第95回 神田雑学大学 2002年2月1日 講義録

東海自然歩道は日本の歴史の舞台だった
講師 早川 四郎

目次

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講師略歴
上洛の旅
甲斐の武田
南部藩と南部町
武田勝頼
「蚊取り線香」
信玄の墓
長篠古戦場
関が原
日本武尊
逢坂の関

講師略歴

早川四郎 1930年生まれ。中央大学卒。北海道拓殖銀行定年のあと中小企業診断士となる。
60歳のとき、野草のスケッチをしながら東海自然歩道1,350kmに挑戦することを思い立ち、10年間に96日をかけて踏破した。東海自然歩道は幅90cm程度の狭い道で、「けもの道」みたいな危険なところも多々ある。暫くたって、早川さんは、東海自然歩道は日本の歴史の舞台だったことに気づいた。

上洛の旅

 私の生まれは、杉並区の善福寺である。すなわち自然環境いっぱいのところで育った。
だから植物などの名前は知らなくても、その形や匂いが子どものころからイン・プットされている。銀行勤めが定年になって、足腰を鍛えなくてはと野山を歩いていると、私たちが子どものころに周りにあった植物が、ほとんどなくなっていることに気づいた。土地開発やら、住宅開発の結果である。

御嶽や高尾山などを歩いて野草の観察をしたが、同じような状態だったので、もう少し範囲を広げて歩いてみることにした。たまたま、丁度そのとき東海自然歩道の地図をみる機会があり、走行1,300kmならやりがいがあると決断した。自分の年齢を考えて、どこまでいけるか判らないが、とにかく歩き出した。歩いて見ると、野草の観察もさることながら、度々興味ある史蹟に出会った。

私は一介のサラリーマンであって、歴史にはあまり深い関心を持っていなかったが、史蹟に接して興味を持ち始め、つぎは何か、つぎはどうなるかと調べながら歩いた。そして十年経って気がついたら大阪についていた。十年のうち、歩いた延べ日数は96日である。歩く日は、勤めの関係もあって土、日である。例えば名古屋へ行くとして、土曜日の朝7時の新幹線に乗る。名古屋駅で乗り換えて、コース着は昼頃になる。したがって、この日は半日しか歩けない。

コースの近くの宿に泊まって、翌日ゆっくり歩いて夜8時頃の新幹線に乗ると、家には11時頃に着く、という旅であるから歩く距離はあまり多くない。野草も目当てであるが、野草は三、四月が最盛期で観察に忙しい。夏場八月、九月は、まむしの子育ての時期で危険だからあまり歩かない。また、この時期はすずめ蜂の空襲を受ける可能性が高い。特に秋口は交尾期になるから、オスが狂暴になる(年間十人ほど、刺されて死んでいる)。

年間のうち、冬は野草の花も咲かないから休む。すると実際に歩くのは、春から初夏にかけて3ヶ月しかないから、結局1,300km歩くのに十年もかかったという次第である。顧みて、野草があるから歩けたということと、歴史の舞台見たさに歩いたということの二つが原動力になっていたと思う。歴史の言葉を借りると、この東海自然歩道の旅は、私の京に向う「上洛」の旅であったといえる。「俺は上洛するぞ」が心の支えになって、踏破することができた。

甲斐の武田

前置きはさておき、東海自然歩道の地図をご覧ください。東海道新幹線の路線の上にある、みみずのような線が東海自然歩道である。ほとんど山道だから、植物の観察に最適である。
二本の点線は、北廻り、南廻りで、この道は歩いていない。私の場合、大げさだが上洛が大きな目的だからである。先にお断りしておくが、一本の線を軸にお話するので、時代が後先になったりすることがあるが、ご了承いただきたい。

高尾山からスタートして、東京、神奈川地域では、歴史的な事柄に出会うことはあまりない。江戸、相模が開けるころには、徳川幕府がすでに成立し、政治的にも安定していたからである。それ以前は原野にひとしい状態にあったから、戦乱の舞台にはなり得なかった。
ところが、山梨に入ると一転して、武田、武田である。

