神田雑学大学 平成16年2月13日講義録  
 

神田雑学大学講座NO201

「江戸ソバリエ始末記」


講  師 

 三上卓治・石川 潔・鈴木一郎・橋本 曜

前島敏正・河野 進・ほしひかる 

 
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04,01,17日(土)

新聞報道

記念シンポジュウム

江戸蕎麦学

講座運営の問題点

薬 味:石川  潔

ソバリエ血風録:鈴木 一郎

情報の分析:橋本 曜

参考資料のデータ

江戸ソバリエ:阿部 宏

江戸ソバリエ:前島 敏正

江戸ソバリエ:河野 進

総括:ほしひかる

● 04.01.17日(土)

千代田区麹町小学校のランチルームにおいて、戸蕎麦学受講者384名に「江戸ソバリエ認定証」を授与して、 めでたく江戸ソバリエ認定の事業は終了した。

江戸ソバリエ認定事業:三上 卓治

それは、02年の千代田区がNPOを協働事業募集に応募した同年11月9日のことであった。神田雑学大学からIT教育関係2点、総合的学習関係1点、町おこし関係1点と、計4点の企画を持って応募した。

その中の「江戸ソバリエ認定事業」は、神田雑学大学理事の蕎麦について詳しく研究しているほしひかる氏の発案によるものである。 その日、千代田区の窓口の係りは4点全部受け取ったが、町おこしとして提出した「江戸ソバリエ認定事業」を手に取り、 この分は江戸開府四百年記念事業に応募した方がいいとアドバイスしてくれた。

理由は、自分も蕎麦が好きで毎日のように食べている。「ソバリエ」とはソムリエのもじりであることがすぐ判り、 説明がいらないネーミングだ。蕎麦こそ江戸の食文化であるから、江戸開府四百年記念事業に相応しい。 と言う事だったが、記念事業の締め切り日は本日、11月9日であった。

そこで慌てて応募用紙を貰って内容を書き込んだが、区の補助は総経費の50%とあったので、 その企画の総費用120万円の半分60万円を費用欄に記入した。夕方再び窓口に提出したが、 担当の職員は金額欄を見て、これでは50%の30万円しか出ませんよという。私の感ちがいでそのように書いたが、 その時午後4時55分。書き直す余裕もないまま提出した。その結果、区の支援額は更に減って25万円と決定した。  

●新聞報道

2003年5月20日(土)をプレス発表の日と決めて、新聞、雑誌、テレビ、ラジオ各社に案内した。ところが、 それに先立つ5月16日朝日新聞がリークして、朝刊に「江戸ソバリエ認定事業」の記事が出してしまった。 実は、神田雑学大学は千代田区のちよだボランティアセンターに籍を置いており、そこに電話を設置してあるが、 かかる電話はすべて三上のケータイに転送される仕組みになっている。

その日、朝7時6分に最初の電話がかかった。 ちょうど、朝食にトーストを一口かじりかけた時である。「今朝の朝刊で見ました。いまから申込みして間に合いますか?」と、 その方の電話は切迫していた。

以降、一つの電話が終わると次の電話と、まったくトイレに立つ暇もない電話攻勢を受けることになった。昼からの電話の人は「さっきから3時間もかけているのに、どうした事だ!」と明らかに怒っている人が続いた。そして、その日の内に募集人数の100名を突破して200人台となった。「もう一杯になりました」というと「では、抽選でしょうね」とくる。

そこで至急にソバリエ実行委員会を開いて、100人単位に1期。2期。3期。と分けて講座スケジュールを組みなおし、申込み者を全員請けることに方針を決めた。受講者は依然として増え続ける。そこで、江戸開府四百年事業だから400人まで請けようと決めたが、7月26日(土)の九段会館の江戸ソバリエ認定事業記念シンポジュウムで、更に増えて結局5期500人の講座となった。

●記念シンポジュウム

さて、九段会館で行われた記念シンポジュウムは熱気にあふれていた。基調講演は早稲田大学名誉教授の高瀬礼文先生の「江戸の食文化と粋」。座談会は老舗かんだやぶの掘田康彦氏、巴町砂場の萩原長昭氏、須田町まつや主人の小高登志氏、元有楽町更科の藤村和夫氏による「江戸の蕎麦屋」であった。コーディネーターの吉田悦子女史の司会によって、座談会は大いに盛り上がった。この旦那衆の組み合わせは、まさに本邦初演であった。

蕎麦は日本全国にある食文化である。ところが百万都市江戸で蕎麦屋が激しい競合するうちに質的な大変化を遂げる。それは細打ちの技術であり、醤油と鰹節による汁の開発であり、美意識に裏打ちされた器の工夫である。蕎麦屋の努力に対して、江戸の町人はそれに相応しい食べ方で応じた。それらの総合が江戸の「粋」という文化にまで昇華したプロセスが、鮮やかに浮かび上がった。参加者は初めて聞く蕎麦屋老舗の旦那衆の肉声に聞きほれ、対極にある夫々のお店の裏話に沸いた。

