2002-10-18神田雑学大学講座
私はりんごの里アンバサダー

講師  三上卓治


目次

講師プロフィル
板柳町というところ
津軽弁講座
縄文語の仮説
不思議のくに津軽
ふるさとセンター
新発見!りんごの新しい食べ方
無登録農薬問題と安全性



講師プロフィル

NPO神田雑学大学・ディジタルアーカイブシニア理事長

青森県北津軽郡板柳町出身

吉祥寺村立雑学大学顧問

読売日本テレビ文化センター講師







私はこのたび、故郷青森県北津軽郡板柳町の「りんごの里アンバサダー」を委嘱され、同町の町長以下の主要な関係者と二泊三日の交流会を持った。アンバサダーとは、板柳町を日本一のりんごの町とするための、各分野の専門家1

6名である。アンバサダー各位には、地方自治経験者である元逗子市市長や、元農林省部長クラスの社長や、銀行員、デパートの食品部長他色々な分野の人材である。私は何の専門家であるか不明であるが、なぜか本年7月、町長の館岡一郎氏の訪問を受け、板柳町の町おこしに協力の要請をされた。

板柳町は、岩木山のふもと津軽平野のほぼ中央に位置している。弘前市から五能線に乗ると、列車は枝もたわわにリンゴが鈴なりの果樹園の中を通って5つ目の駅である。自分が中学生の頃に使っていた帝国書院の東北地方地図には、板柳という駅は印刷されておらず、寂しい思いをした。たしか当時の人口は8千人だったと思う。戦後の地図には漸く印刷されるようになったが、私は日本地図を手にすると、真っ先に青森県を開き、板柳が載っているかどうかを確かめる癖がついてしまった。

さきほど、三省堂で伊能忠敬の伊能地図が出版本になっていたので、買うつもりで奥羽地方を開き、ついで津軽へ進んで板柳を探したが記載が無かったので、買うのをやめた。きっと、街道が戦略上あまり重要でない路線だったから、幕府御用の伊能測量班は省略したものであろう。そのような板柳町であるが、私が小学校5年生

(昭和 14)の頃に、リンゴの鉄道貨物出荷高は青森県内で一番だったと聞いた。青森県のりんご生産量は全国一であったから、すなわち板柳はりんご貨 物出荷高では日本一になると、自ら慰めた記憶がある。

その板柳町に「ふるさとセンター」が建設されたのは、昭和

62(1987)4月のことである。りんご畑のほか、見るべきものがない町に突如出現した超スマートなデザインの建物。それは
  1. りんごによる地場産業起し、
  2. 体験農業の推進、
  3. 新しい農業技術の提供

の三つを目的に町経済活性化の拠点とするためのものであった。だが、町内の反応はあまり芳しくなかったようだ。三つのコンセプトがやや抽象的であったり、変化を求めない田舎町にしては、建物が近代的過ぎたのであろうか。

青森県の津軽地方を理解して戴くために、ここで唐突であるが津軽弁の解説をすることにしたい。津軽弁は、鹿児島弁と並んで、わかりにくい方言の代表と言われている。私は早稲田大学に入学したときに、鹿児島出身のクラスメートとお国言葉で会話をしたことがある。結果は七割がたが意味不明であった。残り三割は固有名詞であったから、どうやら理解可能であった。

私は、東京出身のクラスメートと会話するのが、苦手だった。というのは、しばらく話をしていると、ほとんどの学生は「君、東北?」と聞いてくるからである。相手は言葉の訛りから、ただそう感じただけのことであろうが、聞かれた私は如何にも「田舎者」と言われたような気がした。そこで私は東北訛りを聞かれるのが厭さに、無口になった。ほとんどの東北人は、同じ思いをしたに違いない。それが、東北人は無口という定番になった。

私は、訛りを直す努力をしながら、津軽出身の先輩たちを観察した。私が接した先輩たちは、全員がひどい訛りだった。それを見ると、訛りは矯正できないものと、判断した。そこで、私は改めて日本語

