神田雑学大学 8月30日 講義


「ハーモニカ・ミニコンサート


講師:上條 平


目次

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講師紹介
軍曲
君が代
伊沢修二
音階
小学唱歌
文語体唱歌
口語体唱歌
昭和初期の文部省唱歌


上條 平講師講師紹介
講師上條 平さんは元陸上自衛隊費東部方面音楽隊のコントラバス奏者でした。 また同時に優れたハーモニカ演奏者でもあります。本講座は6月7日に行われた 「日本のわらべ唄」の続編「日本の童謡」ともいえる音楽講座で、随所にハーモニカ伴奏による全員の合唱があって、 実に楽しい夕べでした。

軍曲
西郷隆盛の膝元、鹿児島薩摩では、独自に「海軍曲」を持っていた。 当時イギリスのフェントンと言う人は軍楽を作曲していた。 日本の国は、外国から、薩摩の国と徳川政府、二つであると見られていた。

これはフランスに おける万国博覧会に派遣し、いろいろ見せた記録があることから言われたらしい。 軍楽を語らずして日本の音楽は語れない。 キリスト教が入ってきて「讃美歌」。一方ではシルクロードから中国に入り、日本に入ってきた「雅楽」。 これが日本の音楽に大きな影響をもたらした。

君が代
フェントンは各国には国歌がある、日本だけないからということで、歌詞があれば作曲をしましょうといった。 そして幾つも作った。”国歌”は古今和歌集の中で、 蓬莱山という歌があり、その中から取ったとも、万葉集から取ったとも言われている。”国歌”は最初は五つ六つあった。 フェントンは、歌詞の出来ている「君が代」を英語に訳して作ったのがこの曲
である。 明治天皇はこれを聴いて、国民が歌っていると聞

いたがが、国家のイメージに合わないといった。 現在の「君が代」は林廣守が作ったといわれているが、実際は奥好義が作り、 林廣守・子供の廣季は手伝ったにすぎない。 「君が代」は第二次世界大戦の終わる頃まで広く国民に歌われていたが、 戦後は日教組の抵抗にあって、学校で「君が代」はなかなか歌えなくなった。

上條 平講師伊沢修二
ボストンのハーバード大学で西洋音楽を学んだ伊沢修二は、長野県高遠の下級武士の息子であった。 慶応三年に東京に上京、洋楽を修め、大学を卒業して文部省に入る。二十四歳で愛知師範の校長にまでなった。

音階
日本の音階というのは、「ドレミソラド」と云って「ファ」と「シ」がない。 アメリカに渡った伊沢修二は「ドレミファソラシド」この音階をなかなか歌 えなかった。ハーバード大学の教授は、他の学科は優秀なので音楽も卒業したことにする。 音楽の試験は免除するとまで言われたのである。しかし、修二はフェントンに

「ファ」と「「シ」が歌えるように一生懸命習った のである。帰国した修二は、唱歌は大事なことだから教育の中に取り入れるべきだと大山巌に上申した。 議会を推して音階を入れたが、教える人がいない。歌えない。そこで教科書を作ろうということになり、 明治十四年に教科書を作った。

小学唱歌
教科書が出来て最初に教科書に載ったのが「ちょうちょ」である。そして 130年間歌われている。 

「見わたせば」作詞:柴田清照・稲垣千頴、作曲:ルソー。
現在は「むすんでひらいて」で愛唱歌されてるが、明治十四年は、下記の 歌詞で掲載された。

ハーモニカで「見わたせば(むすんでひらいて)」

みわたせば

文語体の歌
「故郷の空」スコットランド民謡 ハーモニカを聴く
「夏はきぬ」作詞:佐々木信綱 作曲:小山作之助

「荒城の月」作詞:土井晩翠 作曲:滝廉太郎  聴く

土井晩翠は、仙台の出身で「荒城の月」の詩は、一番と三番は会津若松で作り、 二番は、青葉城で作った。曲を作った滝廉太郎は九州大分県、竹田の岡城阯で作った。

ハーモニカに合わせて皆で合唱口語体唱歌
明治の終わりから大正にかけて口語唱歌を取り入れた。今までの詩は難しくて 何を歌っているか解からない。子供達は意味を知りたかった。 口語体で「金太郎」「花咲じじい」「大黒様」「お正月」これらが作られた。

《休憩》

「金太郎」は、作詞:石原和三郎 作曲:田村 虎蔵、子供達が喜んで歌える歌をと 提唱した。文語体派の人は反対であった。

「お正月」は、作詞:東 くめ 作曲:滝 廉太郎。

昭和初期の文部省唱歌
「富士山」は、作詞: 巌谷小波(いわや・さざなみ)が明治44年作った、作曲者は不明。
ハーモニカの伴奏でみんなで合唱

富士山を聴く    かたたきを聴く     ふるさとを聴く

ーおわりー


文責:和田 節子
会場写真撮影:橋本 曜
HTML製作:和田 節子