神田雑学大学 平成15年6月20日講義録


神田雑学大学講座168回

「思い出の動物たち」

講 師  桑島 功

 獣医師の始祖

わが家は大祖父の明治初期の代から、船橋で動物病院を営み、私はここで生れ育った。私の少年時代には、五,六人の職人が出入りしており、牛馬の蹄鉄を装着する装蹄師を兼ねていて、朝からトンテンカンと庭先で鉄を打つ音を響かせていた。 

獣医師の始祖となると、初代として伝えられるのが804年に遣唐使として唐に渡った平仲国(たいらのなかくに)である。史書によれば、仲国は唐の馬師皇に馬医の術を師事したほか鍼灸を学び、帰国後その技術を諸国に広めた。

戦国時代に仲国の子孫藤原仲時の時代に、姓を桑島に改めた。当時の馬医は、牛馬に蹄鉄を装置する蹄鉄師を兼ねていた。近代に入るまで、農耕のための牛馬は貴重な動力であったので、蹄鉄装着は大変大事な仕事であった。自分の子供のころは常時2,30頭の牛馬が庭先にごろごろしていたものだ。農耕馬のほかに、騎兵隊の馬の蹄鉄の装着をしていたので、私は馬の股を潜って遊び、学校へ行っていたようなものだ。

私の子供の頃は、馬に蹴飛ばされたり、噛み付かれたりするのは日常のことだった。また父の仕事、蹄鉄の装着を風呂上りに浴衣姿で見物していたら、火花が飛んできて足の上に乗った。これは火花とはいうものの赤く焼けた鉄片であるから皮膚についたら、離れない。熱い!と言ったが、これは大やけどになった。というような環境に育った。

高校生獣医

高校一年のとき、駒場にあった日本獣医畜産高等学校に入学した。戦後自動車時代が予見された頃ではあったが、東大の松葉重雄教授が馬に蹄鉄を打つ技術の向上に設立した学校である。しかし、時代の流れと共に衰退し、入学する人も減少した。私が船高から2年生に編入したら、生徒はたった4人しかいなかった。

「おまえ、蹄鉄なんか出来るのかい」と先生に言われたが、育った家業の中で身についた技で、大きな包丁を使う削蹄(ひづめを削る。卒業科目に当る)をこなしたら「何だ、おまえ削蹄までできるのか」と大いに驚かれた。造鉄(鉄の丸棒を叩いて蹄の形に仕上げ、馬の蹄に釘を打っても痛くないように装着する)も、高校2年には出来ていた。いま顧みてよくやったものだと思う。蹄鉄を打つと、一頭につき700円貰えた。

牛の去勢もした。大きな牛をロープで繋ぎ、睾丸の元の血管を縛って挫滅という技術で睾丸を潰してしまうと出血しないで去勢できる。そんなことを子供の頃からやっていた。お爺さんが元気だったあるとき、「功。表へ出ろ」と言われて外へ出ると、馬方が馬を曳いて60、70m先を歩いている。それをじっと見て、「跛行はどっちだ」と私に問いかける。「左のとも」と答えると「よし!」と褒めてくれた。

馬の跛行は、4本脚だから発見するのはかなり難しい。しかし、これは慣れである。 跛行の診断には三通りある。競馬をやる方はご存知だが、競馬場のバドックで馬を観察する際、じーっと後ろから見ると馬の欠点がわかる。4本脚の爪が夫々平らなものか、立っているものかによってカッパキ(蹴り方)が違ってくる。尻から見ることによって筋肉の状態、つまり推進力(肢頭筋)がどの程度のものか、馬の保養(あり方)が判断できる。

馬の肢軸が、やや長方形の体形(体高、体長)を持っているかどうかも大切な判断材料である。バドックでは、脚があってはじめて馬なのであるから、膝や足首、爪(黒い爪は丈夫で割れ難いが、白い爪は弱い。爪の形状によって砂地に強いか、芝生に強いかも判断できる)などを仔細に観察することによって、さらに興味が湧いてくる。

私は子供のころから馬を見て育ち、高校あたりから馬や牛を診て大学へ進んだ。爺さんの当時の大動物は、牛と馬が対象で犬や猫はまだ学問の中に入っていなかった。ペットブームの兆しが見えてから、少しづつ疾病の研究されるようになり、アメリカの小動物雑が翻訳されはじめていた。

