神田雑学大学 2004年3月19日講義録

羽 二 重 団 子

講師 澤野 修一

渇H二重団子 代表取締役



目 次

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1.講師紹介

2.はじめに

3.江戸

4.東都のれん会

5.羽二重団子の創業

6.根岸というところ

7.維新逸話

8.子規と漱石

9.団子の話

10.老舗を守る




1.講師紹介

「羽二重団子の伝統の味」の講師澤野 修一さんは渇H二重団子の代表取締役です。江戸は『根岸』、粋で風雅な音無川のほとり、芋坂にある『羽二重団子』といえば夏目漱石『吾輩は猫である』や正岡子規の俳句、泉鏡花『松の葉』など、数多くの文学作品にも登場する老舗。
文政二年の昔から、江戸の庶民に親しまれた団子について、7代目が語る「かわらぬ江戸の味」の秘密と家訓。文学者との交流。年3回開催される「だんご寄席」は会長の6代目庄五郎の昔話と落語の二本立て。そんなお話を江戸文化の継承と会社経営という視点から。

2.はじめに

 只今ご紹介を賜りました、羽二重団子の澤野でございます。私は自分一人の力で、会社を立ち上げて成功させた人々とは違います。伝統を受け継ぐべき家に生まれ、それを継承してきただけの人間でございますので、人にお話しできるほどの会社経営の実践や、立派な経営哲学などはございません。ただ、そのような家に生まれたがために知り得た事、あるいは感じた事などをお話することは出来ると思います。今日はそんなことを中心にお話を進めさせて頂きたいと思っております。

3.江戸

 去年は江戸開府400年と言われ、東京ではいろいろなイベントが行われました。現実に1603年に江戸幕府を開いた家康は、三河の出身でありますから、文化の大本は西から来たということを認めない訳には参りません。さはさりながら、265年の江戸時代はその西から来た文化をさらに熟成させて、江戸独特の文化を作り上げたとも言える訳でございます。

 たとえば人口を一つ例にとってみても、未開発の江戸に家康が来てから20年後の慶長期には15万人に増えており、100年後の1720年頃の享保年間には100万人を突破し、世界最大の都市となっていたと言われております。ロンドンが100万人に達するのは1700年代の末、パリは1800年代の半ばだそうでございます。国内に目を移せば江戸時代中期で、京都が30万人、大阪が50万人であったそうでございますから、まさに巨大都市江戸として、他の追随を許さない状態であった訳でございます。

 それだけの人口を持つ江戸でありますので、様々な商業が発達していったことは論を待たない訳であります。私ども永く続いている店50店ばかり相寄りまして、東都のれん会というものを組織しておりまして、その殆どが江戸時代に創業しております。参考資料1をご覧頂きますと、私ども東都のれん会のメンバーの創業年が一覧になっております。これらの店を含め、江戸に開業した商人、創業者はおそらく他の地方からの流入者が多いと思われますが、その従業員も他の地方からの単身赴任が多かったと言われております。

 参勤交代の武家も単身赴任が多く、相当期間江戸は男社会であったようで、これが吉原遊郭を発展させた一因という説もありますが、これは余談でございます。そして何代も続けて商売をしているうちに江戸で生まれて江戸で育ったというものが増えてまいりまして、いわゆる「江戸っ子」という人間が誕生してくるのは、やっと1700年代の末頃からであります。

4.東都のれん会

 さて、東都のれん会に戻ります。商業都市江戸で誕生したこれらの店も明治維新、日清・日露戦争、関東大震災、第二次大戦と荒波を乗り越えてまいります。古いことだけが決して素晴らしいことではありませんが、淘汰されずに続いている理由はどこかにあるはずであります。そのことは、また後程触れさせて頂きます。さて、戦後に至ります。昭和26年に東都のれん会は発足しておりますが、その当時は戦後の混乱期を経て、日本の伝統が壊されていくのではないかという危機感を持った私どもの先代達が、相寄り合って互いに助け合っていこうではないかという意識を持ったのが始まりです。それまでは古い店どうしの横のつながり、というものは無かったのでありまして、いわゆる異業種交流の走りでございます。

 さきほどの年表をご覧頂けばご存知のお店も多いのではないでしょうか、菓子屋が一番多くて55店のうち8軒、うなぎ3、そば3、佃煮3、その他、一店だけの業種をざっと申し上げますと、食品では、甘酒、しるこ、味噌、酒、半ペン、どじょう、あんこう鍋、合鴨すきやき、豆腐料理、天ぷら、鰹節、果物、いなり寿司、弁当、煎餅、豆、唐辛子、海苔、お茶、工芸では、履き物、千代紙、扇子、刃物、刷毛、呉服、足袋、漆器、楊枝、箒、浴衣、和紙、神輿、人形、眼鏡、等々といった具合です。その時の会員資格は3代100年位でしたが、重要視されたのは、本筋ということでした。つまり、のれんを買ったりしたのではなく、代々家業を継続してきているという点でありました。しかも文献などで証拠が確認できるということでありました。自称は駄目ということであります。

 こののれん会という名称も先代達の一人が提案したと聞いております。自分達で老舗などと名乗るのはおこがましい、老舗とはお客様から言われる言葉であるという考えからでございました。しかし、すぐにいろいろなところでのれん会というものがぽつぽつと出来てきてしまいまして、昭和27年には東都のれん会で商標登録を取り、折鶴3羽のマークを意匠登録しております。これはFC東京の公式ガイドガイドブックの背表紙に乗せている広告ですが、マークの折鶴とはこんな形です。FC東京 常務の村林さんという方がおりまして、大変熱心に、是非東京を代表する老舗の、のれん会に応援してもらいたいというお話を頂いて、この様な形で出させて頂いております。

