第95回 神田雑学大学 2002年1月18日 講義録

がんと共に、普通に生きる

講演  油原 君子 さん
目次

(クリックすれば該当の項へ進みます。
ブラウザの「戻る」ボタンで目次に戻ります。)
 ★ 対がん戦争
 ☆ がん体験
 ☆ 退院後→患者会
 ☆ 患者会に入会する
 ☆ SHG とは
 ☆ 日本の患者会全体の歴史的な流れ
 ☆ 日本のがん患者会の流れ
 ☆ 患者会の持つ意義 
 ★ 人間として、より美しく生きてゆくために


★ 対がん戦争

 日本における「がん」の罹患者数は2000年で50万人を越え、新規のがん患者は年間10万人という凄いスピードで増え続けています。
 言えば、人類対がん戦争の状況にあるというのに、人類どうしで戦争をやっているときではないかもしれません。
 今回は、がんに襲われ独りで苦悩し、そして「患者会」と出会って、そこで新しい世界を拓くことができたとおっしゃる柚原君子様をお迎えしました。
 まず、お話をうかがいましょう。きっと勇気づけられると思います



☆ がん体験


 平成3年春に聖路加病院で「子宮筋腫」と診断されていたものが実は誤診だったということが、その年の暮れの胃がん検診のついでに受けたエコー検査で判明しました。腫瘍が発見されたときは、もう破裂寸前でということで、このときの診断は「卵巣腫瘍」ということでした。
 いま思いますと、人間というのはおかしなものですね。自分にとって都合の良い情報だけが頭に入るようです。がんという重要なことを言われているのに、言われた「悪性と良性の中間種」、「生存率90パーセント」、「未分化胚細胞腫瘍」ということに対して楽観的にとらえていたようです。未分化というのは、実は悪性度が高いのですが分化していないので大丈夫と思ったり、また生存率90パーセントということに安心したりしました。生存率というのは医療者の治療成績のデータから見たパーセントであって、患者側にとってみれば0か1、生きるか死ぬかのどちらかでしかないのです。でも自分にとって都合の良い情報をインプットして、がんと言われながらも、なぜかそんなに深刻ではありませんでした。


さて、私は手術で子宮と卵巣を全摘しましたが、細胞診が出るまで一時退院しました。そして10日後に再び病院に呼び出され「悪性リンパ腫」を告げられたのです。

 そのときの気持ちを自著の『がん患者が共に生きるガイド』(緑風出版)の本で読みますと、こう表現しています。
「がんを告げられたとき、周囲の音と色彩が消えた。告知を告げる医師の口元がロボットのように遠くで動いていた。私の内側では、今までに積み重ねたものが音を立てて崩れ、体中が絶望感でいっぱいになり、気持ちのなかで私は死んでいた。その後、治療のため病院選びや仕事の中断の手配、家事などで体は動いていたものの、空っぽの頭で無機質な体を引きずっている感覚であった」。

 病名が2転3転したうえに、さらに「悪性」という病名、私は絶望感を感じました。鍵をかけて独りで泣き叫びました。「がんなんか嫌だ。世の中には私より幸せな人が沢山いるのに、なぜ私のところにくるの。バカッ」と怒り、罵りました。「もし、がんが治ったらコーヒーを止めます。好きなバドミントンも止めます。もし治ったらたった1年でもいい普通に暮らさせてください。だから今は生きたい」。今まで自分で気づかないで行ってきた罪も詫びました。でも、そんなことしてもだめかもしれない。沼のふちに沈みそうな自分でした。

 アメリカの臨床医キュープラロスの著『死ぬ瞬間』〜死への歩み方の章には、「否定→怒り→取引→抑うつ→受容」とありますが、
後で思い返すとまったくこのとおりの道のりでした。といっても、すぐに受容できたわけではありません。

 沢山の友人から次から次に電話がかかってくると「この人たちに混じって笑いあいたい」、「バドミントンがしたい」と思うときもありました。でも、受け入れるしかない諦めではありましたが、沼のふちに背を向けて、とにかく歩き出せるかもしれないとだんだん思うようになりました。

 でも、すんなりできたわけではありません。転院した病院のがん病棟は水槽の底の沈殿物の中にあるようで、相変わらず自分はモノクロの世界にいました。病院で死ぬかもしれない恐怖に身を置いていました。