大学2年の夏近いころだった、船橋の獣医師が五,六人揃って伊豆方面へ旅行した。そのとき農家の爺さんが駆け込んできて「牛の腹にガスが溜まったから、すぐ来てくれ」という。「皆旅行中で、誰もいないよ」というと、「おめえがいるじゃないか。すぐ来い」
「おれ、まだ学生だよ」「いいから、すぐ来てくれ」

牛の食道梗塞という病気であることは、見たことがあるので知ってはいた。牛が芋や大根、人参などを食べているうちに食道に詰まることがある。すると、左の胃の部分にガスが溜まり、それで死ぬから一刻も許せない状況であると判断した。そのまま親父の往診鞄を持って迎いのハイヤーに乗ったら、お袋が心配して後から付いてきた。

習志野の山の中にその農家があった。収穫期と見え人参が畑に山になっていた。牛を藪の中につないで動きをとめて、口を開けて喉を診ると堅いものがある。家を出る前に外科の本で一応確かめた通りに牛の腹にメスを入れ、鉛筆状の透管を胃袋に差し込むと、ブシューとガスが出る。親父の真似をしてマッチを擦ると、青白い炎が噴出す。

開口器で牛の口を開いて食用油を流し込み、藤の枝でできた棒を突っ込むと詰まった人参がつるっと胃に落ち込む。人参でよかった。干した大根だと、水分を吸収すると膨張するから、こうは簡単にいかない。と、どうやら牛は助かった。牛は農家にとっては財産である。親父さんには大変感謝された。「まあ、上がれあがれ」と座敷へ呼ばれた。

お袋と二人、床の間に並べられて濁酒の大宴会となった。私はまだ学生でもあるし、酒が飲めない。じゃあ何がいいかと聞かれたから、サイダーが飲みたいと答えると、目の前にサイダーが1ダースも置かれた。そのころ、子供にとってサイダーは憧れの飲みものだったから、腹が膨れるほど、飲んで飲んで飲みまくった。

いよいよ宴会も終わり、お勘定の時となった。 馬の装蹄は、馬が死ぬことはないし700円。牛が一頭助かったのだから2000円くらいでいいかなと思って「2000円だ!」というと、お袋が横から「高いよ。高いよ」と青くなっていう。しかし、100円札の束で頂戴したが、それは結局お袋に取り上げられてしまった。これは我ながら大したもんだ。親父の旅行中に倅が2000円も稼いだのだから。

大学を卒業したころに、これからは小動物の時代だと思い麻布獣医学校の恩師北先生に 相談した。すると北先生は「君は装蹄もできるのだから、馬をやれ。中央競馬でも中山でも紹介してやる」という。しかし、その頃の草競馬、とくに船橋競馬ははんぱ者の集まりで、悪いやつが多かった。

馬の具合が悪いというので、親父が往診してやり、月末に勘定を取りに行くと、馬も馬丁もいない。聞くと岩手へ行ったとか、北海道へ行ったとかで、誰もいない。親父も怒って、もう二度と行かないとやけ酒を飲んでいたという状況で、まともな仕事ではなかった。私は小動物のほうに進みたい希望を述べると、北先生は東大の動物病院を紹介してくれた。

ここには二人の先輩がおり、即実戦の臨床の勉強ができた。そのころは、都内の獣医師だって避妊手術ができる人はほとんどいなかったから、みんな東大へ持ってくる。それを私たちが、数をこなす意味で手伝ったり、多くの手術などを沢山やらせて貰った。その期間は、大いに技術習得の勉強になった。

と、これまで話した通り、船橋では明治初期の大祖父の代から動物病院を営み、ここで私は生まれ育った。しかも親子四代にわたり麻布獣医大学(現在の麻布大学)を卒業したので、平成12年5月「親子三代以上にわたり本学に学ばれ社会に本学の名声を高められ併せて本学園の発展に多大の寄与をされました」という感謝状を頂戴した。また、先般「その道一筋」の人を対象にした「黄綬褒章」を受章するという栄誉を戴いた。

「フジ」の思い出

ここで、東大動物病院の動物の思い出となった「フジ」という犬の話を致したい。 このポインター犬は、東大の山にある牧場で飼われていたメスで、16歳。ポンターは白い肌に茶色のレモンがあるのだが、そのレモンも消えて白髪になっているイボだらけの老犬である。すでに身体は大小の乳がんに冒されており、最終的には東大へ送って全摘手術をした。がんの大きな塊は2―3kgもあったが、小さいものは取りきれなかった。