5.羽二重団子の創業

 さて、羽二重団子の創業でございますが、文政2年1819年です。それに先立つ1720年頃の享保年間今からおよそ280年程前ですが、隣接する本家から分家した私どもの始祖は、加賀藩出入りの植木屋でございました。そこから3代100年程たった文政2年1819年に王子街道沿いに「藤ノ木茶屋」を開業したのが初代「澤野庄五郎」と申します。王子街道と申しますのは、当店の前は王子から音無川が流れておりまして、現在は暗渠になっておりますが、川に沿って王子飛鳥山方面へ向かう街道であります。従って創業当時から庭をしつらえそれを眺めながらお茶と団子をお召し上がり頂くというスタイルを踏襲しておりまして、現在は何代目かの庭になりますが、パンフレットの中にありますような雰囲気でガラス越しに庭をご覧頂く喫茶室を併設しております。

 180年程経過した現在、私は7代目にあたります。先程の年表をご覧頂きますとメンバーの中では中程度の古さでありましょうか。時代は文化文政、江戸文化の爛熟期に入ったところと申せます。将軍は11代家斎の頃です。場所は参考資料5の周辺地図をご覧頂きますと、左上の日暮里という駅は、山の手線で上野から2駅北にございます。ここが一番近こうございます。私どもの店のあるこの辺りは上野・谷中の台地の北陰に当たりまして、地形的に台地の下を「根岸」というものですから、それがそのまま町名になっております。横浜にも同じような地形で「根岸」という地名があります。現住所は荒川区東日暮里なのですが、江戸名所図絵などによりますと根岸といっていたようであります。

 この江戸名所図会には、根岸とはどんなところであったのか出ておりますが、いわゆる閑雅幽水とでも申しましょうか、俗塵を避けて隠棲するにふさわしい場所で、鶯が鳴き、三味線の音が家々から聞こえ、三河島田圃の先遠くに荒川を行き交う船の白帆が眺められるといった野趣溢れる、粋な土地柄でありました。余談ですがこの三河島という地名もこちらの三河からきておりまして、三河の国から来た徳川家臣によって開かれ、肥沃な土地に三河島菜という野菜が産出されております。また、鷹狩の場所として将軍の御成もあったようです。地図では上部当店の名前の枠の下に三河島へと書いてあるところから北です。

6.根岸というところ

 さて、この根岸には従って、文人墨客などが移り住み、豪商などがこぞって別荘―寮を建てたのであります。いわゆるセカンドハウス(これは江戸市中大変火事が多かったので大店の主人達は火事で焼けた時の非難場所を持っていた)であります。また別宅、―つまり妾宅ですがーが多くあるような、土地柄でございます。ここに明治25年に正岡子規が移り住んでまいりますが、このような俳句が残されております。「妻よりも妾の多し門涼み」つまり普通の奥さんなら、夕飯の支度で忙しい時分に、門のところにでて夕涼みをしている、ちょっと艶やかな女性をみて、ひねった句であろうと推察いたします。

 また、半七捕物帖や銭形平次の舞台になることも多いのですが、それは、御妾さんの弟やら縁者などには不埒者が多く彼らが頼って逃げ込む先であった訳です。そしてこの根岸は上野から近かったので、明治に入って子規などのように東海道線で北上した人々や、東北上信越線で上京した人々が、こぞって貸家や寓居先を求めて参ります。この根岸に一時期でも住んだ名の有る人々は、600人から700人とも言われておりまして、江戸期には酒井抱一、尾形乾山、平田篤胤、前野良沢、公現法親王後の北白河の宮、明治に正岡子規、岡倉天心、鏑木清方、陸奥宗光、守田勘彌などなど蒼々たる学者、文人、芸術家、歌舞伎俳優などの名前があがります。

 一ヶ所にこれだけの名のある人物が住んだというのは、日本広しといえども、中々無いことだとおもわれます。しかし、残念ながら、戦後は静かな街だけに、ラブホテル経営者の目のつけるところとなり、現在はネオンが乱立する街に激変しております。子規の住んだ子規庵もその中に埋もれて残念に思っております。先ごろNHKの「その時歴史が動いた」でも子規を採り上げておりましたが、訪れた方は皆びっくりするという状況であります。また、その他根岸の名前は建築関係の人はご存知と思いますが、根岸壁という壁土として知られております。尾形乾山の窯があったぐらいですので、土に特色があったと思われるのであります。

7.維新逸話

 さて、当店2代目、3代目の頃に、明治維新が起こりました。2代目は家付きの娘で名を「ぎん」と申しまして、養子をとっております。これが酒豪で女傑だったらしいのですが、菩提寺の住職がぎんを描いた絵が残っておりまして、傍らに盃が置いてあるんです。相当のものだったのでしょう。残念ながらわたくしには遺伝されておりません、程々はいただきますが。

 慶應4年1868年5月15日上野の戦争が始まりました。当店の場所は徳川菩提寺であり寺域30万5000坪、寺領12,700石の 東叡山寛永寺領でございましたので、壮年期にあった3代目は、領民として使役に駆り出されておりました。当日早暁、万世橋にあがった一発の狼煙を合図に、官軍のアームストロング砲が一斉に火を噴き、あわてふためいた3代目は急いで逃げ帰り、家族を連れて商売道具の蒸篭をかついで、尾久村まで落ち延びたと申します。その時店の雨戸も締め、板を打ち付けていったのでしたが、収まった頃に戻ってみますと、雨戸は破られ、縁の下には彰義隊のものと思しき刀、槍が投げ捨てられ、畑仕事用の野良着が無くなっていたと申します。つまり、彰義隊士は官軍の追手を避ける為、百姓姿に変装して、日光奥羽方面へ落ち延びていったようであります。

その時残していった刀・槍は当店に現存しております。大部第二次大戦中の鉄製品の供出で取られてしまいましたが、小刀一本、槍一本は残しました。しかし、手入れもしておりませんでしたので、ぼろぼろに錆びております。先日その小刀の取材があり、東京新聞の夕刊の一面に載ったものですから、早速警察から電話がかかりまして、「その刀剣の届出はされてますか?」というお尋ねがありました。銃刀法違反の疑いがかかりました。まさかこんな錆びた刀にも、そんな規制がかかるとは思ってもみませんことで、仕方なく東京都に出向きまして、鑑定を受け、美術品として登録を済ませた次第であります。

