神田雑学大学講義 11月28日


わが青春のヨーロッパ映画 Part3


講師:坂田純治






目次

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セルジュ・ブルギニオン
クロード・ルルーシュ
ロベルト・ロッセリーニ
ヴィットリオ・デ・シーカ
ピエトロ・ジェルミ
フェデリコ・フェリーニ
ミケランジェロ・アントニオーニ
ピエル・パオロ・パゾリーニ
V・P ヴィットリオ・タヴィアーニ
ルキノ・ビスコンティ


講師の坂田さん 坂田 純治さんの映画の話は世界映画史講座その六となります。第一回はフランス映画界のベルエポックからスタートして、Part3の今日はイタリアン、ネオリアリスモ、そしてビスコンティ。来年1月まで5回にわたる連続講座です。

前回語りきれなかったフランス映画二編の紹介。

●「シベールの日曜日」のビデオを観る。

セルジュ・ブールギニオン
1962年(昭和37年)に発表の「シベールの日曜日」、監督はセルジュ・ブールギニオンである。22歳から映画界入り、助監督をしていた。やがて短編映画を沢山作るようになり。「シベールの日曜日」は長編映画第1作となった。

この作品は1962年度アカデミー賞の外国映画賞に輝いた。東洋の美術に興味を持っていたこともあって、墨絵のようなモノクロの世界を大変意識して作った監督で有名である。

●「男と女」のビデオを観る。

クロード・ルルーシュ
1966年(昭和41年)の作品「男と女」である。ルルーシュはカメラ少年で少年時代から16ミリを持ち歩いていた。23歳で映画界に入ったが既にその時16本の短編の秀作を発表していた。「男と女」という作品もルルーシュの名作の一つである。「白い恋人たち」は冬季オリンピックを描いた素晴らしい作品である。友達で作曲家のフランシス・レイとのコンビがいい。

ルルーシュは思索型というか、難しく物事を考える作品よりも、むしろ感覚型である。自らは通俗メロドラマ作家と言っている。音と映像による触発力をもった映画を作りたい。これがルルーシュの成功の秘密である。

<<本論>>

●「無防備都市」のビデオを観る。

ロベルト・ロッセリーニ
1945年(昭和20年)ロッセリーニ監督は子供の頃から映画に興味を持ち教育映画、文化映画などを撮る。長編映画第1作は35歳であった。この「無防備都市」という作品はイタリアン、ネオリアリスモの第1作である。●「戦火のかなた」のビデオを観る。

1946年(昭和21年)作品「戦火のかなた」は6つのオムニバス映画でプロの俳優さんでなく素人を使っている。ロッセリーニのイタリアン、ネオリアリスモ映画の第2弾である。当時ラジオドラマ作家としてメディアの世界に入ったフェデリコ・フェリーニは晩年後年の大監督である。「戦火のかなた」では脚本と助監督を務めている。1943年7月20日連合軍はシシリア島に上陸、同年9月ナポリを占領。そして1944年昭和19年6月4日遂にローマに連合軍は入城、ムッソリーニは失脚した。

ドイツ軍は変わって占領管理していたがローマのバルチザン、フロレンツェ、異様な雰囲気でナチスの弾圧に遭う。戦闘の非常識、残酷さ、それも単なる戦闘描写ではなく市民の目を通して描いた名作である。

「ストロンボリー」イングリッド・バーグマン ●「ストロンボリ」のビデオを観る

イングリッド・バーグマンは「無防備都市」と「戦火の彼方に」を観て感激をし、ロッセリーニ監督にラブレターを書いた。「もし英語の上手いスエーデン生まれの女優がご必要なら何時でも一緒に映画を作る用意がございます。」と。

ロッセリーニは直ちにバーグマンを迎える。バーグマンは夫と子供を捨て、同時にアメリカからも追放されてロッセリーニの元へ走った。バーグマンとロッセリーニ監督のコンビの作品は6作あるがいずれも不作である。その第1作の作品は1950年(昭和25年)の作品「ストロンボリ」である。

自転車泥棒 ● 「自転車泥棒」のビデオを観る。

ヴィットリオ・デ・シーカ
ロッセリーニに続いていわゆるイタリアン、ネオリアリスモを国際的有名にしたのがビットリオ・デシーカで、「靴磨き」という素晴らしい作品を発表した。お見せしたいビデオの画面がよくないので次作品の「自転車泥棒」を。

このデシーカという監督は演劇を学んでいた。そして映画界に入った。大変美男子で戦前イタリア映画界の二枚目大スターである。戦後はネオリアリスモ作品の先駆者として活躍した。大変リアルな映像で描きだして人間をみつめる暖かい眼差しはロッセリーニと違った味わいがある。

デシーカがこの「自転車泥棒」を企画したがなかなか資金が集まらない。それを聞いたハリウッドの大プロデューサーのセルズニックが資金を出すと言う。しかし主役にはケーリー・グラントを使うよう条件を出した。しかしデシーカはケーリー・グラントではイメージには合わない、もしどうしてもならヘンリーフォンダを貸してほしいと言ったが、セルズニックの返事はNOであった。