●江戸蕎麦学

江戸蕎麦学は、耳学、手学、舌学、脳学から構成されている。耳学とはすなわち、夫々の専門家による座学で、蕎麦粉、 蕎麦づくり道具と食器、江戸蕎麦、薬味、世界の蕎麦料理、日本食文化と蕎麦の六章からなる。 その次が手学の蕎麦打ち体験講座。講師は蕎麦老舗の若旦那と数人の助手である。時間割は原則として土曜日、 9:30から16:30まで。また、その講座を受けている期間に、受講者は自分の時間と費用で10店程度の食べ歩きを行う。

あらかじめ教わったチェックポイントを確認し、蕎麦粉と繋ぎの割合を店主に訊ねたり、出汁の材料を推定したりして、 結果を舌学ノートに記入する。そして総合的な勉強成果を2000文字程度のレポートにまとめて提出する。 レポートは厳正に審査され、合格者に「江戸ソバリエ認定証」が授与されるという仕組み。以上の受講料は一万円である。

●講座運営の問題点

江戸蕎麦学は、江戸の粋を顧みるための講座ではあるが、耳学、手学、舌学、脳学とあるように、やや遊びの要素も含まれている。そのためか、受講生も一旦申し込んだ時間割を気安くに変更をしてくる。理由は、親戚の法事とか結婚式、仕事の都合で出張になったとか、たまに転勤になったとかである。

時間や期日の変更は出来ませんといってしまえば簡単だったが、その辺は素人らしいというか、何とかしてあげようと思ったことが混乱のもととなった。定員が100名のところを一人増やせば、一人がはみ出す。それを他の期で減った方に廻せば何とかなるが、その数が必ずしもバランスするとは限らない。全体の数から見れば、数%の移動に過ぎないが、この数%が混乱の素になった。

結果として受講番号の重複、欠番、変更などが生じて、受講者からは事務不備と批判された。また、 送金事務に不慣れな受講者の方もおり、銀行口座に受講料振込する場合の振込人名に「神田雑学大学」と記入したケースが 3例ほどあった。この振込人名の追跡には銀行の守秘義務の壁があり、多くの無駄な時間が費やされた。 たまには、こちらは受け取っていないのに、普通郵便で送金した筈だと、最後まで頑張るおばさんもいた。

加えて、会場の変更の問題がおきた。1期100人としたのは、会場のスペースに対応する設定である。 千代田区さくら館7階に教育研究所の中にある108名収容のホールが講座場所として借りる予定であった。

ことろが、文部化学省が提唱した「ゆとり教育」の徹底のため、千代田区教育委員会が、 7、8月の土曜日に教員研修のために使う事が決まり、江戸蕎麦学講座は急遽、 内神田の社会教育会館へ変更となった。しかし、この会館には100人を収容する スペースがないので、やむを得ず7、8月の講座は50人規模の会議室を使用することになった。

同会館の会議室は4階と8階に分かれている。そこで、1期100名をA,Bに2分割し、講師先生は時間をずらして同じ講座を二度して戴くことにした。このことは、言葉では簡単に済むが、実際問題としては会場変更の案内、チェック・インの事務処理、
情報機器の移動など、予想以上の混乱が発生した。受講生も会場地図のわかり難さ、 エレベーターの搬送能力不足(節電のため、常設2機のうち1機休止)、講座会場の取り違いなどで、不評であった。

しかし、実行委員諸兄は、さすが実業社会で揉まれた歴戦の勇士である。そのような状況のなか、 エクセルやワードを使いこなして、走りながらこの混乱を見事にクリアした。特に、申込み書と時間割のプリントと発送、 入金状況の把握、受講票の製作と郵送、講座会場の手配、講師の折衝、レジメの製作、ポスター・チラシのデザイン・印刷、 変更多発の受講者のスケジュール管理、レポート審査、江戸ソバリエ認定証の製作・授与等、 いま思えばよくぞここまで大きな事故もなくやってきたものだ、という感懐をもつ。

ただ、神田雑学大学のメール機能が不備で、受講希望者から送られた送信が受信できなかったことは、IT力を自負する組織としてはまったく言い訳できない失敗であり、今後は絶対に許されない。

●薬 味:石川  潔

私は、蕎麦を年に2,3回しかたべない。しかし、蕎麦に使う薬味については長年研究している。中でもとんがらしについては、 特に深く研究をしていることから、江戸蕎麦学の薬味の講座を受け持つことになった。

蕎麦の薬味、七色唐辛子(なないろとうがらし)の元祖は、東京薬研堀「やげん堀」(中島商店)である。 ところが名称が、何時の間にか関西の言葉の七味唐辛子(しちみとうがらし)といわれようになった。

「なないろとうがらし」という名称は、ほとんど聞かれなくなり、寂しい思いをしている。生粋の江戸っ子でも「なないろとんがらし」という人が、 いまや少数派になってしまった。私は関東の人間だから「いろ」にこだわり私が道楽でつくっているものも「はちいろとんがらし」と 名付けている。

