神田雑学大学講義 1月30日


わが青春のヨーロッパ映画 Part5


講師:坂田純治






目次

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セルゲイ・ボンタルチェク
ジョゼフ・V・スタンバーグ
エリッヒ・シャレル
レオンテイネ・ザガン
レニ・リーフエンシュタール
フォルカー・シュレンドリフ
アンジェイ・ワイダ(ポーランド)
カルロス・サウラ(スペイン)
コンスタンチン・コスタカブラス(ギリシャ)
テオ・アンゲロプロス(ギリシャ)
イングマル・ベルイマン(スエーデン)



この写真を撮った橋本さん曰く、今まで坂田氏を200枚以上撮ってますが、初めて気に入った写真となりました。坂田氏の最大の表現手段である口の形が良いのですね。何か語りかけてくる形をしています。 坂田 純治さんの映画の話は世界映画史講座その六となります。第一回はフランス映画界のベルエポックからスタートして、本日Part5の最終回はその他のヨーロッパ映画であります。尚この講義は神田雑学大学が1999年11月に開校以来200回目という記念の講義となりました。

「戦争と平和」のビデオを観る

セルゲイ・ボンタルチェク
ソビエト映画「戦争と平和」1966年〜1968年にかけて製作された。監督、企画、脚本、主演もしている。ボンタルチェクは大監督というよりはむしろ

現代ソビエトロシアの大名優である。
戦後「若き親衛隊」という作品に俳優でデビューした。37才で監督デビューを果たす。

「戦争と平和」という作品、実は1956年(昭和31年)ハリウッドでオードリー・ヘップバーンをヒロインにして、ヘンリー・フォンダ、メル・ファーラーなどの役者を使って製作したが、憤慨というか、落胆したのがソビエトであった。

ハリウッドがあまりにもあんちょくな映画を作って我々ソビエトの国民は黙っていていいのか、そういう意見が沸騰した。文豪レオ・トルストイの原作を、国家の威信を賭け、国家総力を挙げて製作した超大作がソビエト映画「戦争と平和」である。このスケールの大きさを例えばギネスブックに載っている「戦争と平和」の作品について二、三、の例を挙げると。

*もっとも長い映画
1位は内外を問わず日本映画の「人間の条件」小林正樹監督、仲代達也、新珠三千代の9時間39分である。
1967年「戦争と平和」

2位は、「鉄路の白薔薇」8時間32分
3位は「戦争と平和」8時間27分
 
*ギネスに載っている最大のエキストラの数
「戦争と平和」は第三位で12万人で大半は当時のソ連の兵隊さんである。
 
*最も多く異なった場所でのロケーション撮影
「戦争と平和」では168箇所のロケーション撮影・・・第1位

* 役者の数・・・第1位
主要な役者さんが36名、一言でも台詞がある出演者は559名である。
主演は(ヒロイン ナターシャ)当時バレリーナのリュドミラ・サベーリエワである。

「嘆きの天使」のビデオを観る。

ジョゼフ・V・スタンバーグ
1930年(昭和5年)の作品「嘆きの天使」である。スタンバーグはオーストリアのウイーン出身、渡米してハリウッドの映画界に入った。ハリウッド最初のギャング映画と言われる暗黒街物などを撮った。36歳の時にパラマウントが資本投下し、製作した「嘆きの天使」を撮り、マネーレ・デートリッヒはこの映画で一躍有名になった。

又、スタンバーグ監督とマネーレ・デートリッヒは熱愛関係にあり、7本の作品を撮っている。しかし、本妻の猛反対に遭い二人は別れたが、その後スタンバーグ監督は全くいい作品には恵まれなかった。

1931年「会議は踊る」「会議は踊る」のビデオを観る。

エリッヒ・シャレル
1931年(昭和6年)の作品「会議は踊る」である。1927年にハリウッドは「ジャズシンガー」という作品でトーキーを実現させヒットさせた。ブロードウエイの人材を武器にしたハリウッドミュージカルで世界をあっと言わせたが。30年代に入りトーキー技術の優秀なドイツであるとか、ルネ・クレールのような才人が現れたフランスがもっともっと音の世界を上手に大事に使おうということで、そういう活動が生まれた。