「自転車泥棒」を観たセルズニックは、どうしても自分の資金とデシーカで作品を作りたくて自分の愛妻のジェニファー・ジョーンズを引っ張り出し、二枚目の人気スターのモンゴメリー・クリフトを使って「終着駅」という作品を制作した。

「昨日 今日 明日」マルチェロ・マストロヤンニとソフィア・ローレン ● 「昨日今日明日」のビデオを観る。

1963年(昭和38年)の作品で「昨日今日明日」は3話のオムニバスである。イタリアン、ネオリアリスモから始まってその後しばらくの間国際的に通用するイタリア出身の四代女優をこの時期に出している。「河の女」ソフィア・ローレン、「にがい米」シルバーナ・マンガーノ、「白い国境線」ジナー・ロロブリジーダ、そして少し遅れて、「刑事」のクラウディア・カルディナーレである。

「にがい米」シルバーナ・マンガーンノ ● 「にがい米」のビデオを観る。
● 「白い国境線」のビデオを観る。


1950年(昭和25年)の作品「白い国境線」、ルイジ・ザンパ監督は演劇界から映画界に入った。

<<休憩>>

「刑事」を観る。(1959年作)

ピエトロ・ジェルミ
前半で、イタリアン・ネオリアリスモ時代に登場した三人の国際派女優(S.ローレン、S.マンガーノ、G.ロロブリジータ)のお話をしたので、製作年度は逆になるが、続けて四人目の大スターを紹介しよう。C.Cことクラウディア・カルディナーレである。此の「刑事」あたりから、その熱情的なマスクと庶民的な個性で人気が沸騰し、特にビスコンティ作品に多用されて実力を付けてイタリアばかりか、米、仏、独の国際派女優となった。

この作品では強盗殺人犯情婦の役を演じ、護送されていく愛人を叫びながら追い駆けるラストシーンで新しいファンの心を強烈にとらえた。

監督のピエトロ・ジェルミはエキストラ上がりだが社会問題、風刺を込めたコメディ路線に名監督ぶりを発揮し、また俳優としても渋くて良い味を出す多才の人である。

主題歌の「アモーレ、アモーレ」はジェルミとのコンビが多い、カルロ・ルスティケリの作曲だが哀切極わりのないメロディは大ヒットした。

「鉄道員」を観る。(1957年作)

P・ジェルミの監督主演。イタリアの某ジャーナリストは書いて居る。「イタリー人が第一の忠節を誓うのはファミリーに対してである」と。此の作品も鉄道員一家の物語でホームドラマと母物を結びつけたジェルミの名作である。

家出した長男、妊娠した長女。一時バラバラだった家族はやがて家に帰り再び平和は戻ってくる。然し一家の主はもうこの世には居ない。子供達に囲まれながら母は何時までも亡き夫を偲んでいる。C.ルスティケリの主題歌が悲しい。

「道」ジュリエッタ、アンソニークイン ●「道」(ジェルソミーナ)を観る。(1954年作)

フェデリコ・フェリーニ
戦後のイタリアン・ネオリアリスモの熱が暫く冷めかけてきた頃、イタリアの映画界には大監督が現れた。フェディリコ・フェリーニとルキノ・ヴィスコンティの二人である。この作品は前者F・フェリーニが愛妻ジュリエッタ・マシーナを起用して人間の善意と孤独を描いた名作である。フェリーニ自ら「私の代表作だ」と言っている。

獣のような野卑な大道芸人ザンパノと、無垢で純粋な魂を持ったジェルソミーナ。二人は旅を続けながら糊口をしのいでいるが、荷厄介になったザンパノは或る田舎町でジェルソミーナを置き去りにして捨ててしまう。

数年後、或る港町で、以前ジェルソミーナがトランペットでよく吹いていた曲を耳にし、彼女がこの町で悲惨な姿で死んだことを噂で聞く。ザンパは「俺は一人ポッチだ。俺には誰も居ない!!」と号泣する。

Fフェリーニは子供の時から絵が上手であった。大戦後偶然R.ロッセリーと知り合い「無防備都市」などのシナリオライターとして協力し、そのまま映画界に入った。

●「甘い生活」を観る。(1960年作)

ガラリと作風の変わったフェリーニの問題作を観てみよう。初期の作品には、宗教的救済にすがる地味な傾向が目立ったが、ここでは一転して人間の背徳と享楽の世界をアリのままに見つめる境地に至った第一作である。富裕な上流階級の、物質に満たされる反面、精神的な支えを失った西欧文明への批判。愚行や背徳を重ねながら精神的飢餓に陥って行く姿を、冷静な視点でムキだしに描いた作品である。

