神田雑学大学講座NO209(2004年4月2日)

木の文化、石の文化

(中部トルコ彷徨)

講師 田中 瑛也



目 次

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はじめに

1.木造

2.粘土創り

3.石造りA

4.石造りB

結 語




はじめに

 黒海沿岸に程近いオスマントルコ期に建設された都市、サフランボルはモスク、ハマム等の公共施設を除いて、民が居住する住まいは全て木造である。
 格段と時代は遡るが、中央内陸部でヨーロッパより移住したといわれる古代ヒットタイト帝国が建設した都市、アラジャホユック、ヤズルカヤ、ハットゥシャシ等は巨石より築かれた石の文化を史上に遺す。
 木の文化、石の文化と材質を異にする文化を、期は異なるが同じ国土を有するトルコ共和国の多面的な顔の一面ならぬ、二面を浮き彫りにする。

1.木造

 東洋的な空間、朽ち果てた民家に土と木が渾然と一体となった薫りが漂う。乾燥地であると思われがちなトルコ共和国も、黒海沿岸地方は降雨畳も多く、米も栽培されている。

 時代はヒッタイト帝国時代から大きく下がるが、黒海沿岸に近くオスマン帝国期に建設された町に、サフランボルという町がある。サフランは地中海料理に欠かせない必需品、ポルは丘、その花咲く丘に囲まれたサフランボルは木の香りのする町である。
 プドールルックと呼ばれる丘から町を一望すると、2階、3階建ての木造の赤い瓦の住居が町の主部を構成し、石の建築物としてハマム(共同浴場)、モスクが点在するのが目に入る。

    
      (写真1。木造サフランボル 都市の全景)

 住宅の構成は、1階は石を積み上げた壁、農具、食料の倉庫、家畜小屋として利用されている。居住空間は2階、3階で台所、浴室も同じ階に設けられている。
 豪邸には応接間に人工池が設置されていて、どんな防水工事を施したのか興味が湧く。水を扱う部屋は、同時に火を取り扱う。
  (写真2。木造住居外観)

 その場所を上階に設けたほうが、万一火災が発生した場合、地上への避難の妨げにならないとの利点を、居住人は胸を張って説明する。
際だって目に付く路上への出窓、出窓部分の面積が固定資産税の対象にならなかったと聞く。
  (写真3。木造住居内)

2.粘土創り

 ヤズドの町からさらに南東へパキスタン国境方向に、車は国道を走る。ルート砂漠の真ん中に幻の町、死の町、アルゲ・バムがある。
 この町はササン朝(二二四〜六三七)に建設され、その後パルティア朝、サファビー朝と東西交易の拠点として栄えたが、一七二二年、一八二〇年と相次いでアフガニスタン部族の侵攻で、町は壊滅して、住民は町を放棄した。すべての建築資材に粘土を使用して築かれたのがこの町の特色である。

    
        (写真4。バム、粘土の町中)

 南北四〇〇m、東西三〇〇mの市壁で組まれた町の中央に建つ監視塔に昇り、町を一望する。

 一陣の風で汗も乾き、眼下に見下ろす町の全貌は、真夏の陽光を受け、遺された建物、破壊された建物も渾然と歴史を語りかけている。
 精巧な粘土細工の大きな模型に見える空間にしばし時を忘れ、悦楽の境地にいた。

 (写真5。ヤズルカヤ 神と一体化する王)

 南イタリアにマテーラと呼ばれる、十八世紀に住民が飢饉のために放棄した都市がある。この町は石を資材として築かれた都市であるが、今この都市の形態を思い起こすと、古代から中世の失われた都市の変遷が、絵巻物をひもとくように脳裏をかけめぐる。粘土から石の建築への移行は西、木と石の建築は東として対比されがちだが、その間の中東地帯に埋もれた建築、粘土の建築群は人類の歩みの一端を物語る。
 ペルシャからイランヘ、粘土と石の建築を追う旅はさらに続く。

