神田雑学大学 3月1日 講義


講師:田中 雅文



目次

(クリックすると該当の項に飛びます
ブラウザの戻るで目次に戻ります。)

講師紹介
はじめに
指導室長
地域社会
地縁・血縁(第一段階)個人主義(第二段階)
地域つくり(段三段階
アノミー
学校の「制度疲労」と課題
管理職の要請・登用:役所型(手続き主義)からNPO型(ミッション主義)へ
人材の配置・活用:「ある組織」から「する組織へ」
事務・会議システム:効率本意の仕組みへ
教育行政:上意下意達型から学校支援型へ
【従来】文部省→教育委員会→学校(教師)→子ども←家庭←地域
【近年】文部省→教育委員会→学校(教師)←家庭(子ども)・・・地域
【課題】文部省→教育委員会→学校(教師)保護者←・地域(子ども)
圧力の向き →援助・支援 パートナーシップ(連携)
河上亮一
子供に対する成長支援の課題
エンパワーメント
アドボカシー
《参考》
【参考文献】


講師紹介 講師の田中雅文先生

日本女子大学助教授の田中雅文先生は、生涯学習から総合的学習に至るまで 幅広い分野で

研究されておりますが、今回は危機的状況にある学校教育につ いて、教育の現場からの現状分析とその対策を、受講者を交えて討論して いただきました。

はじめに


学校教育のことを話すからには、学校教育の専門的な研究をしていると思われる かも知れませんがそれほどでもありません。元々大学での専門は社会工学です。 社会工学をやりながら大学院を出た後で民間のシンクタンク(三井情報開発(株)総合研究所)に行きました。 この会社は、本業は情報処理会社で、その中の一部門がシンクタンクです。

そこで働いていたとき、たまたま当時大学誘致というのが流行っていた。 今でこそ子供をどんどん減ってますが、私(講師) がシンクタンクにいた頃は、子供がどんどん増える時期であった。

18歳人口といって大学に入るのが18歳、その18歳がどんどん増える時期だったので、 ここぞとばかり地方自治体が私立大学を誘致するというので、戦略をいろいろ考えて いる時期であった。

その関係で地方自治体から大学誘致の青写真作りをしていた。そんなことをやっている 時、生涯学習という言葉が少しずつ流行り始めて、そういう調査研究も受託するように なってきた。 その関係で当時文部省、(現在は文部科学省)の直轄研究機関で国立教育研究所というところがあって。 そこの生涯学習関係の研究員ポストが新しく生まれたので、そこに移った。そこで何年 かやった後、今の日本女子大学に来た。

もともと社会工学というのをやりながらいろいろな面で、教育問題を見て今まで来た。 どちらかと言うと外から教育問題を眺めるのが、長かったというような経験がある。

今は教育学科という所に所属していて、これは教員養成課程です。そういう関係で卒業生の苦労を通して学校現場のことをいろいろ見ている。 それと、高校二年と小学校六年の我が子の学校教育、経験を通してかなりいろいろな ことも見ている。このように、いろいろな角度から学校教育を見ているのでそれなりに一つの視点から学校教育のことを話せる。

指導室長


教育委員会の中に指導課、指導部、指導室、があって指導主事という人がいる。 教員の経験がある人が試験を受けて教育委員会に配属され、指導主事というポストに 就き、学校の先生や校長先生に対して、いろいろ助言をしたり、指導をする。

ある指導室長さんがしみじみ云っていたのは、今、学校は非常に大変だ。何が 大変か、真面目にコツコツやる先生ほど難しくなって病気になったりする。

開き直った先生ほど生き残る。今日はそんなことも含めて一つの学校教育観点か、 今の問題をやってみたいと思う。

大人と子供の今(人心汚染)

学校教育と云っても、背景にあるのは何と云っても子供たちが今どう育っているか。 それから、大人を含めて地域の中でどういう風な価値観というか考え方が浸透して いるかその影響がかなり学校教育は受けるわけである。

汚染汚染というと大気や、水や土壌や食品を思い浮かべるが、我々の心もここ十年間 に汚染されてきた面があるのではないか。勿論軍事国家の中でかなり苦労されて来た 方は、戦後自由になって、汚染どころか自由主義の社会でよくなったと認識されて いる方もいるだろう。熱心に話を聞く受講生

ただ、子供たちの状況を見た時に、かつての地域社会が持っていた地縁、血縁、の中で、 子供たちが自然に学んできたようなことを実は今、ぜんぜん学んでいない。

そういう状況の中でかなり若い年齢程、消費社会の中でそうとう心が汚染されている面が あるのではないかと思われる。

経済成長から成熟期になって、その段階まで良かったのかもしれないが、今、停滞期を 迎えてかなり大人自身が難しくなっている。これまで自分たちが日本社会を支えて来た のだと思ってこられた人も多いのではないか。

そういう人たちが実は「明日から会社に来なくてもいいよ」と云われるとか、或いは、 自営業をやっている人が、なかなかやりくりが難しくなるとか。そういう中で中高年 の人の自殺も増えていることは、よくメディアで放映されている。

大人自身今の日本社会をどうするか?と考えた時に、共通の価値観を持てなくなって きたという面があるのではないか。戦後、高度成長から成熟期に至るまではとにかく 欧米に追いつくのだ、経済的に豊かになって、日本が世界の中で第一級の国になって 頑張っていくのだという目標があったと思うのだが。

