

先生が、それだけの本を書いていて、演出をやると言うことは、配役には大権限を持っているわけで、 女優はいい役を欲しいし、逆らえば干されてしまう怖さがあった。今では、マスコミがセクハラだ、 なんだと五月蠅いが、当時は問題にもならなかった。

緘口令

社内で有名な話でもマスコミに知れないよう緘口令がしかれた。 ところが東京新聞の故伊藤寿二さんという演劇記者、通称早耳の寿二さんは、 何処からともなく話を聞きだしてきてコラムなどに書いていた。 もう一人、週刊文春の岩波剛さんは大変頭の切れる人で、内緒ナイショの話を聞きだしてきて、文春に書いていた。

当時、百万円もする外車を菊田先生からプレゼントされた女優さんがいる。 それだけの物を貰ったら、当然その後は先生の言いなりと思いきや、見事に申し出をはねつけたと言う 勇気ある女優さんの話である。その名は草笛光子。当時21才か22才。現在も現役である。 当時宣伝部員である私の東宝の給料は9千何百円であった。百万円は、私の8年4ヶ月分の給料である。

草笛光子

くりちゃんとの想い出(その一)

草笛光子「戦後日本映画黄金時代」日本ブックライブラリ社 刊 草笛光子(くりちゃん)とは、二つほど思い出がある。私は東宝に在籍しているうちから ナイショでラジオドラマの脚本を書いていた。当時は、放送界と映画界は犬猿の中でしたから、 映画会社の正社員が内緒で放送の台本を書くのはとんでもない話であった。

無名の作家が書いたドラマに、ピカ一の女優さんが出演するという事は滅多にないことであるが、 くりちゃんの方から「お世話になっているし、お祝いだから主役やらせてください」と、申し出があった。 このドラマは2クール(6ヶ月)続いた。

くりちゃんとの想い出(その二)

東宝を辞めたあと、ファッションショーの構成演出を数多く引き受けていた。 それまでのファッションショーと言うのは、モデルが衣装を着て順番に出てきて、ナレーターがいて、 洋服説明をする。モデルはぐるっと廻って戻ってくるのが殆どであった。

それではお客様は飽きるのではないか、もともと宝塚の宣伝でミュージカルを、 しょっ中見ていて素晴らしさを知っていたから、ファッションショーもミュージカ ル形式でやるべきだと主張して、会場にエレクトーンやピアノを持ち込んで弾きながらモデルを動かすような試みをしていた。 その時に、大きな仕事が廻ってきた。日本橋三越本店のライオンの所から入ると、

正面にホールがあり、パイプオルガンがありファッションショーをやるにはもってこいのステージである。 そこで日本絹業協会の主催で、絹のファッションショーをやった。 この栄えある構成演出の仕事が電通からからきた。このファッションショーには、 昭和時代の皇后陛下、高松宮様のお二人がお見えになった。

その時の宣伝部長が後に社長になって 刑事事件を起こした岡田茂さんである。 ミュージカル形式を渋って、なかなか、うんとは言わない絹業協会と三越 。 そこで草笛光子の所へ行って、こういう企画があるのだが主役でやってほしいと 頼んだところ承知してくれた。それならということで絹業協会もOKをしてくれて、実現したのである。 くりちゃんが「フルフル」を歌い、ショーは大成功だった。

高木東六

高木東六 <lesson T.Takagi>
  http://www.aa.alles.or.jp/~hanaba/5thAniv.html 作曲家高木東六先生は、現在94才である。2〜3年前に九州は長崎にある市の市歌の作曲をしたことが 新聞に出ていて、お元気であることを知った。代表作は「水色のワルツ」。軍歌では、「空の神兵」がある。

高木先生は、大衆的なクラブ、キャバレーがお好きで、今はないが、神田駅の西口に 「クラブ星座」という店が先生お気に入りの店であった。私も何回もお供をしたが、それは先生のボディガードとしてであった。

演歌が大嫌いな先生は、NHKや文化センターなど主婦を集めたセミナーなどで、 「私は演歌は大嫌いです。演歌は音楽ではありません」というので、カラオケ好きの奥さんなどは、キョトンとして聞いていた。 「では何か?」と聞くと、「演歌というのは日本独特の芸能で、言ってみれば浪花節の延長線にある。 音楽というのは、五線の上にオタマジャクシがあって、しかもそれは、一定の法則に従っている」と言うのである。 ご長寿を祈りたい。

水谷八重子

昔は良重ちゃん、若い時はやんちゃで東宝ミュージカルの常連であった、 彼女はもともとジャズ歌手になるつもりで、一生懸命歌っていた。一度結婚歴があり、 相手はドラムの白木秀夫である。別れた後白木は急死した。

おわりに

何回神田でお話しても、話は尽きないくらいいろいろな方がいます。 その方たちから大変いろんな人生を学びとったことを伝えたくて、今日もやって参りました。

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使用いたしました写真は下記の通りです。

川端康成 週刊読売 昭和49年4月29日号
菊田一夫 帝劇 宝塚公演「風と共に去りぬ」プログラム
高木東六
http://www.aa.alles.or.jp/~hanaba/5thAniv.html
越路吹雪。草笛光子。 「戦後日本映画黄金時代」
日本ブックライブラリ社 刊

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ーおわりー                        


文責:和田 節子
会場写真撮影:橋本 曜
HTML製作:和田 節子