神田雑学大学

166回講義録 平成15530


被爆体験を語る

 

講師:楢林美枝子



千代田乃会の楢林でございます。千代田乃会というのは、千代田地区の原爆被爆者の会でございます。人口はご存知のように、千代田区は40,000人足らずでございますから、会員も少くのうございますけれど、千代田乃会はみな一様に原爆を経験した人たちの集まりでございます。

もう被爆してから58年も経っておりますので、会員のみなさんは動けなくなったり、寝たきりになったり、ガンにかかったり、私自身も乳ガンを手術いたしました。

原爆は如何にヒドイものなのかということを、みなさま、どの程度ご存知でしょうか。私は、実はもう原爆の写真を見るのも嫌、テレビ―8月6日、9日になりますと、必ずその時だけ、テレビで取り上げて原爆被爆のことを語る―を観るのも嫌でございました。

思い出したくないのです。その時のことを!

それで観ないでおりましたが、フッと、いまの若い人たちが戦争のことを知らないということ知りまして、これは私たちが語り継いでいかなければならないという使命を感じました。


8月9日、この日は私の一生忘れることの出来ない日でございます。原爆は太陽光線を通して媒介してきます。私、その時はちょうど、空襲警報も解除され、警戒警報も解除され、ホッとして自分の部屋に入った時でございました。私の目の前で、みなさま、特に若い方はご存知ないかも知れませんが、昔写真を撮る時にフラッシュを焚きましたね。あれの何百倍という光が家の蔵の前でパァッと光りました。何だろうと思っていると、2〜3秒経ってからゴォ〜〜という音とともに爆風が参りました。

その時に自分の家は吹っ飛んでしまい、蔵の屋根も吹っ飛んでしまいました。何だろう?―その時は爆弾と思いませんでした―何だろう?何だ?何だ?とみんなで言っているうちに、そのころ防護団という各町内にあった隣組の班長さんが、「山の横穴に逃げて下さい!」という声がして、外へ出てビックリいたしました。

私の目の前を10歳位の男の子が服をみんな剥ぎ取られ、ノッペラボーになって右往左往して、親の名前を呼び泣きながら走って行きました。その子は全身火傷です。私の家は爆心地から約2キロメートル離れたところでしたが、その場所でこのような状態でございました。

防空壕へ逃げて行きましてからも、何のことか分からずにおりますと、「どうやら新型爆弾が落ちたらしい」ということが分かってきましたが、まだ情報も何も入ってきません。夜になってから長崎市全域がゴォ〜〜と言う音をたてて燃えておりました。

私はそれを小高い丘―そこは諏訪神社というところで、そこに防空壕がございまして、そこへ町内全員が逃げて行きました―から長崎市全域が見渡せますので見ておりましたら、全市域が燃えておりました。ゴォ〜〜という音と赤い炎は、一生私の目から離れません。私、その時つくづくと、これは長崎が泣いていると思いました。

私の拙い話よりも「百聞は一見に如かず」と申しますので、これからビデオを観て戴きたいと思います。原爆は如何にヒドイか、たった一発の爆弾が58年経ったいまでも、私も含めて、みんな後遺症に悩んでおります。こんな爆弾がありますでしょうか?人間のすることではないと思います。その時も勿論、アメリカも知らなかったでしょう。みんなどういう爆弾かは知らなかったと思います。未だにアメリカは知らないと思います。

ソ連が核爆弾のことをいろいろ言い出したのは、チェルノブイリの原発事故の後、どういうヒドイものなのか、と分かったからだと思います。それから間もなくして、核の縮小問題をアメリカと交渉するようになったと思います。

今度のイラク戦争では、本当に使われなくて良かった!と私は思っております。でも、日本周辺には核を持っている北朝鮮―持っているか、持っていないか、本当はよく分かりません―がおります。それが怖さを知らない金正日―戦争を知らない年代です―はどんなにヒドイ爆弾かということを知らないと思います。知らないということは、怖いことと思います。

みなさま、どうぞビデオを観て―あまり楽しいビデオではございませんが―どんなにヒドイ爆弾なのかということを知り、認識して頂き、絶対に核を使わない、戦争が起きないように、みなさんにご協力をお願いしたいと思います。

