神田雑学大学1月25日講義録

「著名人たちのエピソード(第3回)」

講師 来宮洋一氏

目  次

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講 師 紹 介


第1部 著名人たちのエピソード


漫画家のエピソード

横山隆一先生


清水 崑 先生


第2部 コマーシャルソング製作の裏話


軍手のCMソング




講師のご紹介
1927年東京生まれ。湘南高校、青山学院大学卒業。東宝株式会社宣伝部を経て、1962年独立。テレビ・ラジオのCM、社歌、賛歌などの作詞・作曲、制作。作品数約500曲余。その他テレビ、ラジオ、舞台の脚本・演出・プロデユース多数。ピアノ、作詞の教室にて新人の育成に力を注ぐ。趣味はドキュメンタリー、エッセイなどの執筆と中国語。弓道初段。アルコールは相当強く、健康にも自信があったが、昨年六月中旬に脳梗塞で入院し以来禁酒。自称永久32歳。祖父は国文学者・歌人・佐佐木信綱(文化勲章受賞)


第一部 著名人たちのエピソード

記念すべき100回目の講演をさせていただいて光栄です。第1回は八千草薫さんや、現国土交通相の扇千景さん、浜木綿子さんなど宝塚歌劇出身のきれいどころや男優の三国連太郎さんの隠れたエピソードをご紹介しました。 第2回はちょっと趣向を変えて劇作家の菊田一夫先生や作家の川端康成先生など文化人の意外な一面などをお話しました。
今回は第1部で二人の漫画家のエピソードをご紹介し、第2部では、わたしが40年手がけてきたコマーシャルソング製作に関る裏話などお話しようと思います。

漫画家のエピソード

横山隆一先生

 昨年11月末だったと記憶しますが、神田雑学大学の三上理事長から講演の依頼があったとき誰の話をしようかと考えました。そしてこれまでお話していない漫画家のエピソードはどうかと思い、それならいままで一番親しくして頂き、且つお世話にもなった横山隆一先生の話がよいだろうと決めた矢先、その晩遅く先生が脳梗塞で倒れて亡くなったというニュースをテレビで知らされました。
実は、先生には10年ほどご無沙汰をしていましたので、年が明けたら鎌倉のお宅へ伺って「先生お元気ですか」と、ご挨拶してフクちゃんの思い出話でもしようかと思っていたものですから、本当にショックでした。先生はお宅に宴席を作って、近くの方を何人か呼んで園遊会のようなことをされると聞いていました。
昭和30年頃、私は鎌倉に住んでいましたが駅前の近くに三菱銀行の支店ができることになりました。たまたま私の父が三菱銀行に勤めており、その開設準備のため記念品になにがいいかということになりました。 いまであればティッシュなどが使われますが当時はよくマッチが使われました。そこでマッチの絵柄、ポスター、ちらしなどを隣組の横山先生にお願いしてフクちゃんで統一しようということになり、お願いしたところ快く引き受けていただいて大成功でした。
昭和35年ごろ、私が作詞作曲家として一本立ちする以前、銀座の文春ビルの一階にある クラブでピアノを弾いていた時期があります。ホステスも7〜8名いて、わりに高級なクラブでしたが、文春ビルの一階という場所柄、鎌倉文士の溜まり場みたいになっておりまして、永井龍男さん、今東光さんの弟で文化庁長官もやられた今日出海さんなどの常連にまじって、横山先生もよくお見えになっていました。
横山先生は、印象が豆タンクのようでベレー帽がとても似合う方でした。スタンドでなにか飲んでいる姿をピアノを弾きながら拝見していると、いまにも椅子から落っこちるのではないかとハラハラしたものでした。
当時は勿論、カラオケもなく、いまのような演歌もなくて、マヒナスターズやフランク永井といったムード歌謡、シャンソンやロシヤ民謡、スコットランド民謡などが好まれていました。そこで私は希望に応じてピアノを弾いたのですが、そのころはチップ制で一曲200円を頂いていました。まだ100円硬貨のない頃で、ホステスがお客の希望される曲を紙に書いて演奏で手がふさがっている私のところへ持ってきて、ついでに4ッ折にした紙幣を私の胸のポケットにねじ込んでいくといった光景でした。ところが横山先生はなぜか400円くださって有り難い先生だなあと思っていましたが、ご自身ではあまり唄われずにもっぱら聞くほうを楽しんでおられました。
仕事の性質上、帰りはいつも新橋から横須賀線の終電で帰るのですが、非常に混んでいて、まず座れることはありません。当時、特2といういまのグリーン車よりもっと高い運賃の車輌があったのですが、先生は、よく顔なじみの車掌を通じて特2に呼んで、まるまる特2の運賃をはらって下さって鎌倉に帰った経験も数え切れないくらいあります。
たまたま、私の家は先生と隣組で10軒と離れていなかったので、深夜の道をご一緒するわけですが、酔って足がふらつきながらご機嫌で大声をだされるので、ハラハラしたものでした。
当時、八幡様の近くにあった美術館の館長をされていた村田さんと先生は、何故か気が合わず、我が家の向かいにあった村田さんのお宅の前で「村田の馬鹿ヤロー!」と何度も叫ばれるののには閉口しました。(もう時効だと思いますのでご披露しますが・・・。)
とにかく、先生は天真爛漫でフクちゃんを地でいくところがありましたが、ご自身でも 「フクちゃんは俺の分身だよ」とおっしゃっていました。先生は93歳で脳梗塞でお亡くなりになりましたが、改めてご冥福をお祈りしたいと思います。