「制服の処女」のビデオを観る。

1931年「制服の処女」 レオンテイネ・ザガン
1931年(昭和6年)の作品「制服の処女」女流監督である。

エピソード
東和商事、当時主にヨーロッパ映画の輸入を手がけていた川喜多長政という社長がいた。この人は翌年公開する映画を買い付け契約に毎年行くのだが、結婚4年目の記念にかしこ夫人を一緒に連れて行くことにした。その時に「制服の処女」が良いと薦めたのがかしこ夫人である。

然し、長政社長は同性愛の映画はヒットしないと反対、それでもかしこ夫人の熱烈な薦めに負け、ヨーロッパの記念にと買い付けた。翌年帝劇で公開したが、何と初日にお堀端が大行列になった。以後ヨーロッパにはかしこ夫人同伴で行くことになった。

「民族の祭典」「美の祭典」ビデオを観る。

レニ・リーフエンシュタール
1936年(昭和11年)ベルリンオリンピック大会の記録映画、「民族の祭典」「美の祭典」である。リーフエンシュタール監督は、女流監督でダンサーとか絵を描いたりしていた。30歳で監督デビューし、「意志の勝利」という作品を監督、この作品はヒトラーに大変気に入られた。そしてこのベルリンオリンピック大会の記録映画を成功させ、世界的に名をはせた。
1938年「民族の祭典」
ヒトラーの愛人の一人だったということで戦後戦犯扱いされ、4年間収容所に入っていたが釈放後写真家として世界各国を流浪している。昭和30年6月には日本にも来日している。2003年、100歳の時に「原色の海」の作品を最後に、2004年9月8日101歳で亡くなった。

「ブリキの太鼓」のビデオを観る。

フォルカー・シュレンドリフ
1979年(昭和54年)の作品「ブリキの太鼓」である。シュレンドリフ監督はニュージャーマンシネマの旗手である。20歳でフランスに渡り、ルイ・マルとか、アラン・レネの巨匠に付いて映画監督技術を学び27歳で監督デビューを果たした。「ブリキの太鼓」はカンヌグランプリを受賞している。

凶暴さと優しさと不条理を叙情的に描くことの上手な映像作家である。映画の他にはテレビドラマ、オペラの演出までする多才な人物である。この「ブリキの太鼓」は戦後ドイツ文学の代表的な作品として名の高いギュンター・グラスの小説を映画化したものである。少年オスカルの肉体と彼の目で見た大人の世界を描いた作品である。原作者ギュンター・グラスの生まれ故郷は、ドイツのダンツィヒ、今はポーランド領でグタニスクという。

「灰とダイヤモンド」のビデオを観る。

アンジェイ・ワイダ(ポーランド)
16歳でナチスのレジスタンス活動に入って活躍していた。大戦後は28歳で映画界に入り監督デビューした。「地下水道」「世代」「灰とダイヤモンド」を発表した。いわゆるレジスタンス三部作である。単なる反ナチスの運動を描いたばかりではなくて、大戦後のポーランドの殺伐とした社会を描いた。例えばソビエトのスターリンニズムである。ポーランドの悲劇の歴史を背負わなければならない。というのはソビエトがスターリンニズムを押し付けようとするが援助しない。

1958年「灰とダイヤモンド」 それで反スターリンニズム運動が起こった。いわゆる共産党員と反共産主義者との間で大変な内乱が起きた。それを描いたのが「灰とダイヤモンド」1958年(昭和33年)の
作品である。70年代ポーランドの民主化を伝えた労働運動が激化してワレサの連帯が生まれ、これに同調してワイダは「大理石の男」と、「鉄の男」という作品を発表した。

81年にはポーランドに戒厳令が発令、ワイダは映画界から追放された。86年5年間干されてようやく復帰した。翌年ワイダは日本にやって来た。その後三回来日している。
大変な親日家である。87年に来日した時は、板東玉三郎を起用して「白痴」の舞台化の
演劇指導、演出をしている。89年にはやはり玉三郎を起用して「ナターシャ」という舞台を演出している。
1983年「カルメン」
<<休息>>