八という数字は、ご覧の通り末広がりである。八以上の数字はすべて八に含まれる 。自分で調合している「八色とんがらし」は28種の香辛料を使用しているが、八色と名乗っている。たまに「はちみ」と言う人がいる。 七味は一般名詞だからいいとして、 八色を「はちみ」と言われると、私の心は傷つく。

七色唐辛子が江戸に出てきたのは、1600年後半から1700年にかけての江戸の初期から中期である。江戸の風物詩として、 七色唐辛子屋は欠かせないものだったから、時代劇を見ると必ずでてくる。赤い幟をつけたり赤い頭巾をかぶったり、 赤いとんがらしの張り子を抱いたりして出ている。同じ頃に江戸の蕎麦食いが出てくる。いまは、 蕎麦の薬味はネギとワサビと大根おろしが代表的であるが、その頃には、ワサビは高価だったから、 エライさんでなければ使えなかった。

ワサビが蕎麦屋で使われるようになったのは、練りワサビといって、ホースラデッシュにワサビの香料をいれて、 粉で練るのが出てきてから価格が下がってから、それで安いお蕎麦にも使えるようになった。それまでは、 辛さを出すのは「七色とうがらし」だけだった。という経緯で江戸時代からとうがらしは蕎麦とともに歩んできた筈なのに、 いまは冷たくされている。どこの蕎麦屋でもテーブルに乗っており、蕎麦屋の必需品であるのに、 ほとんどの蕎麦屋はとうがらしの仕入に無関心である。

大体、江戸の蕎麦屋でありながら「七色という言葉」を使っていない。みんな「七味とうがらし」という。 私の講座は、そこが中心になっているため「とうがらし」だけだというご批判を頂戴した。私も気を使って、 ネギとか大根おろしなどの話もしているのだが、話はどうしても好きなとうがらしが中心になってしまう。 ワサビとか、辛味大根のことにもちゃんと触れているのだが、とうがらしの印象が余りに強いから、そうなったと思う。

私は、あまり蕎麦を食べない人間だったが、蕎麦学を勉強して以来、蕎麦の食べ方を覚えた。また汁には関心がなかった。もりやざる蕎麦は、汁をどっぷりつけて食べるものと思っていたが、蕎麦つゆの味によって、どれだけつゆをつけるかを決めることが解ってきた。薬味を蕎麦つゆにばかばか入れる人がいるが、それではつゆに沈んでしまう。ワサビもとうがらしも同じく、蕎麦につけてからつゆに浸して食べるのが正しい食べ方であることを話したが、これも印象に残っていない。赤いブレザーのおっさんは、とうがらしだけを話していたと思われたらしい。

●ソバリエ血風録:鈴木 一郎

私は、兵站部として、粛々と実行する立ち場で仕事をした。 なぜ、雑学大学が「江戸ソバリエ」の認定をするのか、また、やった結果どうだったか。その先はどうかということにも皆様ご関心があるのではないかと思う。

私は雑学大学メンバーの桑垣さんから、「新撰組血風録」のビデオをお借りして見た。やはり、クライマックスは池田屋襲撃場面。長州・薩摩・土佐の志士たちが集まる日は何日か、新撰組の密偵が探索する。その男はもと大阪商人の息子で、武士志望である。物売りの行商人に成りすまし、池田屋の宿泊客を密かに調べるという情報収集役である。その夜は、会津藩や京都所司代の手勢が連合で襲う手筈だったが、遅れてこないので、新撰組が単独で襲撃した。

なぜこの話をするかといえば、「江戸ソバリエ認定事業」を実行したのは、我々素人集団で、会津藩に相当する千代田区の支援を戴きながら実務をこなした。町人や百姓の身分で、侍と同じく充分に活躍したところが新撰組と同じだと思うからである。新撰組は時には脱落する者もあり、新規加入するものあり、敵方に寝返るものあり、派閥を作るものあり等、人間の葛藤や、組織の問題を含みながら、次第に人員も増えて100名以上となり、力をつけ、集団としての個性が明らかになる。

いま、自分たちが行っていることと重ねながら、「新撰組血風録」は大変勉強になった。と新撰組は雑学大学が重なり、攻め込んでいく我々の行動が、幸運にも500%の効果を挙げることが出来た。千代田区がそれを認めて、もっと充実するように援助をしはじめた。

なぜ上手くいったか

第一はネーミング。 「そばりえ」にするか「ソバリエ」にするか。江戸がつけば「江戸そばりえ」が自然だが、「ソバリエ」なら「ソムリエ」からの連想で、読んだ人がスムーズに蕎麦通人とか、蕎麦鑑定師と、説明なしで理解が可能であるなどと、様々な議論をしながら、結局「江戸ソバリエ」となった。

第二に講座を耳学としたのも良かったし、自分で食べる蕎麦をつくる手学という体験学習が、受講者の参加意識を高めた。舌学には食べ歩きの楽しさがある。同行者が増えたことによってグループ化が自然発生的に行われ、自分でいい店を見つけるなど、散歩の楽しさまで味合う機会が増えた。