 慶應4年に話は戻ります。実は4代目はこの年の生まれでございまして、私の曾祖父にあたります。3代目からよくこの話を聞かされていた4代目は、父、祖父にもかなり語ったものとみえ、口伝が後世に残されました。
当店の脇道は芋坂と申しまして、上野谷中の台地に繋がる坂道でございました。

先程の地図を参照してください。当然線路や袴線橋ができる前であります。寛永寺に立てこもった彰義隊は丁度今の国立博物館の位置に本堂がありましたので、そこを中心にしておった訳です。今でこそ寛永寺は地図に見えるくらいの広さになってしまいましたが、当時は今の上野公園全てが境内であった訳です。

そして彰義隊は退却する道として芋坂を最初から決めてあったようです。詳細について彰義隊士の子孫が書いたものが、戦後文芸春秋に載ったと聞きました。そこに書かれたものによりますと、芋坂坂上に集結した隊士は手負いのものを楽にしてやろうと介錯してやり、残ったものは脱兎のごとく芋坂を駆け下り、当店に闖入する者数名が先程の変装をして、落ち延びたという訳であります。また、官軍の方も彰義隊に対し、窮鼠猫を噛むになってはいけないという大村益次郎の戦略で、全てを包囲しなかったといわれております。

これは町の古老―農家、旧家の方々ですがーから伝え聞いた話でありますが、逃げる隊士達に湯茶を振る舞ったという話も残っております。また、追手の官軍薩摩っぽ−−徳川贔屓ですから薩摩への田舎っぺという蔑称を使う訳ですが−−がやってきて、抜き身の大刀を下げて来て、米俵などをぶすぶすと刺していった、大変恐かったなどという話も残っております。また、大正11年に鹿島万兵衛という人が書いた「江戸の夕栄」という本がありまして、戊辰戦争の時に野次馬根性で戦闘のあった後を見てまわった思い出を書いております。

 その中に丁度当店辺りの記述がありますので、少し読ませて頂きます。『翌16日未明に私は朋友2名と共に朝食もせず、上野に至りしに前日と違いて筋違御門も自由に通行を許せり。先ず3枚橋を渡り、黒門前に至りしに今の山王台下の石階の前の(当時正面に石段無し)辺に畳156畳を重ねたる物凡そ3側、これは仮の障壁に造り、下寺よりの連絡をとる為と見えたり。この辺りは今の上野公園の広小路側からの入口から入って行った様子です。しかし、敵味方共死体などは既に片付けしにや、一つもなかりし。

 また黒門及び付近の樹木は折れ、弾丸の跡は夥しかりし、武器などの落し物もなく、激戦のありし跡は見えざりき。黒門を入り、山王台に登りしに精工を尽せる社殿も焼けて、余燼尚消えやらず。この寛永寺根本中堂を焼失、七堂伽藍も焼失したのは、官軍の将兵が後に火を付けたことを後悔し、告白しておりますが、誠に残念なことでした。今現存していれば、大変な国宝級の観光資源でありました。後にて聞きしに隊の将校勇士この社内にて自殉せる者数名ありしと。あわれ中堂は全部炎上して残火尚鎮まらず。宮様御門前には(今の博物館正面)大砲一門と水浅黄の法被を着せし人夫体の者2名倒れ居たり。

谷中門にては激戦ありしと聞きしも、別に変わりたる事も目に触れざりし。これより天王寺に至りしに、天王寺とは先の地図の日暮里駅の下に有る寺です。本堂は未だ盛んに燃え居たるが、敵も味方も影を止めず。最早見るべき物もなければ、根岸の方を廻り見んと諏訪の台より坂を下りしに(今の前田家墓地下)石神井川の用水―これが当店前に流れていた音無川のことです。―の石橋の下に、肩に赤地錦の徽章を付けたる士分の死体2人重なり打ち捨てありし。(官軍の士は皆左肩に赤地錦の小切れを徽章に付け居りしなり。)これより日暮里下通りを根岸に出でしも―ここが当店前のことです。

各戸に人影少なく、多く立ち退きしものの如く。自分ら3名共空腹となりしも菓子一つ商う家なく、―うちの先祖は逃げておりました。殆ど困却し、屏風坂通清島町を経て浅草に出でんとせるに、毎日の五月雨にて、この辺一面に浸水し、私はこの頃、未だ人の用いざるゴムの長靴を履き居たりしに―この辺はちょっと信憑性に欠けるところもあるんですが。その上より靴の中に水入り、歩行に苦しみ、腹は減る、足は重く、ヘトヘトになりて漸く雷門に出でしも、菜飯茶屋その他商売せる家は一軒もなく、雷門に行きたればと我慢して来たりしに、この有り様にがっかりし、息もすうすう、蔵前の天王社前に来たりしに、団子屋が荷を下ろせし周囲に数十名取り巻き居るを見、餡を付けるも焼くも間に合わぬゆえ白団子のまま56串を食し、漸く腹の虫をなだめ、浅草見附を入りて、帰宅せしが、野次馬なる者も、中々骨の折れるものと思えり。』うちの先祖はだらしなく逃げておりましたが、蔵前の団子屋はさすがでした。江戸時代商標集に蔵前の桃太郎団子というものが散見できますので、もしかしたらそれかもしれません。

8.子規と漱石

さて、時代は明治に入ります。明治10年には上野不忍池畔で、第一回内国勧業博覧会が開かれております。その頃は大部当店も繁盛するようになったとみえ、出品いたしました羽二重団子日々8斗の粉を売ると、当時の郵便報知という新聞に記事があります。資料2をご覧頂きますと、この維新の頃より明治の初めにかけての名物趣味風流を集めた番付となっております。松本愚想という人物の作で、木版刷りです。もちろん個人の趣味で集めた情報ですから、全てを網羅しているはずもありません。当店は矢印の上段。現存している店は非常に少ないようです。

