神田雑学大学講義 10月31日


わが青春のヨーロッパ映画 Part2


講師:坂田純治






目次

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アナトール・リトヴァク
レオニード・モギー
ジャン・コクトウ
ジャン・ドラノワ
クロード・オータンララ
ルネ・クレマン
アンリ・G・クルーゾ
アンドレ・カイヤット
ジャック・ベッケル
ルイ・マル
フランソワ・トリュフォー
ヌーベルバーグ
ジャン・リュックコダール
ジヤック・ドミー

坂田 純治さんの映画の話は世界映画史講座その六となります。第一回はフランス映画界のベルエポックからスタートして、Part2の今日は大戦後の新鋭作家とヌーベルバーグです。来年1月まで5回にわたる連続講座です。

前回上映出来なかった二作品のビデオ上映
「うたかたの恋」ビデオを観る。

「うたかたの恋」シャルル・ポワイエ、ダニエル・ダリュー アナトール・リトヴァク
1936年(昭和11年)の作品「うたかたの恋」、監督はアナトール・ リトヴァク。リトヴァクはロシアの生まれ、

14歳の時には既に映画界に 入って俳優をしていた。21歳の時何とロシア映画界で1本監督をして多才を 発揮している。 ドイッに行き33歳でフランスに渡り、いろいろなヒッと作品を撮り

「うたかたの恋」は大ヒット、これが縁になりハリウッドはリトヴァクを 招いた。晩年はイングリット・バーグマンの 「追想」などを撮っている。

「格子なき牢獄」ビデオを観る。

レオニード・モギー
1937年(昭和12年)の作品「格子なき牢獄」、レオニード・モギー監督 は、リトヴァクと同じロシア生まれで、法学博士の学位も持っている。19歳 の時ロシアの映画界入りし、30歳でフランス映画界に渡った。「格子なき牢獄」 の後モギーは「美しき争い」をキャスト、スタッフ、全く同じで撮った。 戦後はイタリーに渡り、 かのジェームス・ディーンの最後の恋人だったピア・ アンジェリという美しいイタリーの女優さんを使い「明日では遅すぎる」という 作品を撮った。

ところがどう言う訳か、「明日では遅すぎる」以降モギー監督の作品は日本には入荷されていない。 私立感化院の非合理性を立て直すのにやってきた院長(アニー・デュコー)は、 (罰より教育)を思想とし、度々無実を訴えて脱走を企てた反発的な少女ネリーに懲罰の代わりに町まで お使いに行くことを命じた。

この少女を演じているのがコリンヌ・ルュシェールである。 余談になるがこのコリンヌ・リュシェールは 保身の為に第二次世界大戦中にナチス高官の妾になり。戦後戦犯として投獄される。獄中肺を患い29歳の若さで獄中死した。 或るフランスの評論家曰く「もしコリンヌ・リュシェールが生きていたら戦後のフランス映画の歴史は変わっていたろう」。 それくらいコリンヌ・リュシェールは大物新人であった。

昭和12年というと日本では軍国主義の大変な時期である。7月7日には日中戦争が始まった。この「格子なき牢獄」 を観た日本の青年達は監視下から解放されたという気持になって、フランスは勿論日本でも大ヒットした。

<<本論>>
講師の坂田さん
「美女と野獣」ビデオを観る。

ジャン・コクトウ
1948年(昭和23年)2月、ヨーロッパ映画の輸入が再開された。その第1作として公開されたのが ジャン・コクトウ監督の「美女と野獣」である。 コクトウは1946年、昭和21年に故ド・モーボン夫人の原作を映画化した。

学生時代からエドモン・Dスタン、或いはマルセル・プルースト(失われた時を求めて)の作者たちと大変交流が 深く、詩、小説、或いは評論、シャンソンの歌詞などいろんな分野で活躍した人。30歳の時はアバンギャルド映画 「詩人の血」という作品を発表している。監督ばかりでなく、脚本も書いた。晩年カンヌ映画祭の委員長を18年間務めた。

*コクトウの力説
「ポエジーとは詩、夢、奇跡、超自然、死、などに近い世界だ。或いは、「古風と新風、古典と前衛の 形式を共に受け入れて現実と夢、秩序と無秩序、真実と虚構を組み合わせてそれらの優雅な結合を図ろうとしたのが私の目的である。」