第三に、脳学レポートは、ペン書きであれ、ワープロであれ、パソコンであれ、自分が収集した情報を分析し、総合するという作業である。以上の、フルレンジの活動をこなさないと「江戸ソバリエ認定証」がおりないという難関が、受講者の挑戦意欲を刺激した。記念シンポジュウムから認定証授与式まで6ヶ月間は、受講者にとって自己実現そのものであったのではないだろうか。

第四に、シニアの参加者が多かったことから、シニアの皆さんが何を望んでいるかが、よくわかった。最近のテレビで、消費動向の分析をした番組があった。本物志向である。値段がいくら高くても、ほんとにいい物はすぐ売れてしまう。デパチカという流行言葉があるが、デパートの地下よりも、更に高級ホテルの1階がホテイチである。ホテルのレストランメニューにあるお料理を単品で買い求めて、自宅で食べる。自宅まで配達するのもある。

「食べることは文化である」が本事業のコンセプトになっている。 今回の「江戸ソバリエ認定事業」では、江戸の歴史、文化を顧みながら食べ歩きという作業を通じて、普段行けないような老舗を訪問し、薀蓄をたくわえ、蕎麦を観察しながら江戸の美意識を感じ、蕎麦の味覚を堪能したという充実感を訴えるレポートが多く見受けられた。

第五に、蕎麦という食べ物をテーマにして、粉、器、歴史、薬味、料理、文化、実習という色々な切り口から専門分野の講師が話をする系統だった講座が、これまであるようで実はなかったことも、事業成功の一因ではなかったかと思う。それは、受講生のなかに本職の蕎麦屋さん、製粉業者、蕎麦食器業者が多数参加していたことからも判断できる。それらの系統的な講座が1万円という手軽な受講料であったことも、多数の受講者が参加した原因になっていると思う。

「はたらく」ということは、傍を楽にするという意味があるが、
第六に「江戸ソバリエ」講座には傍を楽しませる要素があった。耳学で話を聞くだけではなく、自分で蕎麦を作る手学「蕎麦打ち体験講座」で、実際に受講者が蕎麦打ちを行い、家族の分を土産に持ち帰った。参加者の満足の表情に「おじいちゃんのお蕎麦、美味しい」とか、「きしめんみたい」などのファミリーの歓声が聞こえるような気がした。そして、この事業は明らかに、時代の流れのなかに在ることを感じた。

新撰組の場合は、歴史の流れに抗しようもなく滅びた。雑学大学は、時代び流れに乗ってこれからの発展がますます期待できる状況となった。千代田区の支援は昨年の比ではなく、シンポジュウムの会場として千代田公会堂、講座会場としていきいきプラザのカスケードホールを確保するとか、事業を千代田区と共催にするとか、ポスター・チラシの制作費を分担するなど、じつに積極的な姿勢を示してくれている。

●情報の分析:橋本 曜

私は、これまで蕎麦のことはあまり知らない人間だった。その自分が、なぜ「江戸ソバリエ認定事業」に首を突っ込むようになったか、をお話すれば、皆さんが「江戸ソバリエU」に参加する参考になるのではないか、と思う。神田雑学大学で「江戸ソバリエ認定事業実行委員」を募集したのは、ちょうど去年の今ごろである。私はイの一番に手を挙げた。何か「面白そうだ」と感じたからである。

実行委員の中には、蕎麦研究の大ベテランがおり、私などは隅の方で小さくなっていた。お手元に配布した資料の江戸ソバリエ訪問店ランキングに、須田町の「まつや」が載っているが、その有名な「まつや」を知らなかったくらいの蕎麦音痴である。しかし、委員になったからには多少蕎麦屋さんを知らないと不味いので、図書館で本を読んだり、本屋で立ち読みしたりして勉強をした。

私は、世界で蕎麦といったら日本だと思っていた。調べて解ったことだが、日本の蕎麦の消費量は年間20,000トンで、世界では8番目である。それも80%が輸入であるのも驚きだった。生産量の最も多いのは中国で、消費量の多いのはウクライナとか、美味しい蕎麦屋はどこにあってとか、委員会の会話の中ですこしづつ知識が増えてきた。最後の方ではソバリエ受講者のレポートを読むことによって、大いに勉強をさせて戴いた。

「江戸ソバリエ認定事業」の講座に、一体どんな方が参加されるのか、興味があった。東京で行うからには東京在住の方が八割、首都圏が残りの二割。最も遠い人は何処から来るか関心があったが、距離としては静岡市、時間としては仙台市の方がいた。職業はどうか。それは大半が会社員、公務員で、無職とは定年後のシニアと分類できた。 無職の中には、休職中という人もいて、身につまされた。