(共通語=俗に東京弁)を勉強することにした。勉強といっても小学校から、中学校、高校と国定教科書で国語はならっているので、文法や漢字はすでにマスターしている。問題は会話に必要な発音とか、言葉のアクセントである。

まず、ラジオのニュースに聞き耳を立てる。アナウンサーの発音とアクセントを注意して聞く。徳川無声の宮本武蔵(吉川英治著)の朗読を聞き、言葉の「間」を感じ取る。映画を見るときは、俳優同士のせりふを聴き取る。また映画の場合は、目が悪い下宿のおばさんに、標準語で筋書きを話して聞かせる。特に下宿のばあさんは、何年も映画を見ていないこともあって、私のつたない映画の話を待ち焦がれるように聞いてくれた。

津軽弁の発音には、四つの特長がある。

@「い」と「え」に「?」が混じった中間音で、「い」「え」の区別無く発音する。

A「し」と「す」に「?」が混じった中間音で、「し」「す」の区別なく発音する。

B「ひ」と「へ」はともに「へ」と発音する。

C「ち」と「つ」に「?」が混じった中間音で、「ち」「つ」の区別なく発音する。

この四つをチェックすると、訛りの問題は八割がた解決する。しかし、会話の中で無作為に、この音が来たら正しく発音しようとすると、タイミング的に会話のリズムに合わないから、訛りが直しきれない。したがって、私の場合は発音を直すことをせずに、最初から正しい日本語として記憶することにした。あと、アクセントは音楽と同じで、覚えてしまう。その結果、私は標準語の日本語会話を大体一年後にマスターした。依頼、我ながら急におしゃべりになった。

ここで、実際の津軽弁がどのような雰囲気であるか、「津軽弁の日やるべし会」の実演を披露する。朗読は多分伊奈かっぺい氏であろうか。受講者の笑い方を見ると、この程度のスピードなら東京の人でも大体は理解できたことがわかる。

次に実際の津軽人の間で交わされる津軽弁はどのような感じか、青森県黒石市出身の中村誠逸さんとの掛けあいでやって見る。

津軽弁の普通の会話

(先輩と後輩)

三上  ながむらさん。あんだどごの生(ま)れでしたけ?

中村  わだきゃ黒石(くろえす)ですおん。あんだどごだきゃ?

三上  わせ、板柳(えだやなぎ)でまれで、弘前(へろさぎ)の中学校さはたんだ。

中村  な、ンだが。わもそんだきゃ。昭和

16年の卒業でせ。

三上  へば、わの大先輩だでばな。いどんど、失礼へしたじゃ。

通りすがりの会話

(友人同士)

三上  どさ。=どちらへ。

中村  ゆさ。=銭湯へゆくのさ。

家庭の会話

食事(親子)

三上  け  =食べろ

中村  く  =食う

入浴(夫と妻)

三上  どだけ?  =どう? 

中村  あづましきゃ=とてもいい気持ち

外出(兄と弟)

三上  さ いぐべし  =さあ 行こうぜ

中村  わもいぐでゃ  =ぼくも 行く

津軽弁の雰囲気が、お分かり戴けたろうか。

以上のやりとりにあるように、実にのんびりした、独特の方言である。

この津軽弁は、しかし、調べて見ると、発音とイントネーションが変わっているが、古語がそのまま残っていることに気づく。

「わ」という自分を表す言葉。これは古語の「われ」に進化したと思われる。

「な」というのは相手をさす。これは「なれ」または「なんじ」となった。

「け」とは食べ物を示す古語。

「へ」は動詞について、命令形を現す助動詞。

「べし」意思決定を表す助動詞。

「うだで」とは「うたて」という手の付けられない状況を意味する古語。形容詞。

「かなし」とは「いとし」と同義の古語。形容詞。

「あづましく」とは「あがつましく」。最高に気持ちのいい状態。形容詞。

吾が妻しく=わが妻に限るの意


さて、津軽弁について、私はある仮説をもっている。

私は津軽弁に残っている古語は、大和から伝っている言葉が、変化の少ないこの地方だからいまだに残っていると長い間思っていた。このたびの津軽訪問で、空港から板柳に向かう途中、三内丸山遺跡の横を通過したときに、ひょっとするとそういう中央指向は誤りかも知れないと感じたのである。文化は流れるものである。それは水と同じように高いところから低い方に流れる。

