神田雑学大学講義 12月19日


わが青春のヨーロッパ映画 Part4


講師:坂田純治






目次

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アルフレッド・ヒッチコック
アレキサンダー・コルダ
デヴィッド・リーン
キャロル・リード
ローレンス・オリビエ
マイケル・パウエル
ジャック・クレイトン
テレンス・ヤング
セルゲイ・エイゼンシュタイン
ニコライ・エック
イワン・ブイリエフ



講師の坂田さん 坂田 純治さんの映画の話は世界映画史講座その六となります。第一回はフランス映画界のベルエポックからスタートして、Part4の今日は英国映画のルネッサンスとソビエトの秀作品。2004年1月まで5回にわたる連続講座です。

「暗殺者の家」のビデオを観る。

アルフレッド・ヒッチコック
イギリス映画のルネッサンスと言うのは大戦後のことである。戦前のイギリス映画界としては忘れてはならない二人を紹介してから本論に入りたい。今、映っているのはアルフレッド・ヒッチコックである。ヒッチコックは20歳の時に字幕係りとして映画界に入った。初監督は26歳の時メロドラマを撮った。35歳の時「下宿人」という作品で大変スリリングな、いわゆるサスペンス映画の名監督と評価された。

「暗殺者の家」は1934年(昭和9年)の作品である。これらの作品からハリウッドはヒッチコックに目を付けたのである。39で歳ハリウッドに渡ったヒッチコックは、かのローレンス・オリビエ、ジョーン・フォンティンの共演で「レベッカ」を発表した。

ハリウッドでもヒッチコックの名声はいよいよ高まり、ハリウッドに腰を据えて話題作を次々と製作した。1956年ヒッチコックはハリウッドで、ジェームズ・スチュワートとドリス・ディを使い「知りすぎていた男」を発表したが、これは「暗殺者の家」のリメーク版である。因みに今日の「暗殺者の家」の被誘拐者は少女役であるが、「知りすぎていた男」では坊やになっている。

「美女ありき」のビデオを観る。

アレキサンダー・コルダ
「美女ありき」は1940年(昭和15年)の作品である。アレキサンダー・コルダ監督はハンガリー出身、23歳で映画界に入った。ウイーンに行きドイツ映画にも貢献している。やがてハリウッドに招かれ10本ほど撮ったがいい作品がない。

熱心に話を聞いている受講生 ハリウッドのプロデューサーからも、コルダは個性的過ぎると言って嫌われ、結局イギリスに渡り大作主義に転じて数々のヒットを飛ばした。そしてロンドンフィルム社という大きな製作会社を作った。プロデューサーの手腕としてもコルダは立派であった。因みにジペーダ・ヴィンセントコルダ、マッペーガ・ゾルタンコルダ、三人兄弟何れも映画人である。

この「美女ありき」という作品はローレンス・オリヴィエとビビアン・リーがあの「風と共に去りぬ」の撮影後にお互い前妻、前夫と離婚して結婚した祝福されるべきコンビの作品と言われている。ビビアン・リーの美しさも一番光輝いていた頃の作品である。

<<本論>>

*英国のルネッサンス(戦後の作品)

「逢びき」のビデオを観る。

デヴィッド・リーン
「逢びき」は1946年(昭和21年)デヴィッド・リーンの作品である。20歳で映画界に入り、劇作家のノエル・カワードと非常に親交があり、ノエル・カワードの劇作を何本か一緒に映画化した。しかし劇作の映画化と言ってもデヴィッド・リーン監督のやりかたは別な空間、別の次元で捉えている。

この「逢びき」も原作はカワードの「静物画」という作品を映画化したものである。リーンは戦前はノエル・カワードの作品を撮ったり、その後チャールズ・ディケンズの「大いなる遺産」「オリバーツイスト」などを撮っている。リーンが世界的に有名になったのは、1955年の作品でハリウッドからキャサリン・ヘップバーンを借りて、「旅情」を発表しリーンの名は一層高まった。その後「アラビアのロレンス」とか「ドクトル・ジバコ」などの大作主義に転向していった。

