平成15年7月11日(金) 18時〜20時 場所 九段社会教育センター


第172回「鵜の目、鷹の目、ロバ耳」

講師 阿部 宏 氏 


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講師紹介

スポーツ放送の裏舞台

取材内容の整理

相撲の世界 

大男の話

怪力の話

決まり手改定

土左衛門


講師 阿部 宏 氏

2週間ほど前でしたか、岡山の放送で動物園で生まれた丹頂鶴のひなが親が面倒をみないものだから仕方なく人間が育てているという映像がありました。鳥はすりこみ現象で生まれて初めて見た動くものを親と思い込む習性があります。ここでは人間が丹頂鶴の縫いぐるみに入って餌をたべさせておりました。

12,3年前に、やはりアメリカの動物園でコンドルが同じような理由で人間がコンドルの頭の縫いぐるみに入って餌を与えている映像がありました。 その後、その番組をやっていた平野キャスターが言ったコメントが秀逸でした。 「これは、手がコンドル」

 今、NHKの大河ドラマ「宮本武蔵」を見ていますが、やたら武蔵も尾通も山の中を歩いている。睦み合うこともなかったので子供がいなかったのでしょうか。 熊本に宮本伊織という息子がいたことになっていますが、あれは養子だったといわれています。それを聞いた人がいいました。 「そんなの簡単じゃないか。中央線に乗ればすぐわかる。武蔵コガネエという駅がある」

スポーツ放送の裏舞台

さて本題ですが、私は昭和34年にNHKに入って、おもにスポーツの実況を中心にやってきました。相撲が特に多かったのですが、その後相撲雑誌の編集の仕事を10年ばかりやりました。 こういった世界では先ず大切なことは取材です。政治部や社会部などで非常に重いテーマに取り組む場合は手間も時間もかかりますが、スポーツ取材は成り行きに任せることが多い。ともあれ人に会って話を聞かなければならない。そこで思い出すままにいくつかお話ししますと、 昭和43年の学生横綱に日大の輪島がなりました。彼が大学3年のとき、田中というそれまで学生横綱をはってきた人がいた。田中は4年でもう卒業する、その後に輪島を横綱にしなければならないというので周囲も緊張していました。

当時私は大阪にいましたが、学生相撲の担当をすることになり、どうしても輪島に会っておくことが必要になったのですが、まわりのガードが固くてなかなか会うことができない。どうしようかと考えた末に 「人間、緊張すれば必ず行くところがある」すなわち便所の前で待ち構えていたら、果たして彼がやってきました。そこで一緒に入っていわゆる連れションベンで同郷であるとことも話しながらインタビューを申し込んだら、ああいいよ ということで難なく話を聞くことができました。

それから昭和50なん年かに、テレビ朝日が中国の陸上選手を呼んで日中対抗陸上というのをやりました。当日の夕方のNHKの番組になんとか入れたいのですが主催がテレビ朝日なのでなかなか会わせてもらえない。三段飛びでずば抜けた選手にインタービューしたいのですがてだてがない。 そこでNHKの中国語が出来るひとにひとつだけ「通訳の李さんはどこにいますか」というのだけ教えてもらって、近くの中国人に語りかけたら、その通訳を探して連れてきてくれた。あとは簡単です。そんな苦労をしてその日の放送に間に合わせたこともあります。

 昭和50なん年かに日本相撲協会がメキシコに巡業するのに付いていったことがあります。ここでひとつの番組を作ることになったのですがシナリオを考えなければならない。 メキシコは太陽の国ですから最初に日の出のシーンを撮ることは決まったのですが興行の シーンをどうするか考えた。そこで当時日本で売られたいたニコチンの溜まる様子が分かるパイプで、毎朝煙草を広場で吸いながらしきりに陽にかざして眺めていたら物見高い人たちが近寄ってきた。一本ずつおすそ分けすると非常に喜んだ。 三日もするとセニョール・ピパ(パイプおじさん)と呼ばれて仲良しになりました。

これで群集ショットはOK。周りにいた子供の中に偶然千代の富士そっくりな子がいました。当時千代の富士は大関になったばかりで破竹の勢いのときでしたが すごく人気があった。そこで、その子供におまえは人気の千代の富士そっくりだぞと話し掛けてその子が喜ぶ顔を大写しにして印象的な導入部を作ることができました。