●「オルフェ」ビデオを観る。


1949年(昭和24年)、「オルフェ」が発表された年は大変難解な作品だと封切当時騒がれた。 ギリシャの「オルフェ」の伝説の新解釈である。ところがコクトウは言う。「皆さん分ろうとしなくていい、 勝ってに観てくれ」この辺がコクトウの面白いところである。人生、死、愛を直感して、それを詩ポエジーの法則で 表現したものである。 死の王女を演じているのはマリア・カザレス、スペインの舞台女優で、大変冷たい非人間的な表情の演技が素晴らしい。

ジャン・ドラノワ
このジャン・ドラノワという監督は俳優上がりである。監督術を勉強したいということで編集の作業を40作ほど携わっている。 監督になったのは30歳である。評価されたのは1943年(昭和18年)ジャン・コクトウが台詞を書いた ジャン・マレー主演の「悲恋」、そして1945年(昭和20年)ジャン・ルイ・バロー主演の「しのび泣き」などからである。

「田園交響楽」ビデオを観る。

この「田園交響楽」はアンドレ・ジイドの原作で、映画化したドラノワの代表作の一つである。 ドラノワ監督は文学好みの作家だった。もしこの作品「田園交響楽」の原作のテーマを愛欲の世界だといったら 笑われるかもしれないが、ドラノワなればこそ気品に飛んだ格調の高い作品として完成している。 雪景色の田園、老婆の死によって孤児になった盲目の少女はジェルトリュートと名ずけられた。

成人した 彼女を演じるのはミシェル・モルガン。モルガンは17歳で映画にスカウトされた。非常に表情の冷たい押さえた情熱、 そういう演技をしたらN0.1である。ジャン・ギャバンの「霧の波止場」なども思い出される。 フランスのスターでは珍しく舞台経験がない映画独自の女優さんである。

「肉体の悪魔」ビデオを観る。

受講生のみなさん クロード・オータンララ
1947年(昭和22年)。クロード・オータンララ監督は16歳で映画界入りした。最初は衣装とか、装置など裏方をしていた。20歳の時に監督第1作を発表している。傾向としては情緒的作品が多い。

今観ている「肉体の悪魔」“原題は魔に憑かれて”夭折(若死に)した天才作家レイモン・ラディゲが16歳の時書いた 原作を映画化したものである。 ストーリーは第一次大戦下出征中の兵士の妻マルトと、二才年下でハイティーンの青年フランソワとの恋の物語である。

妻マルトを演じるミシュリーヌ・プレールは修道院で教育を受け、20歳で映画デビューした。 当時ポスト“ダニエル・ダリユー”と言われ美女世界一の折り紙を付けられた。青年フランソワを演じるのは ジェラール・フィリップ、戦後フランスが生んだもっとも魅力的な俳優の一人である。36歳の時心臓麻痺で急死している。

「禁じられた遊び」ビデオを観る。

ルネ・クレマン
1952年(昭和27年)。の作品ルネ・クレマンは21歳で映画界入りし、23歳頃から短編を8本ほど撮っているが非常に優れた作品である。第二次大戦直後の1945年(昭和20年)にフランスの鉄道員組合のナチスへのレジスタンス運動を描いた 「鉄路の闘い」は大変な傑作である。 「禁じられた遊び」も彼の生涯の信念ともいえる。

戦争と人間への不信、これを十二分に描いている。孤児になった5歳のポーレットは少年ミシェルと出会う。二人は動物や、 昆虫の死体を埋めて十字架を立てる遊びをする。この遊びのことが「禁じられた遊び」の題名の由縁である。

「居酒屋」ビデオを観る。

「居酒屋」は1956年(昭和31年)の作品である。エミールゾラにルーゴンマッカール双書という20巻の大変な創作がある。ようするに遺伝の家系がいろいろな酷いDNAを振りまいて、しし末孫がいろいろな目に遭う話。

「居酒屋」は主人公ジェルヴェーズ(洗濯女)の悲惨な物語である。ジェルヴェーズの内縁の夫は大変女たらしで、 アル中で梅毒でもあった。その男との間に子供が二人いるが、その長男が前回観た「獣人」の欲情すると女を殺したくなる遺伝子を持った男(ジャン・ギャバン)である。