3.石造りA

 小アジア、トルコ共和国は、異民族が幾重にも異なった歴史を積み重ねて築いた国土である。紀元前後、ギリシャ本土から当地に入植した主としてイオニア系移民は、エーゲ海沿岸、地中海沿岸に都市を建設した。建設した建物の平面形式は長方形で、都市の中心となる神殿、アゴラ等、公共建築にはバジリカ様式で構築された建物が随所に見られる。歴史はさらに遡るが、新石器時代(B・C6800〜4000)から初期青銅時代(B・C4000〜3000)には、内陸部であるアナトリア高原に人々は既に居住集団を形成し、都市生活を営んだ。

    
      (写真6。アジャラホュック スフィンクス門)

 アッシリア植民地時代(B・C1950〜1750)に入ると、東方からアッシリア商人がこの地に物産を売り込みに押し寄せると、交易の時代、いわゆる平和的な手段による文化の交流が行われた。当期の終わりに近く興国したヒッタイト帝国は、当地の原住民であった原ヒッタイト人とヨーロッパ方面から移住したヒッタイト人とにより建国した。ヒッタイト帝国は陸の民であり、後年海の民の侵入によって滅ぼされた史実は歴史の必然性をここに物語る。

    
        (写真7。ボアズカレ 戦士の門)

 国の存在を史上不滅にしたのは、の産出に腐心した民族である。鉄の生産には、エネルギーを必要とする。そのエネルギーを古代人は木材資源に求めた。アナトリア高原一帯の山肌に樹木が一本も見られないのは、その資源にあてられて植林をしなかった事実であり、今日の環境破壊の根は、実に紀元前1800年にある。鉄の発明は、この帝国の戦力を増強せしめた。いわゆる一日30km程度しか走行しないが、戦車を開発した。戦車は戦力としては役立たず、次第に馬に代わつた。鉄に木材を多く消費した痕跡は、遺蹟を堀げた断層に黒ずんだ地層が見出せることから考古学者はここに製鉄所の跡であると立証する。
 その一つがアラジャホュックである。

    
         (写真8。バム城址 粘土)

 ヒッタイト帝国の先駆け都市として築かれた都市であるが、石に依って構成された空間、王墓、宮殿跡、食料庫跡等、鉄が開発されるまで、石は硬度の高い黒曜石によって切断され、刻まれていた。
 ヒッタイトの秘密工場としてのアラジャホュック、これに対して聖域である神殿があるのがヤズルカヤである。天然の岩に彫られた浮き彫りは美しい。神殿は岩と岩に木を架けて造られ、岩の壁だけが遺されている。
 その浮き彫りは、西イラン、ターゲ・ポスターンに遺されたササン朝ペルシャの浮き彫りに比べると、1000年の歳月を経ているだけに、この浮き彫りに素朴さが見られ、同時に西から東への文化の流れが汲み取れる。とりわけシヤルルムマ紳に抱かれたトゥドハリア四世、神と王との一体化、王権神授への一場面を想定させる重要な浮き彫りである。

    
         (写真9。石造 キベレ神像)

 アラジャホユック(鉄)―日常世界、ヤズルカヤ(袖)―非日常世界を象徴する二つの町を超えて存在したポアズカレは、自然の山塊を利して築かれた雄渾な都市である。
 峡谷の砦と呼ばれるこの遺蹟は、神殿、大城塞、これらの建物を守る城壁、都市の威厳を誇示するために造られ壮大な門、王の門、獅子門、スフィンクス門と周囲6kmに及ぶ起伏がある敷地に遺されている。

    
        (写真10。ミダス王の墓 石造り)

 エジプト文明の栄光に隠れて陽の目を見なかったヒッタイト文明は、20世紀に入り欧米の考古学者の手に依って3100年の永い眠りから日を覚ました。大神殿を取り囲んで貯蔵庫の遺蹟、大きな壷が並んでいて、古代人の生活が目前に見えてくる。
 上市から下市と山を下り、現在のポアズカレ村に辿り着く。石を主材として築かれた都市の建築群と異なつて、村の住民群は木を主材とした建築である。古代から受け継がれた住まいの佇まいは、柱、梁は木で、壁は牛糞と粘土とを捏ねた素材で柱間を埋め、屋根は葦で葺き、その上を泥で押さえる。

