神田雑学大学 1月11日 講義




講師:吉田 悦子



目次

(クリックすると該当の項に飛びます
ブラウザの戻るで目次に戻ります。)

講師紹介
『いただきます』を考える
『アフリカに緑を!』高橋一馬さん(緑のサヘル代表理事)
砂漠化とたたかう『列島縦断リサイクルキャンペーン』一生を決めた『インドに餓死者』の新聞記事
自らに試練を課したアフリカへの長い道
『食べることに命がけになろう』
渡辺桐子さん(ピクルス・ジャパン)
高原野菜で有名な長野県川上村で生まれたレタスジュース
極寒の地・樺太での壮絶体験
『食のいきいき人間』から学んだこと
スライド写真はこちらを


講師プロフィール 講師の吉田悦子さん

2002年初の新春講座の講師は、ノンフィクション作家の吉田悦子さんです。 吉田悦子さんは、神田雑学大学創立まもなくの講演『わたしが犬と暮らす理由』で好評を博して以来の登場です。

吉田悦子さんは、月刊誌の編集記者を経て独立し、月刊『愛犬チャンプ』創刊号から10年にわたり、 犬と人間の関係について連載しています。主な著書に『日本犬・血統を守るたたかい』

『犬ときらめく女たち』(新人物往来社)があります。 人と生き物の共生の視点から、自然環境、医療、社会福祉、食、女性、教育など 「いのち」をめぐるさまざまなテーマに意欲的に取り組み、新聞・雑誌に取材記事やエッセイを発表。 月刊『法学セミナー』の巻頭コラムは、いまを切り取る鋭い視点で連載4年目に突入。

吉田悦花という俳句作家でもあり、俳句誌『炎環』炎環「『豆の木』『海程』同人として注目されています。 「熱意のこもった取材と、対象への果敢な挑戦、加えて卓絶した文章力が吉田悦子さんの大きな武器だ」 (作家・山田智彦氏評)という吉田悦子さんに、これまでの取材のなかで、今回はとくに『食』について 強いこだわりを持つ方たちにスポットを当てて講演いただきました。

『いただきます』を考える

先日、ある経営者の話していて、『いまは不況でどこも大変ですが、食べるということは、 1日3食、一生続くわけですから』という言葉が印象に残っている。これは、あたりまえのことのようだが、 食べるということは、日々一生続くわけで、わたくしたちの生活に切っても切れない大切なことである。

日ごろ、食事の前に「いただきます」という言葉を使う。しかし、最近の子どもたちは、 ひとりでテレビを見ながら食べる『個(孤)食』のため、『いただきます』と声に出して言う機会が少ない。 なにげなく使っている「いただきます」という言葉であるが、これは、万物の恵みを「いただきます」ということなのだろう。

よく時代劇で『お命、頂戴します』というセリフがある。食事の前に『いただきます』と言うのは、 まさに「お命を頂戴します」ということだ。そこには、植物や動物など、 さまざまな生き物の命をいただいて生きている自覚と感謝の気持ち、人間も自然生態系の構成要素のひとつに過ぎない、 という謙虚な想いが込められている気がする。

今回の「私が出会った食のいきいき人間」では、これまでの取材のなかで、とくに『食』の 分野に光を当て、食に強いこだわりを持って個性的に生きている、わたくしがひそかに「食のいきいき人間」と名づけている、 高橋一馬さんと渡辺桐子さんという2人の生き方を通して、『創る喜び・食べる喜び』について考えたいと思う。

『アフリカに緑を!』高橋一馬さん(緑のサヘル代表理事)

『緑のサヘル』は、日本の非政府組織(NGO)である。砂漠化の最も深刻なアフリカのサハラ砂漠の南縁、 サヘル地域と呼ばれるところで、砂漠化防止と慢性的な食糧不足に悩む地域住民の生活向上を願い、 1991年、東京で発足した。現在、チャド共和国で、植林活動、改良カマドの普及、野菜・稲作栽培などの指導を展開している。