その年の暮れ、フジの切開傷も治った。 その犬に点滴をしたり、静脈注射をしたりしているうちに、私の注射の技術は上達した。毛が生えている犬の静脈注射は、結構難しい。しかし、フジの場合はゴムで血管止めをすることもなく、指で血管を抑えながら注射をすることができた。

現在、動物病院では、大はセントバーナードから小はハムスター、ギロチック・アニマルまで動物の治療でも採血する機会が多いが、フジの治療経験はその後の自分にとって大変勉強になった。その犬は、実験も終わったし、学校も正月休みになるから、これ以上苦しまないように安楽死させるか、という意見が東大動物病院側から出てきた。

自分としては、習志野から朝9時までに飛んできてフジの面倒を見た間柄で、すっかり情が移っている。「フジ」と呼ぶと、だるそうに見上げる表情がたまらなく愛しい。癒しのフジ子ちゃんだったのだ。私はフジを亡くなるまで預かることにした。自宅に帰ると、フジは毎朝、9時になるとワンワン鳴いて散歩をせがむのだった。

二、三日後、朝静かだったので、犬小屋を覗いてみるとフジがいない。失踪したのだ。 どうしたのだ。あちこち手を尽くして捜したが発見できない。新学期が始まって、東大病院へフジがいなくなった話をすると、「馬鹿だな。あの時安楽死させて解剖したら、色いろ役に立つ情報が入手できたのに」と、先生に怒られた。

それから、半年が過ぎた。 私が風呂に入っていると、風もないのに裏木戸の風鈴が鳴った。チリンチリン。 誰か来たのかと思ったが、人影はなく、またチリンチリンと音がする。窓からよく見ると、黒い影が木戸の下の隙間から庭に侵入しようともがいている。「あっ!フジだ」

私は裸同然に風呂を飛び出して、木戸を開けた。 やはりフジだった。首に荒縄が巻きついていた。誰かに飼われていたらしい。「がん」もまた増えていたが、それからフジは再び家の犬となった。さすがに弱ってきて、朝自分で運動に出かけて帰ってくると日向ぼっこをするのだが、なにかぐったりした様子だった。

大学生の妹が学校へ出かけるときはバス停まで送るのだが、フジの歩き方は見るからにヨタヨタしていた。バスが発車すると、横断歩道を渡って帰ってくるのであった。フジのがんは、肩にも転移していた。よだれを流しながらも、頑張って生きている。スゴイなあと思う。動物でありながら、目に何か訴えるものを感じる。

がんはさらに進行した。最後には横になったきりで、水も飲めない。 点滴、注射の手当てが続く。しかし、ついに口から泡を吹くように最後の時を迎えた。 いつも見送りを受けていた妹が見ていられず、これ以上苦しませないでと訴える。私は麻酔剤を三倍量にしてフジの静脈に注射した。フジはすぐ眠り、そのまま逝った。 思えば、今でもじんとくるものがある。

ドライアイスでフジを囲んで、東大動物病院へ運んだ。石田教授の執刀のもと解剖が行われた。「まぁ。よくここまで生きていた。こんなことは無いぞ。よく助けてくれた、桑島」。 フジの臓器はありとあらゆる所が、がんに侵されていた。

私は、そのあと実家で動物病院を開業した。実家は廻りにいつも動物がいた。猫が6匹も布団に潜り込んで、目も開かない子猫が母猫と間違えたのか、私の乳をチュウチュウしゃぶることもあった。二階の窓から猫をほおり投げると、くるり一回転して見事に立つ。これで腰骨を折るような猫はいなかった。

また、捨て猫を拾って来て、綿にしみこませた牛乳を飲ませたり、結構育てたものだ。 その体験から、小猫用の哺乳瓶を考案して特許も取って売り出したが、すぐ大手に真似されて、売れなくなった。「いものを作りましたね、先生」といいながら、半年も音沙汰なく、催促したら「あれはダメでした」という。しばらくして赤線哺乳瓶から改良型が発売された。瓶の首が斜めになって、空気を一緒に吸わないように考案されたものだった。

赤線哺乳瓶の改良型とは、乳首が大小二つに分かれた形のもので、結果的に犬猫の赤ん坊が乳と一緒に空気を飲み込まない設計になったもので、私のアイデアを綺麗に盗んだものだ。そして、販売力に物言わせてそれを売りまくった。併行してその会社は、エスビラックという動物用の粉ミルクの開発に成功した。私の考案した哺乳瓶は売れなくなったが、エスビラックのお陰で、多くの小動物の赤ちゃんの命が救われた。