三内丸山遺跡が発見されたときの衝撃を私は忘れない。

1994年7月6日の朝日新聞の朝刊は一面トップ三段抜きで報道した。その見出しは、「五千年まえ、青森は東京だった。三内丸山遺跡」であった。そこには、五百人以上の集落があって、約千五百年暮らしていたという。農耕栽培はなく狩猟生活が中心であるとされた縄文時代の定義は、根底から覆った。しかし、三千五百年まえに集落は、なぜか消えたという。(写真は三内丸山遺跡HPより転載)

なぜか、については色々な説がある。「気温変化」「弥生人の病原菌」「集落分散」。

私は、その中で「気温変化」説をとる。当時、北東北は温暖の地であったと思われる。人々は温暖な環境の中で、食べ物の豊な生活をしていた。そこには、高い木柱の塔が建設され、集落の中央に道路があり、墓地まであるという高い文化があった。新潟など遠い地域の黒曜石なども集められて、色々な物に加工された。

しかし、三千五百年前から気温が変化して寒冷地となった。そこで、寒さに適応できない人々はより温暖な南に異動した。東北弁が現在の各県ごとに少しずつ変化しているのは、その証拠ではないか。東北に止まらず、北陸、関東地方にも東北弁のような発音や、いいまわしが残っているのは、そのためである。

津軽地方のジョークに「津軽の殿様が天下取ってえだら、津軽弁が標準語さなってえだべ」というのがある。私は、これは冗談ではなく、ありうると思う。それは年代を考えると良くわかる。三内丸山が栄えたのは五千年前から三千五百年まえまでである。

三内丸山の文化は、気温の変化とともに南下した。そこで交わされた言葉は、縄文津軽言語である。津軽言語は縄文の言葉として南下西進を続け、ついに大和に至る。まほろばの地大和が栄えたのは、せいぜい三千年から二千年前の弥生時代である。

津軽に残る古語の数々は、年代的にみると、大和から伝えられて残った言葉ではなく、もともと、津軽で使われていたものと考える方が正しいのではないか。日向族が東進して大和を侵略し、神倭伊波礼毘古(かむやまといわれひこ)が橿原神宮で初代天皇の座に即位して、初代天皇となって政治体制を確立し、独特の文化圏を築いた。その文化圏の言葉は大和ことばとなった。

青森県の習俗に、イタコ・ゴミソに代表されるシャーマニズムがある。

これだけ科学が発達した現代においても、なお不可知な部分が存在するが、青森県においては有名な恐山の霊大祭で報道されるイタコが、現存する。

私が中学生の頃に、私の子守り役であった女中が「狐つき」になって、目は虚ろ、あらぬことを口走るようになった。

 そこで、隣町から有名な坊さんがきて、「狐おとし」をすることになった。子どもは見てはいけないと言われたが、私は隣部屋から障子に指で穴をあけて、一部始終を覗いた。父母、長兄が同席して「狐つき」になった女中を囲み、坊さんがそれに正対してお経を読み始めた。

5分も経たないうちに、女中は体ごと海老のように跳ね回った。

坊さんは「喝!」というと、女中はばったり倒れたが、やがて起き上がって 「おれ、ほんとはこの家のおが様に付くつもりだったが、余りにしっかりした人で付けなかった。そこでこの女中に付いたのだ云々。くどくど・・・・」中略。