のれん会のメンバーも45軒はでておりますが、面白いのは下段の物まね猫八などがでております。3段め右から6個目の桝には国分勘兵衛 醤油と出ておりますのは、今の国分グループのことです。同じ3段め国分から中心を通って左へいきますと、市川団十郎、左端は怪談・人情話の三遊亭円朝であります。下から3段め左から6番めの踊り、花柳寿輔、藤間勘右衛門も今日まで連綿と続く流派であります。 このようなマイナーな情報から多少当店のことが、人口に膾炙し、知られるようになったのは、やはり文学者の方々の支持を受け、度々作品に登場させてくださったということもあると思っております。有り難いことです。参考資料3は文学作品に登場したものを集めてみました。

 正岡子規は、前に申しました通り、明治25年に上根岸85番地にやって参りました。新聞「日本」社主 陸羯南(くがかつなん)からの支援を受け、その隣接地に母と妹と住んだのであります。弟子の高浜虚子河東碧梧桐も根岸の住人であります。子規は団子を大変好み、妹の律さんをよく買いにやらせていたようです。「仰臥漫録」という亡くなる一年ほど前からの病床日記ともいうべき日常を克明に綴ったものがあります。先日、根岸の子規庵の蔵から50年ぶりに原本が見つかったのですが、寝たきりにも拘らず、大変旺盛な食欲が感じられる記述です。食べる事が生きている証だったのでしょうか?後で苦しむこともあったようです。明治35年9月になくなるんですが、前年34年の9月4日にはこう書いてあります。

資料3及び4を御参照ください。「芋坂団子を買い来たらしむ。(これに就き悶着あり)」おそらく、妹の律さんと団子をめぐっていさかいがあったものと、推察されます。9月20日の記述にも律さんのことを、理詰めの女だ、木石の如き女だと罵るところがあります。例えば団子が食べたいなと病人が言ったら、買ってこいと言われなくとも、同情のある者なら買ってくるもんだ。とわがままなことを書いております。
当店に因んだ句はいくつかありますが、「芋坂も団子も月のゆかりかな」これは、十五夜の月を芋名月と申しまして、十三夜の月を栗名月と申しますので、当店脇道、芋坂とかけてどちらも月のゆかりと詠んだものでありましょう。この句は、句碑にしまして当店横、芋坂側に建てております。子規は元気な頃、当初は小説家を目指しており、処女小説「月の都」を持って当時既に大家であった谷中の幸田露伴を何度も訪ねております。

谷中というのは地図でいうと日暮里駅の下、横山大観などの墓は谷中霊園の中になりますが、この一帯を谷中と申します。もちろん露伴に小説が認めて貰えなかったからこそ、今日の子規の業績があるのかもしれませんが。そんな時に詠んだ句かもしれません。「芋坂の団子屋寝たりけふの月」これは子規にとっては宵の口時分にうちの前を通りかかったのでしょう。私ども団子屋は朝が早いのです。今でもボイラーに火を入れるのは午前4時です。もう寝てしまったと、詠んだ句であります。

子規と旧制一高以来の親友である夏目漱石は、子規の根岸の住まいを決めるにあたって、二人で根岸を見て歩いたという記述もどこかにありました。ご存知の通り、漱石の英国留学中に子規は亡くなってしまいます。死後、虚子によって創刊された「ホトトギス」に漱石は「吾輩は猫である」を連載いたします。当店の出てくるくだりは、資料3にある通り「上野にしますか、それとも芋坂へ行って団子を食いましょうか」という主人と多々良君との会話であります。

 漱石は根岸の能楽宝生流の家元に能を習いに通っておりましたことは、「硝子戸の中」に記述が見られますが、たまたま、当店の前にあります寺、善性寺といいますが、そこの先代住職夫人は宝生家の娘が嫁入りしたもので、もう何年か前に90余歳でなくなりましたが、よく「私は漱石のひざの上に抱っこされて、おしっこを漏らした事もある」と自慢話をしておりました。現在もちろん善性寺は宝生家の菩提寺でありますし、私どもの菩提寺でもあります。石橋湛山、名横綱 双葉山等の墓がある日蓮宗の名刹であります。先代、先々代と続けて日蓮宗総本山 身延山 久遠寺の法主を勤めたことでも知られております。

 また、6代将軍 家宣の生母「長生院」の墓があり、度々御成があったということで、門前の音無川にかかる橋を将軍橋と申します。後に長生院の墓は寛永寺 徳川歴代夫人墓地の近くに改葬されております。田山花袋は昭和5年に亡くなりましたが、昭和4年に中気で倒れたとの報に接し、先代がお見舞いに伺ったところ、大変喜ばれて、片手がきかなかったのですが、羽二重団子という書と大魚けき躍という2枚の書を頂いてまいりまして、店名の方は現在店頭の扁額として掲げております。花袋の父親は、上州 館林藩の藩士でありましたが、維新後、警察官となり、西南戦争に参加するため、上京、根岸近辺に一時住んでおります。幼かった花袋さんと当店のご縁が始まった訳です。

泉鏡花の短編「松の葉」は全編を通して、当店が舞台となっております、団子が出来るのを待つ間の、様々な客を描写した小説であります。鏡花さんは餡の方がお好きだっと推察されますのは、文中、「何を隠そう、私は団子はあんこの方を得意とする」と主人公に語らせております。初出の本は国会図書館でやっとみつけました。司馬遼太郎の「坂の上の雲」は、主人公 秋山真之と正岡子規との交流を描いた場面がありましたので、自然、当店も登場することになったようです。