ではよろしくお願いいたします。

――――-ビデオ放映――――

みなさま、私がいろいろお話するよりは、いまのビデオを観て、原爆が如何にヒドイ爆弾か、と言うことがお分かりになったことと思います。ただ一発です。あれが!そして、亡くなられた方はみんな非戦闘員ばかりでございます。

私たちは今度のイラク戦争でも非戦闘員のところへ爆弾を落としたとか、いろいろ取り沙汰されておりますが、広島も長崎もみな非戦闘員の人たちが30万人近く亡くなっているのでございます。しかも、ただ一発の爆弾が58年経ちましたいまでも、後遺症に私たちは悩まされております。

こんなヒドイ爆弾を作った「人類の罪」というのは、一体どういうものか、落としたアメリカの罪はどう問われるのか、私はいつも考えます。「これ以上再びあの長崎の泣き声を世界に出さないで下さい」とお願いしたいです。戦争は絶対反対いたしましょう。これで私の話は終りますが、みなさまに原爆とはどんなものなのか、ご理解戴ければ幸いに存じます。

質問 1.(田口)いまのビデオはアメリカが記録したものが殆どですか?
    (楢林)……それもなかなか出さなかったのですが、4〜5年前に初めて公開されました。そしてもう一つ日本の医学会も知らないことは、戦後アメリカからABCCという調査団か来たことです。いま の写真はみなその時の写真です。被爆者の方々を調査しましたが、 日本人には一切公開されませんでした。 ですから日本の医学の中には残っていないと思います。 この前の茨城・東海村で起こった臨界事故、その時もお医者さんは どのように取り扱って良いのか分からなかったらしいです。そのあ と、アメリカが記録を出したと思います。私どもが身体の不調を訴 えても、先生に言ってもお分かりにならない、言っても言わなくて も同じなのです。被爆者の方々はみなさんそう言っております。 結局は自分で耐えていかなくてはならない状態なのでございま す。この前の東海村で臨界事故に遭われた方々もみなそうでない かと思います。その時、「我々の仲間がまた増えたのではないか」 と私は思いました。また我々と同じように、生涯悩まれ、苦しま れることと思います。

質問 2.(田口)ただいまのビデオは、先生がお作りになったビデオと考えてよろしいのでしょうか?
    (楢林)抜粋して作りました。
    (田口)その他、同じ経験をされた方でも、個人的にビデオを作製されていますか?
    (楢林)作られていたのではないでしょうか。NHKで公開されましたから。
    (田口)NHKなどがテレビを見なかった人たちのために、テレビでなくてもいいから、例えば講演会などの時に貸し出して放映するとか、説明するとか、そういうことはしないのですか?楢林さんが参加されているNPOでやっているだけですか?
    (楢林)そうですね。地方の分科会、例えば、東京の場合は「東友会」というのが被爆者の会でございます。その地区の会、千代田乃会、墨田の会、練馬の会等々各区にございますが、それぞれが、千代田乃会の例を申し上げますと、千代田区と共催して毎年8月6日から9日にかけて「いきいきプラザ」で原爆展を開いております。 第一回の時に、若い人たちの反響が凄かったです。子供に聞かれても、戦争とはどういうものなのか、説明できない若いお母さんたちが、これを見てよく分かりました。これからは子供たちにも話せます、というアンケートが沢山寄せられました。その時は一回で終わる積もりでおりましたが、これはズッと続けなければいけないと思い、毎年8月6日から9日にかけて行うようになりました。 展示会は「東京都原爆被害者団体協議会」が作製した原爆のパネルで行っております。アンケートは千代田区で保管しておりますが、若い人たちのアンケートが多いです。これは我々が一種の「語り部」として、戦争のことを次の時代の人たちに語り継がなければならないと思い、いろいろな所へ出させて戴いております。みなさま、今年も8月6日から展示会は行いますので、いきいきプラザへどうぞ足を運んで戴きたくお願いいたします。 もっと生々しい写真もございます。あまり生々しいので、子供に見せてはどうかと思いましたが、小・中・高校生全般に亘って、私たちが感心するほどみなさん「戦争ってこんなにヒドイものなのか」と書いたアンケートが毎年沢山集まります。 若い方は戦争のことは分かりません。若い方を教えている先生自身は、戦争のことは知らない、親も知らない。そう思ったら残り少なくなった我々が如何に伝えていくか、ということが大切なことだと思っております。