実際、世界のトップクラスになってみたら、日本は国際社会の中でちゃんとやっていないではないか。日本は何をやっているのか、いくら経済的に豊かになっても日本はだめだ!。 さらには国全体が豊かになっても国民一人一人を見るとそれほど豊かさを実感出来ない。といった問題が指摘されている。

そんな中、経済が比較的低成長でありながらも成長し続ける状態であれば、何とか問題も 経済成長の中でクリヤ出来る、吸収出来ていくという面もあるが。全体のパイがいっぱ いでこれからは縮小するしかないかも知れない。そうなった時に、いよいよ私たちは 一体どういうふうに生きていくのか。

それぞれの社会の中で起きてきた問題をどうやって解決していくか、経済のパイの拡大 では解決できなくなった時どうやっていったらいいのか、非常に難しい状況に位置し ていると見ていい。

そういう移り変わりを、一つの絵にして見た時に、ここに書いてあるような見かたも 出来るのではないかとおもう。
               
地域社会

たとえば私たちが地域社会や社会を見るときに、個人と社会の関係って当然発生する。 自分がこうしたいけど、社会のこの状況の中では出来ないとか。社会はどうであって も、自分だけ良ければいいと考えればそれも何とかやっていける面もあるとか。 個人と社会の関係というのは、何時の時代もそういうバランスの中で社会が出来ている。

今、子供たちの問題を考えるものですから、特に地域社会を考えて見た時に。我々 一人一人が、地域社会全体の価値観や、考え方や、今までやってきたこととか、 そういう社会のあり方を尊重、重視するのか。

それとも社会問題全体のことはあまり考えないのか。というので縦の軸が出来る。 もう一つは、そういう中で自分自身の考えとか、人生とか、趣味趣向とか、 そういうものを重視するのか、我慢するのか、というので横軸が出来る。

地縁・血縁(第一段階)

そういう風に考えたら、四つの部分が発生する。たとえば、戦前のよく云われる、 地縁・血縁社会とか、或いは、戦後になっても農村とか、或いは下町の何処かに 比較的残ってきている地縁・血縁の社会。

こういうものは、この絵で何処に位置するか、どちらかというと地域社会全体の考 え方を優先して、個人の考え方はあまり尊重されない。そういう色合いをある意味では持 っていたと思う。それを第一段階と呼ぶことにする。すると、次の段階として、経済成長の中で我々自由になって、お金さえあれば何でも出来る。そんなふうになってきた。

個人主義(第二段階)

そういう状況を見てみると、云ってみれば地域社会のことなど何も考えなくても、 隣近所助け合わなくても、自治会や町内会の行事など関係なく無視していても、 一人の人間としてお金さえあれば生きていける。

たとえば若者が都会の真ん中にアパートの一部屋を借りて、近所の人とぜんぜん付き 合わなくても、コンビニに行って、スーパーに行って買い物して勤め先に行って 仕事をしていれば生きていける。そういう時代が今戦後の経済が豊かになる中でそう いう状況が広まってきた。

個人主義というものが堂々とうたえるようになって来た。そのような段階を第二の段階と考えて見たとき、消費社会がどんどん広がってくる中で、個人主義の位置にいる人が非常に日本人全体の中で増えてきたと云っていい。

地域つくり(段三段階)

只、そういう中で、たとえば神田雑学大学とか、皆さんどういう気持ちで参加されてい るか分りませんが。個人個人こんなことを学びたいとか、世話役の人もこんなことを やって見たいとか、自分のやりたいことをここで実現出来るのではないか。と思って ここでやっているわけですね。

しかし、必ずしも自分勝手にただただ人のことなどどうでもいいと思っている訳ではな くて、こういう講座を開いて見たいと云う中でも、多くの人にそういう話を聞いて貰い、出来れば、千代田区とか、東京とか日本のあり方も皆で考えて行きたいと思っている部分もあるのではないでしょうか。そういう思いあるでしょ。

そういう風な考え方の方が、じわりじわりと今増えて来ている。ですからここに神田雑 学大学あり、吉祥寺雑学村立大学あり、こういう学習の場が日本全国沢山広がっている。 社会教育行政が提供しているのではなくて、市民の方がボランティアで自分たちで企画 して開いている。

更には、こういう講座だけでなく地域の環境問題を考えたい、福祉の問題を考えたい、 ということでボランティアとして組織を組んで、地域の人の為に地域の環境改善の為に 活動している。そういう人が増えている。

では、そういう人達は何処に属するか?と思うと地域づくりの第三段階。要するに自分で こんなことやって見たい、あんな事考えたい。しかし自分だけはいいというのではな くて、周りの人にもそのいい面を分けてあげたい。そのことを通して地域の問題を 考えて行きたい、地球の問題考えたい、そういう人が増えてきてそういった活動が沢山 起こっている。

そういう中で神田雑学大学もそうであるが、特定非営利活動法人という法人格も持っているよう な団体が加速度的に増えてきて今全国で5000を越えている。云ってみればこれを今地域社会と いう言葉で考えているので、地域づくりという段階に入って来ている人がじわりじわりと増えている。

これは地域社会で考えているので地域づくりなのであつて、社会全体で考えれば当然社会作りである。地球規模で云えば地球づくりである。

一つの曲がり角というか、又、次の局面に日本が今移りつつある。ただただ経済成長で 頑張ってきた。企業が頑張って消費社会を広げて豊かにしてきた。そういう段階が実は 環境問題、福祉の問題、いろいろさまざまな歪を生んできた。