砂漠化とたたかう『列島縦断リサイクルキャンペーン』

自転車を漕ぐ高橋さん2001年、創立10周年記念事業として、『列島縦断サイクルキャンペーン』を行なった。 朝日や読売などの全国紙をはじめ、各地の新聞やテレビで紹介された。地球の反対側には、 その日の

食べ物にも苦しむ人が存在するということ。ややもすると、豊かな日本とは無縁の ことのように思われるアフリカのサヘル地域の現状と、砂漠化を改善しようと立ち向かっている人間の存在を 1人でも多くの人に知ってもらう、理解と協力を求めるキャンペーンだ。

6月27日、53歳の高橋一馬さんと23歳の山口真人さんが、日本の北端・北海道宗谷岬を出発。 自転車を漕ぐ2人には、「砂漠に緑を取り戻せ」という看板を立てた自動車が伴走した。 炎天下を走り続けて日本を縦断。行く先々で37回に及ぶ講演会を開きながら、2ヵ月後、 ついに最終ゴールの鹿児島に到着。全走行距離約3500キロ。寄付金などの収益は、850万円に及んだ。

「自らペダルを漕いで、汗を流し、熱さや疲れを実感することがアフリカに対する誠意だと思う」と 高橋さんは語る。アクシデントもあった。高橋さんが盛岡を走行中、急にハンドルを切った車に衝突。 鎖骨を骨折する全治3ヶ月の重傷を負ったのだ。それでも、包帯を巻いて伴走車に乗り込み、最後までキャンペーンを続けた。

やせ細った子供 一生を決めた『インドに餓死者』の新聞記事

その年の雨量が、年1回の作物の収穫量と住民が飢えるか否かを大きく左右しているのが、アフリカの実情だ。 旱魃で穀物の収穫が激減して、1つの村で餓死者が100人に及ぶなど、

非常に厳しい年もあった。 実は現在も、不作により食糧事情が極度に悪化し、抵抗力のない子どもや高齢者の健康状態に大きな影響を及ぼしている。 がりがりに痩せて、目の輝きを失い、

遊びまわる体力さえない子どもたち。この危機的状況を救うため、 『緑のサヘル』では、懸命に救援活動を行い、おかゆの炊き出しを開始した。

現在、高橋さんは、年に4ヶ月はアフリカに滞在。マラリアという伝染性の熱病にかかること15回を数える。 チャドで肝炎のため意識不明となり、気がついたらパリの病院に担ぎ込まれていたことも。 そうまでして、なぜ、アフリカでも、最も苛酷な乾燥地帯で、木を植え、野菜や穀物を育て、井戸を掘るといった、 自らの命をもすり減らすような厳しい活動に身を投じているのだろうか?

その原点は少年時代にさかのぼる。高橋さんは、高度成長期の真っ盛り、新潟県中魚沼郡の農家の三男に生まれた。 高校生だった高橋さんは、ある日、小さな新聞記事に目を奪われた。インドでたくさんの餓死者が出たということが記されていた。

高橋さんは、その記事に大きな衝撃を受けた。高橋さんが暮らす新潟は、半年間は雪に埋もれている。 一方、暖かい南の国のインドは、日本よりずっと国土が広い。そのような恵まれた自然のインドで餓死者が出るということが、 どうしても理解できなかった。

自らに試練を課したアフリカへの長い道

このことが、人々に食糧を供給する農業に目を向けるきっかけとなった。ちょうどそのころ、 30年後には世界の人口は、70億人を超え、食糧不足に襲われるという国連の予測が発表された。 高橋さんの頭の中に、インドの餓死者と食糧不足がオーバーラップした。『農業こそ、自分が生きる道だ!』と思った。

