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第229回(平成16年8月27日)

  

「ムルデカ (インドネシヤ独立運動)」

講師 大田敬介氏 


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・講師紹介

・「ムルデカ」

・太平洋戦争とインドネシア

・ソーヤマさんという方は

・スカルノ大統領

・ 世界戦史にも稀な珍事件 

・日本軍票が公用貨幣に 





講師 大田敬介さん

自己紹介

私は、大正10年9月11日生れで、間もおなく83歳になります。 サラリーマンとして雪印という会社に40年勤め、役員の定年60歳に達すると同時に麹町一番町に株式会社イデアシステムというコンピユーターのソフトの会社を興し、 8月31日で満23年になります。これを機会に現役から退くつもりで準備をしております。そのようなわけですから、 準備不足でいい話ができないかもしれませんが、ご容赦願います。







ムルデカ

今日はムカデカといういい本が出版されていますので、これを参考にしながら話をしたいと思います。 私は昭和17年近衛歩兵連隊第一連隊に入隊して、約5年間師団司令部におりました。この司令部は大東亜戦争がはじまって、 いわゆるマレー作戦の山下兵団(第16軍)がガダルカナルで負けてきたので近衛も出征しろということになりました。

近衛は本来皇居を守る軍隊ですが昭和17年2月、皇居の中から留守部隊に送られて出征しました。 先ず陥落後のシンガポールに行きまして、 主計としてインドネシヤのスマトラのメダンというところに入りました。
 
これからお話しする「ムルデカ」とは、インドネシヤ語で独立という意味です。 ところで、今世界で日本にもっとも好意をもっている国は、どこだとお思いですか。 これは間違いなくインドネシヤだと思います。なぜかというと、このムルデカは日本軍が、 大東亜戦争に参加したためにできた運動だからです。

先日、曽我さんの夫ジエンキンスが家族と会うために、わざわざ大統領がジヤカルタに場所を設定してくれたのも好意のひとつです。同様に、 カンボジヤやモンゴルも好意を持ってくれていると思います。
 
逆に中国、北朝鮮、韓国などは直接日本に侵略されたという意識から、対日感情は悪いままにひきずっています。 特に、関東軍の行為というのは問題で、一般市民や捕虜に対してまで非常に非人道的な行為をしたことが、 悪感情を持たれる原因になっています。
 

太平洋戦争とインドネシア

私はスマトラで終戦を迎え、約1年間連合軍の捕虜として生活しました。 連合軍の捕虜の取り扱いは、日本とは大違いでした。 ヨーロツパの軍人がいうには「戦争だから勝った負けたは仕方がない。しかし、戦いが終われば、捕虜といえども戦友だ」というわけです。 

一方、インドネシヤの人の日本観は、長い間東南アジアを植民地として搾取してきたヨーロッパの大国と戦い、 圧政から開放しようとしたことで、感謝の念を持っているわけです。私たちが、シンガポールからインドネシヤに入ったとき、 彼らは日の丸の小旗を振って迎えてくれました。
 
日本は、太平洋戦争に負けたわけですが、これがインドネシヤ他の国が独立する契機になった。 このムルデカについては多くの資料がありますが、なかでもソーヤマタカオという人の記録が、 非常に正確で客観的に書いてありますので、これを中心にお話しようと思います。
 
ご存知のように、インドネシヤはイスラム国家ですが、元は大乗仏教の国でした。 15世紀になって、アラビヤの商人が入ってきて、イスラム教をもたらしたわけです。 大乗仏教はきわめて上流社会の哲学的教えを説いたのに対して、イスラム教はきわめて庶民的な民衆の宗教であったことが広まった理由です。

こうして、スマトラからジヤワにかけて、一世紀のあいだにイスラムが席捲してしまったわけです。  それまでの大乗仏教の遺跡は、あとかたもなく破壊されたのです。
 
16世紀の大航海時代になると、スペインとポルトガルが世界中に植民地を作っていきます。 スペインから独立したオランダと、新興勢力のイギリスとの間で激しい戦いがはじまります。 1824年に協定ができて、イギリスはマレー、オランダは今のインドネシヤを植民地とすることとなります。 以後、オランダは会社をつくってインドネシヤを搾取する経営を続けます。

ソーヤマさんという方は

聴講生の皆さん 岐阜県の美濃出身ですがもともとは歯科医です。昭和15年に近衛師団に入隊して通信を担当された。 終戦の時は近衛師団4連隊通信隊の中隊長でした。昭和21年復員後、東洋女子医学専門学校の教授になりましたが、 昭和51年に日本インドネシヤ協会の副会長をされ、学士院の会員で紫綬褒章も受けられた人です。
 