今度はそういう問題を解決して、新しい社会を考えていきたい。そういう人たちが増えてきた。 これが今第三段階。何処の地域をとっても、千代田区をとっても、或いは武蔵野をとっても、 秋田県をとっても、第一段階に位置する人、第二段階に位置する人、第三段階に位置する人、

どの段階にも人はいる。しかし経済は非常に難しくなってきて自殺も増えてきた。或いは子どもたち の段階でいけばキレル子供が増えてきた。子供たちから見るとキレル大人ほど怖いものはない。 外向的な人は大体人に危害を加える。内向的な人は自殺に向かったり、自虐的になったり、悩んだりしていってしまう。

例えばキレルにしても、最悪な事態自殺してしまうにしても、そういうふな状況に陥った 人って、それじゃぁ第一段階、第二段階、第三段階何処になるのか?と思った時に、何処でもない。 云ってみれば自殺という事態を取って見れば当然自分自身をなくしてしまう訳ですから、自分自身のことは考えられない。

それでは自殺をする人は社会のことを考えているか、地域の事を考えているかというと、 悩んで苦しんでどうしようもなくなって自殺する人は当然社会のことなど到底考えられる訳はない。

アノミー

日常用語で云うと気持ちがハチャメチャになってしまった。実は、こういう状況が社会のいろんな動きの中で 訪れるのだと云うことで、百年前にフランスの社会学者のデュルケムという人が一つの専門用語を作った。

講師の田中雅文先生 デュルケムは自殺の研究をしていて、自殺は社会のいろんな要因で起こる。その自殺が起こる要因の一つとして、 社会の状況が著しく変わった時、人々がど

うしたらいいか解らなくて自殺に走る可能性が高い。 デュルケムの百年前のフランスはかつてのどちらかというと社会の枠組みがガッチリ

した段階から、産業社会が発達し始めた時期に位置する。経済的に社会全体ががあまり豊かでなかったのに、 1900年頃は一発当てれば誰でも豊かになれるという風潮が広まった時期であった。 そういう社会でデュルケムは統計を取ってみると何と自殺が増えている。

これは今まで社会の秩序の中で、生きていた人が何でもやっていいよ。と言われて何をやっていいのか分らなくなった。 すなわち頑張れば金持ちに成れるはずなのに、自分は何をしていいか分らない。 それに頑張ったら金持ちに成れるということは、もし自分が貧しいままであるとすればそれは自分に力がないためである。

そういう意識が生まれてきたりして結局人々が社会全体の経済が豊かになったにも関わらず、 自分自身一人一人を考えてみると何か豊かになれないと自分はダメじゃないかとか、或いは、 豊かになれないという事は、失敗じゃないか、そんな事を思い始める人がいて結果として自殺が増える。

社会が今までわりとガッチリしていた中で生きていた人が、社会の枠組みが変わって何をやってもいいようになった。 或いは、何をやってもいい反面もし失敗するととんでもない地獄に落ちる。そういう不安も同時に抱えて来た様な社会状況。

そういう状況で人々が非常に自殺に走ったり、子供たちで云えば非行。何をやっていいか分らない無秩序な行動に走ったりする。 そういう状況をアノミーという。

これを今の日本社会に当てはめると、結構アノミー的状況が広がっていると見ていい。と云うのは、 企業人の方々の社会の中では会社の中でコツコツと働いて、家に給料を渡して家計を豊かにして、 男性の場合それで一つの役割を果たしている。そういう安心感と、生き甲斐感を持っていた企業人が多かった。

それが今やリストラや終身雇用が崩れたとか、年功序列の賃金制度が崩れたとか、実力主義とか、 転職出来る人間ほど優秀であるとか、非常に落ち着かなくなってきた。これは職業人の社会の中が アノミー的状況になっているとも云える。 学校教育の関係からいうと、小学

校、中学校、高校生、子供たちも今かなりどうして云いか分らない状態。 かつては学校の中では学校の先生のいう事は聞くもんだ、という前提が 学校教育の一つの価値観であった。ところが、今ではそれに対する反発から、個性重視とか、 子供の主体性を育むとか、子供が

大事とか、子供の人権とか、子供の権利とか言うようになった。基本的には子供が主体性を持って、学校で学ぶんだということになっている。しかし子供が自分で主体性を持って、 これやりたい、あれやりたいというのが、必ずしもあるわけではない。

したがって、自由が与えられた反面子供たちは何をやってよいかわからず、かえってアノミー的になりやすい。 それと共に今の子供の問題として非常に大きいのは、幼いころから、マスメディアの情報に育てられ、 子ども市場の重要な消費者として育てられていることだ。

メディア関連の仕事をされている方、 それから企業人の方には変な言い方をするかも知れないが,いわゆる商業主義、子供を消費者にするような子供市場。 子供のマーケットがあるとすればやはり会社が生き残る発展する為に、

当然会社の本命として子供に対していろいろものを云いたいですよね。しかし、 そういうものを子供が無防備に全部受け止めていくことになる。そういう中で、 何と云っても親が教師が地域の人が一生懸命子供に何とかしようと思ってもやはり巨大なマーケットですから、 巨大な投資をして子供たちに物を買ってもらおうといろんな情報を流してくるメディアとか。 或いは子供をお客にしようとする企業のこの資金力にはなかなか叶わない。