飲食業の人もいた。その中に蕎麦屋さんが四人もいたのには驚いた。参加理由の項に 「蕎麦は作れるが薀蓄がないから」とあった。年齢は男性55歳、女性46.7歳。平均53歳であった。男女比は7:3。その中の夫婦連れが20組であった。 最初に話があったように、江戸ソバリエを100人認定するつもりであった。ニュースとして取り上げてもらうべく、手分けして新聞社を飛びこみ訪問した。

新聞社で飛び込みの面会であったが、部長クラスが対応するのには驚いた。部長クラスが出てくるということは、既に「江戸ソバリエ」の情報がイン・プットされてのことと思われた。企画の面白さをジャーナリズムらしい感度で受け取っていたのだろう。 既に受講希望者は100人を突破して、400人に広げようとしている時期である。そして、シンポジュウムの盛況がさらに受講者を増やし、とうとう5期500人となった。

困ったのは、受講者の講座予定の変更処理であった。普通、講座の変更は受け付けない。しかし、認定委員の皆さんは親切に対応した。その対応したことが、混乱の素になったが、何とか変更の希望を叶えることはできた。しかし、今後の事務の進め方としては、変更に伴う事務処理の煩雑さを考えたら、請けるべきではない。素人が集まり、初めての大事業に取り組んで、ほとんど初体験の経験を積みながら学習してやってきた「江戸ソバリエ認定事業」だった。今度はもっとうまくやれると思う。

シンポジュウムは九段会館で行ったが、神田雑学大学の皆さんにもご協力戴き、お世話になった。このとき、最後に関係者全員を壇上に集合させ、「この人たちのボランティア活動によってシンポジュウムは無事に終えることができました」というアナウンスをしたことが、参加者に認知されたアッピールになったと感じている。反面、我々として、NPOということに甘えていた反省も必要ではないかと思う。

つまり、高いか安かは別として、受講者は1万円も払っている。ところが、受け取る側は、こんな盛りだくさんの講座を一万円で提供しているだから、文句をいうなという気持が若干あったような気がする。お金を戴くからには、お客さんに迷惑をかけないように努力することが大切ではないか、これが課題であると思う。

●参考資料のデータ

お手元にある江戸ソバリエ訪問店ランキングの中の蕎麦店は、都内だけで742店、郊外を合わせると全部で1074店。 ソバリエの人は一人で十数軒を食べ歩いており、その延べ訪問店数は都内4,134店、郊外428店、計4,562店となる。 これは消費者自ら調査した蕎麦店マーケッテング情報である。これは一部に過ぎないが、このデータをいかに分析するかによって、 業界情報としての価値が生じるものである。

●江戸ソバリエ:阿部 宏

私は、去年の6月に入会したばかりなので神田雑学大学の新入生である。「江戸ソバリエ認定事業」の受講者の一人として参加した。 先輩諸兄が大変な苦労をされて、このプロジェクトを成功させたことに感動し、また感謝をしている。

定年退職して痛感したことが三つある。一つは通勤用の定期券がなくなったこと。私は横浜に住んでいる。 渋谷まで東横線で通っていたが、定期券があるときは、例えば自由が丘で然るべきコーヒー屋で一服する。

学芸大学駅前にある古い蕎麦屋で時々蕎麦を食べる。これは今までただだったものが、 その都度キップ代がかかるから計千円ほどになり、甚だ不本意である。 その次は名刺が無くなったこと。阿部 宏と申します、横浜市港北区妙蓮寺に住んでおりますといったところで、相手は余り真剣に対応してくれない。それともう一つ、会社に勤めていた時は、時間の区切りがはっきりあった。朝何時に起きて、何時の電車に乗って、何時について会議に出て、午後から人に会うというスケジュールがある。そのような時間的な区切りが、一切なくなってしまう。そのようなことは、会社を辞めたときには非常に嬉しいことだった。

ところが、それが2年,3年経つと精神的にゆるふんになって、逆に何かしまりが欲しくなるのである。そこで本を読むとか、スポーツをするとかだが、何しろ時間がたっぷりあって、毎週金曜日夜に神田雑学大学に出席することが、一週間の最大のイベントになっている時に、「江戸ソバリエ」の募集を知って、さっそく申し込んだ。

しかも、講座を何種類か聴いたあとで、あっちこっち出向いて舌学という食べ歩きを行う。それは只食べるだけでなく、出された蕎麦を観察し、汁の辛さを箸先で味わい、蕎麦粉の割合などを店主に訊ねたり、美味しければ何故美味しいかを推理して舌学ノートに記入する。そして最後に、脳学レポートという一種の宿題を提出する。これは、先に述べた定年後の三つの不便を解消するだけでなく、ある程度自分を縛ることになるプロジェクトだった。

たしかに、講座に参加してのは正解だったが、手学という蕎麦打ち体験はあまり上手く行かず苦労した。最後の蕎麦切りでは、きしめん状になったり、団子になってしまったが、家に持ち帰った。かみさんは、見るなり大笑いして「こんな蕎麦見たことない」といっていたが、食べてみると結構美味かった。やはり、純粋の蕎麦粉で作ると美味いのだ。かみさんは、「出来たらまた行ってごらん」というのである。