自宅で動物病院を開業した頃は、犬などはほとんど外で飼うのが当たり前であったから、夏は蚊に刺されてフィラリアになって死ぬものが多かった。父の時代は、馬と牛が中心で、犬の病気というとよく診察もしないで「これあフィラリアだ」と言っていたものだ。私がフィラリアだと言っても客が信用しない。

だから、血液を取って顕微鏡で見せると、レンズの中で虫が蠢いているのを見て吃驚するのだった。やがて、あの若先生は犬の血を採って虫を見せてくれると評判になって、客が集まった。事実、犬の糞には回虫、線虫、さなだ虫、鞭虫、鈎虫、瓜実條虫などがおり、耳には耳ダニなど、皮膚にはニキビダニがいて、顕微鏡の中ではまるで怪獣のように見えたのである。

ボランティア活動・子供神輿

私は若い時から糖尿病で血糖値も高く、いつ死んでもおかしくない健康状態にある。 倅が20歳になったとき、新聞でJC(青年会議所)の広告「住みよい船橋のために」を見て、社会に役立つボランティア活動に力を注ぎたいと思った。その結果、仕事は半分になったが、倅が後を補ってくれているので、私は後顧の憂いなく活動ができている。その ボランティア活動を通して、弱者に対する思いやりや優しさなどが、自分の職業と重なる部分が多くあることに気づいた。

ある年のこと、JCのメンバーで母子家庭の子供たちに「お神輿」を担いでもらうことを企画した。樽神輿を作ってお神輿の集合場所へ持っていくと、祭りの役員に「何だ。樽か」とばかり、神輿担ぎの最後尾に回された。他の町会の子供たちは綺麗に着飾り、神輿もピカピカの本物であった。母子家庭の子供は普段着のままで、神輿は樽神輿。

翌年、私は新人ながら「神輿委員長」になることを申し出た。予算は10万円だったが、神輿を作るという主張に、17万円に増額してもらった。その17万円を握って、浅草の「うさぎ屋」という神輿専門店へいき、値段を見たら子供神輿でも一基400万円だった。店内を見回して17万円で買えるものはないかと探したら、なんと子供神輿の「鳳凰」があった。

頭さえあれば、あとは何とかできるだろうと模型を作ったりしたが、如何せん神輿は簡単に出来るものではない。そこで、事情を話して「神輿を作る技術をお持ちの方いませんか」と新聞に載せてもらった。すると、3人ほど応募があったなかに、最初に名乗り出たもと浅草で指物師をしていた吉岡さんがいた。

吉岡さんは、私の知り合いの大工から貰った米ヒバ材を使ってまず立派な屋根を作り、溶接屋にお願いした土台になる鉄骨枡形に柱を組み合わせて、神輿の胴体を仕上げた。それに屋根を乗せ、鳳凰を冠につけ、蕨手(わらびて)をつけると、立派な神輿が出来上がった。それらの経緯を知った船橋ライオンズクラブから特別に寄付金を頂戴した。

そして当時、「3K」(献血・環境・交通安全)運動というのがあったが、その中の子供の交通事故が多かったので、「交通安全こども神輿」と名づけ、船橋大神宮でお札を戴き神輿に奉納した。子ども神輿の完成とともに、自分の客や知人に大披露の案内をしたら、大勢の人が集まった。中にはお祝いまで持参された人もいた。

披露パーティの中で、材木を寄付してくれた大工さんや、神輿を完成させた吉岡さんなどに感謝状と金一封を差し上げた。ところが大工さんは「金は受け取れねぇ」という。さすが江戸ッ子だねとなったが、では何か品物でどうだという話になって、セイコーのペアウオッチを受け取って貰った。

子ども神輿は、あちこちの祭りに出かけた。マスコミも話題性があるので、写真入りで大きく取り上げる。そうなると、役所の方も見方が変わって、神輿の合同運行にはトップでどうぞなってくる。子どもたちも元気が出て、全員揃いの運動着で豆絞りの手ぬぐいで鉢巻。粉白粉で鼻筋を白く塗ってお前の顔はどうだとか、こうだとかの大騒ぎをする。

子どもは、みんなで同じ衣装を着て勢ぞろいすると、学校が違っても行動意識が同調する。 その状態で神輿を担ぐと、他と勢いが違う。ワッショイワッショイと先頭神輿の役目を充分に果たした。私も担ぎ手になった。到着地になじみの蕎麦屋があった。大きな屋敷だったので、神輿は奥に入れて、百人分の「冷やしたぬき蕎麦」を振舞ってもらった。