丹沢の端の西野野から尾根を行き、終わったところが山中湖畔の平野(ひらの)になる。武田は丹沢にはあまり関係がないのに、武田の名前がたくさん出てくる。ただ北条を攻めたときに、丹沢を通ったという説もあるが、実際に歩いて見ると、とても軍団などが通れる道ではない。では武田が北条を攻めるときに、どこを通ったかというと、津久井湖の横の三増峠を通って南下したのではないかと思われる。

行ってない丹沢に武田の地名があるのは、単に武田の領域だったからだろうか。丹沢に犬越峠がある。義経が急坂の一の谷を馬で下りて、平家の背後をついた故事があるので、私は徒歩でその峠を降りてみたが、とても馬の武者が下りれる道ではない。しかし、伝承では武田軍団が馬で通ったとなっている。やはり、不可能を可能にする武田のステータスとして、そのような伝説が生まれたのであろう。

丹沢の奥に菰釣山(1370mこもつりやま)がある。武田軍団が北条を攻めたときに、目印に菰をかけたという山である。歩いてみると幅1mもない山道で、両側が谷という尾根である。これも伝承の地とはなっているが、これも実際に軍団が通ったかどうか判らない。
そのほか信玄平とか、信玄にまつわる伝承は、あちらこちらにあり、さすが人望高い武田信玄と思わせる。

武田で有名なのは、甲州金である。信玄時代の甲州は事実、金がたくさん採れた。だが、
武田勝頼の時代には採り尽くして、金山は枯れた。いまでも、隠し金山のいわれは、山梨の至るところにある。隠し金山のある川辺で、私も砂を浚ってみたが、かけらも出なかった。

南部藩と南部町

山梨に南部町というところがある。南部町は、岩手県の南部藩と深い縁があるのである。
新田次郎の小説「武田信玄」に、「戦をするは愚かなり、敵を調略せよ」とある。信玄の戦略は、調略に甲州金と女性を使ったことである。南部の女性は美人ぞろいで、相手の武将に贈られたという。私はこの町を通るときには、美人に会えるという期待をした。

そして公民館で、町の案内を頂戴しようと中に入った。小さい子ども達がロビーで遊んでいたが、事務の女性が、私の顔を見て驚いたのか、中に急いで隠れた。私の山歩きの汚い姿を見れば、それもし方がない。しかし、再び現れた彼女は、お盆に冷たい水の入ったコップとお絞りを載せていた。やや小柄で、年のころは二十二、三歳だろうか。明るくて美しい娘さんであった。

「どうぞお休み下さい」というその物腰は、昔ながらの、ゆかしい日本女性そのものであった。私は感激した。どんなところに出しても心配ないと、さすが武田信玄が調略に用いたという南部の女性の末裔である。私は南部町がすっかり好きになった。南部町が南部藩と繋がるのは1200年代のことである。

時代は、1180年代の鎌倉幕府時代に遡るが、平の清盛が高熱を発したとき、後白河法皇が諸国の源氏に、以仁王を擁して平家を倒すよう令旨を発した。最初に旗揚げして、すぐ平家に倒されたのは、源三位頼政である。その後に新宮十郎行家が続いた。これも平家に破られる。その時代、甲斐武田は新羅三郎義光の末裔とあって勢力は、甲州一円に広がっており、南部町もその勢力の範囲にあった。

頼朝は石橋山の合戦に敗れたが、三浦党に助けられて命をとどめ、ようやく再起を企てる。富士川の水鳥の飛び立つ音を、源頼朝が攻める兆しと聞き、平惟盛、忠度の軍勢が浮き足立って敗走したという故事は、子どもでも知っているが、私はしかし、そう思わない。源平が富士川を挟んで対峙したとき、甲斐武田が平氏を背後から攻める構えをしていたのである。平家は無用の兵力の損耗を避けて、総退却をした。