そう考えるとよく我々教育力と云って家庭の教育力、地域の教育力、学校の教育力、三本柱があるというけれど。今やマスメディアの教育力といのは物凄く大きい。これを教育と呼んでいいか分りません。教育とは何かという定義に関わってきますけども、ただ子供の心とか社会的な能力に及ぼしているマスメディアの影響力はとても大きい。

皆さん方が子供の頃には到底考えられなかった情報量を、子供たちは各種のメディアから受け止めている。私(講師)が子供のときもテレビとラジオがあるくらいで、あとはマンガがあるくらいであった。今の子供たちは、インターネットを通して沢山の情報網を入手しているし。またテレビももっともっと魅力的で面白い番組、を提供してくる。

このようにメデイアから情報量がきて、大人の方からの情報というものとの関係の中で、 テレビとかメディアのマンガの魅力的な情報に子供がついつい寄っていくとすれば、教育 はもはや成り立たないと思ってもいい。

そうとう我々大人が頑張らないとどうにもならない。というような段階にもなりつつある。 で、そういう風に考えると今、なんとかこの社会はもっているけれど、人間と人間とのコミニケーションがちゃんと出来ない子供の割合がどんどん増えてくると。

この子たちが、大人になったらはたして社会というのは成立するのか?勿論何らかの形で成立はするかも知れないが、我々が思っているような社会というのは成立するのかどうか。それが非常に不安な面である。

危機としての学校教育というのは、今日の話は主にそういう点に焦点をあてた内容である。勿論学校教育にもいろいろあって、幼稚園段階から大学院まで全部学校教育である。大学教育の危機は今何か?何と云っても18歳人口減っているので、私立大学では何が危機かというと学生が減るというのが根本的な危機である。

ところが公立の小学校中学校は必ずしも減るから危機なのではなくて、全員来る中で アノミー的状況の子供たちや、アノミー的な親たちがいっぱい来るので大変だ。そんな風にいうと社会が悪くて学校は本当はいいんだ。っていうふうに見えるかも知れないが。実は、学校自体にも非常に問題がある。

学校の「制度疲労」と課題

”制度疲労”という言葉は今の学校教育にほど当てはまるものはないのではないかと思う。 政治の世界も”制度疲労”そのものかも知れません。あらゆる日本の社会に制度疲労が あるのかも知れません。学校の現場も大きな制度疲労問題を抱えている。

管理職の要請・登用:役所型(手続き主義)からNPO型(ミッション主義)へ

学校と云うのはいろいろトラブルが起こったり、地域の中からいろいろ悪口なども 云われたりするわけである。それを校長はほとんど一人で受けて立たねばならない。 地域から見えないながらも支えられていた従来の学校では、ある意味で役所の中間管理職的な気持ちで 校長職がまっとうできたかもしれない。しかし、あらゆる問題に一人で矢面に立たないといけない

現代の校長は大変だ。もともと、制度上は学校長に相当の裁量権が備わっていて、個性ある学校づくりをやれるようになっている。 本来は、学校長はNPOのリーダーと同じ役割とやりがいがあるはずなのだ。しかし、 現実には家庭や地域の批判をかわしながら学校を経営しないといけない状態にあり、事勿れ主義に陥りやすい。

非常に立派な論文を書いて教頭、校長になった方が、現場で問題が起こったら何もやらない!。いや、 できないといったほうがよいかもしれない。何が理想かをわかっていても、現実の環境がその遂行を許さないといってよい。

管理職の登用・評価の方法も、見直す時期にきていると思う。 しかし、学校教育も自分たちでガッチリとした仕組みに作ってるので、外からなかなか 立ち入れない。

教育委員会もほうでも、そういう状況がよくわかっていて、最近では公立の高校や中学の校長に企業人の 方を 採用するということを試行している。現在のところ、それは成功しているようだ。

人材の配置・活用:「ある組織」から「する組織へ」

組織として、個々の教員、つまり一人一人の人材をどう配置するか、活用するか、このシステムが 大事なわけだが、現実にはなかなか難しい。外から見ているとわからないが、内側から見ると、 物凄い既得権が教員の世界の中にはびこっているといってよい。

たとえばどういう事が起こっているか。ある学年が、三年四年くらいまでに非常に難しい状況になっている。 更に五年生になるともはやいじめが横行してみたり、教室内をうろつく子供がいたりして大変だ。

このクラスがいずれ6年になる。6年になるとこれがまた男の子でも成長期にかかるので非常に心理的に難しい状況になる。 肉体的、生理的にもかなり異性への感心が強まっている。今やインターネットで情報も豊富に仕入れているので、 6年生の男子は扱いにくくなっている。

そういう中で、卒業期にさしかかった三学期になると、中学になる不安だとか、 これまでの学校の教員に対する恨みつらみなどいろいろな物が爆発してくる。 というわけで6年の担任に進んでなろうという教員は、何処の学校もあまりいない。

そこで組織として、六年生に向いている先生を配置しようと、学校長の 責任でやればいいのだが、現実には難しい。

学校長には、制度上権限は与えられているが実質的に一人で全教員に対応しなければいけないので、 教員が大きな不満をかかえはじめると、学校長の評価にもかかってくるので大変。皆が逃げ腰になるなかで、 特定の人に嫌嫌六年の担任をやってもらうことは、かなり難しい。

結局六年生の担任になり手はいない、誰がやるか。教員は移動があるので、 よその地域から新しく移ってきた先生が六年の担任になるケースが少なくない。

ではそうなるとどうなるか?今度は昔と違って今の子供たちというのは、 一年から五年まで行くと自分たちの文化を作り上げている。

だから六年になって他所から来た先生に代わると、その先生のやり方よりはそのクラスが 五年生までに築き上げてきたやり方でしか子供たちは動けない。だから、極端ないいかたをすれば、 先生が生徒の言うなりにならないとクラスはうまくいかない。