 このように審美眼を備えた方々の目にかなったということは、誠に光栄なことでありますが、また、おそらく、失われつつある日本の文化を惜しまれて、応援して下さる気持ちもどこかにあったのではないかと推察しております。田山花袋が大正5年に書いた随筆「東京の近郊」にも資料にあります通り、「もうあるかないかわからない。新しい流行の力に蹴落とされて、もうとうになくなってしまっているかと思って行ってみると、不思議にもそれが依然として残っていた。」と書かれております。もはや街道筋の茶店などというものが無くなり、団子という食べ物が失われる運命にあると、思っていらしたようで、大正5年でさえこうですから、今日まで続いていることが奇跡的なのかもしれません。

 また、当店は明治20年代から昭和4年まで酒屋も兼業しておりまして、新川の鹿島本店という酒問屋から桜正宗を仕入れて販売していたことが、改築した時に分かりました。と申しますのは、桜正宗の木製の大看板を裏返しにして棚板に使っていたのが、壊してみたら分かったのであります。当店の焼団子は生醤油の浸け焼きで、甘くないものですから、それで一杯という方も多かったと伝えられております。田山花袋さんも、中気で倒れた位ですので、相当御好きだったようで、先程の「東京の近郊」という随筆のなかでも、当店に入って酒を注文したと書かれております。

 守田座を主宰していた、12代守田勘弥さんー此の方は今の水谷八重子さんの御先祖にあたりますがー芝居に行く前に当店の前で人力車を止めて、「おい、一杯くんな」といって入ってこられて、一杯ひっかけてから舞台に上がることも、屡だったようです。森鴎外は馬で観潮楼のあった千駄木から食べに来たとも伝えられております。根岸の住人、岡倉天心も焼き団子と一杯の口で、ある時馬だけが家に帰って来て、肝腎の天心がいないということで、家族が大騒ぎをして探し回ったら、芋坂の団子屋で出来上がって陶然としていた。馬は団子屋の格子に繋いだものがはずれたのであろうと、息子の岡倉一雄さんが「父 岡倉天心」というエッセイに書いておられます。

9.団子の話

 さて、今度は団子の話を少し致します。
太古の時代から、人間と穀物とは切っても切れない関係にあります。世界中の殆どの国が穀物を加工して主食としております。日本では5穀と呼ばれた米、麦、粟、豆、稗または黍を加工してきたわけですが、米は弥生時代からといわれております。加工の仕方により、粒食か粉食かに分かれますが、粒食は穀物を粒のまま調理する方法で、日本ではご飯、餅があります。粉食は穀物を粉状にしてから調理するもので、パン、麺類がこれにあたります。日本のご飯のように粒食の国は、中国中部と南部、朝鮮半島南部、インドシナ半島など東アジアに集中しています。一方粉食の国は、インド、中近東、ヨーロッパ、チベット、中国東部、北部、ユーラシア大陸東部とかなり広範囲に広がっています。

 団子は粉食の一種でありまして、米の粉を練って蒸して搗いて作ります。混同しがちな餅と団子の違いはもち米と粳米―ごはんにする普通のお米―との材料の違いのみならず、もちはもち米を粒のまま炊いて搗く、団子はは粉にしてという調理方法の違いでもあります。昔は一日2食が通常の食生活でありましたので、朝夕の食事の間には今より重労働の時代に当然のことながら、昼にはお腹がすいてくるわけです。そこで人々は農作業の合間にはおかゆ、雑炊などを食べていたといわれています。また、集まってお茶を飲むときなどは、果物、干し果物、木の実などを食しておりまして、今で言うお茶菓子というものが出来てきたのは、遣唐使によって伝えられた8種類の唐菓子(からくだもの)が最初であると言われております。団子もこの時に唐菓子として入ってきたものの一つでありまして、8種類の中の団喜というもの―団子の団に喜ぶの喜―が団子の原形であります。

一般的な団喜は丁子、などの薬草やこしょう、しょうが、砂糖などの12種類のものに餡、米粉を混ぜて丸め、油で揚げたものだったと言います。ただこの12という数字も仏教の12因縁から来ており、歓喜団、歓喜御団という別名もあったようで、歓喜天という神仏への供えものであったのが、そもそものルーツであります。その名残として、今日でも死者の枕元に供える枕団子、十五夜の月見団子などに残されております。その後、神仏の供えもの、立派な中国の菓子から庶民の口に入る物へと変化してきたわけであります。普及化されたのは、江戸時代にはいってからで、元禄年間には随所に名物団子が現れ、いわゆる「花より団子」と伝えられるように、相当の流行を示したようです。串にも刺されるようになり、食べやすくなります。

 何故花より団子なのか、花より酒、でも花より飯でも良かったはずでありますが、団子というものが一切の甘味或いは食べ物の美味いものの代表として選出された訳で、そこから類推しても、先程の唐菓子というルーツから考えても、日本の菓子の原形は団子であると言いたいのであります。団子の呼び名も地方によって様々で、ある江戸時代の書物には、伊勢では「おまる」あるいは「おまり」といい、女詞に「いしいし」といい、尾州こちら尾張にてはひらめにまるきを「いしいし」というと書かれております。

また、十返舎一九の「東海道中膝栗毛」にも「江戸でだんごをいしいしという」というくだりがあります。このいしいしとは、やはり根岸の住人でもあった大槻文彦博士の大言海を紐解いてみますと、「団子をいしいしと言うは旨し旨しの重ね語である、女詞に美味をおいしいという是なり、女詞に団子を言う」と書かれております。ここからも団子は旨いもの、美味しいものの代表格であるとも言える訳であります。また、美味と書いて、おいしいと読ませるのも実は団子から来ていることが判り、大発見でございました。

 団子の串刺しには五つ刺しから二つ刺しまで、いろいろと種類がありますが、一番多いのは四つ刺しであります。何故4というあまり好まれない数字になったのかは、江戸時代の貨幣に関係があります。当初江戸時代の団子は五つ刺しが普通でありました。値段は5文が相場でありまして、5文銭一枚を必要としました。ところが明和5年1768年にこの代わりに波銭という貨幣が、時の勘定奉行 川井越前守によって4文に相当するとして、発行されました。当初お客も店も混乱し、やがて波銭1個4文で丁度買える、4つ刺しの団子を売るようになったと言われております。

