神田雑学大学平成16年4月16日講義録


  

第211回神田雑学大学抄録

 

間と恋

 講 師 大田 敬介氏


日 時  平成16年4月16日(金)18時〜20時

場 所  千代田ボランテアセンター


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講師紹介

間 と 人 生

恋 の お 話




講師紹介

大田 啓介さんはコンピュータソフト会社のオーナーです。今年82歳ですが、青年のような好奇心を失わず、 生きいきとした人生を送っています。人間とは「人に間」と書く。すなわち人にとって間が最も大切な要素であることを示している。 間に合う。間が持てない。間が延びる。間抜け……。してみると、恋などは間がいい出会いから始まりますね。 そんな話を聞けるのでしょうか。

間と人生

本日は、私の人生観と「間」ということについてお話してみたいと思います。 間という字は広辞苑をひきますと「間にあう」「間合い」「間が抜ける」「間仕切り」「間が持てない」 「間を持たす」「間をわたす」「間をくばる」などいろいろな使い方があります。

 ひとつの例ですが交通事故、これは全くの偶然で、たった一秒早いか遅いかで重大事故になるか、なにごとも起こらないかが分かれます。まさに「間」です。 かって藤村操が「人生不可解」といって日光の華厳の滝に投身自殺したときに、それの影響をうけて自殺する人がぐっと増えた。これもそういう時世に居合わせた人たちの運命だったのかと考えさせられます。

 人間の持って生まれた運,不運ということを考えさせられる事件ですが、私は大正10年9月11日、東京麻布の森本町(今名前が変っていますが)で生まれました。生まれて間もなく関東大震災がありました。母親はとっさに3歳の私と生まれたばかりの弟を抱いて上野公園の西郷さんの銅像の下に逃げました。 このとき付近の人で本所の衣服廠跡へ逃げた人も多かったのですが、その殆どは焼け死んでしまいました。 運命というか、母親の、一瞬の勘のおかげで今の私があるわけです。 私は、いいかげんな生き方をしていますか、人生成るようにしかならないという運命論者です。

   もうひとつエピソードをご紹介しますと、私は子供の頃、身体が丈夫でなかったのですが、赤ん坊のときアイスクリームを食べさせられて消化不良になった。担ぎこんだ病院で、あと5分遅れていたら「この子のいのちはなかった」といわれたそうです。この5分の「間」というものに私は非常に運命的なものを感じます。

 私は子供のころ、NHKのあった愛宕下町2丁目2番地に住んでいました。偶々近衛師団第一歩兵連隊で戦友だった山田耕一君が、「私も2丁目2番地だ」といったので驚きました。彼は山田耕作の息子で、耕作がよく近衛師団楽団を連れての慰問演奏で軍楽隊の指導に来ていたことを覚えています。

 話が前後しますが、旧制県立川崎中学校第8回卒業生で大学は中央大学の法学部に行きました。途中で「こんなご時世で法律なんかやっても仕方がない」と思って経済学部の編入試験を受けました。当時有名だった楢崎博士の設問が10問あったのですが、ひとつもわからない。困りましたが、たまたま一ヶ月ほど前に読んだ博士の「統制経済論」を思い出してそのまま書きましたら、合格になっていまして後から博士に、「何一つ私の設問に答えず、あの論文を書いたのは君だったのか、良く書いた」といわれました。まことに良き時代でした。これも運というか「間」のよさだと思います。

徴兵になる前に就職があったのですが、わたしは日本ピストンリングと、名前は忘れましたがもう一つの会社と北海道の日本興農公社、 (後の雪印ですが)をうけて結局興農公社に就職することになります。これも人生の大転機でした。

間もなく戦争が激しくなり皇居乾門から出征してスマトラのメダン、に駐留しましたが寒い北支や満州と違って、 気候もよく、豚がふんだんにあって、食べるものも恵まれた部類だったと思います。幸い無事帰国できて、 職場にもどり雪印で40年働いて、途中の5年間は監査室長を命じられこの経験が、定年後会社を作るにあたって大変役にたちました。