こうなると、クラスは子供たちが取り仕切る世界となる。しかし、子供たちの世界になると云っても、 ややもすれば警察なき地域社会みたいなもので、しっかりとした共同性をもった自主的な社会には、簡単にはならない。

たとえば、五年くらいまでの間にいじめが定着しているクラスがある、そうするといじめられる子、 いじめる子、それぞれに別れている。いじめられる子は一人か二人で少ない。 いじ苛める子というのはその中心になる子の周りに何人か集まって、さらにすそ野に何人かいて勢力が強い。

本来は、そんな人間関係をかきまわして教師としてはいじめを撲滅しなければいけない。だからこそ、 正義感を持った新しい担任の先生が入ってくると、いじめ状況を発見して改善しようとする。

まず何をやるか

苛められている子を励ます。「あなたはダメだダメだって何か思わされているみたいだけれど、力があるんだよ。」 そして、その子が発言をしたなら**さん良かったねとか言って、励ます。教師として大事な事である。

一方で、いじめる側の子が何かちょっかいを出そうとしたら、ダメだろう!と抑える。 それが上手くいけばだんだんいじめの構造が崩れてきて、いじめられていた子も一人の主体性を持ったクラスの一員として やっていけるようになる。

ところが、新しい担任がそういう事をやり始めると、今までいじめに回っていた子が完全に既得権を奪われるわけだ。 そして不満になるから、今度は教師に矛先を向ける。ひどい場合には、子供による教師いじめが起こる。

昔は学級王国と云って担任の先生が三十人か四十人の子供相手に一つの王国みたいにしていた。勿論担任は王様である。 それが学級王国と云ってかなり批判されたことがあった。

いまや学級王国という閉鎖性が今度は、教師にとって物凄く危険な場になっている。 教室という場、ドアーさえ閉めてしまえば外から見えない、そういう中で子供が先生をいじめる状況がかなり起こっている。

新しく他の学校から転任してきた教師が、始業式で全校生徒の前で挨拶をするという場面がある。 最近では、そのような場面で、転任してきた教師が「みなさんと友達になりたい」「早く先生と仲良くなってください」、 極端な例は「私を**ちゃんと呼んでください」、

そんな言い方をする場合がある。新しい学校に移る教師というのは物凄く不安なのである。 教員仲間の間でもいじめというものがあるのでそういう 不安と、クラスの中に入った時に子供たちの集団の力学の中で自分がうまくやっていけるがどうか、 これはとても大変な問題。

今子供たちがどういう教師のいう事を聞くか、ということを考えたとき、ややもすればヒステリックな状況に陥りやすい教師、 突然キレて怖くて子供が近寄りがたい教師の言うことなら聞く、ということが冗談でなく語られることがあるくらいだ。

今は体罰禁止なので、いくらガッチリした男の先生でも、子供からみるとあまり怖くない。 何をやっても絶対殴られない、という安心感がある。先生は手足をもぎ取られた状態で 頑張っている状況で、教師受難の時代である。

もちろん、全ての教師がそうなっているわけでもないのも事実である。今子供たちの中で、 子供の既得権の問題であるとか、子供の主体性とか、個性尊重の中で、子供の権利というのが表に出る関係で、 一生懸命子供たちの為に教育しようと思う先生ほど程苦しくなる。

しかし、逆に開き直って程ほどに子供を適当にあしらって、たとえばいじめに回る子供と結託して 上手いこといじめられる子はほぉっておいて、いじめる子のいう事を聞いてやっていこうと思ってしまえば、 これまたものすごく楽らしいのだ。

そういう形で教員組織の中でもかなり教育者としてちゃんとやろうとする人ほど、難しく なっていく状況があるようだ。

表には出ないが、学校の中で教員がストレスで心身症的で休職するケースがわりとある。 で、そういう休職者が何時も多い学校と、そうでない学校がある。ということは、休職者 が多い学校というのは、地域がそれだけ難しい地域、つまり学校批判が平気で言える地域、

たとえば夕方のスーパーマーケット、レジの側で何人かのお母様がたが井戸端会議を している。そこで担任批判の為の情報交換がある。そして情報が膨らんで保護者会など で担任をつるし上げる。そういう状況すら起こっている。

みなさんの時代もそうだったかもしれないし、私の時代も受験のプレッシャーがあった。 とにかく学校へ行ったら勉強をしてくる。学校へ行ったら先生のいう事を聞くんですよ。 家庭からそう言われて送り出されたものである。

現在はどうかというと、子供が帰ってきたら、「**先生今日は何を言った?」 「えっ そんなことやったの!!ダメねぇ あの先生は・・」ということを子供の前で 平気で言う母親が増えてきたことも事実である。

家庭の中で教師を尊敬しようとか、教育の専門家として教師はやっていてくれているから ある程度子供を後押しして、学校の中で上手くやっていけるように後押しを出来ない親。

出来ないどころか、子供が学校で上手くいかないのは全部担任が悪いんだ!そういう風に 思ってしまいたくなる。そいいう親が増えている状況がある。

そういう中で教師の間で戦々恐々としてしまって、職員室の中でも自分が生き残る為に、 「**先生は子供から信頼されていないみたいだ」と噂を職員室で流して同僚の足を引っ張る、そういう状況も学校によってはみられる。