坊さんは「馬鹿者めが、早々に立ち去れ。判ったか!」というと、女中は再びばったり倒れ、しばらくして正気に返り、いつも彼女に戻った。

つぎに、私の姉の話。

姉は霊能力があり、近い人が死ぬと連絡がある前に感じることが出来た。

昭和

46年に母が86歳で亡くなった。翌47年の一周忌に私がアメリカへ出張することになって、一周忌には参加できないことになった。わが故郷では一周忌も近いことだから、亡き母がどうしているか、イタコに聞いてみようと姉と兄嫁が

青森市のイタコの家に、リンゴと大福と一升瓶を持って出かけた。

母の名前、命日を盲目のイタコに告げて、二人は祭壇の前に座った。イタコは何やら経文を唱えて、母の霊を呼び出した。二人は母に色々尋ねる。今どうしているかという問いに、母は「綺麗な花が咲いている丘に、いつもいる。先に亡くなった連れ合いの父は、自分よりは低いところにいる。自分より先に亡くなった息子のYは、暗くてじめじめしたところにいる」

←むつ

CCI Web newsより

確かに、死者である母は熱心な仏教信者であった。父はひたすらいい人だった。

兄は好き放題な人生を送り、

42歳のときガンで亡くなった。

母は「現世の修行の度合いが、ここへ来てからの位置決めとなり、肉親だからといって一緒にいられる訳ではない」といった。

姉はもろもろのことを尋ねたあと、卓治がアメリカへ行くが、道中無事に帰って来られるだろうか?」と聞くと、「もちろん、何事もなく帰って来られる。しかし、私は怒っているのだ。末弟の卓治がアメリカへ行くというのに、兄弟の誰一人として餞別を届けたものがいない。これはどうしたことだ!」と語気荒く叱った。

以上は、私のアメリカ行きを見送りに、わざわざ青森から東京へ出てきた長兄に

聞いた話である。いまどき、イタコの口寄せを信じる人はあまりいないが、私は信じている。なぜなら、長兄の手には、兄弟から集めた合計

10万円の餞別が握られていたからである。

そんなアホな、というなかれ。二,三年まえに何処かの曲芸団から逃げ出した大蛇アナコンダが行方不明になり、消防団と警察が総出で捜してみつからず、最後に大湊のイタコに見てもらったら、神様から「橋の下にいる」とお告げがあった。そこで目標を橋の下に定めて捜索したら、ほんとにそこで発見したという事例だってあるのだ。

以上津軽の風土に関わる話を申し上げた。


さて、津軽平野のりんごの他には何もない板柳町が「ふるさとセンター」を中心に、全町あげて「日本一のりんごの里」に飛躍することに取り組んでいる。

ふるさとセンターの建設当初は、保守的な板柳にしてはデザインが立派すぎて、町の人々にはあまり評判がよくなかったことは前に述べた。

しかし、平成元年に温泉を掘削して、公衆浴場クワ・センターやレストランが出来るとだんだんに立ち寄る人が増え、散歩コースにまでなるようになった。決定打は 神戸都市問題研究所の「宮崎賞」(地域総合活動賞)を平成2年11月に受賞したことである。さらに平成5年2月朝日新聞社の「1992年度青森県朝日新聞農業賞」。同年5月、国土庁「国土庁長官賞」(地域づくり)。

平成6年2月青森県市町村活性化対策協議会の「第6回あおもり活性化大賞」

平成9年12月東奥日報社の「第50回東奥賞」を受賞するに至った。その都度

新聞・雑誌・テレビに報道されるとともに、一躍知名度が向上し、サイトツアーバスの立ち寄り場所にもなった。町民の評価も様変わりとなり、今では「ふるさとセンター」はわが町の誇りである。

りんごの生産量だけをみると、板柳町のりんご市場の扱い高は県内で

5番目である。町のコンセプトは生産量を一番にというのではなく、りんごの品質、情報、安全性、健康、加工技術、リサイクルシステム、環境、将来性などをトップにということである。このうち、特に注力するのは後述する「安全性」である。