内縁の夫に裏切られ、今度は屋根葺き職人と一緒になる。その間に生まれた女の子が淫奔で罪深い女ナナに成長した。 映画「女優ナナ」である。 クレマンはエミールゾラの文学のレアリズムに対して映画のレアリズムと挑戦する気持で演出したと言っている。

「太陽がいっぱい」ビデオを観る。

太陽がいっぱいのアラン・ドロン 「太陽がいっぱい」1960年(昭和35年)の名作である。1960年前後は フランスでヌーベルバーグが台頭期であった。彼らより一世代前のルネ・クレマンはヌーベルバーグ何するものぞと、 この「太陽がいっぱい」を発表した。 主役のアラン・ドロンは、生まれ育ちが非情に影の濃い人で、ドロンを起用した人がこの作品の成功の一因だとも言われている 。

<<休憩>>

「情婦マノン」ビデオを観る。

アンリ・G・クルーゾ
「情婦マノン」1949年(昭和24年)作品である。アンリ・Gクルゾー監督は 最初新聞記者をしていた。 23歳で映画界に入り、脚本作家になった。24歳で監督第1作を撮った。一時結核になりサナトリウム生活をしたのでブランクがある。35歳の時に「犯人は21番に住む」で復帰した。

非常にスリルに飛んだ題材を計算された映像で表現する、すなわちフランスのヒッチコクと呼ばれた監督で サスペンスの巨匠である。只、ヒッチコックは毒気のユーモアがあるが、クルーゾはユーモアは使わない 。サスペンス、サスペンスの連続である。 1943年(昭和18年)に「密告」という傑作作品を撮った。これは、地方都市の腐敗を描くと見せかけて、 実は当時占領下のナチスのゲシュタボを批判した。 これでナチスに掴まり上映禁止のうきめに遭い戦後に公開された。

「情婦マノン」の作品でマノンを演じた女優はセシル・オーブリー、演劇学校の生徒だったのをジョルジュ・クルーゾが抜擢し、 マノン役で好演した。ハリウッドは黙ってはいなかった。当然のようにハリウッドに連れて来て、つまらない作品二作を与えられたが、結局結婚して芸能界から引退した。

「恐怖の報酬」ビデオを観る。

「恐怖の報酬」は1952年(昭和27年)の作品である。クルーゾ監督はドラマ展開が上手い、それと強烈なサスペンスの 描写が巧みである。それが結合した秀作が「恐怖の報酬」である。

「悪魔のような女」ビデオを観る。

「悪魔のような女」は1955年(昭和30年)の作品である。当時の映画ファンをあっ! といわせた。 どんでん返しが最後に二つ重なった映画である。 資産を握っている学園長の妻を(ジョルジュ・クルーゾの愛妻)ヴェラ・クルーゾ。 悪魔のような女情婦には、シモーヌ・シニョレ(モンタンの当時の愛妻)が扮している。このヴェラ・クルーゾはこの作品の後心臓麻痺で亡くなった。

「眼には眼を」ビデオを観る。

アンドレ・カイヤット
「眼には眼を」1957年(昭和32年)の作品である。アンドレ・カイヤットという監督は小説家である、 と同時に弁護士の肩書きを持っているので、代表的な作品は「裁きはおわりぬ」という裁判劇である。その他二、三作品本領を発揮している。33歳で監督第1作を撮っている、小説を書いたり弁護士をやったりして映画人としては遅咲きである。

フランスのアルジェリア植民地戦争時代の話で、泥沼状態の頃に(ドイツ出身の俳優クルト・ユルゲンスの) 医者が死にそうな現地人の妻を助けなかった。その現地人は恨んでその医者に、これでもかこれでもか、いわゆる“眼には眼を”である。遂には砂漠の果てまで追い詰めて放置してしまうという執念の鬼と化した壮絶なドラマである。

「肉体の冠」ビデオを観る。

ジャック・ベッケル
「肉体の冠」1951年(昭和26年)の作品で実話である。ジャック・ベッケルは少年時代から画家の ポール・セザンヌと交友があり、その縁で戦前の巨匠ジャン・ルノアールを紹介を受けて彼の助監督について監督術を学んだ。