清水 崑 先生

終戦後の混乱期だった昭和22年頃、私はまだ青山学院の学生でしたが、鎌倉の八幡様の太鼓橋のふもとに、茣蓙を敷いて似顔絵をかいている画家がおりました。
当時、一般の人は経済的にゆとりがなく進駐軍の兵隊がよく描いてもらっていましたが、なかには日本円を持っていなくてPX から買ってきたタバコやチョコレートで描いてくれという兵隊もいましたが、その絵描きさんは厭な顔もしないで、ほんの5〜6分で客の特徴を見事に捉えた似顔絵を描いて人気がありました。私も少し興味があったので、後ろから覗いたりしていましたが、瞬間的に客の特徴をみつけだして、そこから描いていくという手法に感心させられました。
その人が5〜6年たって、描いた河童の絵が非常に評判になり、日本酒の広告に使われたりして、一躍有名になりました。申し上げるまでもなく、清水崑先生のことです。
ご承知かと思いますが、先生の河童はなんともいえない色気が漂っていて、署名に使われる崑という字がまるっこくて非常に特徴がありました。
先生は、その後河童専門となり、日本酒やふりかけの宣伝などで一躍有名になったわけです。
数年後、私は東宝の宣伝部に務めていましたが、昭和30年の宝塚雪組公演で 「かっぱの姫君」という浦島歌女というベテランが主演を演じる歌劇をやることになり、 舞台に飾る大きな河童の絵を先生に依頼することになりました。
たまたま、私が出来上がった絵を受け取りに行くことになったのです。その理由が、一つはわたしが鎌倉に住んでいるということと、二つは私が佐佐木信綱の孫だということにあります。当時、東宝は文芸路線で川端康成の雪国とか石坂洋次郎の青い山脈などをシリーズとして映画化していたため、作家との交流が不可欠だったのです。そのための交渉役が私と山内という先輩で、かれは里見惇の息子でした。
そんな経緯で私に役が廻ってきたのですが、会社にお礼はどうなっているのかと聞くと、カステラを一箱だというので、私も弱ってしまいました。いくらなんでも、有名漫画家に依頼した大きな河童の絵のお礼が文明堂のカステラだけでは失礼だと思いましたが、会社の方針がそうだとのことで、仕方なしにお宅に伺いました。
通された応接間で待っていますと、目の前に立派な絵が出来上がって置いてあります。やがて出てこられた先生といろいろお話したのですが、以前八幡様の太鼓橋のわきで似顔絵を描いておられたときのお話をすると、「生活のために仕方がなかったんです」と苦笑いされていました。
帰りがけにカステラの箱をさしだすと、先生はきょとんとした顔でしばらく考えておられましたが、やがて意味を悟ると、とたんに厳しい顔になり「あなた、東宝なんて会社は早くやめなさいよ」といわれました。そして「あなた甘いものは好きですか」と聞かれるので 好きですと答えると「じゃあ、このカステラ持っていきなさい」といわれて、カステラの箱を持って厭な気持ちで帰った記憶があります。
描いて頂いた原画は引き伸ばされて舞台に大きく飾られ公演も大成功で、連日満員でしたが、私は舞台を見るのがつらくて複雑な気持ちでした。
それから3年ほどたって、私は東宝をやめたのですが、真っ先に先生のお宅に伺って「先生にいわれたように東宝をやめました」とご報告したところ大きな声で「おめでとう」といわれました。
昭和29年ごろというのは、レッドパージといって少しでも左翼系の思想を持った人は追放されて、その人たちが作ったのが新東宝ですが会社のムードも暗く、経済的にも大変な時代でした。その後、米軍が使っていたアーニーパイル劇場が返還され、宝塚歌劇の常設館になりました。