感想 1.(三上)世界の歴史の中で、50年間戦争が無かった―国と国の戦争が無かった―と言うのは非常に珍しいこと、稀有のことだそうです。ですから子供たちが、あるいは子供たちを教える先生が戦争を知らない、というのは当たり前と言えば当たり前のことです。子供にこういう残酷な写真を見せてはどうか、と思うのは間違いだと思います。残酷だからこそ、むしろ見せるべきだと思います。

いまのアメリカを見ていますと、かっての日本がABCD包囲網とかされましたが、日本も悪かったと思います。八紘一宇とか言って、非常に思い上がり、大東亜共栄圏建設するために、と一種の侵略行為を妥当化するために、そういう方針を打ち立てました。ところが世界はこれを許さなかった。許さない一つの方法として、ABCD包囲網という経済制裁を加えた。

これはいま見ますと、イラクもそうだし、北朝鮮もそういう目に遭っています。イラクは特に大量破壊兵器や原爆を持っているから怪しからん、と言っているアメリカ自身も持っている。何が怪しからんなのか、それを表立った理由にして、国連の反対を押し切って戦争を仕掛けてしまった。

その結果、未だに大量破壊兵器は見つかっていないのですから、隠した、というよりも持っていなかった、のではないでしょうか。そうなると、アメリカの面子はどうなるのでしょうか?イラクに戦争を仕掛けたのは、イラクが持っている石油利権が欲しかったから奪い取った、という見方をすれば、

随分あの国はヒドイ国ではないか、と思われます。

日本に原爆を使った時は、沖縄も陥落し、殆ど勝負はついていた。そんな時に使用したのは、実験のために使った、ということで、我が国はとんでもない犠牲になった。

軍隊がやられたというならまだ分かるが、何の罪も無い民衆が30万人も殺られた、と言うのは本当に世界史に残る残虐な行為だと思っています。このことは常々思っていましたが、先ほどのビデオを観て、更にその思いを強くした次第です。


感想 2.(山本)私は今年2月、初めて沖縄に行きました。やはりそのような話でした。「ひめゆりの部隊」とか「健児の部隊」とかあります―ひめゆりの方は有名です―が、健児の部隊は特に日本の軍隊が13歳から18歳までの中学生を殺した、と言い伝わっています。竹槍を生徒に持たせて、後ろから日本の軍隊が追い立てて、アメリカ軍の1分間に何千発も出る銃弾の前に立たせて殺した、と未だに言い伝われています。

案内してくれたバスガイドさん(年配の方、50歳〜60歳?年齢は聞かなかったです)のおばあさんが、当時ひめゆりの部隊にいました。穴の中に入っているとアメリカの若い兵隊が、「カモン、カモン(カメ、カメ、と聞こえる)デテキナサイ」と変な日本語で言った。

そのおばあさんの名前は「かめ」と言ったそうで(笑い)、「何でアメリカ兵が私の名前を知っているのかしら?」ということで出て行きました。その穴の中に居た人も、おばあさんが出たのを見て安全だな、ということで全員が出て行きました。その穴の中に入っていた全員が助かった、と言う話でした。穴の中に入っていた時は、水も無いし、食べ物も無かった。身体にはウジ虫が刺さったりした状態で出て行ったが、アメリカの兵隊は非常に待遇が良くて、今まで食べたことも無いような美味しい物まで食べさせてくれた。身体を消毒してウジ虫まで取ってくれた。そのおばあさんは現在102歳で、杖も突かずに元気にしています。

日本軍というのは―私のおじも一人軍隊にいました。この方は亡くなりました―上層部の軍人は結構ヒドイことをした。命令をかけて生徒を追い払ったり、女学生の部隊を看護兵に使ったりした。ひめゆりの塔では、やはりパネルで展示されており、そこで説明しているおばあさんは、ちょうど先生とお年頃が一緒くらいと思いますが、やはり語り部になっています。