この「逢びき」と言う作品は戦後ヒットしたが、所詮結ばれないそれぞれが家庭を持った中年の恋を描いている。女優シリア・ジョンソンの名演技が光ってる。

「邪魔者は殺せ」のビデオを観る。
1947年「邪魔者を殺せ」

キャロル・リード

1947年(昭和22年)の作品「邪魔者は殺せ」である。キャロル・リード監督は、若いときは舞台俳優で、そのご映画界に入った。28歳で映画監督第一作を撮っている。大戦後すぐ「邪魔者は殺せ」を発表。サスペンスの傑作として彼の名を世界的に高らしめた作品である。

イギリスには代表的な作家でグレアム・グリンがいる。デヴィド・リーンのカワードと同じようにキャロル・リードはこのグレアム・グリーンの作品を映画化している。「落ちた偶像」「第三の男」などである。46歳の時リードはイギリスの映画監督としては初めてサーの称号を受けている。

「第三の男」のビデオを観る。
1949年「第三の男」 「邪魔者は殺せ」の二年後に製作。リードの代表作である、映像の表現力が絶頂を極めた、そして映画史上にも高い評価を得た名作である。イギリスの映画界において戦前からサスペンスものの新種と言われたリードの映画的話術と、その高揚、陶酔に観客は惹きつけられどうしの作品である。

「ヘンリー五世」のビデオを観る。

ローレンス・オリビエ
1945年(昭和20年)の監督主演作品「ヘンリー五世」である。オリビエは15、6歳時代既に名優になるぞ、という前触れがあった。18歳でシェークスピアの役者として徐々に名声を博していった。映画デビューは23歳、アメリカに招かれて映画を撮っている。その後アメリカから戻りオールドビッグ座という名劇団に入り、

特にシェークスピア演劇の第一人者になるが、ハリウッドはウイリアム・ワイラーの「嵐が丘」に主演して欲しいということで、再びハリウッドに渡った。

丁度その頃大プロデューサーセルズニックが「風と共に去りぬ」のスカーレットオハラ役の女優さんを探していた。オリビエを愛しハリウッドまで追いかけてきたビビアン・リーが晴れてスカーレットオハラの役を射止めるというエピソードがある。

さて話は「ヘンリー五世」に戻るが、「ヘンリー五世」を作ったオリヴェの意図の中には当時第二次大戦末期ドイツの空軍がロンドンをはじめイギリスをどんどん空襲してくる。イギリス本土はドイツの空軍からやられ放題、ところがようやく英国の空軍も立ち直り少しづつばん回して今度はドイツへも空襲に行くことが出来るようになった、と言う頃の時代に作られた。正に戦意昴揚の映画と言えよう。イギリスとフランスが戦争していた時代の話である。

<<休憩>>

「黒水仙」のビデオを観る。

1944年「黒水仙」
マイケル・パウエル
1947年(昭和22年)の作品「黒水仙」である。パウエルとエメリック・プレスバーガーコンビは戦後日本では大変美しい作品を公開している。この「黒水仙」の前後には「天国への階段」「赤い靴」などがある。マイケル・パウエルが監督プレスバーガーが脚本を書く、こういった二人のコンビで15年間つづいた。

「赤い靴」のビデオを観る。

1949年「赤い靴」

1949年「赤い靴」バレー、音楽、色彩、光効果が一体となって作り上げたこの作品はバレー映画ではなく、映画バレーと称すべきであろう。と或る識者は言っている。峻厳な芸術史上主義を唱えるプロデュース、自分の芸術のためには他のあらゆる生活を捨てなければいけないという思想である。。

一方では芸術は、愛する者同士の生活から生まれるという芸術観。この板ばさみになったバレーダンサーのビッキーは遂に絶望して自殺するというストーリーである。これはアンデルセンの童話を原作にしている。イタリーで生まれフランスで育ちロシアで結実したバレーは、この赤い靴という映画によってイギリスにおいても開眼され大衆を惹きつけて今やイギリスでも国民芸術の一つとなっている。

「年上の女」のビデオを観る。

ジャック・クレイトン
1959年(昭和34年)の名作「年上の女」である。ジャック・クレイトンという監督は、若い時はスピードスケートを志していたが映画界に入ったという変り種である。この作品は本格的デビュー作である。