「カルメン」のビデオを観る。

カルロス・サウラ(スペイン)
1983年(昭和58年)スペインの名監督カルロス・サウラの作品「カルメン」である。サウラは初めカメラマンであった。26歳のときに映画監督第一作を撮った。18作製作しているが、一作も日本には輸入されていない。「カルメン」は19作目で初めて輸入され公開された。

「Z」のビデオを観る。

コンスタンチン・コスタカブラス(ギリシャ) 
ギリシャのアテネで生まれ、20歳でフランスのソルボンヌ大学入学、25歳くらいから映画の世界に、ルネ・クレール、ルネ・クレマン、ジャック・フェーデルに師事した。32歳で監督デビューし、「Z」は1969年(昭和44年)の作品である。政治家の暗殺事件を描いたギリシャの軍政を厳しく批判した秀作である。ギリシャで実際起きた事件である。

「旅芸人の記録」のビデオを観る。
1975年「旅芸人の記録」
テオ・アンゲロプロス(ギリシャ)
1975年(昭和50年)「旅芸人の記録」は、日本は勿論国際的にも大変評判になった作品である。アンゲロプロスはアテネの生まれで、子供の時からナチスの占領下で激しい抵抗感を感じて育った。

30歳まで映画評論家をやっていた。32歳では第一作を監督した。1972年〜77年までギリシャ現代史三部作を撮って世界の注目を集めた。特に「旅芸人の記録」は有名である。ギリシャ悲劇の登場人物の名前を持つ旅芸人一座が、1936年〜1952年の16年間の間、ギリシャ悲劇に対応する現代人の中の自分達の悲劇を語るというユニークな時間構成で物語は進められている。

アンゲロプロスは言っている、“映画という果てない旅をつづけて行くのだ“と。ファシズム時代ナチス占領下レジスタンス、右翼と左派の対立、右翼軍事政権。こういった中で旅芸人達がどんな生活をしていったか、どんな人生を送っていったか、克明に描いた作品である。旅芸人一座の目を通してギリシャの悲惨な悲劇が語られている。

「処女の泉」のビデオを観る。1959年「処女の泉」

イングマル・ベルイマン(スエーデン)
牧師の家に生まれ、10歳の頃から人形劇に興味を持ちやがて演劇に興味を持ち演劇の世界に入り、25歳で映画界に入った。28歳の時に第一作を監督している。

・ スエーデンという国は第二次大戦中、中立を守っていたので戦争体験はないが、戦中戦後のウツウツした気分。そしてそこからの解放と未来への希望が描かれているのが彼の作品の大きな傾向といえる。

老いと死の不安を描いた傾向の作品で、例えば「野いちご」という名作がある。人間の生と死、神を信じたり裏切られたり、人を愛したり裏切られたりもベルイマンの作風である。

「処女の泉」は1959年(昭和34年)の作品である。この作品は神の沈黙三部作と言われているうちの一本である。「野いちご」「沈黙」「第七の封印」「叫びとささやき」、ベルイマンの作品は日本の観客には内容が思想的に神という大きなテーマで横たわっているので難しいが、何故かベルイマンの作品はヒットする。

「秋のソナタ」のビデオを観る。

この作品は1915年ストックホルムにて生まれ、19歳で映画界入りして母国スエーデンで11本の作品を撮っているうちにハリウッドからスカウトされて世界的大女優になったイングリッド・バーグマン最後の映画作品である。
左、1978年「秋のソナタ」、右、1934年「ムングローの伯爵」

バーグマンという呼び方は母国スエーデンではベルイマンと呼ぶ。演出をしているのがイングマル・ベルイマン、ベルイマン監督がベルイマンを使った。バーグマンは67歳の誕生日に癌で亡くなっているが、この最後の映画作品は63歳の時で亡くなる4年前である。

「ムングローの伯爵」(1934年スエーデン作品)を観る

最後にバーグマン19歳で始めてスエーデン映画にデビューした時の作品。日本未公開映画のビデオを観て最終回。



  
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会場写真撮影:橋本 曜
文責:和田 節子
HTML製作:和田 節子