講座を受けてそれなりに知識がふえると、蕎麦という食物が向こうから飛び込んでくる。街を歩いていても蕎麦屋の看板が目に付くし、新聞雑誌を読んでいても蕎麦という活字が目に入る。9月20日、童夢館家庭科室の蕎麦打ち実習の日は、台風が迫ってくるという悪天候だった。童夢館の前にある公園で、昼食にいなり寿司を食べていたら、12時56分地震があった。ぐらぐらっと来た。マグニチュード5.6とか、あとのニュースで聴いた。

あの前後、大地震がくるぞ、くるぞの話があったので、ほんとに地震がきたら「ソバリエ」どころではないと思った。しかし、それ以上のことはなく、家に帰って講談社刊の実録20世紀の「関東大震災」を見たら、写真のあとのコラムに関東大震災のあと、蕎麦屋の店の作りが変わったと書いてあった。

それまで、蕎麦屋は小上がりか、上がって座敷で蕎麦を食べるつくりになっていた。やぶ蕎麦ではイスをおくようにしたが、 一般化していなかった。

ところが、震災のあとは急にイス席が普及した。また、 震災をきっかけにてカレーうどんのような洋風のメニューも流行したことによって、イス席は違和感なく受け入れられたという。 (昭和女子大・料理研究室のレポート)

それから、三日後の朝日新聞の夕刊に出ていた話。 江戸のころ、……伝通院の学寮に沢蔵司という修行僧がいた。彼は門前のそば屋に毎夜のごとく食べに来ていた。そして、 沢蔵司は竹の皮に包んだそばを持って帰るのが日課でもあった。 だが、そば屋を出た彼の姿は煙のように消えて、どこへ行くのか分からなかった。

不信に思ったそば屋の主人が彼のあとをつけてみたが、伝通院近くの薮の中で姿を見失った。 しかし、翌日、そこに行くと、そばを包んだ竹の皮が捨ててあった。沢蔵司が来たときは、売上の中に必ず木の葉が入っていたこともあり、 「さては沢蔵司とは仮の名で、千年以上も生きている白狐様、稲荷大明神にちがいない」と思った。

沢蔵司のほうは神通力をもっているので、主人が跡をつけてきたことはご存じで、その夜、学寮長の和尚の夢枕に立ち、「余は稲荷大明神である。かねて浄土宗の勉強をしたいと思っていたが、その希望をここで達した。元の神に永く当山(伝通院)を守護して恩に報いよう」と告げた。そこで、伝通院の住職は沢蔵司稲荷という祠を建立して祀り、慈眼院を別当寺とした。そして、このそば屋は、それ以来、毎日「お初」のそばを稲荷に供え、いなりそばと称した。

……御社の脇道を下っていくと、おあなと称する霊窟があり、その洞穴に稲荷が祀られてある。さて、沢蔵司がかよったとされるそば店は、現在も伝通院前の春日通り四つ角、向かって右側に『稲荷蕎麦萬盛総本店』として残っている。

同店の主人・松村茂さんは「いまも毎日、お初の箱そばをお供えしています」と箱を見せてくれた。朱塗りの箱で、 フタには「奉納 稲荷蕎麦」とある。店内にも、お稲荷様が祀ってあったのはいうまでもない。 ウソでない証拠に出前の写真つきだった。 なるほど、蕎麦は向こうから飛び込んでくると、思った。

食べ歩きには、名代の店が名簿で紹介されていた。その名簿にはなかったが、こんな店もある。 バイクで横浜へ出かけた折、駐輪場を探したら、「三たて」という看板が目に入った。講座で「挽きたて、 打ちたて、茹でたて」を聞いた覚えがあるが、ビルの1階、漆塗りの赤と黒をアレンジした洋風のデザインの店構え、 有線放送にはマイリス・ディービスの曲がかかっている店である。

「精気堂允」という鈴木善幸の書が額にかかっている。 そして店主が、その額の下で 堂々と北海道の幌加内産の蕎麦粉で蕎麦を打つ。じつに美味しい蕎麦だった。 そこで、私はしばしばその店へ蕎麦くいに通うようになった。これも向こうから飛び込んできた例である。

水天宮の近くに甘酒横丁という路地がある。夕方、その近辺に集まりがあったので早めに出かけて、ぶらぶら歩いてみた。 すると何とか東島屋という古い蕎麦屋があったので腹ふさぎに、入ってみた。 壁に俳優の中尾 彬が書いた民家の絵が二つばかりかけてあり、腰板がわりに黒竹を割った作りに、 鷹の爪などがかけてあって風情がある。

客のおばさんが「私は先にここへ住んでいたけど、いまは息子のいる埼玉に住んでいるのよ。 ここへ来ると懐かしいわね」とかいって蕎麦を食べている。ふと、棟つづきの隣に目をやると、それは三味線のお師匠さんだったりして、 その辺から永井荷風先生がひょいと顔でも出しそうな雰囲気の蕎麦屋であった。これも偶然に入った店。