4人くらい助かったうちのお一人で、初めは、私たちだけ少ない人が生きているのは悪いと思った。しかし「誰かに語り継がなければ」と言う思いで語り部をしていますと言っていました。その人も跡継ぎがいない悩みがあります。

アメリカばかりでなく、日本も兵隊は結構悪かった。沖縄では日本軍はエライヒドイことをしたと思います。

(楢林)長崎でも、いまではとても出来ないような神経になります。私の友だちは爆心地に住んでいました。お母さんが庭で畑の手入れをしていた姿そのままで即死しました。ですから苦しんではおられません。でも畑仕事の姿そのままで残っていますから焼かなくてはならない。私の同級生です。「トタン板の上に乗せて、私、お母さんを焼いたのよ!」と言っていました。

今の神経では、とてもではないが出来ませんが、戦争は人間の神経を狂わせてしまうものでございます。

日本の軍隊が残虐を行った、といろいろ言われていますが、私は、これは戦争のせいだと思います。戦争は人間の理性、意識を普通の時と比べ、全く違うものにしてしまいます。

原爆の時の友だちの話を聞いても、被爆してから3日あとに、初めて汽車が開通したので田舎の方へ行きましたが、みんな川のふちで「虚空をつかむ」と言うが、正にこのことだと思いました。みんな虚空をつかんで死んでいました。その時は見ても可哀想にと思いましたけれど、今だったらとても見る事が出来ないと思います。あれはやはり戦争の時の異常な精神状態だったからだと、私はいまでも思っています。ですから戦争は人間を異常にするものです。

感想3.(鈴木)戦争が人間の頭を狂わせると言われますが、戦争でなくても人間の頭は狂うことがあります。思い出したのですが、実はパソコン通信をやっている一緒の仲間に、結構お年を召した町田に住んでいる方がおります。その方が私に蔵書の整理をして欲しいとの依頼があり、本の整理に行きました。

そうしたら今日のような似たビデオを沢山持っておりました。その方が若い人に伝えたいために写しているビデオらしかったです。それらのビデオを鈴木さん是非受け取って欲しい、ということで貰ってきました。いろいろな内容のものがありましたが、そのうちの1本が東海村の臨界事故の顛末を、NHKだったか民間放送だったかが記録したものでした。家に帰ってそれを観ました。

「本当に人間ってこんなに馬鹿な集団」かと思いました。

と言うのは、先ほどの話に出たように、放射線の対策は、医学的には解かっていない。解かっていないことに対して、如何に官庁の人や原子力で電力を作っている会社の人、要するに技術的には一番解かっている人ですよね。その人たちが委員会を作っている。

バケツに入れて運んでいるうちに被爆してしまった。被爆した後の対策を、日本の最高の原子力関係者が委員会で決めているのだが、何も決めない。何故なら前例が無いから。前例が無いなら、こういう風に手を打って、こういう風に手を打って、どんどん手を打てば、あれだけ大きな被爆をしたのだから、もっと生き存えたかも知れないのに、全然手を打たない。委員会とは思えない委員会。こんなヒドイ決定をしない決定で、結局うやむやで終ってしまった。

放射能を被爆した人は原爆を受けた人と同じように皮膚や細胞が死んで、亡くなっていく。放射能や原子力に対しても怖いけれど、戦争で使われるとか、戦争でなくても事故により、遺伝子の影響などをきめ細かく、ちゃんと伝えるべきだと思う。伝えれば怖いとか、怖くないとか―実際には怖いけれど―解からないで怖いのと違い、解かっていて怖い場合は対策が立てられる。対策も手付かずに行っている。「戦争の時ばかりでなく、普通の時でも人間は狂う時がある」と思いました。

(楢林)本当にお役人もお医者さんも対策の方法を知らないです。学術的にはどうか分かりませんが、私はみなさんに忠告いたします。もし原爆が不幸にして落ちたら、絶対に日向(ひなた)を歩かないで下さい。私の友だち―長崎の被弾は午前11時5分位でした―が、二人で街を歩いていました。

一人は日向、一人は日陰を歩いていました。日向を歩いていた一人は全身火傷で1週間〜2週間で亡くなりました。日陰を歩いていたもう一人の人は無傷で助かっています。この経験からして、若し原爆が落ちたら、絶対に日向に出ないで下さい。日陰にいて下さい。あれは太陽光線を媒介しますから(こういう笑い話みたいな話があります)。