平家は、大きな戦になれていない。敗走しているうちに総崩れとなったに違いない。追う源氏側は、黄瀬川で頼朝と義経が歴史的対面をし、益々勢いづくという展開となった。後世の歴史家たちが、孫子の兵法をアレンジして、頼朝を少し格上げした結果が「富士川の水鳥の羽音に驚く平家」となったのではないだろうか。それは、実際に歩いて、地理、地形を見て感じることである。

後白河法皇の令旨を受けた源氏の武将に、木曾義仲がいた。木曾義仲と甲斐武田は、共に京都に攻め上った。しかし、義仲が京都を支配し、横暴の限りを尽くしたため、後白河法皇は源頼朝に義仲を討てとの令旨を発する。ここで戦上手の源義経が義仲を討伐する。
後白河法皇は頼朝に対し、戦功を賞でて「地頭」任命権=税の取り立て権を与えた。その結果、頼朝は全国の支配権を握ったのである。

地理的に見て、鎌倉幕府の目と鼻の先に甲斐の武田がいるのは、何としても邪魔な存在である。頼朝は甲斐の有力な部族を、陸中に移封して武田の力を削いだ。移封された者のなかに南部一族がおり、これが陸中南部藩の基になったのである。これが南部町と南部藩の繋がりである。

武田勝頼

武田勝頼が、天目山の戦いで織田信長に滅ぼされる。勝頼は武田信玄二十四将の八割を長篠の戦いで失った。生き残った二十四将の一人、小山田信茂の先祖は町田の豪族である。同時に鎌倉幕府の御家人でもあったが、武田を監視する役目であったようだ。天目山で小山田信茂が裏切ったという説があるが、小山田の先祖はもともと武田の家臣ではない点を思うと、裏切り説は当たらない。しかし、小山田信茂は主人を裏切った廉で信長に切られている。

甲斐武田は、中世から近世にかけての過渡期においては、隠然たる力があった。しかし、鎌倉幕府の頼朝にはいじめられ、信長には滅ぼされたが、家康に降った武将はほとんど助けられるという推移を辿った。武田信玄の遺徳があったからだろう。
南部町の山深いとなりに富沢町がある。あちこちの民宿に電話をしたが、年寄りの一人旅はなかなか泊めて貰えない。

しかし、一軒だけ快く泊めてくれた。話好きの宿のおやじと話ていると、私の名前が気に入ったという。何故か訊ねると、隣の村が「早川」だという。南部、富沢、早川と並んでいる。人口は数百人。林業が主な仕事で、あとは狩猟をするという。話のついでに、この村の先祖はどこから来たを訊ねると、信州の望月であるとのこと。天目山の戦いで敗れた落人部落であったのだ。村人の姓もほとんど望月である。

山梨では、自然歩道の手入れが良くない。道路標識が腐って判別不能であったり、ひどい場合には、抜かれた標識が田圃に落ちていたものもあった。静岡県も悪くない。そのほかの県は、大体よく手入れをしていたが、最も良かったのは愛知県である。これは、調べてみると県の仕事ではなく、東海銀行系の、東海財団の支援作業の結果である。

宣伝には違いないが、大きな標識が立っているが、下の方に小さく東海財団と
書いてある。途中に「ここでは○○鳥が見えます」とか、「○○草花が観察できます」  とか、親切な絵付き標識もあるが、みんな東海財団の仕事だ。滋賀県は、ぱっとしなかったかな。山の中はともかく、町に下りると標識がないところが多かった。

閑話休題「蚊取り線香」


私は、蚊取線香を腰から下げて歩く。なぜかというと、云い忘れたが、私は山に入るときに、必ず山の神様にお祈りをする。「これから山に入らせて戴きます。絶対に殺生はいたしません。どうか無事に通らせて下さい」と、水を撒き、手を合わせて拝む。山を出るときは「有難うございました」とお礼を神様にいう。蚊に食われると、思わずピシャッと手で叩いて殺生しかねない。蚊が寄り付かないように、あらかじめ蚊取り線香を燻している。