 がん病棟というのは、死の情報ばかりです。患者の家族が個室を整理して荷物を持って泣き腫らした目で廊下にいます。深夜、死者を呼び戻す家族の悲鳴のような叫び声が聞こえます。再発の人もいます。そのなかでのきつい治療中です。しかも窓は開きません、非常口には鍵がかかっています、何から何まで閉塞状況なのです。

 それでも、何とか生きる方向を見つけようと思いました。
病室の大きく切り取った窓に雲が流れてくると、「次に現れる雲が大きな雲だったら私は治ってこの病院を退院できる」と占ってみたりしました。すると皮肉なことに、次々と小さな雲がやってくるのです。「これではいけない」と、次は見舞い客の占いをします。絶対確実に現れる婦人の見舞い客を想定するのです。いじましく生への執着に疲れた日は、やはりだめかもしれないと、これまで生きてきたなかで幸せと不幸せの数を数え、幸せの数を多くして何とか自分を納得させようとしました。

 ある日のこと、隣のベッドの患者さんが亡くなりました。それを機に、私は退院をしょうと決意して、無理やり退院してしまいまし


☆退院後→患者会


 がん病棟から出てきたとき、まず真っ先に思ったことは、「これから果たして何年生きていかれるだろうか?」ということでした。まさに、年単位・月単位の不安です。
 「何処かにがんだけど元気に生きている人はいないだろうか?」
 「いたら、どうやってその元気さを獲得したのか聞きたい」。
 「がんでも元気になれるのだという確証がほしい」。
 「生きていく勇気をもちたい」。

 こんな気持ちを引きずったまま退院して一般社会に混ざったのですが、やはり明日も明後日も健康で幸せを確約されているような人々と、命ぎりぎりまで戦って鳥ガラのように痩せ、来月の定期健診で異常があればまたあの辛いがん病棟に戻らなければならないと怯える者とでは、日常会話がかみ合いません。

 健康が勝ちで病気が負け、いい大学に行った人が勝ち、障害者より健常者が勝ち、リストラされた人よりされない人が勝ち。こんな風なゆるぎない価値観が世間にはあるような気がしました。人生を長さで捉えたら早く死ぬことは負けであるような気がしました。死にゆく人というレッテルを張られている気がしました。長さではなく質で生きようとしましたが、明日にも襲ってくる再発に押しつぶされそうになるのです。

 生きる時間の物差しが違うとも思いました。― 普通の主婦のバーゲンの話も来年の春まで生きているかどうかわからない私には買えない。

 好奇の目や無理解に苦しみました。―「子宮をとったから女じゃない」。「私のおじさんもがんで大変な闘病をしたのよ。死んじゃったんだけど」。「検査に引っかかったけど大丈夫だったの。お祝いにすごく高い牛肉ですき焼きしたの」ふと気がついて「あなたは大変だったわね。でもあなただからできるのよ。私だったらとてもできないわ」。―「どうして、私ならできるの。火の粉はだれでも払えるのじゃないの」と叫びたい思いでした。

でも、理解してもらえないのは仕方のないこと。誰でも体験のないことはわからない。私だってこれまでいろいろな不自由な人々と会話して相手を無意識に傷つけてきたかもしれない。

 「気」がいいと聞けば、宇宙の気を集める集会に参加し、頭にトライアングルを載せて瞑想しました。納豆やお茶がいいと聞けば、納豆・お茶をがむしゃらに食べました。枇杷がいいと聞けば、枇杷の葉をちぎってきて煎じて、飲みました。


☆患者会に入会する……病友の死・違う病友から教えてもらう

 患者の会って、恐らく顔色の悪い人々がひそっりと固まって、暗い話をしているのだろうと想像をしていました。
 ところが、患者会入会後、初めて付いて行った二次会で大変驚きました。胃全摘の人も重複がんの人も「がんを肴に」飲んで食べてカラオケに行って……。その瞬間だけでもがんを忘れる。他人を勇気づけることで自分を勇気づけているのです。新発見でした。

 がんになったばかりで入会したので、ずいぶん心細く、初めはみんなに慰めてもらう役でした。
会では月に一度の定例会というのがあり、そこで自己紹介をするのが慣例です。 がん名・経緯・決意を述べるのです。決意というのは、がんとともに今年はどう生きるかを語るのですが、当時私は 「日本一の明るいがん患者になる」と宣言していました。笑いや大声による免疫力の向上に賭けていたのです。

 会はストレスの解消になりました。病院の情報収集にもなりました。手術自慢をする人、病歴披露をする人、顔が半分ない人、つばが飲み込めない人、階段を息継ぎながらしか上れない人、でも酒量は減らさない人、あと半年と言われたのに5年も生きている人、家族の気持ちを語る人もいました。