60歳で定年になるとき、先輩からコンピュータソフトの会社を作らないかとの誘いがあり、なにもすることがないのもなんだから、数年やってみようかと思って立ち上げたのが今の会社です。当時は、現在のようなIT時代ではなく、コンピューターのことはさっぱり分からなかったのですが、幸い社員とお得意さまに恵まれ、23年間ずっと黒字で2割配当を続けています。この会社を立ち上げたときは同業者が4〜5社しかなく、大手のいいお客さんがついてくれたのも幸運でした。

その後何千という会社ができましたが、その70%はつぶれました。原因はバブルの時に株や不動産に手をだして失敗したのが殆どですが、私の場合、もともと3年位ならやってみようと思ったので、自分の年齢を考え、ほかのことに目を向けなかったのが良かったのかもしれません。それが結果的によかった、運に恵まれていたといえると思います。

運がよかったというか、間がよかったというか、会社をやってこれたわけですが、私がモットーとしていることがあります。それは社長を絶対世襲制にしないということです。いま中小企業がバタバタつぶれていますが、その多くは2代目、3代目社長です。この人たちは実態を知らないままに社長になった。実体を知らない人に経営ができるわけがありません。その典型的な例が、日本株式会社国会でないかと思っています。 今の代議士先生になんと二世,三世が多いことか、また各地の後援会もビジネスで世襲になっています。これで日本の政治がよくなるわけがありません。もちろん立派な方もおりますが。

話が飛びますが、私は雑学専門で趣味も歌舞伎大好き、ジャズ大好き、クラシック大好きマージャン、 ゴルフとなんでも首をつっこんでいます。なかでも歌舞伎は歴史がふるくて先代吉衛門から始まって勧進帳だけで70回以上見ています。 歌舞伎の進行はみんな頭の中に入っているので途中の掛け声に凝っていますが、これは絶妙のタイミングでやらないと役者がおかしくなってしまう。

 そんなことが好きで、先週も金毘羅様の琴平の通りにある日本最古の芝居小屋“琴座”吉衛門に「大播磨」と声をかけに行ってきました。ジャズでも気が向くとニューオリ―ンズまで飛んでいったり、クラシックではウイーンまで3泊4日で飛んで行ったりしています。子供のときから勉強はしませんでしたが映画は大好きでした。有名な洋画は殆どみていますが、私の評価でベストワンはフランス映画の「舞踏会の手帳」、次が「ゴッドファーザー」、3番目が「12人の怒れる男たち」だと思っています

このへんで恋のお話をしましょうか。

恋にもいろいろあります。父恋し,母恋し、ふるさと恋し、青春時代恋しなどいろいろあります。  昭和25年に北海道興農公社は社名を雪印に改めて本社を東京に移しました。私が復員してまもなく、 北海道の古丹別という稚内の近く田舎の工場に転勤になりました。そこで肺結核にやられまして、 療養のため東京に転勤させてもらって、御茶ノ水の順天堂病院に入院して人工気胸をうけました。

昭和25年ごろ、当時なにもなかった時代でしたが労働組合でレコードコンサートをやろうといって、 雪印の東京支店でやることになりました。 午後八時ごろ、四階の会議室で私がレコードを選んでいたらコツコツと足音がして、一人の女性が入っていました。 「なにをしていらっしゃるんですか」と尋ねるので「レコードを選んでいます」といったら「私も持ってきました」といってペルシャの市場を 差し出しました。そのコンサートは大成功でした。

 お茶の水順天堂病院に、瀬尾社長(当時東京支社長)の夫人が入院されていて、あるとき妙齢の婦人がお使いできての、 ついでに入院している私に見舞いに寄った訳ですが、何故か彼女はその後も訪ねてくれて、これが今の私の妻、小枝子だったわけです。 めぐり合いというか縁というものは不思議なものだと思います。 このことは、私に対する恋でなくて、お茶の水駅から聖橋を渡ってニコライ堂の鐘の音を聴きながら、 自分自身へのロマンが次第に育ったのでしょう。  とりとめもない話ばかりで皆様のお耳を汚して申し訳ありませんでした。


文責:得猪 外明  会場撮影:橋本 曜  HTML制作:上野 治子