三年前に家の近くに蕎麦屋ができた。妙蓮寺のあたりなので、葬式帰りの人で時に賑わう。黒ずくめの紳士たちが、 最初は神妙にもり蕎麦などを食べているが、そのうちにビールの酔いが廻ると天麩羅などを注文して、「ねッ部長!」なんてやっている。 その店が、最近「辛み大根そろし蕎麦」を出すようになった。

これは食べてみたら、じつに美味い。その店の主人は、まだ若く多分四十歳前だろう。 サッカーのラモス・瑠偉とそっくりな顔をしている。その男が作務衣を着て、耳にはイヤリングをつけている。それでいて豆絞りの手拭いで頭をしばり、蕎麦打ちをやってから店に出てくる。腰が低くて、感じがいい。時々、蕎麦くいに行くようになった。

卓上のメニュウの後ろに、手打ち蕎麦の、水回しから手こね、菊もみ、臍だしにいたる木鉢の手順写真が印刷してある。 本人は素人写真ですから、上手に撮れていませんと謙遜するが、中々どうしてちゃんとした情報である。 これも「江戸蕎麦学」を受講してから、飛び込んできた蕎麦屋の一つである。

さて私、定年退職後、金の方も不自由している。服はユニクロ、食事は大戸屋、余ったお金で本を買う、とするか、 それとも神田雑学大学のカンパに廻そうか、とも考えている。

●江戸ソバリエ:前島 敏正

私は現在パッケージングの会社に勤めている。今まで人にお話できるような趣味はなかったが、 数年前よりちょっとしたきっかけで蕎麦打ちを始めている。この趣味は単なる鑑賞ということではなく、 自分が主体で参加できるという点で気に入っている。最近は評判の蕎麦屋と聞けば食べ歩きをしている。

たまたまTBS朝の番組で森本毅郎のスタンバイという番組で、「江戸ソバリエ」の案内があった。 「ソムリエ」から容易に連想できる「ソバリエ」という言葉に惹かれ会社到着後、 神田雑学大学に電話をしたところ157番目でエントリーさせてもらった。 その後申し込みが殺到して、最終的には600人の問いあわせがあつた事は後で知った。

その後約2ヶ月にわたり舌学編(食べ歩きレポート)、耳学編(江戸文化等の講義を受講)、 手学編(実技)、脳学編(論文)、等を経て無事認定を頂いた。認定証を頂いた記念に「江戸ソバリエ」の名刺を作成した。 又、食べ歩きをしたお店のデータベースをホームページに公表している。是非ご覧戴きたい。

食べ歩きは今でも続けており、最近は「温泉と蕎麦」というキーワードで各地の温泉巡りをしている。 自分用のスパイラル綴じの書きやすいノートを作り、データーを蓄積している。今後ホームページで公開したいと思っている。 今回の認定証授与式で知り合いとなった方々は既に「蕎麦関連の本」を出版されていたり、ホームページを立ち上げていたり、 蕎麦屋を経営されていたり等大変レベルの高い方々であった。

私の勤務先は霞ヶ関の近辺で、当日知り合いとななった数人で「霞ヶ関部会」を立ち上げることになり、 3月末に部会を設ける予定である。今後も「江戸ソバリエ」というキーワードで、ネットワーク作りを拡大していきたいと思っている。

●江戸ソバリエ:河野 進

私の場合、江戸ソバリエについての情報はまったくなかったが、会社時代の先輩を介して、雑学大学講師の坂田純治氏の紹介して頂き、参加することになった。 定年を迎えて時間はたっぷりある。

「おい、メシ」といって昼飯を食べるより、自分で用意しようと考えた。 何しろ時間はたっぷりあるのだから、粉から始めた方が宜しかろうと、蕎麦打ちを始めたのが2002年の春だった。 蕎麦打ちは、お蕎麦屋さんが催している蕎麦打ちグループの仲間に入れてもらって習った。

去年の正月に、今年は蕎麦を30回打とうと一年の目標を立てた。その途中の夏に、江戸ソバリエの情報を戴いた。 夏は暑いから、ちょっと蕎麦うちを控えていたところだった。シンポジューム。受講、耳学、手学、舌学、脳学と進んだ。 舌学のほうは、私は東京の下町育ちだから、ガキのころから蕎麦は食べつけていた。

母親がオヤツに作ってくれたのは、蕎麦掻きだった。母親は、会津藩士の末裔の娘である。蕎麦や蕎麦掻きは、ごく当り前の食べ物だった。 私は蕎麦が好きだったし、先ほどの石川先生の「七色とんがらし」で育ったようなものだ。だが、近くの蕎麦屋の薬味は七色ではなく、ヤキという赤いとうがらし、一味だったかと思う。