 「総合部位の会」は男女合わせて100名くらいいました。そこでは賢い患者学を学べました。

 「肺に影」という再発懸念のときは、患者会の仲間は心から心配してくれました。内視鏡の飲み込み方、喉の麻酔の方法、顎が外れるくらいの口を開けて麻酔を噴霧してもらうことや、ついでに若い研修医のいい男を見つけて手を握ってもらうといい、なんていうこともご教示いただきました。

 そんな私でしたが、月日が経ちますと、 今度は私が新しく入った会員さんの話を聴く役になってきました。このことが会のために何か役を担って、人のためになるよう生甲斐をもつことや、がんと共生・自立の一歩となったのです。

 正直言えば、当初はがん患者同士で集まったりするのは、嫌だ。がんにもっともっと取り込まれそうな気がする。できることなら忘れたいのに症状のすごい人がくると、もしかして自分もやってくるのかと怖い思いになる。会員さんが亡くなると、耐えられない。 がん組は負けという意識が自分のなかにもあって、心ががんを認めることを拒否していました。

 遺族の不満や患者さんが遣り残したことがあるといえば自分はどうなんだろうと、いややっぱりもっともっと自分の遣りたいことを前面に出していこう。せかされるように時間に終われるように楽しいことを率先して暮らすようになりました。
当時の手帳を見ると、予定表で真っ黒。がんのことをあまり深刻に考えられないように遊びも含めた仕事を増やしていったようです。また、亡くなられた会員さんに対して、命の大事さ、がん患者としてたとえ半年しか残されていなくてもきちんと生きなければということを学ばせてもらいました。


☆SHG とは


 何らかの問題・課題を抱えている当事者のみで構成されていることが特徴ですが、近年は患者とともに医療関係者、ボランティア、遺族・家族などが参加するグループも広い意味でSHG(セルフヘルプグループ)ととらえられるようになった。 また、疾病に直接関連する人がいないグループ「クリアリング・ハウス」といいますが、SHGを支援するグループも出てきています。

 セルフヘルプは個人による、自助独立の意味で、セルフは自分だけでなくわれわれをも指しますので、「個人による自助独立、仲間同士による共同の自助」、または
「自分のことは自分でしながらも、相互に助け合うグループ」 という意味合いを持つことになりま


☆日本の患者会全体の歴史的流れ

 *1947年「日本聾唖連盟」、1948年結核患者を中心にした「日本患者同盟」、同年「日本肢体不自由児協会」、1951年「ハンセン氏病療養所入所者協会」。

 いづれも
医療福祉の向上、人権の尊重、社会参加と平等、差別偏見の是正を活動目標に立ち上げられています。

*これ以後の1970年代までは薬害公害による被害者の会「森永砒素ミルク中毒の被害者を守る会」「サリドマイド児親の会」「カネミ油症被害者の会」「水俣病患者同盟」など企業や社会や国に向けて損害賠償を掲げています。

 この頃、死亡率の上位を占めている脳疾患・心疾患の会「秋田だるまの会」「全国心臓病の子どもを守る会」など病気の予防やリハビリ啓蒙に重点をおいた会もできています。

*その後は社会の複雑化に伴って「パニック障害」「不登校」また「エイズ」などの患者会ができています。

現在おおよそ12,000団体くらいあると思われます。


☆日本のがん患者会の流れ

*1954年「銀鈴会」発声訓練の場、1964年兵庫県「若葉会……婦人疾患」、北海道「小舟会……婦人疾患」、東京都「がんの子どもを守る会」、宮城県「宮城喜びの会」(行政の手による) などが設立。

*1970年代「あけぼの会……乳房」ワット隆子さんが設立し、アメリカナイズされた会で、目的として国への陳情・行政への働きかけ・治療研究への積極的参加・正しい知識の普及・対策の促進といった疾病を身体の一部分のみの不良ととらえ、病を抱えながらも健全な精神で社会と調和していけるような、患者の人権の社会的位置づけを求めました。

*1980年政府が「対がん10ヵ年総合計画」を発表、これから90年代に向かって現在あるがん患者会のおおよそ3ぶんの1がこの時期に設立を見ています。がんはすぐに死に至る病ではなくなりました。現在は発見された患者さんの半数が5年生存を達成しています。