 数年前だんご3兄弟という歌がはやりまして、当社も前年同月比2、30%UPで大部恩恵を被ったのですが、ブームは23カ月で去りました。私どもは四つ刺しですが、この三つ刺しは京都の花見団子など、白餡、黒餡、抹茶餡のものが多いのであります。私ども手刺しなもんですから、いつでも三つ刺しにできますので、ブームにのって、三つ刺しできますと店頭に表示しまして、お子さん連れのお母様方に多少出ましたが、これはうちの場合はあまり売れませんでした。なんでお宅のような老舗が三つ刺しを売るんだと言われましたが、私はかつて無い団子ブームを心から喜んでおりまして、団子というものは上生菓子と違って、気取った食べ物ではございませんので、柔軟にものを考えたのであります。 むしろ、団子というものが、世間で話題に上ったということを、画期的な出来事として、祝いたい気持ちだったのであります。

 羽二重団子の特徴は、パンフレットをご覧ください。先程話の出た生醤油の浸け焼き漉し餡の2種類のみであります。よく、コンビニなどで売っているあんかけ風のどろっとしたみたらしの焼き団子は見かけますが、この生醤油の浸け焼きは非常に少ないのであります。  みたらしの語源は京都、下鴨神社の御手洗の池にあるそうでして、五つ刺しの加茂のみたらし団子さんは餡団子が無いからいいんですが、2種類あるうちのような団子でみたらしですと、たれも甘い、団子の生地も甘いということで、餡団子も焼き団子も両方甘味になってしまいます。私どもの団子は生地に砂糖は入っておりませんし、浸けるものが生醤油で甘くありませんので、餡団子と焼き団子の味の対比がはっきりと味わえるのが特徴であります。ですから、よくこの2種の団子を一粒づつ交互に召し上がる方もいらっしゃいます。

 そして、形は偏平で平たくなっております。何故このような形になったかと申しますと、当店の初代が考えたことですが、前に申したように神仏の供え物といういイメージを払拭して、庶民の口に入るものだとして違いを際立たせたかった、というのが一つ。もうひとつの理由は、この方が焼き団子の芯まで火が通るからであります。日本で真ん丸でない団子を売っているのは非常に少ないと思われます。原料は庄内産のささにしきを使用し、自家製粉いたします。普通菓子屋は材料屋で上用粉、上新粉など粉を仕入れますが、当社の場合、米屋が仕入れ先であります。製粉の微粒の度合いが、丁度団子に適したところがありまして、自分のところで製粉致しております。

それをお湯で練って、蒸気で蒸し、臼と杵でよく搗きます。今は機械化されまして、昔は石臼で碾いていたものは製粉機になり、臼と杵は自動餅つき機に代わっております。よく昔から言われたことは「よそが300搗くなら、うちは600搗け」という言葉であります。手間をかければ良い団子ができるという口伝であります。良いだんごと申しますのは、光沢があり、しこしこして、粘りがあり、かつ歯ぬかりしないというものであります。よく搗くことによって粳米でできている団子が餅のようにひっぱればぐーっと伸びるようになります。同じ団子でも、全然搗いていない団子も世の中にはございます。砂糖と粉を混ぜて、練って蒸して、丸めただけという団子もあります。これでは団子生地の持つ、歯ごたえを味わうことは出来ません。

甘い京菓子、三色の花見団子などはその例ですが、抹茶―茶道とともに発展してきた京菓子は美しさと甘さに重点があり、餡の砂糖の割合も当店のものとは異なり5割対6割6分位の開きがありますし、団子生地を味わうという考えはあまりないように思えます。 餡の甘さは今でこそ控えめブームですが、昔から当店の餡は控えめで、それは餡とは小豆の風味を味わうもので、甘さを味わうものとは一線を画すという考えがあったようです。ですから、戦後の一時期、甘味が不足していた時代には「お宅の団子甘くない」というような今では考えられないクレームもあったと聞いています。

 江戸の菓子屋は茶道に使うような上生菓子を扱う京都風の店と、私どものような庶民派の菓子一品商いを堅持している店とに二分されるようです。一品商いから総合的な和菓子屋へと発展したお店もありますが、私どもの今迄の主人達の考えは、江戸っ子の美学と申しますか、浮気はしないという、団子屋がビスケットやキャラメルも売り始めたぞという後ろ指だけは刺されたくないといういわば、痩せ我慢であります。実に団子一品商いとは難しい商売でありまして、日持ちも効かないし、売り難い商品であるのです。それは、江戸市中、数百軒あった団子屋で今日まで続いているのは、3軒位であることがその証拠でありますが、何故かこだわり続けてまいりました。

 話を団子の製造工程に戻します。餡団子と焼き団子では団子生地を作る時の水加減が異なります。餡団子ははそのまま餡をまぶして食べるので、柔らかめ、焼き団子は火を入れるため、だれないようにしっかりした生地に仕上げます。つきあがった生地は焼き団子の場合、まず一粒づつの大きさにカットして平たくして串に刺します。カットは今は生地カッターという機械が入っておりますが、昔は手で一つ一つちぎっておりました。餡団子の場合は今は包餡機がありまして、団子生地を餡で包み、一粒づつ出てまいりますが、昔は木鉢に餡と生地を入れ一粒づつ手でまぶしておりました。

串に刺すというところだけが、未だ手作業であります。真ん丸の団子で、串も機械削りのものならば、簡単に機械化できるのですが、偏平の団子を竹串に刺すという形を変えないつもりでございますので、機械メーカーも今のところ「困った、困った」と音を上げております。最も多い時で一日に一万本位の団子を手刺しで造りますので、終わった時は、従業員もへとへとになりますが、そんな日は毎日あれば結構なんですが、お彼岸のお中日だけであります。これもまた、神仏の供え物からの風習が残っているのであります。