4.石造りB

 ヒッタイト帝国は、鉄の生産に必要な燃料として木材資源の利権をエジプト(ラムセス二世統治下)と争い、レバノンの地に戦いの痕跡を留めているが、平和的交易の手段で隣国の文化を受け入れた面もあることは否めない。
 この伝統は、ヒッタイト帝国崩壊後、小国に分裂して興ったフリギア王国にも継承された。すなわちアナトリアの大地母神キベレとフリギア王国の王、ミダスとが一体となり神格化し、後年押し寄せたギリシャ文化の波の間に神話として遺されたことである。「王の耳は、ロバの耳」として名高い神話である。 

   アポロンは、竪琴を奏し、パンは葦笛を吹く。王は、ある日この両者に力量を競わせ、優劣の審判を行った。王は、パンの笛がアポロンの竪琴よりも優れているとの判定を下した。この判定に怒ったアポロンは「王の耳は、ロバの耳」と呪いをかけた。
 王の耳は毛の生えたロバの耳になり、王は羞恥心から帽子で耳を隠していたが、調髪の時に床屋に知られた。しかし王は、このことを他言しないことを床屋に約束させた。が、床屋はこのことを人に話したくてたまらず、野に穴を掘り、その穴にむかって「王の耳は、ロバの耳」と叫んだ。春になり、その地に葦が生えた。その葦は「王の耳は、ロバの耳」と叫んだ。

   他愛のない小話であるが、そのミダス王の墳墓のあるゴルデイオンを訪れる。堅固な城塞で囲まれた要塞都市で、構築物のほとんどはメガロン形式(長方形の平面)で建てられていたことが、残された遺跡から判断できる。フリギア王国の栄えた年代は、B・C8世紀後半からB・C7世紀初頭にかけての短期間であつたが、ミダス王の権威がいかに絶大で、人心を掌握していたかは、王の墓、大墳墓の規模の大きさ、壮麗さからうかがえる。
 高さ50m、直径300mの内部に納められた木造墓室の木組みは、わが国正倉院の校倉造りを彷彿させ、墳墓の入り口のイメージから内部が母胎であることを連想させ、大地母神信仰と合わせて考えると、納得できる。墳墓の内部空間は、まさに土と木の調和空間を見せてくれた。

   アナトリア高原に居住した民族は、ヒッタイト帝国、フリギア王国と彼らの居住空間の平面形式は、長方形が主体でギリシャ民族が用いたパジリカ株式にも通じ、エジプトの神殿の平面形式とも絡み、大ペルセポリスの都市建築を生み出した。旧約聖書の創世記に登場するバベルの塔の景観は、ベーター・ブリューゲルの絵画を念頭においてのことであるが、円形の平面を基調とした建物を求めて、アナトリア高原を下りる。トルコも外れシリア国境に近くハランという寒村に円形を基調とした居住群があった。この地は、創世記にあるように、アブラハムが住んでいた場所であった。

 後世、この三角錐の建物に住む集団は、南部イタリア、アルベロベソロにもみられるが、それはともかく古代においては、ユダヤ人がエジプトの荒野を流浪し、ねぐらとしてテントを張り定住するにつれて、石と粘土を用い原型に則って築いた。普遍化すれば遊牧の民は蒙古人のパオのように今なお円形を基調とした住居に住み続ける。

   小さい住まいから大建築まで、古代人の集団の流れの中に円形の空間にこだわり続けた集団がいた。と同時にこれは現代人の感覚のなかにも、天空は円空で、地上は四角いとの意識を持っている。もちろん地球は球体であることは自明の理ではあるが、古代人は四角いと信じていた。

   小アジアの地を中心にこの円形と四角とを宗教を介在として、長年にわたる試行錯誤の上に作りだした建築が、ビザンチン建築の粋、アヤ・ソフィアである。
 中央の広間は、四角い平面のほうが長方形のバジリカ形式よりも、ドームの音響効果と相まって、祭司の姿とも対面でき、声は行き届き、利点は枚挙にいとまがない。
 外観の様式美とともに、その伝統は東方正教会に受け継がれ、やがてイスラム教の興隆とともに、建設されたモスクはことごとくこ摘確の様式を踏壊した。イスタンプールの市.内を縦断するボスポラス海峡を北上すると、向かって左手、旧市街の小高い丘にそびえるスレイマン大聖堂は、ビザンチン建築の様式を継承したイスラム建築の規範といえる。

    
       (写真11。スレイマン大聖堂 石造り)