取材内容の整理

いまではコンピュータの進歩で膨大なデータ処理が可能になりましたが、私がこの世界にはいった時はメモとかせいぜいカード式のデータ整理で、それぞれのやり方でやっておりましたがだんだん整理をするのがおっくうになってルーズリーフ式のものになっていきました。 現役を引退した今は、昔集めたデータをどうやって今につなげていくか模索しながらやっております。 昔は義務であったデータの収集・整理が今は趣味になりました。

相撲の世界 

長年親しんだ相撲の世界についてお話ししましょう。今年は相撲の世界で日本史上ある意味で画期的な年といえるかと思います。初場所の優勝者が六つの階級のうち五つが外国人力士で占められてしまったのです。幕内は朝青竜(モンゴル)、十両が朝赤竜(モンゴル)、 幕下が黒海(グルジア)、三段目は時天空(モンゴル人で東京農大の学生でもある)、序二段は闘鵬(日本)、序二段は琴欧州(ブルガリア)と外人オンパレードです。

現在(平成15年名古屋場所)で在籍している相撲取りは706人ですが外国人力士は50人います。内訳はモンゴル33、米国2、ロシヤ4、ブラジル2、中国1、韓国2、トンガ2、グルジア1、ブルガリヤ1、チェコ1、アルゼンチン1といった賑やかさです。 ちなみに日本の相撲取りの出身地は多いほうから愛知56、大阪50、福岡44、青森31、北海道24人となっています。 グローバリズムといわれて久しいですが相撲界もはっきりその傾向がみられます。その背景を考えますと努力して番付けが上れば大金を手に入れることができるということで日本に働き口を求めてやってきていることが考えられます。

1964年に高見山が初土俵を踏んだときは、大きな話題になりました。 当時の見方としてアメリカ人が厳しい土俵の修行や古い身分社会の習慣に耐えれないだろう、 多分脱落すうだろうと予想する人が多かったのですが高見山は見事に耐えた。 それをみて以後、小錦、曙、武蔵丸など大型力士がつぎつぎ登場しトンガ、カナダ、モンゴルらから新弟子が続々やってくるようになりました。

逆に日本は豊かになり過ぎて日本人の根性がなくなってきたともいえます。昔は中学校を出るか出ないかの子供をつれてきて部屋で厳しい弟子生活を強いながら鍛えてきたし弟子もそれに耐えてきた。いまその流れがつぶれようとしています。そのへんに外国人の台頭をゆるす素地があるのでないでしょうか。

どうしてこの人達ががんばるのか。このへんのことを解き明かすのに相撲取りの給料のことを申し上げます。横綱の月給が282万円です。大関が234万7千円、関脇が169万3千円、幕内が130万9千円、十両は103万6千円です。このほかに入門以来の 勝ち越しについての褒賞金、横綱ですと綱代などがあります。

半面、幕下以下になりますと幕下で7万円、三段目で6万円、序二段、で序の口で5万円の場所手当しか貰えません。もっとも部屋代、食事代、交通費など全て親方がみてくれるから生活はできないことはありませんが、とにかく強くならなければお金は稼げないのです。 幕下から十両の関取になっただけで給料が100万円以上も貰える。だからこそ必死になって稽古に励むのです。逆に関取が幕下に陥落した時の悲劇はいうまでもありません。

これまで天国と地獄を見た人として琴風(現尾車親方)の例があります。彼は若くして関脇に昇進し大関候補として期待されましたが怪我で休場が続き一年半でなんと幕下30枚目まで落ちました。 個室をもらって付け人がついていた関取が一転付け人になって兄弟子の背中を流さなければならなくなったのです。それでも彼は歯を食いしばってがんばり再入幕して大関まで昇進しました

大男の話

相撲の話ですから大男の話をしましょう。最近のデータでは小錦が248キロ、曙が234キロ、武蔵丸235キロ、高見山が205キロです。 高見山が便所の踏み板を踏み抜いたとか、小錦が土俵をやすんだのでどうしたのかと思ったら風呂場の腰掛を潰して尾てい骨を強打したためと分かったこともありました。