第2部 コマーシャルソング製作の裏話

私はこれまで400曲ぐらいのコマーシャルソングを手がけておりますが、この世界にも変遷があります。
テレビが普及しだした昭和30年代後半、CMソングは90秒ぐらいでした。その後30秒か、1分ものが主流となり、15秒の追加がつくことが多くなりました。この追加が、スポットとして頻繁に使われるようになり、従来の歌をいれるだけの時間的余裕がなくなってきました。
広告業界の雄である電通の依頼で作った私の曲が300ほどありますが、当時一人のディレクターに3人の作曲家がついていまして、その3人とは私と小林亜星、いずみたくでお互いに仕事の取り合いをやったものでした。
CMソングの世界では作曲家の名前がでませんので、一般には誰が作った曲かわかりません。
それが理由でないかもしれませんが、小林亜星といずみたくはCMソングをやめまして歌謡曲の世界に転進していきました。そこで有名な歌手と組んで、ヒット曲を作り有名になっていったわけです。
小林亜星は、作曲家というより独特の風貌から、タレントとして有名になったと思います。
今日は私が作詞作曲したものを3曲ほど持ってきましたので、ここでご紹介しながら当時の裏話などお話しようかと思います。
覚えておられるかどうか分かりませんが、私が作った曲の一つに「雨と車とクリーンビュー」というのがありまして、車のフロントガラスについた油膜をとるスプレーですが、当時いくつもの会社が売っていたものの、決まったブランドがなく、群雄割拠の世界でした。
そこで私がつくったタイホー工業の製品をCMソングで流したところ、その製品の指名買いが急増し、売上が2倍半にもなりました。社長からおほめの言葉と、金一封を頂いた記憶があります。
私は完璧主義で、納得できるまで何度も作り変えますので、人より時間がかかりますが、そのぶん一つ一つの作品に愛着があります。CMソングの制作は、お産に似ているような気がします。最初に注文があって、じっくりとと構想を暖めている期間が、だんだんお腹が大きくなっていくようで、あと数日で締め切りがせまってくると、まさに陣痛の苦しみでたいへんですが、いざ完成したあかつきは、まさに出産の喜びで感激もひとしおです。
そんなわけで20年、30年経った今も、全部の作品が残っているわけではありませんが、気がむしゃくしゃした時など、改めて聞いてみますと当時のことが思い出されて、感傷にひたったりすることがあります。
これは今までお話したことがないのですが、なんで私が作詞、作曲家になったかと申しますと、40年前は既にお話したように、放送、舞台の脚本などを書いておりましたが、菊田一夫先生が目標で先生のようになりたいと思っていました。
ところが、あるとき仕事で関係があった電通のあるディレクターのところで、新しく開発された繊維で作った洋服地の宣伝につかうコマーシャルソングの一般募集がありまして、何気なく応募したら、なんとこれが一等に当選してしまいました。
そしてすぐこれを本番で制作してくれといわれましたが、ピアノ弾きとしての経験しかない私にはどうしてよいか分からず、困ってしまいました。そこで友人の、東京パンチョスという楽団を率いていたチャーリー石黒にききましたら、彼の楽団にいる佐藤健冶というのに聞けばいいというので、佐藤氏にききながらなんとか成功にこぎつけました。
スポンサーはダイセルといい、むかし大日本セルロイドといって飛行機部品などをつくっていた会社ですが、そこがセルトロンという化学繊維を開発して洋服生地にしたものでした。
さいわいこれが好評で、これをきっかけに電通から10件ほどもCMソング制作の依頼が舞い込んできました。こんなに仕事がきますと片手間ではできませんし、報酬も悪くありませんでしたので思い切って「来宮音楽研究所」を作って独立しました。 それが昭和37年のことです。よく私の音学歴を聞かれるのですが、私は本格的な音楽の勉強をしていません。湘南中学でブラスバンドをやっていましたので楽譜は多少読めましたが、終戦直後米軍の厚木キャンプでアルバイトをやり、米軍が引き揚げてからは銀座のバーで一人でピアノを弾いているうちに、なんとなく作曲家になってしまい、あとにひけなくなったわけです。
テレビのCMの仕事をはじめた当初は自分の曲が放送されるのがうれしくて、放送時間が近づくと、テレビの前にテープレコーダーをセットして、わずか30秒ほどの自分が作った曲を繰り返し聞いて喜んでいたものでした。コマーシャルの仕事の依頼というのは非常に不安定なものですから、片手間に従来からやっていた放送作家の仕事と、ファッションショーなどの構成演出もずいぶん手がけました。
昭和40年ごろ、たまたま知り合ったテレビ朝日のプロデューサーと飲みにいった六本木のチェロキーという店で、アルバイトでギターの弾き語りをやっている甘いマスクの男がいました。声も非常によくて、私はなんども通って聞いたものでした。
仲がよくなって、私が作る曲をいちど唄ってみないかというと、その男は大喜びでとびついてきました。そこで彼の声が生かせるような曲を作りました。
彼の声を意識して最初に作った曲は、沖縄のオリオンビールのものでした。これは那覇周辺だけで売られていた今の地ビールのようなもので、依頼主に飲んだこともないビールの曲なんて書けないといったら、早速沖縄から1ダース届けてくれました。
早速飲んでみましたが、これがまた不味くて閉口したことがあります。
そんな裏話もありましたが、彼の声を意識してつくったのがこの曲です(テープで曲の紹介)
これは1分のコマーシャルにあわせて58.5秒にまとめてありますが、30秒のコマーシャルでは28.5秒でまとめなければなりません。
この歌を唄ったのが田中星児君で、彼はその後NHKのオーディションに合格して一躍人気者になりました。
彼の起用を意識して次に作ったのが、ロート製薬のVロートのコマーシャル(58.5秒)
でした。(テープで曲の紹介)
この曲を作ったときに、電通の女性ディレクターと一緒に大阪のロート製薬の本社までいくことになったのですが、当時、新幹線ができたばかりの頃で、東京〜大阪日帰り出張など以前は考えられなかったことが出来るようになった感慨がありました。昭和30年に広島に出張したときは、午後10時半に出発する特急はとに乗って、途中停車を繰り返しながら
広島についたのが翌日午後2時過ぎで、なんと15時間もかかったものです。
このほかに時間の制約がない、いろいろな歌も作ってきましたが、これまでに携わった業種というのは、自動車(日産、トヨタ、スバル)、電鉄(東武鉄道、京浜急行)、酒(日本盛)、洋服(オンワード樫山)、化粧品(コーセー)銀行(埼玉銀行)、薬(ロート製薬)など殆どの業界を網羅しています。
注文を頂いたときは、まずその曲をどんなムードでつくるか構想を練るのですが、私の場合は詞と曲を一緒につくることが多いので、詞を作っている最中におのずと曲のイメージが湧いてきます。