山の中で、林道に交叉するところは、トラックが通る。時々小さいヘビが車に轢かれて死んでいることがある。こういうのを見かけると、道路端の地面に山刀で穴を掘って埋葬する。中には尻尾だけ轢かれて、のたうち回っている子どもヘビもいる。そういうヘビは安全地帯の草むらに移してやることにしている。私が十年間、事故もなく過ごしてきたのも、こんなことを続けたお陰かも知れない。しかし、いくら殺生を禁じているといっても、クマに襲われたら戦うしかないから、腰には、常に山刀を差している。

「一人旅」
原則として一人旅であったが、難所がある四ヶ所は、息子に同道してもらった。丹沢、鳳来山、鈴鹿峠が助けてもらった難所。そのお礼に、めったに見られない鞍馬の火祭りを見学した。以上四ヶ所である。息子は教員をしているが、鞍馬の火祭りをみるために学校を休んだ。

「地図」
地図は、国土地理院の25,000分の1地図がいい。よく見ると東海自然歩道が載っている。しかし、それで充分かというと、そうでもない。私は、県の観光課で発行している地図を併用する。さらに、市町村の観光課に返信切手を同封して地図を依頼する。この地図は春日の局の絵が載っているが、このように市町村の目玉になる歴史の記事が細かく書かれていて、非常に参考になる。これは白樫城跡とあるが、春日の局の父、斎藤利三の城跡である。

明智光秀第一の武将で、本能寺の変では活躍したが、山崎の戦では生け捕られ、洛中引き回しの上、斬首された。その娘が後の家光の乳母である春日の局である。山の中腹に「白樫城跡」の看板があった。地元の人に訊ねると、誰も行かないので道は荒れ、訪れることは断念した。斎藤一族の墓の写真をご披露すると、負けた武将の墓は、墓石も朽ち果て、あたりは暗くじめじめしており、いかにも哀れをとどめる。

信玄の墓

鳳来山の突端に田口という町がある。かなりの田舎なのに、寺だけは立派である。この辺りは、寺がたくさんあり、砦の機能を持っていた。そのなかで最も大きい福田寺の境内に、信玄の墓があり、教育委員会の看板が立っている。信玄の野田城攻めは、上洛の途中の戦であった。信玄が死んだとして、遺体を甲斐まで運ぶには距離があり過ぎ、この辺りで荼毘に付したという伝承には、説得力がある。

写真は武田信玄の墓である。意外に小さい。信玄の墓は何十ヶ所もあるが、私はここの墓が本物だと思う。信玄は三方ヶ原の戦いに勝って、その後野田城を攻めているときに病気になった。自らの死に緘口令を引き、三年間喪を隠す遺言を残した。信玄の亡骸は伊那街道から「かしやげ峠」へ出て、ここで荼毘に付したとの伝承がある。弔った寺は、後の火災で焼失した。

長篠古戦場

いよいよ、長篠古戦場になる。織田信長との戦いに武田軍団は伊那街道を南下する。津本 陽氏の「下天は夢か」に、長篠の戦いの場面が出て来る。信長の戦いの特徴は諜報戦である。私も長篠の城跡に立って眺望すると、戦場跡に旗が立っている。旗には、そこで戦死した武将の名が染められている。お墓もある。武田軍団は八千人の軍勢である。織田・徳川連合軍は、2万5千人で対峙したのである。

まして、織田・徳川連合軍の武器は、雨の中でも火縄が使える新式種子島であったという。
戦法は三段式連弾によって武田勝頼軍を破ったことは、あまりにも有名である。「下天は夢か」によると、信長は「織田・徳川連合軍は弱い」「武田騎馬軍団の敵にあらず」という情報を武田軍団に、まず流して武田軍団に油断させた。そして、武田側が持つ種子島同様、火縄を雨には使えないと密かに流す。