かって長身の力士で214センチの不動岩という力士がいました。今吊屋根から下がっている房は地上から214センチですが、これはこの不動岩の身長に合わせて設定したと言われています。 彼は大食漢ぶりも有名でした。2時間で一升瓶の酒6本をのみ牛肉一貫目を食べたうえに御土産に酒2升をぶらさげて帰ったそうです。

江戸時代は体が大きいだけで実際に相撲はとらなくても土俵入りだけさせ看板大関と呼ばれた。大空武左衛門という力士がいます。 幕末の文政頃、肥後熊本から江戸にあがってきましたが身長が7尺5寸(228センチ)体重35貫500匁で道中、道をふさいでいる牛を跨いでいったという話があります。

一日1升7合の米を食べたそうですが肥後の殿様が腹一杯たべさせたところ酒3升、飯5升、1尺5寸の鯛3匹をたべてこれで腹八分だといったそうです。 その他18代横綱大砲万右エ門は焼きいも2貫目とか、大関の雷電が酒2斗呑んだとか、初代朝潮がビール37本、酒6升を飲んだなんて話しもあります。

逆に小男の例では、いずれも明治時代の関脇で玉椿憲太郎、158センチ 小常陸由太郎、158センチ 両国梶之助、159センチなどがあります。 最近の力士では舞の海が172センチ 栃剣が168センチです。

現在、身長で一番高いのは貴ノ浪で196センチ、体重では武蔵丸の235キロですが幕内の平均体重は184.3センチ、平均体重155。4キロです。 大きくて話題になった力士に大内山があります。相撲解説の玉の海さんが雑誌の座談会を済ませて玄関で靴を履こうとしたら、となりにとてつもなく大きい靴があり自分の靴がすっぽり入ってしまった。 大内山の靴の中で猫が子を産んだという逸話も残っています。

怪力の話

魁皇が握ったリンゴをそのまま潰してジュースにした話しや水道の栓をねじ切った話や1ケース27キロのビールケースを片手に2ケースずつ計4ケース108キロをぶらさげて運んだとか玉乃海こと片男波親方が線路を 一本かついだとかなどいとまがありません。

決まり手改定

平成13年1月から勇み足、腰砕けのほかに、つき手、つきひざ、踏み出しが勝負の決まり方が追加されて82手になりました。 明治の中頃、怪力で人気のあった海山と後に大関となった朝潮戦。 熱戦になった。朝潮の強力な寄りの攻めに土俵に詰まった海山が土俵際、思い切って反撃のうっちゃりをみせた。名行司の木村瀬平はためらわず軍配を海山に。

ところが次の瞬間、よく見ると海山のまわしがほどけて、大事なものが顔をだしている。古来 回しがほどけて、あるものが見えてしまうと「負け」になるのが相撲のルール。ならば海山の負けになる。勝負検査役の協議では海山の勝ちは変わらなかった。 行司の解釈は「あれは、もみ合って勝負がついてから飛び出したのである。」ということで これを「名行司、木村瀬平らチン裁定」といいます。

土左衛門

享保期の江戸相撲に成瀬川土左衛門という力士がいた。古今幕内力士表に名がないので、 おそらくは三段目以下の力士だが、その力士が後世に名を遺すことになったのは、その名による。

生白い肥満体、ブヨブヨした成瀬川の格好は、身投げして流されて両国・隅田川のクイにひっかかった水死体を思わせた。 界隈の人々はそれを土左衛門のようだと呼びならわすうちに土左衛門が水死体を表す言葉になってひろまった(大辞林) 江戸時代の碩学・平賀源内に、ある人が問うた。「先生、衛門とつけば男の名前です。 女の水死体を土左衛門といえるでしょうか」博識の源内、しばらく考えて「構うまい。 甚平,多平は男の名じゃが、女にも助平はおる。それと同じ理屈じゃ」

相撲史と江戸時代史を結びつけて鵜の目、鷹の目で調べていますとこんな発見に出会って思わずニヤリとすることもあります。あわせて人の話しにロバの耳をたてると思わぬ拾い物をすることがある。 これらを頭の体操としてモーロクするまでのつなぎの時間を過ごそうと思っております。         

財団法人日本相撲協会公式 大相撲ホームページ


 
文 責 得猪  外明
写真撮影 橋本 曜
HTML制作 上野 治子