農業の勉強をやり直すため、頭を丸めて高校に入りなおした。さらに、海外で農業開発に携わる人材を育成する 東京農業大学拓殖科に進んだ。2年ほど休学してバングラデシュなどで実習。働きながら大学に通い、28歳で卒業。 その後、語学研修を兼ねてフランスの農家に住み込む。目標をアフリカの乾燥地帯に定め、 アフリカに行くための資金を貯めるため、アルジェリアの日系企業で働いた。

ところが、無理がたたって高熱に倒れ、意識不明の重体となる。一命はとめたものの、 日本に戻ってから1年間はほとんど寝たきりに。もとの身体に戻るのに4年かかった。 それでも現場に復帰したい一心で、ソマリアの難民キャンプの救援活動に身を投じた。

『食べることに命がけになろう』

活動予定地として考えていた中央アフリカを視察して帰国した高橋さんは、ついに『緑のサヘル』の前身を立ち上げる。 当初は、日本大使館でさえ、治安上の理由から『活動は自粛すべし』というくらい、 厳しい状況にも関わらず、高橋さんは活動を開始した。

人から見れば、ずいぶんと回り道をしていると思われるかもしれない。しかし、高橋さんはとっては、 これくらいの試練を乗り越えられなかったら、アフリカなんて行けるわけがないと自らに超えるべき ハードルを課していたと言えるかもしれない。

高橋さんと現地の人々 『緑のサヘル』は、アフリカの大地に種を蒔き、緑を育てて、食糧の自給を目指している。 それは、緑を育てる人間を育てることでもある。つまり、彼らの活動は、地域社会をリードする若きリーダーを育て、 さらに世界に向けて情報発信する人づくりを行うことにもつながっている。

『緑のサヘル』の活動には、大学生や一流企業の社員だった若い男女などが、自分を必要とする場を求めて、 スタッフとして参加している。アフリカでの生活は、心身ともに厳しい。しかし、現地で得るものは、 だれもが体験することができないすばらしいものだ。

荒廃した土地に緑がよみがえったとき、人々の顔に笑顔がよみがえる。「『豊かな緑を目にしたとき、 おいしいものを食べたときの子どもたちの輝くような笑顔は忘れられない』と高橋さんは語る。 こうした感動が、高橋さんたちの原動力になっているのだろう。

『緑のサヘル』

URL[http://www.jca.ax.apc.org/~sahel/]

左から吉田悦子さん、渡辺桐子さん 『渡辺桐子さん(ピクルス・ジャパン)』

信州・川上村という村をご存知だろうか? 標高1200メートルの高原に広がる、人口約5000人の川上村は、 もともと山奥の寒村というイメージが強かった。しかし、戦後、進駐軍の要望もあり、 いち早く西洋野菜のレタス栽培に取り組んだ。いまでは、レタス生産高日本一を誇っている。

渡辺桐子さんは、十数年前に川上村を訪ねて以来、少女時代を過ごした樺太の気候によく似たこの村に魅了された。 わたくしは、取材で何度も川上村を訪ねている。桐子さんの案

内で、村を流れる千曲川の源流を訪ねたこともある。 夏涼しく、冬は氷点下20度にもなる寒冷な川上村。毎週末、村で過ごすうち、桐子さんは、 この地を終の棲家にしたいと思うようになった。数年前、南会津から築100年の茅葺の曲り屋を移築。 川上村原産の川上犬の龍ちゃんとともに横浜から移り住んだ。

高原野菜で有名な長野県川上村で生まれたレタスジュース

その桐子さんが、川上村の新鮮なレタスを100パーセント使ったレタスジュースを作った。 その名も『飲むレタス』。さらに、2000年には、採れたてのシャキシャキ感を保ったサラダ感覚のレタスの漬物 『さわやかレタス』という商品も販売。『飲むレタス』と『さわやかレタス』は、 桐子さんのアイディアによって日本で初めて商品化されたもの。本日は、この2つの製品の開発秘話をお話したい。

年間約7万トン。川上村で生産されるレタスの量だ。その出荷は、ほとんど夏場に集中する。 この時期の日本に流通するレタスの約7割を占める。ところが、毎年、レタスの収穫期になると、 出荷前のレタスを廃棄する光景が見られる。