☆患者会の持つ意義

患者会は、病を心身ともに克服していくための活動の場です。
● 仲間同士で悩みや心情を語り合うことによって、問題を抱えているのは自分だけではないことを知り「仲間との共感」の体験を通して自己を取り戻していく。この「共感」が非常に大切。うなづいて同調してもらえること。

● こうして自分を獲得していくことが自立へとつながり、やがて他者に目を向けられるようになり、他者を支援することで、再び社会に参加していくことができる。

● 「共感・分かち合いの意味」がんによってあまりにも突然突きつけられた死の恐怖のどう向き合えばいいのかわからず混乱している。同じ仲間と語り合う「ピア・カウンセリング」で気持ちの共有を量りそれを繰り返すことによって心の安定を取り戻していく。健康人であふれる一般社会から弾き飛ばされたという疎外感をもつ。仲間同士で寄り添うことで孤独地獄から抜けられる。 再発不安や社会との不協和音で弱気になるときも、同じような体験をもつ仲間は理解して同調してくれて這い上がる助言をしてくれる。

● コンピューターの普及で知識が豊富になっているが、一方的に取り込めるメリットはあるがそれが正しいのかどうかの判断はできない。また選択肢が患者に任される割には正しい情報を与えられていない。医学の専門知識も深くないのが普通。

● 何が起きるかわからないので他者の治療法や、病院情報、場合によっては東洋医学、民間医療の情報。

 患者会の中で癒されながら、がんとともに歩み始めてみると、病気を嫌っていると思えた社会が、実は健康であるがゆえに人の弱さや苦しみに対して気がつかないだけのことであることがわかる。自分が困難でないときは他者の困難を思えないのと一緒で、自分が倒産した経験がなければ倒産して夜逃げする人の気持ちがわからないのと一緒で、それゆえ、そうした疎外感や孤独感を乗り越えるのは他ならない自分自身であることが分かってきました。これが、がんとの本当の自立(律)の始まりです。


 最後に、患者会の様子を書いた「草笛配達人」というエッセイがありますのでこれを読んで終わりにさせていただきます。

拍手・大拍手・大拍手)





★ 人間として、よりよく生きてゆくために

皆様、いかがでしたでしょうか?

柚原様のお話に勇気、あるいは力を感じませんか?
その力とは彼女が潜在的にもっておられたもの、すなわち強い精神力と優れた伝達能力のせいかもしれません。おそらく精神力は彼女が病気と出会ったことによって、伝達能力(話す、書く)は患者会において他の患者さんの悩みを聴く立場になったことによって開いたものかもしれません。 

 と簡単に言いはしましたが、柚原様のこれまでの葛藤と努力を言葉で表現することはできないでしょう。そう思うと、ただただ頭が下がるだけです。
私たちも生きることにおいて、彼女の何分の1かでも真似しなければならないと思います。

 ところで、「インフォームドコンセント」「患者中心の医療」という考え方が始まってから、はや17、8年が経過しました。そのために患者と医療従事者においては互いに敬意ある関係があるていど築き上げられました。
 しかし、柚原様のお話をうかがってみますと、健康人と病人との間の関係はまだまだではないかと反省させられます。私たちも、患者会に顔を出して勉強すべきではないでしょうか。お互いが、人間としてよりよく生きてゆくために。
 と同時に、柚原様の今後のご活躍にも心から期待いたします。

 最後に「がん予防12カ条」(国立がんセンター)を添えます。
 1  バランスのとれた栄養をとる
 2  毎日変化のある食生活を
 3  食べ過ぎは避け脂肪は控えめに
 4  お酒はほどほどに
 5  タバコは止める
 6  適量のビタミンと繊維質のものをとる
 7  塩からいものは少なめに熱いものは冷ましてから
 8  焦げた部分は避ける
 9  黴の生えたものに注意
10  日光に当たり過ぎない
11  適度に運動する
12  身体を清潔にする

注1)柚原様が朗読されました、小諸藤村文学賞入選作品「草笛配達人」は、小諸市及び小諸教育委員会に帰属しますので、ネットで公開できません。ご了承ください。
注2)柚原様の著書
『がん患者が共に生きるガイド』につきましては、
緑風出版(電話:03-3812-9420)
にお問い合わせください。
注3)「ピア・カウセリング」につきましては、神田雑学大学 2001.5.25のページ、柳沢淳子様の「ピアカウンセリングで豊かな人間関係を」をご覧ください。
 

文責:ほし ひかる


写真撮影:橋本 曜
HTML制作:山本 啓一