参加した子どもはもちろん、お母さんたちも大喜び。このほか、仲間から貰った鉛筆や船橋市の花「さざんか」を記念品として配ったので、子ども神輿は大いに盛り上がった。私もはじめてのボランティアの大成功に気をよくして、次に「寝袋学校」を企画した。
今の子どもたちは「鍵っ子」となったり、「ゲームっ子」という孤独な子になるケースが多いが、それを何とか救い出したい、という思いからである。

寝袋学校

「寝袋一つ」と「食器とお米一合」もって「土曜日の午後3時集合」、と市内の子どもに呼びかけたところ、一人っ子、二人兄弟などが50人ほど集まった。私の仲間で300年も経た大地主の家を持っている男に頼んで、その家に50人を宿泊させた。夕方、庭で大きな釜で一合の米を集めて炊いた。おかずはその家の畑から野菜を「かっぱらって来い」と言って、ナスやキウリの味噌汁を作った。

ご飯も味噌汁も大きな鍋・釜で、しかも薪で炊くのだから、昔の農家の生活さながらである。ご飯は余ったらおにぎりにした。夕食が終わったら、近くに住むおじいさん、おばあさん、保母さんにきていただいて昔の故郷の話をしてもらう。あるいは折り紙を教わる。
などを毎週土曜日に行った。子どもは幼稚園から中学2年生まで、年齢幅も広かった。

夜になっても、決して「寝ろ」とは言わなかった。話したければ夜が明けるまで、話してもいいのだ。好きなように一晩を過ごせ。ケンカしたければしたってかまわない。
毎週それをやっているうちに、子どもといえども人の輪ができてくる。上の子が小さい子の面倒を見るようになる。一人っ子も友達との付き合い方を知るようになる。

ある晩、子どもたちが寝ている大部屋で騒ぎが起きた。部屋を覗くと、蚊帳の中で光るものがある。海洋少年団の子が、サバイバルナイフを振り回していたのだ。さすがに慌てて 直ぐナイフを取り上げたが、ぞーっとした。事故になる前に気づいてよかった。それからは万一を考えて、保険に入ることにした。

3年間継続した頃,NHKが特集で「寝袋学校」を報道した。私が一応塾長ということで 経緯などを説明した。そのころ、寝袋と米一合は変わらないが、朝6時パンの牛乳の朝食、 6時半には家族が迎えにくるという決まりにしていた。朝、家族の嬉しい笑顔を見ることもボランティアの楽しみであった。

しかし、その旧家が改築することになったので、「寝袋学校」は惜しまれながら終了した。 そのことは、船橋市でも話題になり、町会やボーイスカウトなどでも小規模ながら、「寝袋学校」的なことが展開された。誰かが石を投げればその波紋が広がって、子どもたちのためになり、ボランティアの自分たちも楽しく、明るい社会づくりに貢献できるのである。

スポーツ健康都市・船橋

その頃の船橋市は古い街で、市長は盆踊りには一生懸命でるが他のことはあまりやらないとかの評判があった。市川市は文化的な学園都市、八千代市は田園都市、習志野市はスポーツで鳴らしており、その中で船橋は周辺都市の中では谷底の感があった。東京の新橋のガード下に広告があるのは全部船橋のOS、若松、有田などのストリップ劇場である。 あとはギャンブル。競馬も船橋、中山。駅前のパチンコ街のすさまじさ。

しかし、住めば都というか中々いい街でもあるが、この船橋をもっとよくしないと子々孫々に申し訳ない。私は、そのためにはトップを代える必要があると思った。ちょうどその時、市長が旅行中に病に倒れて、市政が一年間空白となった。その間にバッチをつけた金持ちの先生たちが暗躍して土地転がしが横行し、船橋はめちゃくちゃになった。

そこで、船橋再生のため大々的な政治運動の展開となるのであるが、選挙をめぐるどろどろとした裏話は実に面白いが、そのまま披露するには問題があるので、途中カットして、大逆転で元教育長大橋和夫が市長に当選してからの話に繋ぎたい。

 大橋氏の教育長時代から信頼していた市川恭四郎氏を、大橋市長は直ちに市立船橋高校の校長に任命し、2年後には船橋市の教育長に就任させた。そしてその年、大橋市長はスポーツ健康都市宣言をした。市立船橋高校に第二体育館をつくり、千葉県中からサッカー、野球、バレー、マラソンなどの知名のスポーツ指導者を集めた。その中には高橋尚子を育てた小出監督がいた。