その日長篠の原は、雨だった。武田の騎馬軍団は、織田・徳川軍に対して、自信を持って進軍した。信楽原中央には、木の柵が組まれていた。何するものぞと、武田の武将は先頭に立ち、敵を蹴散らすべく突進した。雨の中、火縄銃の一斉射撃。武田軍の先頭がばたばたと倒れる。武田軍は、ひるまずに突進する。火縄銃に弾込めする間に、織田・徳川軍の木柵に切り込めるはずであった。

しかし、織田・徳川軍の射手は第二陣に交代し、突進する武田騎馬軍団に弾を討ち込んだ。
武田の武将は、さらに壊滅的打撃を受ける。それでも突進する武田軍には、織田・徳川の射手第三陣が待ち構える。その間に、後ろに下がった第一陣が弾込めが終わって、前に出て討つ。武田騎馬軍団は長篠の原で死体の山が築かれた。そこへ、横から織田・徳川軍の徒部隊が喚声を上げて武田軍に切り掛かる。武田軍は総崩れとなった。

長篠の原の南側に寒狭川(かんさがわ)があるが、この川は両岸の切込みが深く、傾斜は垂直に近い。  武田軍は、この川に追い落とされたのではないかと、私は推理している。武田勝頼は伊那街道を北上して落ち延びるが、追随した騎馬武者はたった二十四騎であったという。武田軍が負けたとしても、川を越えれば山が深く、いくらでも逃げまわることも出来たに違いないが、全滅という結果を招いたのは、寒狭川のためではないかと思う。

長篠の戦いで有名なのは、鳥居強右衛門=とりいすねえもん(戦国時代の武士。名は勝商(カツアキ)。奥平信昌の家臣。三河の長篠城が武田勝頼の重囲に陥った時、夜陰に乗じて城を抜け出、徳川家康に謁して援軍を請い主命を果したが、帰途、敵に捕えられて磔殺。―1575・広辞苑)である。長篠の道端に、写真のように磔になった強右衛門の看板があった。

関が原

わが国には、天下分け目の戦が三度あった。
第一回目は壬申の乱(じんしん‐の‐らん【壬申の乱】天智天皇死後、長子の大友皇子(弘文天皇)を擁する近江朝廷に対し、吉野にこもっていた皇弟の大海人(オオアマ)皇子(天武天皇)が六七二年(壬申の年)の夏に起した反乱。一ヵ月余の激戦の後、大友は自殺、大海人は飛鳥浄御原宮(アスカノキヨミハラノミヤ)に即位し、律令制が確立する端緒となった=広辞苑)。

大友軍と大海人軍は、不破の関(関ヶ原)で激突した。血黒川なる関が原を流れる小川は、両軍の激戦の様を物語る。結果は、大友軍が敗れ、大海人皇子が即位して天武天皇となった。現在でも川を境に向うは大友側といい、こちらは大海人側といい、いまだに両者譲らず、村の付き合いも良くないという。天武天皇の時代は短く、夫人が皇位を継承して持統天皇となる。律令制が確立して世の中が安定する。

第二回目に、青野ヶ原合戦がある。後醍醐天皇を追放した足利尊氏と天皇を助けるべく上洛する北畠親房の軍が関ヶ原付近の、青野ヶ原(現在地名赤阪)で遭遇したが、合戦は互いに損傷を恐れて行なわれずに、分かれた。その時、北畠軍は親後醍醐天皇の新田軍と合流すれば大きな力となって足利尊氏軍を撃破できたと思われるが、北畠軍は直接に後醍醐天皇擁護に廻ったため、新田軍は孤立して足利尊氏軍に敗れた。