感想4.(武田)私自身は幸いと言うか被爆の経験はありませんが、原爆の怖さはいろいろな所で何となく見聞きしております。先ほど拝見しましたビデオの中で、初めて観たものはABCCの写したものだけで、それ以外のものは、かなり以前、例えば「アサヒグラフ」で出されたりしています。確か昭和27〜28年ごろかと思います。アサヒグラフで悲惨な写真集が出ました。

ところが残念なことに、我々の世代は別として、特に若い世代の人はあまり知らない。漠然と原爆は怖い、という意識はあるでしょうが、本当の怖さは知らない。私も勿論本当の怖さは知りません。体験しておりませんから。ただ、写真集などを見ていると、悲惨だなあ、と言う気持ちは強く持っております。

私自身はかなり関心がある方だと思います。広島も観に行きましたし、長崎も観に行きました(観に行ったという表現は適切でないかも知れませんが)。原爆記念館とか長崎の爆心地及び祈念館、浦上天主堂には原爆で飛ばされた破片が未だ残っていますね。そういうのも観て参りました。

私自身は現在大学で非常勤講師をしておりますが、学生に折りに触れてそう言う話をします。幸か不幸か、8月の原爆が落とされた日は夏休みで、なかなか話すタイミングがない。仮に話をしても迫力に欠ける。ですから大変だと思いますが、やはり被爆体験された方々が語り部として伝えていくのが、一番迫力があるのではないでしょうか。

1〜2年前でしょうか、私、腹が立ちましたのは、アメリカで被爆の写真展を行なおうとした時に、「悲惨だから」と言って止めましたね(スミソニアン博物館で行う予定だった)。何を馬鹿なことを言っているんだと思いました。「自分たちが原爆を落としておいて、何が悲惨だ」。「悲惨だからアメリカでは展示させない」、非常に腹が立ちました。

先ほど三上さんも、アメリカは横暴だ、とおっしゃっておりましたが、私もそれを非常に感じます。アメリカは思い上がっているのでしょか?

(楢林)アメリカ人自身は、もう20年〜30年前になりますが、知らないのです。私がカトリックの病院におりました時に、シスターたちが参りまして、「ここは何か軍隊の施設があったのですか」、と聞かれました。「いいえ、みんな非戦闘員の農民や商人ばかりですよ」と言ったら、ビックリしていました。アメリカ人はそのことを知らない。アメリカでも発表していないのですね。何年か前にあの有名なスミソニアン博物館で展示会を開こうとしたら、させてもらえなかったです。

私はいつもパールハーバー、パールハーバーと真珠湾のことばかり言う時、「原爆はどうなのよ!」と言います。あれは戦争で、日本軍を擁護する訳ではないですが、軍事施設だけを攻撃した。原爆は民間一般人を攻撃した。それだけ違うわけです。

アメリカに責任を持たせれば良いのに、と私たちはいつも言っています。みんな日本政府の責任で原爆症の治療を行っています。アメリカがやるべきです。

(田口)イラク戦争の時は、ピンポイントで攻撃しているのだから、民間は攻撃していない、と発表しています。実際には出来なかったが、太平洋戦争末期の爆撃は、非戦闘員やそれに関係なく爆撃した。それはアメリカにとって都合の悪いことなので、隠しているというか、あまり公にしたくない事実です。だから、そういうことが分かる展示会は政府で妨害するとか、阻止する動きだろうと思います。

(楢林)「墨田の会」の会長さんが原爆展を行った時、私も観に行きました。東京大空襲では墨田区の被害は一番酷かったですね。その原爆展の時に東京大空襲の話がありました。攻撃は最初にズ〜〜と逃げられないように周囲を焼いたそうで、そしてまた中を焼いた。一般の人を逃がすまいと周囲に焼夷弾を落として、それから次に中の方へ落としていった。こんなヒドイことをやっているのです。アメリカは!

