目次

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はじめに
ルネ・クレール
ジャック・フェデール
ジュリアン・デュヴィヴィエ
ジャン・ルノワール
マルセル・カルネ



坂田 純治さんの映画の話は、世界映画史講座その六となります。まずはフランス映画界のベルエポックからスタートして、来年1月まで5回にわたる連続講座です。

講師の坂田さん
はじめに
昭和20年8月15日、私は信州の安曇野に住んでいました。軍国主義の洗脳を受け、お国のために死ぬことばかり教育を受けてきた少年はこの戦争が終わったらいったいどうしたらいいのだろうと考えた。その行き着いた先が演劇の世界と、映画の世界であった。

幼年時代は酷寒の樺太、今のサハリンに住んでいた。サハリンという所は酷寒零下30度、35度、という大変寒い所で一年中ストーブを焚いている土地であった。大人たちの娯楽といえば大体ギャンブルで麻雀とか賭け事、或いは、酒を飲むこと、そしてたまに出かけて行くのは活動写真小屋(映画の世界)であった。

そして年に何回か旅回りの一座がやってきた。今にして思えば名も無き座長の劇団である。そういったもようし物も活動小屋で開かれる。幼い私は母の手に引かれその木戸口を何回も潜ったのである。幼い原体験として今でも忘れられない思い出である。

信州の松本から信濃大町に到るまでの線を大糸南線という。安曇平を縦断して信濃大町まで約一時間、この信濃大町を基点にして今度は裏日本の糸魚川に抜ける線を大糸北線という。この大糸南北線というのは戦前の構想だったが戦争が激しくなり戦時中に大糸北線の方の工事は中断した。

戦後ようやく南北線が貫通して信州の山の中から裏日本へ抜けることが出来るようになった。この大糸線がある寒村の駅に私坂田は戦時中住んでいた。当時国鉄のキップを買うことは大変な時代であった。一列車で数枚、4枚とか5枚しか発売しないのである。

松本に行くためには、朝早く起き、行列に並んでその日のキップを買うのである。松本には毎週のように出かけた、それは映画を観たい、演劇も観たい、音楽のコンサートも聴きたいためであった。その頃は本当に映画をよく観た。

戦時中外国映画はドイツ映画の他は禁断であった。なおかつ古いフィルムを持っている人は全部供出するか、或いは没収された。ところが松本の映画館主でこれは勿体無い、ということで密かに隠匿した。更に松本市内でも強烈な洋画ファンがいてこういう人たちも隠匿して供出に応じなかった。

この人たちの尽力で旧い洋画の名作は、戦後ただちに陽の目を見ることが出来たのである。

沢山観た旧作の映画のジャンルにはアメリカ映画もあったが、特に少年である私の心をゆすぶったり痛めてくれたのはフランス映画を中心とするヨーロッパ映画であった。早川雪舟と田中路子の「ヨシワラ」は最初に観た。ジャン・ギャバンの「望郷」ペペルモコに初めてお目にかかったのも、この松本の密かなる映画館であった。

ジャン・ギャバン 「舞踏会の手帳」「パリの屋根の下」ダニエルダリュ、これから上映するコリンヌ・ルュシェールの「格子なき牢獄」「美しき争い」「白鳥の死」「ニンジン」「どん底」などすべてこの時期の所産である。観た映画の場所や日時、誰と行ったか克明に書き記した“映画日記“の大学ノーとは今やボロボロになった。そのノートをつい昨日も広げてみて想い出にふけっていた。

いよいよ進学で上京。まずは、「新宿文化」「新宿東宝地下」「帝都名画座」「ヒカリ座」などが新宿のメッカであった。池袋では「人生座」、都心に行くと昔、毎日新聞社が有楽町の“そごう”のまん前にあった、そこの地下に「丸の内名画座」がこういう古い物を並べていた。

浅草まで足を伸ばすと「大勝館」、又、帝劇が芝居も何も出来ない頃に名作祭というのをやった。これは何処から集めてきたものやら古い映画を並べては結構な料金で上映していた。たまに小使いに余裕があるとそれを観にいった。