軍手のCMソング

あるとき読売広告の群馬支局から、軍手のコマーシャル制作の依頼が舞い込んだときは面食らいました。薬でも化粧品でもおのずとテーマがあるのですが、軍手だけはどうしてもイメージが湧いてきません。一週間の間、毎日グンテ、グンテと頭のなかでくりかえすのですが一向にイメージが湧かず、締め切りの日が近づいてきたときは冷や汗がでる思いでした。
約束の日の朝までなにもできず、とうとうスポンサーに会うため、上野から高崎行きの電車にのりました。 まだ、なにもできていませんとはとても云えないので、苦し紛れに車中で詞を走り書きしたものを作りました。
スポンサーは大和繊維という会社で、社長は元陸軍軍人で堅物だと聞いてましたが、差出した詞をじーっと眺めていた挙句「さすがはプロです。よく出来ています。なにも申し上げることがない。このままで結構です。」といわれた時はこちらがびっくりしてしまいした。
これに曲をつけたのが、ここでお聞かせする1分24秒のコマーシャルソングですが、 社長がたいへん喜んでくれまして、この大和繊維の安全軍手を3台のトラックに山積みにして高崎、前橋、新前橋の駅前で、朝からスピーカーでこの音楽を流して販売キャンペーンをやりました。結果は大成功で全部売り切れ。
社長が喜んで、赤城山の頂上近くのホテル赤城で一席設けてくれました。芸者も呼んでいますというので楽しみにしていたら70歳ぐらいの老芸者が二人でてきてがっかりというハプニングもありました。 

この仕事をやっておりまして寂しいと感じますのは、一回のコマーシャルソングでたいてい、その会社とは縁がきれてしまう、同じ会社の別の商品のものを作ることもありますが、長く唄われるコマーシャルソングというのはあまりありませんで、やがて忘れられてしまいます。特に社歌の注文などは、一つの会社で続けて注文がくることはありません。
しかし、楽しいこともたくさんありました。浅草の浦島というピンクキャバレーの宣伝に作った曲が受けまして、堺正章が自分のでているテレビで全然関係のない場面で「ウラシマー!」などと唄いだして、かなり有名になりました。あるところで「かの有名な浦島音頭を作曲した来宮先生です」と紹介されて面映い気がしたことがあります。
たまたま、同じ浅草で浦島と目と鼻のさきにある「天国」という商売敵のキャバレーの社長が、浦島音頭を1番から3番までそらで歌えるほど気にいっていて、天国のために、これよりもっといいのを作ってくれといわれて、つい引き受け「天国音頭」を作りました。
その頃、深夜放送の番組で浦島と天国が同時にスポンサーとなり、私の作品が交互にでてきたりしたこともありました。
どの作品にも、その一つ一つの作品に裏話があって懐かしく思い出されます。

(文責 得猪 外明)

会場写真撮影:橋本 曜
HTML制作・編集:田口 和男