神田雑学大学平成14年6月28日講義録

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日本の歌曲―わらべ歌篇
講師 上条 平


子どもの生活にとけこんだ歌
わらべうたと遊び
日本の音楽教育
口語唱歌と文部省唱歌
童謡運動の展開
日本の歌曲の特徴
君が代異聞
昔の唱歌教科書


上条 平さんのプロフィル
もと陸上自衛隊東部方面音楽隊奏者(主にコントラバス・金管楽器、フルート)小太鼓。
  仙台交響楽団、松戸市民交響楽団
  松戸童謡の会事務局長
  コーラス泉ハーモニー代表


子どもの生活にとけこんだ歌

日本の子ども達が、わらべうたを歌わなくなったといわれてから久しいが、しかし、
「もういーかい」「まあーだだよ」「指きりげんまん うそついたら針千本 のーます」
「あーした天気になーれ」など、子ども達の遊びのなかに、わらべうたの片鱗をきくことはまだできる。

わらべうたといっても、「かごめかごめ」や「花いちもんめ」「ずいずいずっころばし」のように、はっきりした歌になっているものだけではなく、上の例にあるように子どもたちの合図とか、おまじないとか、願いなどになっているものが多く見られ、歌という意識もないほどに、言葉とおなじように子ども達のなかにとけこんで、伝ってきたものである。

わらべうたは、もちろん古くからあったに違いないが、文献に登場するのは平安時代の「讃岐典侍日記(さぬきのすけにっき)」にある『降れ降れこゆき』が最初であるといわれている。江戸時代になると文献にも頻繁に登場する。特に有名なのは、行智(ぎょうち)という修験者が編んだ『童謡集』で、「子をとろ子とろ」「かごめかごめ」「れんげれんげ」
「ねんねんねんねこよ」「お月様いくつ」「うさぎ」など、江戸時代に謡われていたわらべうたがおさめられている。

わらべうたと遊び

江戸時代も中期になると、平和な時代がつづき、寺子屋という私塾が普及した。期間は短くても6歳過ぎから子どもたちは寺子屋に通う。また子守りや丁稚奉公に出る子どももいた。それでも寺子屋が終わる二時ころからは、たっぷり遊べた。子守りや丁稚小僧たちの仕事は、主人の子どもの相手をすることだったから、子どもの生活の大部分は、遊びで占められていたのである。

その遊びは、わらべうたを歌いながら行われるものも多く、「鬼遊び」(鬼ごっこ)や「かくれんぼ」「子とり遊び」などが行われた。女の子たちは「手まり」「羽根つき」「お手玉」などが大好きだった。とくに正月は、娯楽の少ないむかしの人にとって楽しみな行事だったので、たくさんのわらべうたが歌われた。

自然のなかで遊ぶこどもたちは、日、月、星、風、雨、雪などの自然現象に敏感だったと思う。「うさぎ」とか「一番星みつけた」「山火事燃えろ」「大寒小寒」「ゆきやこんこ」などは、目で見、肌で感じたそのままを口ずさんだ歌である。それでメロディーも歌詞も素朴なものができあがった。

明治の関東地方のわらべうたに、次ぎのような歌がある。
”いちかけ二かけ三かけて しかけてごかけて橋をかけ 橋のらんかん腰をかけ
・・・・…西郷隆盛・・…”
云々というからには薩摩で流行ったわらべうたかと思うと、さにあらず、江戸(東京)で作られ、全国に広まった。

”ぼんさん ぼんさん どこへ行くの わたし田圃の稲刈りに  
そんならわたしも連れてって  お前がくるとじゃまになる 
このカンカン坊主くそ坊主 うしろの正面だぁーれ”

子ども達が輪になって、目隠しした鬼(坊さん)を真ン中に置き、後ろにいる人を当てる遊びである。遊びの場所は、お宮やお寺の境内と決まっていたものである。

”子どもと  子どもがけんかして 子どものけんかに親が出る
 ひとさん  ひとさんとめてくれ  なかなかやまぬくすりやさん”

いたずらっ子のけんかを側でみていた子どもたちが、遠くの方からこの唄をうたってはやしたてる。

”かってうれしい花いちもんめ  (まけてくやしい花いちもんめ)
 となりのおばさん チョイとおいで  鬼がこわくていけられない
おかまをかぶって チョイとおいで それでもこわくていけられない
 あの子がほしい  あの子じゃわからん  この子がほしい
 この子じゃわからん  ○○ちゃんがほしい”

はなちもんめは、子どもたちが輪にならず、等人数で相対して歌いながら腕を組み、唄に合わせて前後に動く。全国的に流行したが、文句は地域によって異なる。こんなわらべうたは、自分はほとんど、ばーちゃんから聞いた記憶がある。

日本の音楽教育

明治になって、政府は学制発布にともない西洋音楽中心の音楽教育を指向して、三味線やわらべうたは卑俗だとして排除しようとした。邦楽出身の伊沢修二は、アメリカに渡って西洋音楽を学び、帰国後音楽取り調べ係となって西洋音楽の普及に力を尽くした。文部省による唱歌は、欧米の歌曲に日本語の歌詞をつけたものが多かったが、次第に日本人作曲の、今日でもなお歌われるような名曲も作られた。