スマトラのアチェ州というところで、内戦がかなり行なわれています。オランダ軍はスマトラに軽便鉄動をひいて、 時間をかけながら植民地化してきたわけですが、その頃、極東では日露戦争が起こりました。 マラッカ海峡を通るバルチツク艦隊の偉容をみたインドネシヤの人は、日本艦隊は簡単に負けるだろうと思っていた。

ところが、実際は大国ロシヤの艦隊が日本海で負けてしまったのです。 これで日本に対する評価が変わってきました。同じ有色人種としてインドネシヤが、 日本によって開放されることをひそかに期待し始めたのです。
 
1941年に大東亜戦争がはじまり、期待された日本の南進がはじまり、まずシンガポールが2月15日に陥落したわけです。 ついでマレー半島のペナンを占領したのですが、藤原機関というのが、東亜の人を白人の圧政から解放するというのを目的として行動していました。 次はインドネシアに侵攻するするから、住民は協力せよとラジオで放送したわけです。

3月1日、今村中将率いる第16軍が、インドネシヤのジヤワ島に上陸しました。オランダ軍は抵抗しましたが、結局2週間後撤退しました。  近衛師団は、住民の大歓迎をうけて進駐しました。今村師団は、ジヤカルタで軍政をしき師団司令部をおきました。

スカルノ大統領

日本が最初にやったのは、オランダ軍に拘束されていた独立運動指導者の開放でした。その代表者が、 後の大統領スカルノであり、ハッタ博士だったのです。日本はスカルノを優遇し、潤沢な資金を与えて、独立運動を援助しました。 オランダ統治時代オランダは、一部の貴族富裕階級の師弟のみを留学させて、統治の協力者とさせ、 一般の教育を怠ったため、殆どの国民は文盲でした。日本軍は、オランダ語を公用語から外し、 全国の学校でインドネシヤ語を教えて、国語の統一をはかりました。
 
オランダは、貿易品として煙草やゴムの栽培だけを行なわせ、決して米を作らせなかったのですが、 日本は米作を奨励して、食料の自給をは図りました。さらに、日本軍はインドネシヤの独立を図るため、 インドネシヤ人による軍事力の強化を応援し、ナシヨナリズム高揚のため、義勇軍を募集したのです。現地の若者の中に、 愛国心が一挙にたかまり、志願者が殺到し、ジヤワに3万5千、スマトラに8千人の義勇兵が集まりました。

兵器は、かっての宗主国オランダのものが使われ、日本軍の兵舎で補助業務を行なう兵補も募集されました。 さらに、青年道場を作って日本中野学校出身の教官により、厳しい訓練が行なわれました。 これらの動きが、ムルデカの発端となっていきます。オランダ人は徹底した愚民政策をとり、 インドネシヤ人をなかば奴隷のように使っていました。

世界戦史にも稀な珍事件

私は、近衛の主計としてインドネシヤにあしかけ5年いたわけですが、ここで世界でもまれな、珍しいことが起こりました。  日本は戦争で負けたわけですが、オランダとイギリスとインドの連合軍が、インドネシアを統治するためにやってきたのです。 私どもは、メダンの最高の場所に師団司令部を作ったのですが、そこに戻ってきたオランダ軍を、日本軍が守る、 という奇妙なことになりました。これは、先ほどお話した義勇軍が独立戦争を始めたからです。

日本軍票が公用貨幣に

日本軍票が公用貨幣 もうひとつ、面白いことは元日本軍が発行した軍票が、そのまま有効に使えたことです。 これは、戦勝国のポンドやギルダーが、現地で信用されなかったことを意味します。 実際の価値のない軍票が、戦後約1年、インドネシヤの公用貨幣として通用したわけです。

当時、ソ連がインドネシヤに目をつけ、たくさんの共産主義者を送りこんできたことがあります。この考え方にスカルノも同調して、 一時共産主義者になったことがあります。「インドネシヤ共産党は、日本にたいして戦争をしかけよう」という動きがあったのですが、 スカルノは人みしりしない幅広い社交家で、共産主義に対してもすこしも警戒心を持っていなかった。 このために共産主義者の塾までつくり、禍根をのこすことになった。  

共産主義者の扇動によって独立宣言する動きがあったなか、スカルノは、恩義をうけた日本をないがしろにして独立することを好まなかった。 インドネシヤの独立宣言の背景には、このような動きがあったのです。
 
インドネシア共和国  (外務省のHP)



 
・文責 得猪 外明   ・会場撮影 橋本 曜  ・HTML作成 上野 治子

本文はここまでです

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