1948年昭和23年2月にフランス映画は戦後輸入が再開された。「ジャンコクトオ」から始まる。この時期までは私の古い名作行脚の旅は果てしなくつづいたのである。もし私が人並みのフィーリングとか感性とかを持ち合わせているとしたら、それを育んでいってくれたのはまさにこの時代である。すなわち映画の力によってであると言って確言して吝かではない。

つまりこの講座は私の青春のヨーロッパ映画へのオマージュであると感じ取って貰えれば幸いである。

第一次大戦1914年〜1918年の4年間、こう言う表現がある。「ヨーロッパの男たちが皆戦場に出かけている間にアメリカの男は皆な映画館に通っていた。」つまりこの第一次大戦時にアメリカによってヨーロッパの映画界は大きく水を開けられた。

国境の境界線も厳しく移動するヨーロッパにあって、フランスを始めとするヨーロッパの映画人たちがいかに過酷な環境に耐えて、いかに創造し映画芸術を高めていったか、この歴史は第二次世界大戦の終えん時までつづくのであります。

そもそも映画という大変な技術を発明したのは、19世紀末1895年(明治28年12月)のことで、フランスのルミエール兄弟によって発明公開された。当然フランスが創成記の映画界をリードすることになるわけだが、魔術師と言われたジョルジュ・メリエスが登場し、トリックなど大変なテクニックを開発したのもフランスである。

これにつづくのが歴史劇などを沢山作っていたイタリー、イタリーは当時も映画制作本数が多い国である。次いで文学作品ストロインドベリーなどの題材の映画を主に作っていたのがスエーデン。そして怪奇的な幻想劇を映像化して成功したのがドイツである。

ソビエットでは、革命後も積極的に映画制作に乗り出しモンタージュ理論の研究を、理論と創作の両面から発展させた。革命ドラマと称してこれを中心に精力的であった。すなわちエイゼンシュタインとかプドフキンの登場である。

これに対してアメリカは、強大な資本力にものを言わせて技術、俳優、監督もヨーロッパからどんどん引き抜いてきた。そしてハリウッドという夢の工場にまで発展、拡大して行った。まさにヨーロッパ映画界を語らずして世界の映画界を語る訳にはいかない。

1927年昭和2年、アメリカのハリウッド、ワーナーブラザース社がアル・ジョルスンという歌手を使って「ジャズシンガー」という作品で、世界最初のトーキー映画が出現した。世界各国でもサイレント映画脱皮とその転換に映画作りの才能はますます遺憾なく発揮されて行った。

フランスにおいてはルネ・クレールが「パリの屋根の下」という作品でヨーロッパトーキー時代の幕開けをさせた。つづいてジャック・フェデール、ジュリアン・デュヴィヴィェ、ジャン・ルノワールなどの巨匠がこれにつづいた。元来フランスでは、台詞を貴重な表現にして、むしろ演劇的な映画作りが多かったが、トーキーの出現で演劇の持ち合わせていないカメラと、音楽との融合が背景になった描写力としてトーキーは大きな武器となってきた。

ドイツとオーストリーは、フランスとは対照的に台詞も音楽も多用することで独自のスタイルを作り「オペレッタ」とか音楽映画を成功させていった。イギリスは、歴史劇とかスリラーなどが得意だが、トーキーの出現により話術の世界を導入して水準を高めた。

受講生 ソビエット、スペインでは音を使うことによって思想を強調する作品で益々厚みを増していった。イタリーもこの時期既に戦後謳われたイタリアンネオレアリスモへの脈絡を示す傑作が出現した。

更に第二次大戦後の各国の個性と創造の試作は次々に生まれ新世代の監督等は才能の開花とともにそれぞれの国の国民性、国民独自の芸術性を発揮して絢爛たる様相を呈してきたのである。

今回の講義はこのヨーロッパ各国を代表する監督の個性を前面に打ち出して話を進めたい。前回の「アカデミー賞物語」はハリウッドとスターが中心だったが、ヨーロッパ映画界はやはり監督の方が妥当だと考えた。