日本女子大学の教育学科では、このところ毎年、二十人くらい教員として新卒で各県に採用されて行く。卒業生の話を聞いていると、「私たち未だ一年目だから

やっぱり小学校へ行くとしたら、三年生か四年生かその辺の担任になるわよね」と話合っ ているのである。常識的にはそうである。

組織経営的な観点からたてばやはり、一年生はまず難しい。五年六年は今云ったように身体は大きいし青春期に入るし、大人に対して大人と思わないような態度も増えてくるので難しい。

やはり三年四年が一番やりやすい。ですから、未経験の教師はそこに貼り付けるのが当然である。教育の専門家でなくてもわかることだ。しかし現実は違って、一年の担任になるとか、或いは借りに

三年生四年生の担任だとしても、三クラスくらいあるとしてその内の一つのクラスにたとえば、 多動性の子供がいたとします、そういう子供のいるクラスにわざわざ新卒の教諭を貼り付けるということがおこる。

何故か?今までいる先生はそういうクラスを持ちたがらない。だから、新卒や他の学校から転任してきた教諭に貼り付けるのである。学校長としても、それ以外やりようがないという状況が大きな問題である。

要するに、学校が何かをする組織になっていないと いうことである。ただただ組織として存在している。「ある組織」してしか存在せず、何かを「する組織」になっていない。

事務・会議システム:効率本意の仕組みへ

そんな状況で子供たちは教育を受けているので大変な訳である。一方で教諭に対して プレッシャーを与えるもう一つの要因は、学校の事務や会議の仕組みである。これは、かなり遅れている。

現代の情報社会には対応できない。だいたいクラスの名簿も、毎回毎回何か発生する度に、 目的別に子供の名簿にゴム印を押す。指導要録があるが、これは小学校でも、中学校でも 卒業していく子供たちの生活の状況、成績を記録として残しておく書類である。何年間

か 学校に保管しておく。これも現在は完全にデーターベースの時代ですから、 フォーマットがあってそこに教師が打ち込めば済むようなものだが、ゴム印を押して手書きなので年度末は大変である。 そのような現実となっている学校が多い。

かと思えば、会議などでの意思決定が下手である。難しい問題があると、ああでもない。こうでもない。 と言い合って二時間でも三時間平気で過ぎる。そして明日持ち越しましょうで終わる。 企業では絶対成り立たないですよね。このように、事務や会議が不効率なので、教員の負担は更に増える。

教育行政:上意下意達型から学校支援型へ

文部科学省から教育委員会、学校と上位下達型システムの中で教育行政が本当は教育 委員会が学校を支援する立場であるにもかかわらず、支援するどころか何か問題を起 こすとそれをもみ消すとか。

何か問題が起こるとその問題に直結している教師の全部責任にして処分するとか状況 すらある。今の難しい状況がいろいろ起こるような学校教育の現場の難しい状況に 学校の制度、教育委員会も含めて制度とか、これまでの慣習とかが全く対応できていない。

そういう状況で、かろうじて今フワフワ浮いているのが学校であるというふうに理解 せざるを得ない。

では、従来、近年、課題という三つの段階の図をみてほしい。

【従来】文部省→教育委員会→学校(教師)→子ども←家庭←地域

  まず一つ目は従来と書いてあるが、子供が学校で先生のいう事を、まあまあ聞いていた 時代。そして、地域の中でガッチリとした地縁、血縁でなくてもある程自治会町内会が しっかりしていて、そういう中で各家庭もある程度安定的に地域の中で存在していた時代。

そういう時代を振り返ってみると、文部省から教育委員会を通して学校に通達だとか、 いろいろな指導とか当然昔からあるわけであるが、それを基にして子供に対して学校は 教育をしていた。

ただ、地域の方では、家庭というのも今ほどそれぞれの家族が「地域の中で浮いてしまって、地域の中で何でもしていい」とか、「地域の中で迷惑をかけても大丈夫だ」という状況ではなくて、ある程度地域の重しがあって家庭の方もその枠組みで生きていた。

そういう家庭に支えられて子供は先生のいうことを聞いくるんですよ。といわれて送り 出されていた。そういう状況のなかで、非常に安定的な教育が教室の中で成り立っていた。 こういう形が成り立っていたような地域とか学校がかつては多かった。

【近年】文部省→教育委員会→学校(教師)←家庭(子ども)・・・地域

ところが、最近の難しくなってきた学校はどんなふうになっているか?。 文部省から教育委員会を通して学校にくるいろんな上位下達的な状況は変わっていないが。

今度は地域の中で家庭が非常に浮いてしまった。地域の重しとか、支えとか何もない、 結局個々の家族が全部孤立している。そういう状況で地域に存在している。そういう 家庭が増えている。

図2
そういう中で親と子供はどうか?先ほども話しに出たが教師批判がとてもやりやすく なってくる。これはマスメディアにも責任があって、たとえば最近少し減ってきては いるが、一頃社説でも何でも何か問題が起こると”学校は管理体制でよくない”とか、

”画一的”とか”教師はもっと子供の心を理解しなければいけない”とか、”体当たり でやるべき”だとか。だいたい学校批判、教師批判をしていればマスメディアは安泰 であった。そういう時期がかなり長かった。

そのような中で、学校が組織として踏ん張っていい教育を進めるためには、学校長のリーダーシップが重要である。 地域や家庭に対する説明責任(アカウンタビリティ)や、住民・保護者の一方的な言い分に 流されずに適正に各教師の仕事を評価すること、などは重要な条件