さて、

1011日夜、私たち「りんごの里アンバサダー」12名は、旧尋常高等小学校あとに建設された多目的集会場「アプル」で、町の有力者30名に紹介された。それぞれが簡単なスピーチの中で、提言を行うことになっていた。私は町のホームページに苦言を呈した。板柳町のホームページは、正直なところ良くできているが、教科書風で面白みがない。

インターネットは、音声や動画を組み込めるようになっているのだから、資料館に写真が載っている昔の農具や、農薬噴霧器の音を聞かせるとか、津軽弁の生の声が聞こえるページを作るとかの工夫で、一度訪問した人が再び見にくるようにしなければ、せっかくのホームページが泣く。神田雑学大学にはIT技術者が揃っているので、ぜひ相談して戴きたいと申し上げた。

懇親会では地酒とワイン、ビール、焼酎や山海の珍味が卓上にあふれ、たらふくご馳走になった。珍しい津軽民謡と手踊りも披露され、興を添えていた。このあと、弘前の名物民謡ライブ「山唄」へ移動、津軽三味線の太棹の大合奏を堪能した。宿泊はふるさとセンターのコテージであった。青森ひば材の香りが室内に漂い、都会生活の心の疲れが癒される思いがした。

ふるさとセンターには、色々な施設があって、訪問者を飽きさせない。スマートなデザインの本館は、りんごの過去、現在、未来がわかる知的エリアになっている。りんごは中国から渡ってきたときは苹果(へいか)と称した。これは、サクランボ程度に鈴なりに実をつけるが、あまり美味しくない。

明治

9年にアメリカから渡ってきたりんごの苗木を接木して育てたのが、現在のりんごの原木となった。以来、りんごの歴史は品種改良の歴史である。国光や紅玉がどのように誕生したか、インドやゴールデンデリシャスは、どのように変身していったか、センター本館にはりんごに関するあらゆる資料が揃っている。

このほか、ここには完熟りんごジュースの加工場や、温室栽培、炭焼(りんごの廃木)、りんごの品種見本園、農産物直売所「とれたて市」などが、イベント広場を囲み、工芸館においては草木染め、陶芸工房、りんご菓子工房などがあり、見学者は専門家の指導によって、好きなものを学ぶことができる。これらを総称してお洒落に「

Ringo Work」と名づけている。りんごの他は何もない板柳町だが、

「りんごのすべて」が揃っているのだ。一見の価値がある。

アンバサダー一行は、翌日は町内のりんご市場、採果場、冷蔵設備などを視察したあと、世界遺産の白神自然林のサイトツアー、翌々日は十和田湖・八甲田山の紅葉狩など、板柳町から都合二泊三日の心のこもった大接待を受けた。車に添乗の役場の青年二人は、本職の添乗員はだしの詳しい説明をして、うるさ型のアンバサダーたちを唸らせた。町を挙げて「日本一のりんごの里」への熱い思いが、このような形でも伝わってくるのである。


アンバサダーたちが最も驚いたのは、新しいりんごの食べ方である。

りんごを食べるときは、まずナイフで皮を剥き、つるの方から縦方向へ半分に割り、さらに四分の一にして芯を取って(さらに八分の一にして)から食べるという常識がある。しかし、りんごは皮と実の間に、最も美味しい要素が潜んでいるのに、皮が固くて食べ難いことと、農薬の恐れもあって、それが捨てらてれる。

10

3 日の日本癌学会総会で、弘前大学医学部の研究チームが「りんごから天然の抗がん剤ができるかも知れない」と報告した。りんごに含まれるポリフェノールの主要成分プロシアニンジンが、がん細胞の自殺現象を誘発することがわかったというのだ。しかも、抗がん作用だけではなく、プロシャニンジンの抗酸化作用は、老化の原因となる活性酸素の発生も防ぐという。

さて、りんごの新しい食べ方とは「輪切り」である。つまり、りんごを約3mm程度の厚さに輪切りして、皮ごと食べるのである。りんごの丸かじりは豪快であるが、よほど歯の丈夫な人でないと出来ない。輪切りりんごは総入れ歯の老人でも食することが出来る。しかも、りんごが本来もっている美味の要素と、抗がんと活性酸素を防ぐプロシアニンジンを、もっとも効率的に吸収できるのである。