10.老舗を守る

 さて、このような環境に生まれたので、私は小さい頃から、跡継ぎと廻りからも言われ、自然と継ぐものだと感じておりました。よく反発して、飛び出す跡継ぎもおりますが、私の場合は素直な性格だったのでしょう、全く考えたこともありませんでした。
まして、自分の代で潰したとか途絶えたということになっては、まずいという意識の方が強かったように思います。また、教科書に出てくるような作家が家業に係わりがあるということも、子供心に、気持ちの良いものだったのかもしれません。

 今、私には3人の子供がおりまして、娘二人は大学で医学と芸術を学んでおりますが、一番下の息子は高校生で、ニューヨークにおります。多分息子が継いでくれるものと思っておりますが、家業に入る前は、なるべく色んなことを経験してきてほしいと考えて、全く家業に関係もなさそうな、外国にやっております。しかし、人生はどんなところで、何が役立つかわかりません。もしかしたら、日本の伝統食文化をアメリカ人に受入れさせることに成功しているかもしれません。などという夢も人生には時に必要であります。

 この様な家業の家に生まれた者の仕事は、リレーランナーのようなものだと、私は常々考えております。どうしたら次のランナーがバトンがとりやすいのかを考えて渡すということです。まったく夢も発展もないものを、はい伝統だから継ぎなさいと差し出すだけではいけないのではないか。いかに後継者にとって仕事に魅力を感じられるようにしていくか、これは非常に難しい仕事ですけれども、私は大事なことと考えております。それは、伝統を守るということは、どういうことなのかという命題に関わりがあります。

 のれん会の先代達の中にこんな言葉を言った方がおりました。
「伝統とは、革新の連続である」つまり、全く何も変えずに続けていくことは出来ない。変えるべきものと、変えてはいけないものとを見極め、変えるべきものは大胆に変えていくことこそ、伝統を守ることになるのだという考えであります。当店の先代たちも、それぞれ時代に応じて、何らかの変化をさせてきていることは間違いありません。次の時代の人に受け入れられる柔軟さを持っていなければならない、変化をおそれてはならないと思うのでございます。

 ただし、実に当店の商品の特性からかもしれませんが、当店の家訓にはこんな言葉もごじまして、「治にいて乱を忘れず」、治は治めるという字です。手を広げすぎることを戒めております。良い時もあれば、悪い時もある。それを特に良い時こそ考えておかねばならぬという戒めであります。もちろんバブルのような世間が好調な時、そういう時は人様の良い暮らしを指をくわえて見ていろというのが、当店の家訓でもございます。地味で消極的な家訓であります。その他、家訓として伝えられておりますのは、「借金をするな」「支店を出すな」「一品商い」「早寝早起き」などというものがあるんですが、実はこれは殆ど破っております。借金をしなければ、ビルの改築は出来ませんし、デパートにも出し、支店も一つ作りました。新商品も考えました。

 私は、これらの家訓は先程の治にいて乱を忘れずと同様に精神のこと言ったものだと解釈しておりまして、商品の品質や接客態度に主人の目が届かなくなることを注意せよ、あるいは、無謀な、手の広げ方に注意し着実にやれ、品のない商品は売るな、という風に読み替えております。この、着実ということに関しまして、私の尊敬する、ある経営者の方がこんなことを言われました。「自分が出来ると思うことでも、全ての草を刈ってはいけない。残しておきなさい」 私はこれがリレーランナーの考えに通じるものであると思っておりまして、後継者に種を残していく姿勢が、後継者のやる気を生み、なおかつそれが結果的に着実に、一歩一歩発展していくことになるのではないかと思っております。

 このリレーは「澤野庄五郎」という名前を襲名することによって、代々引き継がれております。歌舞伎俳優や落語家のものとは異なりまして、戸籍から変えるものですから、家庭裁判所で認められなけなければなりません。名の変更は特別な理由がなければできませんので、私どもでは、過去の先代達の実例や、歴史的資料、襲名出来なかった場合の問題点・損失などについて、裁判官に説明することになります。4代目、5代目はそれぞれ、明治32年と昭和7年に東京府知事の許可証があります。6代目の父は、昭和45年に家庭裁判所の判決を頂いております。

もし、自分の代で襲名しなければ、筋違いと思われる可能性があり、それは商業的損失でもございます。ただこれは、先代が亡くなってからでなくては出来ません。同姓同名同一住所の人間はまずい訳でございます。面白い事に、相続による移転登記も、もし売買をしなければ、ずっとしなくても、分からないのですが、登記人の生年月日を良く見るととんでもない年齢になっていることになります。私どもでは一応ちゃんとやっております。

 のれん会で平成12年に、50周年記念誌を出版いたしました際に、その中に各店の家訓を集めてみた企画がございました。それを見まして、統計的に考察してみますと、同じような家訓で一番多いのは、「品質を落とさない」「最高の原材料を用いる」「一時の利に惑わされない」「初代からの味を変えない」というもので、15店ありました。2番目は「手を広げない」「支店開設の禁止」が5店と「誠実を第一に心がける」5店、3番目は「本業以外の禁止」が4店、4番目は「良品廉価」、良い品を安くが3店と「堅実主義」が3店、5番目には次のような徳目を掲げている店が2店で、それは大体「清潔、正直、謙虚、辛抱奉仕、感謝」であります。その他特殊な家訓としては、「判事に関わってはならぬ」判こを押すな、とか「武術の習い事の禁止」とか、「出入り業者を大切にせよ」、とか「遵法」、今で言うコンプライアンスですねーなどがございました。

私なりの総括をいたしますと、世の中すなわち経済も、そして自分の店の売り上げも、常に右肩上がりなどということは無いと初めから各店とも前提においているような気が致します。難しい経済の理屈は分かりませんが、それが代々の主人達の皮膚感覚だったのではないでしょうか。私も大学を卒業してすぐは、大企業のサラリーマンをしておりましたが、常に右肩上がりを前提として皆が互いに無理をして、むちをうって、ほとほと疲れ果てていたような気が致します。100年も同じものを売っていれば、工夫や努力をしたって、飽きられることもあるさ、地道に、飽きずに、着実にやっていくことだという考え、大企業にとってみればとんでもない不良社員でしょうが、そう考えると心に余裕ができて、良い仕事もできるのではないかと、私はそう思っております。