である。 実際に教師に問題があれば校長としても処分しなければいけないが、的外れな批判が外部から出たときに、 必要に応じて教師を保護できるかどうか、ということも、教師が安心して教育活動に専念できるためには重要である。 もしも、それができなければ、先に述べ

たような「開き直り教師」が生き残るしかない。現実には、 学校長自身も生き残りが大変なために、学校の代表として勇気と責任感に満ち溢れたリーダーとして 振る舞うことが極めて難しい。個々の学校長の問題というよりも、構造的な問題である。

しかし、そうなると教師はやっていけなくて、休職とか、退職という状況になってしまう。 そういう休職者とか退職者が多い学校や地域があって、そういう地域では、このメカニズムが より強く働いていると云える。

【課題】文部省→教育委員会→学校(教師)保護者←・地域(子ども) <

ではどうすればいいか?ということで、当たり前のことだが文部省や教育委員会からの 上位下達的なものが勿論必要ではあるにしても税金でやっているので、国の税金は公立 の学校に入ているので、当然上位下達的な部分は絶対残るし、必要である。

しかし、それとともに学校を支援するという立場が、これからますます重要となるだろう。 すぐれたリーダーシップを現段階では発揮できないままになっている学校長でも、 教育委員会からしかるべき支えがあれば、ちゃんとやっていけるケースは多いはずである。 孤軍奮闘で

一人で頑張れる校長先生は、卓越した人物であり、たとえば1400校あまりある 東京都の小学校の校長先生のなかに、それほど多いとは思えない。状況は、そこまで厳しいのである。 教育委員会の力は、本当に大きい。

圧力の向き →援助・支援 パートナーシップ(連携)

教育委員会が支援するような立場になれるかどうか、ある親が学校の状況が気に入らない。 担任が気に入らない。この担任できれば辞めさせたいと思ったときに、まず校長に云う。

校長に云って反応が悪いときは直ぐに教育委員会に行ってしまう。そして、そのような人が特定 の政治家と結びついている場合には、議員も連れていくことがある。そうなると指導主事あ指導室 の力ではどうにもならない。結果として、学校長に大きなプレッシャーがかかることになる。これでは校長もやっていられない。

もう一つ家庭とか地域の側はよく云われるように、パートナーシップのような考え方で学校長、 教員と連携をしながら保護者と地域が一緒になって子供を育てるというような形をもっと、 もっと作っていかないといけないという事がづっ〜と云われ続けて来ている。事例としては、

非常にいい事例も出てきてはいるが、なかなか現実にはそういうものが進んでいない状況で、益々学校が難しい状況が続いている。

河上亮一

河上亮一氏をみなさんはご存知ですか?かつて「学校崩壊」という本を書いて教育界では 注目された。河上亮一さん自身は中学校の教員でづっ〜と長年やってこられて、現在も教員である。その先生がこのままだと学校はやっていられない。現場の頑張ってきた教師の立場でもうダメダ!ということで、訴えかけて書いるような本である。

河上氏が随所で書いていることは、こういう言葉である。「かつての学校は地域に支えら れていた。自治会や、その中で役員をやっている方々に何時も学校は何となく支えられて いた。」

明確にこれがどうであった。こうであった。でなくても、でも地域の中である程度 の目配りがあって、学校に子供たちを任せるぞ!というようなことをある程度いろいろな 地域でされていたので、何とか学校は維持できていた。

ややもすると、外から見ると学校というのは、一人だけ偉くて閉じていて、ガリバーのように威張っている。と、或る時期からづっと見られていたきらいがある。

しかし、現場の教師の立場から見ると、外からは閉鎖的で偉ぶっているように見えるが、実際は、相当地域に支えられていた、ということを本のなかで書いている。

今日は、”危機に立つ学校教育”というタイトルで話しましたが、個人主義化とか、 孤立化とか、そういう中で子供たちがかなりアノミー化していて。そういう問題が学校の 現場に影響しているということが一つ。

学校内部でも組織制度疲労的な問題があって、もはや今の激動の地域社会の中ではやって いけるような制度ではない。そういう両方の要因によってかなり現場のクラスや授業は 難しくなっている。これが二つ目のポイントである。

子供に対する成長支援の課題

図

危機に立つことばかり云っていては暗くなるので、どうしたらよいか?皆で考えたいことは次のような点である。 下記の図に書いあるようなことで、これは何かというと。よく言うように家庭とか地域社会とか学校というのがそれぞれ教育力持っていて、この三つの教育力が非常に大事だ。

今それが低下していると、よく云われる。しかも低下しながらもそれぞれがバラバラに って孤立化しているという問題がある。課題として考えて見ればこの三つの立場がやはり 子供の成長を支援する立場から、もっと風通しをよくして連携しなければいけない。しかし 現状ではできていない。

そこで大事になるのが市民活動見たいなもので、地域の中でいろいろ活動している青少年教育をやっている団体とか、或いは自然保護にしても、福祉にしても何でもいいので何かやっている団体が学校に行っていろいろ子供たちに情報提供できるのである。

たとえば、環境保護活動をやっている団体が、学校の授業で環境教育で子供たちに何か教えるとか、福祉の活動をやっている団体がたとへば、子供たちの福祉体験のプログラムなどに協力することも出来る。