この食べ方は、皮を剥く従来常識の食べ方に較べて、第一に美味しい。そしてプロシャニンジンを自然な形で摂取でき、老化を防いで積極的健康維持に役立つ。さらに、皮ごとの食べるため、皮のファイバーが腸内の便通を良くして、無理なく老廃物を体外に排泄させるのである。果物の輪切りというと、パイナップルとキュイしかなかったが、ここで新しい食べ方の「りんご」がエントリーされる。この講座終了後に行った試食会では、完熟りんごジュース、ファイバー入りクッキーも好評であったが、なんといっても圧倒的にりんごの輪切りに参加者の興味が集中した。そして、口々に「美味しい」と言った。ただし、ある南極越冬隊に参加経歴を持つ登山家は、農薬というものはりんごが成長する過程で、果実に皮を通して浸透する恐れはないのですか?と質問を発していた。

青森県では、いま無登録農薬ダイホルタン問題がおきている。青森県は農家に対する聞き取り調査で10月25日以降に「安全宣言」する予定である。板柳町は、県内に先駆け、りんご農家600戸を対象に残留農薬検査を行った。その結果は、35検体に残留農薬があると判定された。

検体りんごは県農業試験場、環境保健センター、県薬剤師会で検査が行われ、25日夜に結果が判明する。板柳町は再検査で「シロ」になった場合、胸を張って安全りんごをアピールするが、無登録農薬が検出された場合、県のマニアル通り、廃棄処分にする。このような町の徹底した検査態勢を評価する消費者団体も最近多くなったと。そんな最中、板柳町のHPに百貨店関係者(おそらく大丸の担当者と思われる人)から、板柳の英断を支持するメールが届いた。

『このたびのタイホルタン問題について、板柳町の英断を支持します。 昨年より続く食品の問題で、消費者は中途半端な対応にたいしては安心感どころか不信感をもちます。

その意味で、板柳町があえでリスクをおかしてまで全農家検査に踏み切ったことは、消費者が安全安心という点では結果がどうであれ評価します。 消費者は結果を見ていません。企業や団体の結果をだすプロセスを見て評価して います。

その視点で見ると、やはり聞き取り調査で安全宣言をするよりも、全農家検査で 問題点を明確にして、客観的な数値をもとに安全宣言をするほうがはるかに説得力があります。我々の考えでは 残念ながら農薬残留の結果が出てしまいましたが、それを正しく公表した事、さらに検査の姿勢を厳しく貫いた事、これらを消費者やユーザーは評価するでしょう。

我々小売り業としても、今回の板柳町の方針であれば、安心してりんごの販売が出来ます。当社のギフトのメインは板柳町産です。販売を継続します。20日に通達しました。来年も、メインの産地として取り組むでしょう。我々の顧客に安心してすすめられる、自信をもって販売できる産地の一つとして販売を継続して行きます。

本日青森県の方が数名(審議官やら農協の役員やら)こられましたが、上記と同様の内容をはなして販売解除は伝えておりません。むしろ、県が聞き取り調査という不確かな方法で安全宣言を強行しようとした点が、当社の青森リンゴの販売停止理由ですと伝えておきました。

検査結果ではまだまだ厳しい状況が続くと思われますが 消責者のために頑張っていただきたいと切に要望する次第です。来月予定がとれればパイヤーを連れて青森を訪問したいと思います』

りんごのほかに何もない板柳町は、いま全国の注目を集めている。


付記:東奥日報2002年10月25日(金)のニュース記事
(この画像は、当該ページに限って東奥日報社より記事利用を 許諾されたものです。転載ならびにこの画像(記事)へのリンクは固くお断りします。)

文責:三上卓治、写真撮影:橋本 曜、HTML制作:田口和男