その後が、徳川家康と石田三成の、天下分け目の関ヶ原の合戦(1600年)である。
石田三成が陣取った笹尾山は、あまり高い山ではないが、登ってみると関ヶ原が一望できる場所である。徳川家康は桃配山(ももくばりやま)に陣を張った。この山は壬申の乱の時、大海人が武将たちに力をつけよと桃を配ったといういわれの山である。家康は勝組みの大海人の縁起を担いで桃配山に陣取ったのである。関ヶ原から離れているが、山頂から全体を見渡すことができる。

軍事専門家に、関ヶ原の俯瞰図と東西の陣形を見せると、大方、西軍が勝つという判断を下す。結果は逆になったと答えると、それでは「何か」があったのでしょうという。松尾山に陣する西軍の小早川秀秋が裏切ったために、東軍の勝利になったのは有名な歴史物語である。松尾山に登ってみたが、山に五千人もの兵士が屯する場所はない。首脳部は山頂に陣取り、軍勢は麓においてあったと思う。軍記では、裏切った小早川軍勢は松尾山を駆け下りて、大谷刑部軍に襲い掛かったとあるが、それもどうか・…。

日本武尊(ヤマトタケル)

養老山脈の麓に養老の滝があって、その先は伊吹山。これは日本書紀に出てくるが、ヤマトタケルは、伊吹山で白い猪に息を吹きかけられて、病となり、敗北して逃げ回る。東海自然歩道は、それと全く同じコースであった。その道は当芸(たぎ)の道(凸凹道の意)といった。疲れ果てて歩く行く途中に泉があったので、そこでタケルは水を飲んで元気を回復した。その泉は「桜井の泉」という。

伊吹の白い猪とは、伊吹(伊富岐)の豪族という意味である。タケルは草薙の剣を伊勢神宮に奉納したので、剣を佩用せずに伊吹に向った。戦に敗れてタケルは敗走する。三重県の亀山の能褒野(のぼの)で遂に命尽き、そこから白鳥が飛んでいったという伝承がある。亀山には、宮内庁が管理するタケルの墓がある。ここは息子と一緒にいったが、考古学をやっている彼は、これは地元の豪族の墓ではないだろうかといっていた。ついでながら、三重県という県名はヤマトタケルから名付けられた。タケルは敗走の間に脚も折れ、亀山の地で息絶えた。
三重にも脚が曲がったタケルを偲んで、明治になって三重県と命名したといわれる。

逢坂の関

壬申の乱のところで天智天皇にふれたが、天智天皇はなぜ、都を近江に移したかという疑問がある。遷都は普通なら、奈良とか難波あたりの平地が常識というものだ。大津の都は、今の近江神社のあるところである。その意味が、逢坂の関を通ったときに判った。逢うも逢わぬも逢坂の関であるが、この山は極めて険しい。天智天皇は白村江(はくすきのえ)で負け戦を経験した。 {白村江の役とは、663年、白村江で、日本・百済連合軍と唐・新羅連合軍との間に行われた海戦、日本は百済王子豊璋を救援するため軍を進めたが、唐の水軍に敗れ、百済は滅亡した}(広辞苑)。

当時の日本の人口約五百万人といわれるなか、二万五千の兵を派遣して全滅したことは、重大事である。唐・新羅の連合軍は余勢をかって、九州に上陸したとも云われる。軍隊のほとんどを失った大和廷は、平地の戦いでは防ぎ様がなく、峻険である逢坂の山の琵琶湖側に都を移したのではあるまいか。それらの構えを万全にしている中に、状況も軟化して唐・新羅の軍も引き上げ、平時に戻った。天武天皇になって、すぐ都は奈良に再遷都している。
東海自然歩道は、以上のように日本の歴史を動かした大舞台であることがよく分かる。
まだまだ、話したいことがたくさんあるが、時間が尽きてしまった。詳しい歴史物語は別の機会に、譲ることにいたしたい。
終わり

文責:三上卓治

写真撮影:橋本 曜
HTML制作:山本 啓一