また、信用というのは誠に一朝一夕には築けないもので、そして失う時は早いということも、これも皮膚感覚でありましょう。戒めの多くがそのことを語っております。最近の不正表示問題でもそれは明らかであります。従って、その信用を築いてきた先祖を敬う、感謝するという気持ちも自然に沸き上がってまいります。

 のれん会には若手の会がございまして、そのメンバーを中心に広報IT委員会と言うもので活動をしております。そのレジメに書いたアドレスがHPでございます。先程の資料1の年表もここからとっております。是非一度ご覧頂きたいと思います。各店のHPにも飛べるようになっております。ITを中心とした社会で、のれん会のメンバー達がどのようにあるべきか、模索しながら、活発な議論を重ねております。変革の時代にあって、我々もどう変わるべきか、変えてはならぬものは何かということがメインテーマであろうと思います。

 私の場合は、変えてはならぬものは、商売に向き合う基本精神であると思っております。先程の家訓のところで出てきたようなことです。それ以外は、前より良くなると信じれば、それはその時代の主人が思い切って変えることだと、製品の品質であろうと顧客サービスであろうと、何が消費者に受け入れられて今日まで続いてきたのかを見失う事がなければ、大丈夫だと思っております。そして、のれん会のこれだけのメンバーが集積しているメリットはどこにあり、どう活かすかという問題にチャレンジしております。みな自我の強い人達の集まりで、苦労は多いですけどね。

 かつて松下幸之助さんはこんなことを言っておられます。「人前で話す事などは、練習次第でいくらでも上手になる。しかし、人の話に耳を傾けるということは、心がけの問題だから、誰にでも出来ることではない」どんな人の話にも、学ぶべき点が必ずある。というんですんね。今日こうして、私の拙い話を我慢して最後まで聞いて下さった皆様は、松下さんの眼鏡にかなう方々ばかりであります。この学ぶということの大切さについて、私は娘の通っていた高校のPTA会長を引き受けていたことがありまして、卒業式に娘に話すつもりで、しゃべったことを少しお話します。

 幸福になるには、知恵が必要である。ということであります。本能のまま、本音のままの人間は、妬み、僻み、嫉みのかたまりであります。その感情をコントロールし、努力や向上心を通して、様々な違いをもって生まれてきた人間同士の中で、自分は幸福であるということを感じ取るためには、知恵が必要で、だから人は学ばなくてはならないのであります。幸福感というものが、心の満足にあり、例えば、一生をかける仕事がある。深く愛する人がいる。お互いを思いやる暖かい家庭がある。人の為に奉仕して決して恩に着せない。などのあたりに、幸福感というものがあることを、理解する。そして、物質的な満足は次から次へとエスカレートするだけで際限がないということを納得するには、知恵が必要なのであります。

学ぶということは、何も学校の成績を良くすることではありません。学校の成績などといものは、卒業とか進級とか、ある資格を得るために仕方なくするものであって、まあ、我々凡人にとっては、この資格は必要なので、頑張る訳であります。学ぶということは、学校における、考え方、本質の捉えかたの訓練・練習と、読書による教養・知識と、人好きになって、優れた人から沢山のことを吸収するという姿勢であります。親から勉強しなさい読書しなさいなどと言われる事はもうなくなったと思いますが、そう言われても本気になったことなど一度もないのが普通であります。本気になって学びたいと思うには、優れた人と沢山出会うことです。

自分が如何に何も知らないか、如何に何も世の中のことが分かっていないか、ガツンと頭を叩かれるように気付かされることです。そして、このままの自分ではだめだとという危機感を持つことです。私などは、未だに危機感持ちっぱなしですけれども、そうでなければ、本気で学ぼうなどとそう簡単には思わないものです。人間の本音の部分は、大体勉強は苦痛であり、怠惰で、弱いもんです。分かっていても、すぐに挫折、出来ないと投げる、など日常茶飯事であります。

自分を向上させなければならないという意志の力で、その弱さを少しづつ克服していく努力が大切なのではないでしょうか。大体、学校の先生方というのは、勉強が好きで、苦痛じゃなかった特殊な人が多いので、私たち凡人の参考にはならないし、基本的に凡人の身になって教育するということが苦手なんじゃないかと、私は思っているんです。 また、世の中の実状ですけれども、知恵の無い者は皆苦労しています。知恵があっても人間性のない者は、やくざの幹部か、どうしようもない役人になってます。やはり、知恵と同時に人間性も磨かなくてはならない。聖書の言葉にも、知恵を得ることは金にまさり、分別を得ることは銀よりも望ましいと書かれております。

自分は何を学びたいのか、自分は何に興味があるのか、自分を客観視して考えることも重要だと教わったのは、つい先日、渋井先生からです。その渋井先生と私の共通の恩師である、北原勇先生という方が慶應大学にいらっしゃいます。この先生は結婚式にお招きすると、披露宴の最中に卒論を返却するという悪癖を持っておりまして、私などは「こんな薄っぺらいですよ」とか言いながら返却されまして、それ以来かみさんにばかにされ続けておりまして、どうしてくれるんだという感じなのです。

 実はその卒論―老舗の経営について書いたんですが、のあとがきに、「自分は、古典的な、昔の事柄に興味がありそうだから、これからも学ぶつもりである」ということをリップサービスで書いたんです。そうしましたら、大層喜ばれまして、「君のあとがきだけはすばらしい。内容はともかくとして」という誉められたんだかどうなのかよく分からないお言葉を頂戴しました。神田雑学大学の皆さんも、自分の興味方向を一生学ぶという姿勢を持ち続けられますよう、お奨めして、終わりたいと思います。有り難うございました。

おわり

編集:三上 卓治
会場写真撮影:橋本 曜 HTML制作:大野令治