尚、今回の作品の対象はヨーロッパのトーキー以後、クレールの「パリの屋根の下」の出現1930年〜1980年頃までに絞った。

<<本論>>

ルネ・クレール
1930年(昭和5年)ヨーロッパ映画界トーキー第1作である。あれぇ?と思われるかも知れないが画面に音が出ていない、まるで今までのサイレント映画のようである。これがクレールの奇才といかテクニックである。遠近法といって音の距離間を出す、これがトーキーの生かし方であるとクレールの主張がハッキリ出ている。

ルネ・クレールという人は1898年11月生まれで、ルミエール兄弟が映画を誕生させた3年後に生まれた。まるで映画の申し子のような人である。石鹸を売る商人の息子に生まれ、若いときから詩が好きであった。トーキーの世界に音楽を最も有効的に、最も美しく溶解させた功労者がルネ・クレールである。画面や台詞の音楽性がすこぶる高い、そして音による距離間遠近法などを開発した。

● 「パリの屋根の下」ビデオを観る。
・「パリの屋根の下」歌、坂田氏の録音を聴く

さてクレールの二本目は、昭和6年「自由を我等に」皮肉を込めた笑いの詩を作った。フランスのエスプリ下町の情緒を世界に最初に正しく教えてくれたのがルネ・クレールだと言われている。

「自由を我等に」ラストシーン ● 「自由を我等に」ビデオを観る
● 「巴里祭」ビデオを観る
● 「巴里祭」歌、録音を聴く

ジャック・フェデール
この人はベルギーの芸術一家の出身で、若い頃は俳優をしていた、監督に転じ、ハリウッドなどでも勉強していた。32歳の時に名女優フランソワーズロゼーと結婚、夫婦で代表三部作を作った。

ところがフェデールは大変病弱であった。そのために体調の悪い時は大学へ行って映画論の講座をしたり、講師をしたり、或いは著述をしたり、キャリアのわりには寡作の人である。生涯で16作くらいである。

これから観る「外人部隊」フェデールの代表作と言われ、性格映画、つまり登場人物一人一人の性格描写が実に緻密で一部の隙も無い、そして一種の生活に対する倦怠というか、諦めともいうか夢に対する陰りとでもいうか、そういう作風の作家である。フェデールは病弱だったせいかこういった神経質な作品が多い。

●「外人部隊」ビデオを観る。

この「外人部隊」のストーリーは破産した金持ちの御曹司が贅沢好みの女とパリで別れ、外人部隊に入隊してその町でそっくりな女と出会う。

“外人部隊”というのはフランス人以外の志願兵を雇った軍隊である。当時敵は盗賊、野盗だと言われてきたが、実はそうではなく、この時の外人部隊が意外に苦戦したのは当時フランスの植民地だったアルジェリアの独立戦争の党首達であった。

ゲーリー・クーパーの「モロッコ」の外人部隊、ジャン・ギャバンの「地の果てを行く」の外人部隊。ひどくロマンチックに見えるのは人生に幻滅し、絶望して自殺でもするような気持で外人部隊に入隊する。そういう姿を人々は見て何か外人部隊というのはロマンチックだなぁと感じるようである。

「女だけの都 フランソワーズ・ロゼー」 ●「女だけの都」ビデオを観る。

1935年昭和10年の作品である。

<<休憩>>

ジュリアン・デュヴィヴィエ
この人は若いとき舞台俳優をしていた。映画界に入り23歳で映画第1作を作っている。大変多作な人でいささか商業的な人でないかという批判も免れない。しかし彼は、文学作品の映画化からスタートしていてこれは非常に映画の製作にも、フランス映画の製作としても貢献している事実である。

「商船テナシチー」1934年、昭和9年の作品である。シャルル・ヴィルドラクの劇作を映画化。「運命は流れる者を潮に乗せ、逆らうものをひいていく」こういったテーマである。
運命の逆転とでもいうか二人の親友がカナダでひと稼ぎでもしようと港町に着く。結局誘い出した男の方はこの街のホテルの娘とパリへ帰ってしまう。乗り気でなかったもう一人の青年は、テナシチーという商船に乗ってカナダへ向かう。