タイトルは流行語となり、国内では大論争されたが、皮肉にもカンヌ映画祭ではグランプリを獲った。カトリック教会は非難し、政府も一時は公開禁止を考慮した程である。

M・マストロヤンニを主軸に八話のオムニバスであが今日は「第ニ」「第八」話を抜粋してみた。ラストに登場するグロテスクな巨大な魚は、まるで脱落した上流階級の人々の様だと、フェリーニは象形しているかの様である。

● 「さすらい」を観る(1950年作)

ミケランジェロ・アントニオーニ
イタリア俊英の監督ミケランジェロ・アントニオーニの作品である。映画評論、映画雑誌、編集畑からの出発であり。この作品で巨匠の仲間入りをする。この後、愛人モニカ・ビッティを主役に「情事」「太陽はひとりぼっち」「赤い砂漠」の三部作を撮り、現代人の孤独や絶望感を描き出して「愛の不毛」という言葉が産み出されることとなる。

今日の作品は、そのきっかけとなった、M・アントニオーニの意欲作である。
生活の場を失い、愛の飢餓感と孤独感。「一体自分が旅に出たのは何のためだったのか?」結局は魂を失った人形の様に自ら身を投げてしまう。

●「アポロンの地獄」を観る。(1967年作)

ピエル・パオロ・パゾリーニ
奇才ピエル・パオロ・パゾリーニの作品である。もともとは詩人で作家。イタリア共産党員。若い頃、R・クレール、C・チャップリンそして溝口健二に傾頭して映画の世界に入る。此の作品とか「王女メディア」で古代ギリシャを造形し独自の世界を作る。

この作品は、ギリシャ悲劇「オイデイプス王」をベースに、二千年前の物語と現代を交錯させながら、父親殺し、母と通じるという惨いストーリーを展開して行く。イタリアの某評論家をして「ネオリアリスモは未だ生きていた!!」と叫ばせた問題作である。

日本の舞楽を研究し、音楽には、笙、ヒチリキを採用している。無神論者であり、又、同性愛者でもあった彼は、ホモの相手の17歳の少年に依って撲殺された。時に53歳であった。

● 「父パードレ・パドローネ」

パオロ・タヴィアーニ/ヴィットリオ・タヴィアーニ
イタリアの監督陣の中で、見落とせないメンバーと言えば矢張りこの人たちであろう。ヴィットリオとパオロ・タビアーニである。弁護士の家に生まれ、厳しい音楽教育を受けていたが、二人共十代の時にR・ロッセリーニの「戦火の彼方」を観て触発され、映画の世界に入る。

政治色の濃い作品、又、伝記とか民話の世界の取り入れ方も卓抜している。兄弟でカット数を半分毎割り振って交替で撮影する手法は今だに続いている。此の作品は、文盲の羊飼いの少年から言語学者になった実在の「ガヴィーノ・レッタ」の伝記を取り上げ、野卑で厳格だった父への想いを綴っていて味わい深い。

● 「夏の嵐」を観る。(1954年作)

ルキノ・ビスコンティ
いよいよルキノ・ビスコンティの登場である。先ずは初期の作品でカラー第一作のこの作品を見よう。

ビスコンティはミラノの名門貴族の子として生まれた。母からチェロの演奏を厳しく仕込まれたり、父の書いた戯曲を邸内に設けられた舞台で上演するなど富裕な芸術的環境の中で育った。それ故何れの作品も貴族趣味というか、彼の原体験が色濃く出てくるが、上映禁止となった。監督第一作「郵便配達は二度ベルを鳴らす」は異例と言えよう。

大体、彼自身は、そういう育った環境には寧ろ反発的姿勢を保ち、家出をしたり、レジスタンス活動で捕らえられたり、共産党と接触したり、やがて映画の魅力にとりつかれてパリに渡ったりする。

此の作品はイタリアの伯爵夫人とオーストリーの軽白な青年将校との灼熱の恋を描いたものでオペラ的な演出の粋とエロスの陶酔とまで評価された初期の秀作である。

「ベニスに死す」ダーク・ボガード ● 「ベニスに死す」を観る。(1971年作)

力ある者の崩壊を描いた「山猫」などを創ったのち、彼は「地獄に落ちた勇者ども」
「神々の黄昏・ルドウイッヒ」と並んでこの作品を発表した。これを「ビスコンティ・ドイツ三部作」と言う。何れも力感のある熟成したビスコンティの映画芸術である。

原作はトーマス・マンで、グスタフ・マーラをモデルにしたと言われ、前編に流れるのはマーラーの第三、四、五シンフォニーである。初老の芸術家が、その気高い作曲家精神にも拘らず、遺族の美少年に理性を失ってしまう話である。老醜をさらけ出して耽美と退廃に身を曝く正にデカダン極致を描いた作品であり肌寒い。

元々、心臓病の比の作曲家は、ひたすら美少年の姿を追い求めながらベニスの浜で人生を終結する。此の完成した描写力はビスコンティ芸術の最高峰と稱して過言ではなかろう。つづく



  
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会場写真撮影:橋本 曜
文責: 坂田 純治・和田 節子
HTML製作:和田 節子