ベッケルは雰囲気描写であるとか、或いは皮肉な運命に翻弄される男女の状態を描く作品が優れている。 この「肉体の冠」という作品や、或いはジャン・ギャバンの「現金に手を出すな」など暗黒街、フィルムノアールの名手でもある。

● この作品のテーマソング
「サクランボのみのる頃」坂田講師の歌はこちら → 
聴く

● 「モンパルナスの灯」ビデオを観る。


「モンパルナスの灯1958年(昭和33年)の作品である。画家モジリアーニの 愛と芸術の生涯を描いた作品である。モジリアーニに扮するのはジェラール・フィリップ、 愛妻はアヌーク・エーメ。ジェラール・フィリプはこの作品の翌年心臓麻痺で急死した。
●「死刑台のエレべーター」ビデオを観る。

死刑台のエレベーター モーリス・ロネ、ジャンヌ・モロー
ルイ・マル
「死刑台のエレベーター」1958年(昭和33年)の作品。このルイ・マルという監督は大ブルジュアの息子で、 少年期にルネ・クレマンの「禁じられた遊び」に大変感動して映画界に入った。彼の名を高めたのはヌーベルバーグの「トップランナー」である。この「死刑台のエレベーター」はその記念すべき第1作目である。

「恋人たち」「鬼火」とつづき、アメリカでも仕事をしていたので現夫人は、ハリウッドの大スター キャンデス・バーゲンである。ルイ・マルがこの映画を評価された大きな理由の一つに、 新人の名カメラマンのアンリ・ドカエ、そして冒頭から巻末までを十曲のモダンジャズで通した音楽は 、トランペット奏者で作曲家のマイルス・ディヴィスの起用である。

「大人は判ってくれない」ビデオを観る。

講師の坂田さん フランソワ・トリュフォー
「大人は判ってくれない」1959年(昭和34年)の作品、ルイ・マルと トリュフォーは同年代だが、 トルフォーは残念ながら56歳の時に他界した。少年期と軍隊期と二度に渡り刑務所の生活を送っているが、二度とも当時の名評論家のアンドレ・ヴァザンという人が奔走してトリュフォーを救っている。

ヴァザンの推薦で彼は映画評論を書くことになった。そのうちに監督術に興味を持ち23歳で第1作を撮った。 やがてこの「大人は判ってくれない」でヌーベルバーグの旗手と目される。彼の作品のテーマに一環して流れるものは子供、 強い女性、 そして書物である。それは傷つきやすい自己の投影だとも言われている。 この「大人は判ってくれない」は 子供の心情をぜんぜん理解しない大人の異常さ。 これは日本ばかりではなく、

世界的にも今問題になっている。不登校、或いは引篭りなど子供の本当の気持を理解しない大人を批判した作品である。 叱られる、失敗する、挫折を理解しない大人たちを物悲しくトリュフォーは描いている。 この作品で名演した子役ジャン・ピエール・レオーは、コクトウとジャン・マレーのように、 トリュフォーの作品には二枚目に成人してからも殆ど出演している。

この少年は生まれて初めて海を見る、海を見て心の安らぎを得、魂の救いも得る。 トリュフォーは限りない愛情を込めてこの少年に海をプレゼントする。 三年後トリュフォーは「突然炎の如く」という女性讃歌の作品を撮ることになった。 原題はジュールとジム。20世紀初頭のベルエポック時代、ドイツ青年のジュールと、フランス青年ジムの親友同士。二人は奔放なフランス娘カトリーヌを知って、同時にカトリーヌを愛する。

第一次大戦が始まって二人は敵味方になるが幸い二人とも復員する。 奔放なカトリーヌはジュールと結婚をして一子をもうける。また、もう一方のフランス青年ジムとも愛し合って身ごもってしまう。 結局はジュールの目前でジムを道づれに無理心中をする。

二人の男に君臨するカトリーヌ、女性への賛仰は謳われているが、しかし嫉 妬と反発、 信頼と裏切りなど関知することなど一切なく、男同士の友情を損なうことがなかったというテーマ。これが「突然炎の如く」の ジュールとジムの親友物語である。この映画のモチーフはトリュフォーのその後のテーマとなっていった。