1950年の後半イギリスではニューフリーシネマという運動が盛んになってきた。これはフランスのヌーベルバーグの影響を受けた活動である。トニー・リチャードソンとかジャック・クレイトンなどが活躍した。

「年上の女」のストリーテーマは、“アメリカの悲劇”と言うセオダー・ドライサーの小説があり、戦前映画化された。また、戦後エリザベス・テ−ラーと、モンゴメリー・クリフトで「陽の当たる場所」としてのリメーク、それから、古くはスタンダールの小説を映画化した「赤と黒」などがある。

1963年「007」ロシアより愛をこめて「007/危機一発」のビデオを観る。

テレンス・ヤング
みなさんご存知の“007”は危機一髪とタイトルで最初日本で封切りされた。何回も上映している間に、何時の間にか“ロシアより愛をこめて”これは原題である。何故今ここで映しているかというとイギリスの監督テレス・ヤングがこの“007”の企画が始まった第一作に起用されたからである。第一作は大成功でヒットしたので第二作にも起用された。「007」映画の原点とパターンを確立した監督である。

これよりソビエト(ロシヤ)映画の秀作項に入る。

「イワン雷帝」第一、二部のビデオを観る。

1944年「イワン雷帝」
セルゲイ・エイゼンシュタイン
1944年〜1946年にわたる大作である。三部構成の企画であったが、第二部がスターリン派からの弾圧を受け13年間公開禁止処分になり、結局第三部は未完成のままエイゼンシュタインは没した。

かつてモンタージュ理論を確立し「戦艦ポチョムキン」を発表した。彼は、大戦後この大作に取り組み志を全う出来ずに終わったことは悔やまれる。16世紀、ロシア統一を実現した専制君主イワン四世の生涯を描いたものだが、単なる建設者としてばかりではなく、孤独、苦悩、残酷などを強調した点も流石でそれがまた弾圧の対象になったことも皮肉である。

「人生案内」のビデオを観る。

ニコライ・エック
1931年(昭和6年)ニコライ・エック作品。トーキーが発明されて以来、特にアメリカは音のかんずめのような作品を乱作していた。若々しく感じたフランスのR・クレールは「巴里の屋根の下」でトーキー映画の真髄を世に問い、特にヨーロッパ映画を刺激した。音と映像とを対立法的に結合させようとした新鮮な試みの確立である。

当時、エピソードに於いては社会主義国家建設の政治的性格の要求に応じて映画の製作は活発であつたが、この作品も代表的な名作である。革命直後、浮浪児が巷に溢れていた。この子供達を新しい社会の労働者として更正させようとするストーリーであるが、適所に高鳴る音響効果も素晴らしく、美しくも又悲しい。

余談ではあるが、日本公開時の昭和7年という時期に「文部省推薦」を受けたのも、一部の良識者の存在ばかり言い得ないと思うが如何であろうか。

「シベリヤ物語」のビデオを観る。

イワン・ブイリエフ
1947年(昭和22年)イワン・ブイリエフ作品。第二次世界大戦が終結し各国の映画制作もいよいよ旺盛となった。日本にもアメリカ、フランスと輸入の再開が続き、ソビエト映画も「石の花」を皮切りに美しく、力強い作品が続々公開されて人の目を奪い大ヒットした。

俳優の浅井明さん これはソビエト映画輸入再開の第二作である。戦前から音系映画の作家として著名であったイ・ブイリエフの戦後第一作であるが、戦争で負傷した音楽家の苦悩と再生を描いたストーリーで、前編にソビエトの古謡や新曲がちりばめられ懐しく、美しく、又華やかでもあった。中でも「バイカル湖の畔にて」は圧倒的支持を受けて未だに多くの世代の人々に歌い告がれている。

「バイカル湖の畔にて」を俳優、浅井 明さんのリードで全員でコーラスする。




  
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 「参考文献の出版社」   
 東宝東和  白水社
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会場写真撮影:橋本 曜
文責: 坂田 純治・和田 節子
HTML製作:和田 節子