 オスマン帝国の最盛期、スレイマン大帝が1557年に建築家ミマル・スイナンに造らせたモスクである。4本のミナレット、59mX58mの方形の構面に47mの円形屋根をのせた壮観はまさにイスラム教徒ならずとも尊厳さを感じる。
 表現を変えれば、この建築様式の創造がイスラム教の布教に多大の貢献をした事実は否めない。
 木の文化、石の文化の交流を歴史的に求めての小アジアへの紀行は、平面、空間の様式の変遷へと踏み行ったが、必ずしもこの両者、二つの概念は無関係ではないだろう。
 過去への回帰、未来への展望と夢と希望を与える国、小アジア、トルコ共和国は幅が広く、奥の深い国である。

    
      (写真12。スレイマン大聖堂内部 石造り)

結 語

 辺境に建つ憧れのギリシャ神段は、フリギア王国の存在した中心地域から離れて、アフヨンからオスマン帝国の最初の都がおかれた〈1299)ブルサ に向かう途上に、建立の跡を留めていた。アイザノイは、長い歳月を経た民家が並ぶ寒村で、家々の構えは土壁、泥と乾燥した馬糞を混ぜ合わせた材質、主要構造は木造で、軽いスレートで茸かれているが、老朽化して傾いているのが目立つ。
 この集落の建設は、ローマ皇帝ハドリアヌスの在位期(A.Dl17−138)に行われた。この古代都市の遺跡群の規模は、現在この町に生活する区域の面積に比べて格段と大きく、ローマ時代の都市を構成する三点セット、共同浴場・劇場・神殿を備えている。

    
        (写真13。アイザノイ地下室内部)

 劇場は大劇場と小劇場とを有するが、小劇場は現在ドイツの考古学研究チームが発掘調査をしている最中であった。劇場と浴場施設はレバノン沿岸都市ティルス、シドン、リビア沿岸都市、キレナイカ・アポロニアの連鎖と比べて規模、保存度とも遜色はない。アイザノイ中心に聳えるゼウス神殿くとの巡り会いに、えも云えぬ喜びを味わった。神殿は長辺15本、短辺8本の柱で、53mx35mの平面で、柱頭はイオニア様式、中央コアの壁に囲まれた部屋に主神としてクベレ神が祀られていた。

   神殿の前庭には妻飾りの石の断片が置かれている。当時の神段の屋根は木造で支え、茅等の材で茸いていたが、妻飾りは石造りでギリシャ神、ゼウスの胸像が彫られている。古代人は大地の霊を敬い拝んだ。今日でも地鎖祭を行うのは、地の霊(GeniusL∝i)を鎮める慣例が伝わったのであるが、古代小アジアの地でも大母地神としての神、クベレ、アルテミス神の信仰が行われた。しかし、絶え間なく起こる地変、災害に、大地の神への信仰では心の不安を取り去れない人間は、天の神への信仰と変転した。自然災害は、文明の発達と深く関わり合う。

    
         (写真14。アイザノイ神殿全景)

 水田を開発するために川の流れを人工で変え、森林を伐採する等の原因で、洪水を引き起こした。人為の原因を神に依存するのはいかがなものかと思うが、とにかくギリシヤの神ゼウスは天の神である。
 母性神から父性神へと信仰対象は変わったが、土地の神の信仰も人々は捨てきれず、両性具有、そしてオリエントの薫り漂う顔立ちのゼウス像となった。ローマ帝国、ハドリアヌス帝の時代は、フリギア王国滅亡から数百年を経ているにもかかわらず、クベレ神信仰を捨てない土地の人々の篤き信仰心を取り入れての、神殿建立にローマ帝国の統治に腐心の痕ががうかがえる。

    
         (写真15。アイザノイ ゼウス像)

 最後に注目したいのは、この神段の構造体である〈断面図参照)。神段の地下室は一方向の半円の蒲鉾形の天井で形成され、天井と一階の床の荷重を地下壁に負担させ、神殿の柱から伝わる荷重も地下壁に伝える。当時としては他に例を見ない構造に着想を得て施工した先人に興味を抱いた。

終り

写真・文責:田中 瑛也
会場写真撮影:橋本 曜 HTML制作:大野 令治