ヌーベルバーグ
ヌーベルバーグは日本語に翻訳すると、“新しい波”である。1950年代の終わり頃からフランスには多くの 映画家が誕生した。この人達は助監督の経験もない。評論や記録映画にかかわってきた若手が在来のフランス映画の 枠を大きく打ち破り、ストーリーの展開とか、事件の解決に拘らない。 或いは、心理描写などは避けて人間の行動に表現の中心を置く、一見新鮮な創造の世界である。

これは文学の世界において当時アンチロマンとか、ヌーボロマンと呼ばれる新傾向が生まれたことにもうかがえる。 もう一つはフランス政府が戦後文化芸術活動に融資制度を緩めたので、映画青年たちが映画を作りやすいこともあり、 製作の機会を多くしたことも一因である。

彼らは、カイエ・ド・シネマというフランスに限らず世界的にも格の或る有名な評論雑誌に巣食っている 映画キチガイの青年たちがヌーベルバーグの一群である。 ルイ・マル、フランソワ・トリュフォー、クロード・シャブロル、 ジャン・ルックコダール、アラン・レネ、アニエス・バルダ(女性)、ロベール・アンリコ、etc・・ がこの一群に入る。 彼らの活動はイギリスのトニー・リチャードソンとか、ジャック・クレイトン、カレル・ライス。 やがてドイツのニュー・ジャーマンシネマの発展に影響した。

日本でも松竹ヌーベルバーグというのがあった。大島渚監督、吉田喜重監督などがそうである。

「勝手にしやがれ」ビデオを観る。

ジャン・リュックコダール Lコダールは今でも撮っている。Lコダールは大変裕福な家庭に育ち、 ソルボンヌ大学まで出ている。そして映画の虫の鬼である。トリュフォーよりも、一足早くヌーベルバーグの代表作、 1960年「勝手にしやがれ」という作品を作った。既成の映画文法を全く破壊して秩序だったストーリーも嫌う。

また、俳優自身に自分の言葉で喋らせる、いわゆるシナリオもない大胆な映像中心の新しいスタイルである。 時には政治色を増しブルジュアの祭典と言われている カンヌ映画祭を一回だけ開催を壊したことがある位コダールという人は行動派でもある。彼は豪語している、 「私が死ぬ時には、映画は終わるんだ。」と。

「勝手にしやがれ」の映画は、ストーリーはB級のギャング映画だが、警官を殺したチンピラが惚れた女の裏切りで、 刑事にまるで自分が自殺するかのように射殺されるだけの話である。しかし、手持ちカメラで不安定な映像、 伝統的な映画ならばこれはコダールの技術的なミスではないかと疑われるような描写は、この作品をきっかけに益々大胆になっていった。

シェルブールの雨傘 カトリーヌ・ドヌーヴ、ニーノ・カステルヌオーヴォ「シェルブールの雨傘」ビデオを観る。

ジヤック・ドミー
「シェルブールの雨傘」1964年(昭和39年)の作品である。ジャック・ドミーはヌーベルバーグとつづいて来たが その一派とは言えない。何故なら美術学校と、写真学校を大変優秀な成績で卒業している。いわゆる基礎を磨いている、只、 1964年に思い切った独創性を発揮したのが「シェルブールの雨傘」である。

総ての台詞が自由詩で、それにミシェル・ルグランがメロディを付けた。 全く新しいタイプのフランス製ミュージカルの創造である。この時のカトリーヌ・ドヌーヴは20歳、現在60歳、 相変わらず現役で活躍している。
つづく・・・
  
 「上映作品の輸入会社」   
  
 「参考文献の出版社」   
 東宝東和  白水社
 BCFC(英協)  創元社
 イタリーフイルム  岩波書店
 ユニオン  中央公論社
 大和  集英社
 新外映  秋田書店
 映配  山川出版社
 北欧  近代映画社
 ヘラルド キネマ旬報
 松竹 (洋)      など

*掲載写真「太陽がいっぱい」「死刑台のエレベーター」「シェルブールの雨傘」は
朝日新聞日曜版「世界シネマの旅 2」
朝日新聞社刊 発行1993年8月1日 より。



会場写真撮影:山本 啓一
文責: 和田 節子
HTML製作:和田 節子