イラク戦争で、いくらピンポイント攻撃だからといって民間人の犠牲者が何百人と出ても、それは戦争だから仕方がないと思います。原爆のことを考えてごらんなさい。東京の大空襲のことを考えてごらんなさい。被害者はみんな非戦闘員です。犠牲になったのは!ですから戦争自体を起こしてはならないのです。最期は人間が人間を、地球を滅ぼすのではないでしょうか。


感想5.(添田)先生と私の母は同じくらいの年齢ですが、母は私だけが生き甲斐で、他のことは何一つせず家にいます。今日先生を拝見して、母に伝えなければならないと思いました。人に伝える責任を背負って生きている立派さに感動したのと、私は戦後ギリギリ生まれですが、今日ほど酷いビデオを観たことがありませんでした。

たま〜に生きているのが嫌になってしまう、ちょっと嫌なことがあると自分で頭に思ってしまうとがあるのですが、それはとんでもないことで、今日の凄さを観たら、「いま生きていることの大切さ」を思いました。

これらのことは、例えばNGOなどで世界各国の子供たちや人たちに観せると、私のように観ていない人が観ると、「こんなことが起こったのか」と思うほど怖いことだと思います。アメリカはそういうことをした時に、先ほど田口さんが述べられたように妨害、阻止がかかるのでしょうか?

(田口)民間の主張、例えばNGO、NPOはアメリカで盛んだし、というより外国で、日本でも盛んになりましたが、何かの団体に所属して―仕事を持っていても―社会にとって必要な活動ならみんな参加する意識は強いです。ですからこういうのもアメリカ以外の国、例えば中国でもどこでも良いです。

観て貰う活動を、現在NPOは国内が多いが、これを海外に紹介するとか、観せる活動するNGO、NPOが必要と思います。現在なければ作らなければならないし、あればそこに働きかけてやってもらうことが必要と思います。


感想6.  (上野)私は広島の原爆ドームや博物館へは、中学の時遠足で行きました。その時、ショックを受け、あまりの悲惨さで殆ど見ることが出来ませんでした。長崎は高校の修学旅行で行きました。平和像や他の施設を見学しました。

(楢林) 原爆の展示会は市の博物館で行っています。長崎では、「怒りの広島」、「祈りの長崎」を標榜しています。

(上野)そういうことを聞きました。いま思い出しました。原爆の酷さや戦争のことを若い子供たちに知らせるには、やはり遠足で現場に行くと心に残ります。中学や高校の修学旅行は海外などに出かけますが、広島や長崎に出かけるように仕向けるのも大切ではないでしょうか?「百聞は一見に如かず」で、見ると心に残ります。そういう働きかけも大切なことと思います。

(楢林)千代田乃会では高齢者が多く、活動が出来ないのですが、もしみなさんのお助けがあれば、これは私の理想ですが、原爆展のパネルを各中学の体育館などで開きたいと思っています。しかし、会員の殆どが病気を抱えていますので、動けないのが実情です。原爆展を開く時は夏休みのことで、学生たちがいないのです。でも若いお母さんたちや子供のアンケートが沢山来ていますから、やはりご覧になっていると思います。それも同じように戦争のことを初めて知った、というアンケートが多いです。

感想7 (松下)戦争のない世界を!いつも太陽に向って世界平和を祈っております。

感想8.(佐々木)私の父は昭和20年8月9日、長崎県庁におりました。私どもは諫早に住んでいましたが、その日はたまたま父の休みで、諫早におりましたために、命拾いをしました。だけど3日後、被爆調査を命じられて被爆し、原爆二次感染で原爆手帳を持っていました。父は教職についておりましたので、長崎県内各地を転々とし、最後は長崎西高の校長でした。そこは原爆の落ちたところです。64歳で亡くなりました。

それはさておき、一つ朗報を申し上げますと、長崎、広島で原爆が落ちて被爆したにも拘わらず原爆症に罹らず、五体健全に結婚して子供を生んでいる集団があります。それは何なのか?玄米を中心とした菜食主義者だけが生き残っています。人間の能力は、キチッとした食生活をすれば、放射能も解毒する力をもっています。

(鈴木)まだ名残惜しいのですが、今日は本当に貴重な体験話を有難うございました。


文責:桑垣俊宏、写真撮影:橋本 曜、HTML制作:田口和男