 スポーツはあっという間に強くなった。駅伝は優勝するわ、野球もベスト4まで進むわ、 バレーも活躍するわで、スポーツ健康都市宣言を実現させた。そのことがストリップ劇場やギャンブルに向かっていた市民の目を換えてしまった。市船出身のOBが胸を張って、市船出身といえるようになった。

船橋市は、船橋土着人は市民の4分の1、あとの4分の3は他市、他県から流入した人である。その人口構成の中で、市民に故郷意識を持たせるのはスポーツが一番である。スポーツで全国に有名になると「俺の生れは船橋だ」となる。その現象が実際に起こったのである。トップを代えることによって、こんなにも変わるものか、と驚くばかりである。

私は獣医であるから、役所の仕事にも利権にも、何の関係もない。しかし、獣医の立場で市長にお願いしたことがある。「人間と動物との触れ合う機会」をもっと作って欲しいということだった。マンションの子どもはペットを飼うことが出来ない。デズニーランドのぬいぐるみ人形に触れるだけでも、子どもは心が和むのだ。

わんぱく王国

今の時代は「子どもが動物に親しめる自然動物園」が必要になっている。子どもが生きている動物を抱っこすることによって、強く抱けば苦しがるし、優しく抱けばうっとりと眠るということを肌で感じることに意味がある。その提案に乗って、市長は4万坪の敷地の「わんぱく王国」を作ってくれた。芝生は入ってよし。浅いアルキメデスの池には入って遊べ。アスレチックやジャンボ滑り台だとか、子どもがふんだんに遊べる。

何年かやっているうちに、子どもたちからキリンやライオンは要らない。ウサギやヤギ、ニワトリなどと遊びたいという要望がでてきた。そこで増やした小動物に触れるために、団地の子どもたちもやってくる。ウサギやヤギに名前をつけ、自宅から人参やマメ類などを持ってきて食べさせる。ゆっくり楽しんで、また来週にやってくる。小動物が病気になると、それぞれ専門の獣医が診て治療する。リタイヤした獣医も大活躍だった。

その後、船橋市とアンデルセン市が姉妹都市となったのを機会に「アンデルセン・わんぱく公園」と改名した。アンデルセン市から本物の風車の寄贈をうけ、オランダの大工さんがやってきて、現地から運んだ石と材木で組み立て作業を行った。こちらからは水車を動かす「リプローマ」という技術を習得するために、我々の仲間がオランダまで出向いた。 水車では、風力を動力にして粉を挽いている。

公園には、山もあれば谷もある。谷川にはヤゴやカエルやザリガニなどが、自然のままにいる。普通、行政が管理する公園ではビールなどは売っていない。幸い千葉県にはサッポロビールの工場があるから、そこのビールを出してもらっている。仲間に肉屋さんがいるので、家族で来てバ―ベキューが出来るようなセットも用意している。

これを、市民が喜ぶことを念頭に運営された都市型公園とでもいうのだろうか。 こんな風に、私は楽しみながらボランティアを続けている。 最後に、自分の好きな詩を朗読して終わりたい。明治生まれの、祖父の63歳の頃、自分の後ろ姿をふっと振り返った詩である。

「初奉公」  森 照堂作

家が貧しかったので 

高等科への進学を諦めた

わたしは奉公へ出された

思えば五十年前の十三の春

幅のせまい角帯をしめ

荷物は小さな柳行李ひとつ

故郷横浜をたって東京へ向かう

今は無き赤レンガの横浜駅

三つになった妹を背負って見送る母

体に気をつけてねと母の瞳は濡れていた

人間は正直でなければいけないと

汽車のなかで訓戒された父の言葉は いまも忘れない

明治四十年 上野で開かれた万国勧業博覧会

会場に設けられた笹め雪の豆腐料理に舌づつみをうった。

水が飲みたいというと水道のあるところまで連れてゆき

両手ですくって飲ませてくれた父が慈愛の甘露の水

ふたたびくぐった奉公先の質屋の門

父はわたしのことをくれぐれも主人に依頼をして帰って行った

青い絹マントルのガス灯のもとで

次第に遠ざかって行く父の日和下駄の歯音を聞いた

思えば五十年まえの十三の春


終わり


文 責   三上 卓治
会場撮影 橋本 曜
HTML制作上野 治子