*ちょうちょ(蝶々)         野村秋足詞  プペイン民謡    (明治14年)
*見わたせば(むすんでひらいて) 柴田・稲垣詞 ルソー作曲     (明治14年)
*故郷の空            大和田健樹詞 スコットランド民謡 (明治21年)
*夏は来ぬ            佐々木信綱詞 小山作之助曲    (明治29年)
 *荒城の月            土井晩翠詞  滝廉太郎曲     (明治34年)

日本の歌は、ドレミファソラシドの中で4番目の音「ファ」、7番目の音「シ」がないものが多い。四七抜音階である。その他、ファとラとシは半音階になっているものもある。
それがイギリス・スコットランド地方の歌と似ているため、曲はそのままで歌詞をあとづけに日本の唱歌とした。ここで名曲「夏は来ぬ」をビデオ上映。
ついで「荒城の月」。土井晩翠は、一番と三番を会津若松城、二番を仙台青葉城址で作詞した。瀧廉太郎は大分の竹田城址で作曲したと言われている。大合唱。

余談だが、今年わたしはイタリヤ旅行をした。カプリ島のホテルで、持参のハーモニカの演奏をした。「荒城の月」を一行十四人で合唱した。一月から各月の歌を歌って行ったが、一行の中に奥さんが誕生日という人がおり、夫の男性が四月の歌をバックに宝石をプレゼントした。パーティは多いに盛り上がって、外人も大勢集まった。わたしも調子に乗って、十二月のクリスマスのジングルベルを演奏すると、アメリカ人達は皆で踊り出した。

草競馬などをおまけに演奏して景気づけると、その場は最高潮に盛り上がった。友人が帽子を持って廻るといったが、それだけは止めて貰った。しかし、実にいい気分であったので、翌日、また演奏した。この日はとうとう1時間半、三本のハーモニカを吹いてふいて、吹きまくった。「荒城の月」は外人の皆さん、誰でも知っていた。
ベネチュアでは、ゴンドラに乗って、カンツオーネを演奏した。


口語唱歌と文部省唱歌

さて、本題に戻って、文部省はわらべうたよりも西洋音楽教育を重視していたが、子どもにとって、それは歌の意味が判らないうたを歌うことになった。しかし、明治末期から大正にかけて、初期の文部省唱歌のまえに、口語唱歌が生まれている。口語唱歌は、日常使われる言葉で歌詞が出来ている。子ども達は、喜んで歌うことができた。

たとえば「きんたろう」「はなさかじじい」「大こくさま」「お正月」など、である。たとえば「きんたろう」「はなさかじじい」「大こくさま」「お正月」など、である。「まさかりかついだ きんたろう くまにまたがり うおまのけいこ」
この口語唱歌のあとに、初期の文部省の尋常小学唱歌ができる。「ふじの山」「朧月夜」「虫の声」「木の葉」「われは海の子」「海」「鎌倉」「紅葉」「汽車」「冬景色」「村祭」「早春賦」などである。

童謡運動の展開(大正―昭和初期)

童謡とは、こどもがうたうことを主目的として、童心にそうように作られた歌や詩と定義されるものである。大正時代の童話・童謡雑誌「赤い鳥」を中心とする童謡運動で、北原白秋、野口雨情、中山晋平、本居長世によって、わらべうたを取り入れた童謡「十五夜お月さん」「てるてる坊主」などが作られると、子ども達は喜んでうたった。

白秋は、明治の学校唱歌を批判し、【これにかわるべき子どものための歌は、「童心」を「童語」の伝統としては、かってのわらべうたを仰ぐのが望ましい。「童心・童語の歌謡」を簡略して得られるのは「童謡」の2字であり、〈中略〉唱歌の克服を望む新たな児童歌謡につけられた名は、どう考えても「童謡」の文字のほかにはあり得ない】と「童謡復興」のなかで記した。

童謡運動の展開によって、今日なお歌い継がれるような名作が続々と登場した。
「かなりや」「青い目のお人形」「浜千鳥」「雨」「砂山」「月の沙漠」「花嫁人形」「鞠と殿様」「肩たたき」「山寺のお尚さん」「リンゴのひとりごと」「めんこい子馬」「かもめの水兵さん」「赤いぼうし白いぼうし」「野菊」・・・…。それは昭和初期の新作唱歌に受け継がれる。「オウマ」「こいのぼり」「うみ」「たきび」など。

日本の歌曲の特徴

日本の歌曲は、ご存じと思うがドミソから始まっている。
特にハ長調の曲は、ドかソから始まるものが多い。短調の曲は、ラドミから始まる。
「荒城の月」はミミラシドシラと悲しい曲想で、短調の曲である。「君が代」はレドレソミ
で特殊な始まりであるが、これは雅楽の音階から来ている。