地方へ行った時にご当地の蕎麦を食べるのだが、何処か違って感じる。布海苔をつかった「へぎ蕎麦」などはつるつる喉に落ちてゆき、何を食べたか判らないような感じがする。そこへ行くと角の立った江戸蕎麦は、喉に心地良い刺激と仄かな香りがある。又、江戸蕎麦の「つゆ」」は際立って濃い。そして、江戸蕎麦の江戸蕎麦たる所以は更科であろうと挽きぐるみであろうと、喉越しと歯ざわりのいい細切りの「蕎麦」と、この「濃いつゆ」にあると脳学レポートに書いた。

手学はある程度の経験はあるものの、やはり包丁が問題である。「ひもかわうどん」になってしまう。一日も早く、ひもかわを脱して、江戸蕎麦になるよう精進したい。脳学レポートは、勉強しなければならないことが沢山ある。やり始めると次から次へと調べごとが出てきて区切りがつかない。出来れば神田雑学大学の次のステップに参加したいと思う。

●総括:ほしひかる

この事業のポイントは、「江戸ソバリエ認定証」にあった、と思う。もう一つは蕎麦に対する耳学、手学、舌学、脳学という総合講座であったことである。世間には、手打ち、蘊蓄、食べ歩きを個々に学ぶ講座はあったが、ここまで総合したものは存在しない。それにレポート提出が参加者の知的探究心を刺激した。この三つが相乗効果を齎したと考える。

「江戸蕎麦学」としたのは、江戸開府四百年とフィットさせたこともあるが、江戸とつけたことにより、都市文化を強調したかったからである。農作物は必ず産地が有名になる。蕎麦について言えば、江戸は生産地ではない。しかし、芭蕉をして「蕎麦は江戸の水に合う」と言わしめた。 都市文化には、生産地以外の著名な工芸品としては、京蒔絵・江戸蒔絵とか、歌舞伎・浮世絵などがある。ただ消費が多いだけだったら、お酒などが代表的であるが、これらは江戸の酒、東京の酒とは言わない。しかし、蕎麦は「江戸蕎麦」とか「江戸流蕎麦打ち」と独特な表現をする。それは何故だろうか。

表には江戸蕎麦学しか出てこないが、底流には日本の食文化とは何かという問いかけがある。 日本の食文化とは何かと言えば、ひとこと「水」である。外国の食べ物は、概して「水」を調理の中で飛ばして仕上げる。 これに対して日本料理は「水」を吸収するのが特徴である。焼き物は別にして、主たる「ご飯」は米60に水40で炊き上がる。 味噌汁しかり、麺類文化はその中から生れた。

蕎麦に関する薀蓄の中で、一番のポイントは「いつから蕎麦切りになったか」ということである。 蕎麦は、むかし蕎麦切りと言われた。その前は多分、蕎麦餅か蕎麦掻であったろう。 現段階の蕎麦切りの初見は、木曽の定勝寺に残っている『番匠作事日記』である。それには、 金永という人が蕎麦切りを振舞った(1574年)とある。

当時は戦国時代、日夜戦雲急を告げており、その時期に初めて蕎麦切りが開発されたとは、考えにくい。 もっと前からあったと考える方が自然である。では、その前史は何かというと、多くの古記録から推察すれば京の寺方蕎麦である。 それが木曾路、甲州路を経て江戸に入り、食文化として江戸で見事に花開いた、とされている。

では次に、「江戸で蕎麦が食べられるようになったのはいつ頃か」が問題となってくる。 1614年(慶長年間)近江の多賀神社の社僧慈性が残した『慈性日記』に江戸の常明寺で蕎麦切りをご馳走になったとある。 これは蕎麦の薀蓄本にはほとんどこの記述がある。ところが知合いの僧侶に聞くと、江戸に常明寺という寺はなかったという。

目からウロコの話であるが、これまで『慈性日記』を鵜呑みにして、常明寺の所在を調べた人はほとんどいなかった。ただ、1608年、尾張一ノ宮の妙興寺で蕎麦切りを記録した『寺方蕎麦覚書』があるが、1608年に尾張なら1614年に江戸にあっても不思議ではない。可能性は充分にある。しかし、江戸の常明寺の所在を検証していないのは研究家・モノ書きとして片手落ちである。

さて、江戸ソバリエの皆さんのレポートを拝見して、その真摯な姿勢と、ひたむきな内容に心を打たれるものがある。正座して読まないと申し訳ないような気持になった。また、阿部さんのお話にもあったように、定年後の生きがいが見つかったと書いてある方もおり、思わず胸に迫るものもあった。

そこには、自分を見つめなおしたい。改めてもっと蕎麦を勉強したいとの記述が多くあった。さらに手打ちをマスターして、ボランティアで高齢者のために蕎麦打ちをやってあげたいというのも多かった。キザであるが佐藤一斎の「老いて学べば、則ち死して朽ちず」の言葉の心境を感じた。 「江戸ソバリエ」の種を蒔いたのは自分かもしれないが、認定委員や講師、また受講者の皆様のお陰で花を咲かせて戴き、感謝に耐えない。

終わり



文 責:三上 卓治  会場撮影:橋本 曜  HTML制作:上野 治子