「望郷」ビデオを観る。

「望郷」1937年、昭和12年の作品である。カスパの帝王ジャン・ギャバン、デュヴィヴィエはトーキーの出現によってクレールに負けずいろいろな創作をしている。画面は暗殺の場面であり。自動ピアノの音が効果を上げている。

ジャン・ギャバンは1904年生まれである、現在生きていれば99歳である。コメディアンの父、母は歌手であった。ギャバン本人もフォーリー・ベルジュールとか、ミュージックホールのシャンソン歌手をしていた。26歳の時映画デビューした。72歳で亡くなるまでに86本の作品に出演している。

恋に狂った激情的な男、強い意志を持った紳士、フィルムノアールなどを演じきった。フランスの俳優にしては珍しく歌は別として舞台経験が全く無い。生粋の映画人である。クレールも、デュヴィヴィエも音楽の使い方が上手である。

「舞踏会の手帳」ビデオを観る。

「舞踏会の手帳」1937年、昭和12年の作品である。この作品は「望郷」に次いで同年に作った作品だが国宝的名画と言われている。それは8つのエピソード(オムニバス)で出来ていて、俳優は当時演劇界、映画界の第一人者ばかりであった。デュヴィヴィエにはリリシズムもあるが、一方ではペシミズムの精神でどの作品にも運命劇、そういった題材をよく使った。

「アンナ・カレニナ」ビデオを観る。

さてデュヴィヴィエをもう1作観て戴きましょう。戦後の作品で、イギリスで撮った作品である。戦火を逃れてハリウッドに渡ったデュヴィヴィエはハリウッドで「肉体と幻想」「運命の饗宴」などの秀作を残してフランスへ帰った。

戦後イギリスで撮った第1作「アンナ・カレニナ」、アンナ・カレニナを演じているビビアン・リーも終戦直後「シーザーとクレオパトラ」という作品に出演。ここで過労が祟り肺結核にかかり三年間の闘病生活を送った。夫ローレンス・オリビエの献身的な看病で回復の後の第一作が「アンナ・カレニナ」である。

「アンナ・カレニナ」ビビアン・リー 「アンナ・カレニナ」は1910年ロシアで初めて映画化された。その後約10回映画化されている。特にその中で著名なのは、1928年版、1935年版ハリウッドメトロ版のグレタガルボの「アンナ・カレニナ」である。次いで1948年のビビアン・リー版、

それから20年経って1968年にソビエットのタチャナ・サモイロワ、近年では1997年フランスで、ソフィー・マルソーの「アンナ・カレニナ」がある。

ジャン・ルノワール
ジャン・ルノワールのお父さんは、印象派の名画家オーギュスト・ルノワールである。お兄さんがピエル・ルノワール、俳優である。そして甥のクロード・ルノワールは映画のカメラマンである。ジャン25歳の時に父オーギュストが亡くなった。翌年26歳の時父親のモデルをしていたカトリーヌ・エスランと結婚した。父親の遺産で映画プロダクションを作り、29歳の時にカトリーヌ・エスランを主役で第一作を発表し評判を高めた。

ルネ・クレールや、ジュリアン・デュヴィヴィエと同様に大戦中は戦火を避けてハリウッドへ行った。「南部の人」、インドでロケをした「河」などの秀作を発表した。デュヴィヴィエもそうだが、このルノワールもジャン・ギャバンとのコンビが多い。

1937年、昭和12年の「大いなる幻影」、
この作品は人間同士の巡り会い、騎士道精神の泡沫、貴族社会の終えん、プロレタリアートの台頭、そして何よりも伝えたかったのは戦争を無くそうという幻影これらを謳いあげた名作である。

「大いなる幻影」ビデオを観る。

「獣人」1938年、昭和13年
フランスの自然主義文学作家エミール・ゾラの著作にルーゴン・マッカール双書という全20巻の大作がある。これはアデイド・フークという精神病を抱えた女が、ルーゴンとマッカールの二人の男との間に産んだ3人の子供の子孫がいろいろな遺伝子を背負わされ、その宿命を書いた話が20巻の超大作に収められている。