経済連などが行っている価格調整のためだ。流通にのせるためには、規格というものがあり、 規格よりサイズの大きいものや小さいものは廃棄される。その量は、年間5000トンに上る。 レタス生産日本一の村は、有数のレタス廃棄高の村でもあったのだ。 『地球上には飢えて亡くなる人もいるというのに、大事に育てたものを捨てるなんてもったいない』 桐子さんは、胸が潰れる思いがした。

熱心に話しを聞く受講生 川上村では、1200戸の農家の約6割がレタス栽培に従事している。レタスの収穫は、早朝から一家総出で、 子どもも手伝う。丹精込めて育

てた青いレタスを棄てるとき、大人たちは子どもたちになんと説明するのか? 川上村の明日の農業を担う子どもたちに、棄てることが当然とは思ってほしくない、と桐子さんは思った。

桐子さんの『もったいない』という言葉、これは、飽食の時代といわれる現代では、 忘れ去られてしまったような言葉かもしれない。しかし、これには、桐子さんの切実な思いが込められていた。

極寒の地・樺太での壮絶体験

桐子さんは、父親の仕事のため、樺太で敗戦を迎えた。7歳だった。 敗戦後の混乱のなか、行方不明の父の帰りを待つため、桐子さんはおばあさんと2人で樺太に残った。 食べ物を求めて、氷点下の寒さのなかをさ迷い歩いた。ロシア人のゴミ捨て場を漁り、 氷の下に埋もれたジャガイモの皮を拾い出し、それを水につけて沈んだわずかな澱粉を食べるのが、 唯一食事といえるものだった。

栄養失調のため、桐子さんは、痩せて骨と皮だけになった。何度も餓死寸前までいったが、 ロシア人の家族に救われて、なんとか生き延びることができた。川上村でレタスを棄てる光景を目の当たりにして、 樺太の壮絶な体験がよみがえった。『なんとか棄てるという行為をやめさせたい』と決意した。

レタスは、カロチン、カルシウム、ビダミンなどが豊富な健康野菜だ。生で食べるのが一番だが、 かさがあるのでたくさんは食べられない。レタスを丸ごと搾ってジュースにすれば有効成分をムダなく 簡単に摂取することができる、と考えた桐子さんは、レタス100パーセントの健康飲料をつくるため サンプルづくりに取り組んだ。

川上村の藤原忠彦村長も『レタスジュースの販売で市場が確保されれば、レタスの消費拡大やPRにつながる』 と加工用として使うことを条件に、廃棄するレタスを提供してくれることになった。

11歳まで厳寒の樺太で過ごし、食べることに強いこだわりを持ち続けた桐子さんは、30年以上前、 横浜市内に「桐鮨」というお店を開業した。ほかの店と差をつけるには、 「握りずしにどれだけ心を添えられるしかない」と考え、すし職人に洗面所の清掃を義務づ け、手話

を教えることにした。手話を学ぶことで、お客さまに対する態度が自然と変ってくると思ったからである。 いつしか1人ひとりに謙虚な心が育ち、いつでも気持ちよくお客さまをお迎えする店づくりが実現。 会社社長などが訪れる人気の店となった。

試行錯誤のうえ、完成したレタスジュースのサンプルを作り上げた桐子さんは、 常連客の社長から大手飲料メーカーを紹介してもらった。廃棄レタスを利用したレタスジュースの話は 大いに共感を呼んだが、商品化は難しいという判断が下る。

しかし、桐子さんはあきらめなかった、イトーヨーカ堂本部を訪ね、 「世の中のためになる商品をつくりたい」と訴えた。桐子さんは、一見、線の細い女性のようだが、 大企業にも単身飛び込んで自らの信念とアイディアを訴え、新しいものを生み出す粘り強さと底力を秘めている。 そのバイタリティーには驚くばかりだ。その熱意が担当者に伝わり、 ついに日本初のレタスジュースが首都圏を中心とする大手スーパーの店頭に並んだ。