今は地域の団体がいろいろな協力を学校に出来る状況になってきている。地域の人が沢山学校に入れば入るほど風通しがよくなる。そして学校の状況も目に見えるようになる。先ほども云った閉じた教室の中で、教師一人対子供三十人で何が行われているかわからない状況が、少なくても減ってくるわけである。

地域の人が学校の中に入れば、授業中にもかかわらず廊下をうろうろしている子供が何人くらいいるか、それもわかるわけである。そうすると地域の人達も心配になる、そこから事態の改善は起こる。ようするに学校の現場の中だけに任せておいてはどうにもならない。

自分の問題は自分では解決できない。病人が自分で病気を治せない、医者の助けを借りないといけないと似たようなことである。市民が医者だというのは云いすぎだが、学校に風穴を開けて、地域の側からいろいろ学校の問題を指摘して、そして地域全体の問題にまで広げていく。

そういうことを、やはりかき回す役割を今市民活動は出来るのではないか。この四月から総合的な学習の時間といのが始まって。全ての学校で、 環境問題とか、福祉の問題とか、今までの国語、算数、理科、社会といった特定の教科とは全く別に、社会問題を考えるような授業がはじまる。 ところが環境にしても、福祉にしても、 何にしても社会問題にしても、学校の先生だけで子供たちと一緒に勉強って、それは出来ない。

やはり地域で活動している方が子供達と学校の先生と一緒になって、いろんな情報を提供してそしてやって行く、それが総合的学習の時間の一つの理想であるということで、いろいろな形で試みがされている。

正式に始まるのがこの四月から。これからみなさんも自分の持っているものを学校で何か役立てようと思ったら、非常にやりやすくなった時代なのである。

いろいろな形で地域の人が学校に入り込む中で家庭や、地域の組織と絡みながら子供達の為に、もっといい学校教育を作り上げるということを考えて行かなければならない。

只、先ほどから云っているように、メディアとか、子供市場とか、そちらから来る情報 は物凄い。いくら地域で頑張って子供に対していろんな教育をしようとしても、片方からはテレビ、インターネットで、負の影響力のある情報がどんどん来る。ですから我々は子供に対して直接働きかける教育活動の他に、

産業界とか政府に対して、子供の成長を支えるという観点からもっと規制すべき点は規制してほしいということを、 訴えかける活動が必要である。 或るいは、マスメディアでもいい番組をやっていたり、いい情報を流しているとすればそれを励ますとか、 いいプログラムを作ってもらうように働きかけるとか、そういう活動が一方で必要だ。

エンパワーメント

子供たちに関して直接教育活動をするというのを、云ってみれば子供に生きていく 力をつけさせてあげるわけですから、エンパワーメントと呼ぶことができる。 一方で、子供に対して直接ではないが産業界とか、政府とかメディアに対して子供の 成長を支援する立場から訴えかけていくこと。こういうことを何と呼ぼうかという事だが。

アドボカシー

こういう言葉がある。”アドボカシー”。これはもともと訴えかける、唱導活動を行う、人に向けて何か情報を流していくこと。今この社会で市民活動が活発になってきて、市民活動が、政府、産業界にいろいろ提案を出していく時代になった。そういうこをアドボカシーと呼ぶようにした。今市民活動の重要な機能としてアドボカシーがあるとよく云われる。

このアドボカシーという言葉を使うとすれば、我々が子供の為に、産業界とか、政府とかメディアに対してこれが必要だ、あれが必要だ、こうして欲しい。とか訴えたり、提案していくこと、これも今風の言葉でいうと、アドボカシーである。

皆さんの中でも、お子さん、お孫さん、それぞれ親戚の方でも地域の知り合いの人のお子さんでも、やはり学校へ通っているお子さん、いるとおもいます。そういう子供たちの為に何か出来るか?と探して見るのも大事なことではないかと思う。

以前高齢者の集まりの中で、高齢者は元気なので、「元気な高齢者が子供を救う」キャンペーンをやりましょうと云ったところ、みなさん乗ってくれた。じゃぁ皆で学校に乗り込んで子供たちに渇を入れたり、子供たちと一緒に遊んだり、

高齢者が子供と接して子供の教育を先生と一緒になって教育するなことをやりましょう。と話をしたところ結構感心を持ってくれた人が多かった。今いろいろな所で組織化が進んでいるが高齢者を中心に学校の中に総合的な学習などを含めて、いろいろな形で関わっていく方が増えてくると思うので。

何かチャンスがあればそういう形で子供の成長支援に関わって行くということも、一つの 生き甲斐というか、面白いことではないかという気もする。

《参考》

学校と地域でつくる学校の未来の本 今子供たちの問題、今日の話の流れには出てこなかったが、子供たちが自分達の学校を良くする為に、 先生と子供たちで一緒になって学校のカリキュラムを考えていくとか。それから、

自分達の町をよくする為に、 大人と子供が一緒になって町作りの提案をしていくとか。このように何かを決定する段階まで参加することを、 参画という言葉で呼ぶ。

大人の場合も行政がやっていることに直接企画の段階まで関わることを市民参画という。 子供が街作りや学校作りに直接参加していくこと、これも参画と呼んだりして、それによって 子供が大きく成長することが確認されている。今子供の参画というのが結構キーワードになりつつある。

                 【参考文献】

田中雅文「学校と地域組織の協働」白石克己・佐藤晴雄・田中雅文『学校と地域でつくる 学びの未来』ぎょうせい


文責:和田 節子
会場写真撮影:橋本 曜
HTML製作:和田 節子