日本の軍歌は勇ましそうだが、実は短調で悲しい。だから軍歌ではないといわれている。日本人の心は、戦いのなかでも優しさに満ちているのだ。「暁に祈る」など≪あああの顔で、あの声で…≫と歌っているうちに悲しくなる。悲しい曲の代表は「海ゆかば」である。名曲だが、聴いているうち死にたくなる。

「君が代」は、林広守の作曲と言われている。歌詞は万葉集の読み人知らず。「君」とは自分の恋人を指しているが、明治以降の国家指導層は、それを天皇として権威づけた。作曲も実は林広守ではなく、広守の息子と奥久義の合作である。林広守は、当時宮中雅楽部のトップであったため、作曲者となった言われている。現在でもヒットチャートの曲は、弟子がつくっても大御所の名前でないと売れないという事情と同じである。

君が代異聞

君が代は、実は全部で七曲もある。フランス人ルルーが作曲した。明治になってから
国家の概念がはっきりしてきたので、国旗も日の丸として制定し、国歌も作った。
しかし、国で作ったわけではないので、教科書にも載っていない。明治5年以降に宮廷雅楽部が作ったことになっているから、雅楽部部長林広守の名が作曲者となった。

文部省唱歌のなかに、作詞作曲者不祥というのがある。
「故郷」がそれだ。実は、あとで判ったが作曲岡野貞一と作詞高野達之である。作詞の高野達之は長野県の豊田村の出身で、高野家の美しい娘と結婚したかったが、高野家の親に「人力車に乗って帰ってくるような人物でなければ、娘をやれない」と言われて発奮、「故郷」を作って、「志を果たし、いつの日か帰らん」と、出世して娘と添い遂げたと言う。

 「朧月夜」も同様作者不祥と言われていた。しかし、最近になって高野達之詞、岡野貞一曲二人のコンビで作られたことが発表された。
文部省の唱歌編纂委員というのが、曲を審査する過程で詩や音を修正することがある。
「荒城の月」もそうだった。山田耕作が一部修正した。現在歌われているのがそれである。
本来、早世したとはいえ、作曲者瀧廉太郎の元譜が尊重されるべきだが、その時代では、権威者のそのようなことが罷り通った。

「リンゴの歌」と「ミカンの花咲く丘」は、戦後の日本を復興させたと言われるほど、日本人の心情に訴えを持った歌だった。日本放送協会の作曲者への注文は、「リンゴの歌」に
対抗できる「ミカンの歌」だった。海が見え、ミカンの花が咲いて、船が一艘浮かんでという注文だったという。歌詞加藤省吾。作曲者海沼 実は一晩で作曲し、少女歌手川田正子に会場に向う汽車の中で曲を指導した。題を「ミカンの歌」ではなく、作詞者加藤の独断で「ミカンの花咲く丘」にしたのが大ヒットに繋がった。

会場よりの声

「日本の唱歌は、世界でも珍しい存在だと聞きました。それは子どもの歌なのに、一流の文学者が詩を作り、また一流の作曲家が曲を作ったという点である・・…」
「全くその通りです。文化勲章第1号を受賞した佐佐木信綱先生が作詞した「夏は来ぬ」、土井晩翠先生の「荒月の月」などは、まさしく超一流の先生方の作品です。そのほか野口雨情、佐藤ハチローなども童謡の詩を書いています」

日本の国歌について

「君が代」は国歌として荘厳なのは結構であるが、今回のワールドカップでも感じられたように、これから国を代表して戦う直前に演奏する曲としては、他の国の国家に較べて覇気がなく、ファイトが沸かない。そこで、国民歌的な第二国歌のような歌があった方がいいという意見が多くなっています。これに対して如何ですか?」

「たしかにその通りです。しかし、これはお役人が決めることではなく、国民の皆の意見で決めることだと思います。高野達之作詞、岡野貞一作曲の「故郷」は、国民に最も多く歌われている唱歌ですが、その意味では第二国歌に相応しい歌です。「赤とんぼ」と共に多くの人に歌われています」

昔の唱歌教科書

ぜひ、皆さんにご覧頂きたいものがある。
尋常小学校唱歌の教科書。国民学校唱歌。(めんこい子馬=この歌は大正期に作られたが、軍事輸送力になる馬の増産奨励のために戦時中に歌われた。このメロディで替え歌が流行った。【越中富山の薬売り 鼻くそ丸めて南金丹 おへそのゴマは黒金丹 そいつを飲む人アンポン丹 そういうあなたもアンポンタン・…】
懐かしい戦後の小学校唱歌の本(紙の質が実に悪くボロボロ)。

最後に、日本の歌カラオケを全員で合唱
「ひな祭り」「おさるかごや」「森のくまさん」「荒城の月」・・・・・・・…

● ・・…と楽しい音楽の話題が続くのでしたが、上条さんは、今回持参するのを忘れた
ハーモニカとトランペットの演奏会を、8月30日(金)九段下社会教育会館5Fの
「多目的室」で行なうことになりました。             
終わり

文 責   三上卓治
写真撮影  橋本 曜
HTML編集 山本 啓一