『飲むレタス』という商品名は、長い親交のある作家の瀬戸内寂聴さんが、趣旨に賛同して命名してくれた。 レタスジュースを試飲した瀬戸内さんは、『最初はまずいと思ったけれど、なれるとおいしい。 体調もよくなって、毎日飲まずにいられなくなるから不思議ね』と感想を述べた。

レタスジュースは、生産した約30万本を完売。1缶当たりレタス2分の1個が使われ、 約94トンの廃棄レタスが活用されたことになる。ところがこれは、 川上村で廃棄さるレタスの約2パーセントに過ぎなかった。もっと効率的に廃棄されるレタスを利用して、 需要を拡大することはできないものか? 桐子さんは、またしても智恵を絞った。 そこで着目したのが、レタスの漬物だった。

レタスでおいしい漬物を作れば、もっとたくさん食べてもらえるのではないか。 桐子さんは、自宅の台所で、レタスを漬物にする開発に挑戦した。

これは、レタスジュース以上に苦労の連続であった。レタスは、切り口が酵素で赤く変色するこれまでの 塩と重石による方法では、すぐしなしなになってしまう。そのため、漬物にすることは非常に難しい。 試行錯誤の末、熱を加えるという、従来にない新しい発想で取り組んだ。

途中、高温の蒸気でヤケドを負って、左指が動かなくなるというアクシデントに見舞われた。 時間も資産も持っているものすべてを注ぎ込み、破産寸前までいった。 いつまでもパリッとした食感を保つレタスの漬物の製法を生み出すことに成功して、 特許を申請するまでになっても、製品化する余力は残っていなかった。

しかし、ここまで漕ぎつけたのだからと、手を差し伸べてくれる人たちがいた。 以前から懇意にしていた大手証券会社の協力で、「社会貢献のため」ということで、 一般から出資者を募集したのだ。桐子さんの強い意志と夢を理解した人々のおかげで、 川上村に漬物工場を設立することができた。

『大事に育てたレタスをムダにしたくない。大好きな川上村のため、村の一員として何か恩返しできたら』 という採算を度外視した思いからはじまった、レタスジュースとレタスの漬物はこうして世に出た。 安全なものを安心して食べてもらうため、『さわやかレタス』には合成保存料は一切使用していない。 年間、廃棄される約5000トンのレタスのうち、約750トン、約15パーセントに当たるレタスを 漬物の加工に用いることができるようになった。

『食のいきいき人間』から学んだこと

大量生産、大量消費の時代は、もうすでに終わった。これからは、リサイクル、エコロジーの時代だ。 それなのに毎年、大量のレタスを廃棄するのは、時代の流れに大きく逆行している。 しかし、青々とした野菜やみずみずしい果物が廃棄されているのは、なにも川上村だけのことではない。

出荷調整という名のもとに、日本各地で行なわれている。日本中の食べ物のムダをなくすため、 桐子さんのあとに続こうとする人たちの出現を期待したい。1人ではできないことも、 営利を超越した高い志と強い情熱を持ってぶつかれば、高橋さんや桐子さんの体験でもわかるように、 必ず人々の支持を得て、応援してくれる人が現われる。キーワードは、強烈な思い、徹底した現場主義、 地域社会への貢献、生涯現役の果敢な行動、である。

桐子さんの食に対するこだわりの原点は、前に述べたように樺太での壮絶な体験にある。 『食べることは、毎日毎日のことですが、人間も動物のひとつですから、食べるということに、 もっと命がけになることが大切ではないでしょうか』と桐子さんは語る。食べるということは、 もともと命がけの行為だった。わたくしたちは、そのことを忘れてはならない。そこから、 『いただきます』という食べ物への感謝の心が呼び起こされるのではないだろうか?

ーおわりー


文責:吉田 悦子
会場写真撮影:橋本 曜
HTML製作:和田 節子