狂い死にした男の遺伝子を持つ女と、アルコ−ル中毒患者と関係して出来た悲劇の子ジャック(ジャン・ギャバン)は遺伝で脳を犯されている。普段は常人とぜんぜん変わらないが、発作が起きると女を殺したくなるというルーゴン・マッカールの家系を継いでいた。

「獣人」ビデオを観る。

「フレンチカンカン」1954年、昭和29年
かの有名なフランスのナイトクラブ“ムーランルージュ”の創設当時の実話を映画化したものである。この映画の撮影当時ジャン・ギャバンは50歳、フランソワーズ・アルヌールは23歳であった。その6年後「ヘッドライト」と言う作品でギャバンと共演している。

「フレンチカンカン」ビデオを観る。

マルセル・カルネ
マルセル・カルネはルネ・クレールや、ジャック・フェデールの助監督などをして勉強していた。27歳の時「ジェニーの家」と言う名作を発表して一流監督の仲間入りを果たした。カルネの特徴は「ロマンチック運命論」とか、「詩的リアリズム」とか稲され、詩人であり映画の脚本家でもあるジャツク・プレベールとのコンビによって作られた作品は非常に優秀である。

例えば「霧の波止場」、「悪魔が夜来る」というのもそうである。しかしこのカルネという人は、後年ヌーベルバーグの若手の批評家たちから、伝統的なフランス映画を低迷させた人物だと言って非難され徹底的に痛めつけられた。

「北ホテル」ビデオを観る。

「北ホテル」アナベラ 「北ホテル」は1938年、昭和13年
運命論を謳いあげた秀作である。小さな下町のホテルを舞台に心中未遂の若い男女、その女を愛してしまった中年男の影の心、3人の絡みを謳いあげた詩的な作品である。

心中未遂の娘役はアナベラ、アナベラは翌年ハリウッドに招かれ、かのタイロン・パワーと「スエズ」という作品に出演。後に二人は結婚した。

心中未遂の青年役はジャン・ピエール・オーモン、当時のフランス映画界を代表する二枚目である。グレース・ケリーがモナコの大公にカンヌで見初められた当時はこのジャン・ピエール・オーモンが恋人であった。

「天井桟敷の人々」1945年、昭和20年
詩人であり脚本家であるジャック・プレーベルとのコンビの最頂点と言われている。この作品は1943年昭和18年、ナチスとしてはわりと占領政策の緩やかな半占領地帯の南仏のニースで撮影を開始した。

約3年かかって3時間15分の大作をカルネは完成させた。公開は丁度パリ解放直後で、映画のラストシーンに出てくるカーニバルの賑わいは、まさにフランス人のパリジェンヌの解放の喜びを表わしている。この物語は実在のモデルを使っている。
パントマイムの芸人バチスト、殺人者のラスネール、役者のルメートルなどは実際の人物がモデルである。

●「天井桟敷の人々」ビデオを観る。
● 「夜の門」ビデオを観る。


「夜の門」、作品は日本未公開である。イブモンタンがこの作品で“枯葉”を初めて歌うが映画はヒットしなかった。日本は勿論輸入さえしなかったのである。モンタンは4年間毎晩のようにミュージックホールでこの“枯葉”を歌い続けたのでる。
そしてとうとう大変な名シャンソンのヒットとなった。日本はアメリカ経由の逆輸入でこの曲が入って来た。

つづく・・・


  
 「上映作品の輸入会社」   
  
 「参考文献の出版社」   
 東宝東和  白水社
 BCFC(英協)  創元社
 イタリーフイルム  岩波書店
 ユニオン  中央公論社
 大和  集英社
 新外映  秋田書店
 映配  山川出版社
 北欧  近代映画社
 ヘラルド キネマ旬報
 松竹 (洋)      など



会場写真撮影:橋本 曜
文責: 和田 節子
HTML製作:和田 節子