神田雑学大学 2004年11月19日 bQ41

自然流カーセールス・ストーリー

講師 河原 清氏

紹介

雑学大学のメンバーである河原清さんは元東京日産の販売部長です。
上野、浅草界隈の中小企業を中心とする下町の経営者達と喜怒哀楽を共にしながら、日産自動車のセールスマンとして、トヨタ、ホンダ、マツダといった強敵の相手と熾烈な競争を展開、そこから得たセールス哲学の記録です。




1960年は私のターニングポイント
 しゃべることは得意ではありません。聞くほうが好きです。
 そこで神田雑学大学でもっぱら聞き役に徹しておりましたら、「巡り合わせがある、カーセールスの話をしろ」と言われました。
 そういうことで、今夕はささやかな自分の経験を話します。
 
  私は40年にわたって車の販売・カーセールスをやってきました。
  きっかけはこうです。
  1960年に私はそれまで勤めていた会社を辞めました。そして、ものを売ることについては予備知識もなく東京日産の車のセールスの仕事に飛び込みました。
 ここはコミッション・セールス、ひらたく言えば「出来高制」の仕事場でした。
 売れなければ収入はないが、売れればそれなりの取り分が頂けるところです。「売れれば社長の給料を上回る金が手に入る」一方、売れなきゃ家族を抱えて路頭に迷うことにもなりかねません。

 仕事を替えることは冒険でしたが、幸いなことは日本経済が高度成長に向かおうとしていた時でした。車の需要が上向きになる時期にあたっていた。だから真面目にやってさえいれば、どうやら普通の勤めよりより「いい給料が取れるかな」という気持もありました。そもそも、それが起点です。

時代背景を考えてみましょう。
 1960年は日本にとっても大きな節目にあたる年でした。
 日米安保条約改定、自民党の単独採決、空転国会、国会周辺への大デモが熾烈で、まだ24,5歳だった私は、前にいた会社で、組合の仕事を割り振られ、上部団体である総評の指示に従ってあわただしく動いていました。樺美智子さんがなくなったのがこの年の6がつでした。結局、岸内閣は退陣したという時代背景がありまました。
 こうした動きの中で、前に居た会社で、会社と組合との間で板挟みになる思いを重ねた私は、この年の6月、サラリーマンを辞めました。
 そして東京日産のコミッション・セールス部門を新しい職場に選びました。車のセールスについて知識はありませんでしたが、この種の営業には関心がありました。

「柏戸・大鵬たれ」「給料袋が立つぞ」とおだてられて
 入ってすぐ、一枚の名刺を武器に「飛び込み」セールスに取り組みました。
 客をねらって、一日に何十軒と飛び込んでも、まだまだ「車は高い」買い物で、オイソレと売れるわけはありませんでした。友だちは「車なんて高いものは売れないんじゃないか」。そのとおりで当時はなかなか売れるものじゃありませんでした。
 でも、あちこち頼み歩いているうち、蒔いた種が芽を出すように売れるようになりました。61年ごろからでしたね。
 この時期、コーヒーが60円ぐらい、小学校の教員の初任給が1万円ちょっと。車1台売ると教員の初任給以上の手数料が貰えたから、売れ出すと大きな励みになりました。

 相撲では大鵬・柏戸が競い合って番付を上げていった時期でした。所長が「君たちも柏鵬のように競い合って、成績を上げてくれ。セールスの横綱になるように」と、おだてやらハッパやら、かまされました。
 社長もうまい話でたきつけました。「君たちの先輩の給料袋は机に立つゾ」、それだけ給料袋には厚みのあるお札がぎっしり詰まっているんだ。君たちも早くそうなれってわけです(笑)。

 しかし、セールス部門にはいいところのお坊ちゃんも幾人か居て、この人たちはあまり欲を出さない。のんびりと仕事をしている。
 そうじゃない私らは、飛び込みをやって成績を上げないことにはアゴが干上がりますから、一生懸命やった。真剣必死です。そうこうしているうち、お客さんの方から電話を貰うようになって、ボツボツ車が売れるようになりました。
 私が前に居た会社での給料は1万5千円ぐらいでしたが、セールス業務に移ってからはいい時には15万円ほど貰えるようになってきた。こうなると気持も大きくなる。飲む酒のグレードが上がる。キャバレーのはしごはする。それでいて、会社員時代に比べていくらかお金も残る暮らしができるようになりました。

 当時、日産では主力商品のブルーバード・デラックスが70万8千円、1200CC、エアコンはなしです。
 当時の経済情勢から言うと、車って簡単に手に入る値段ではありません。何しろフランク永井の歌「1万3千8百円」がはやっていた時代ですから(笑)。
 先輩のセールスマンは、着るモノはいい、飲む酒がいい、飲む場所も銀座など一流どころといった塩梅でなかなか見た目は派手でした。
 そういうことから、あこがれてセールスの世界に飛び込んでくる者は多かったけれど、実際やってみるとそうそう車は売れるものではない。次々と辞めて行く。辛抱して続けて居た同期の人も4〜5年すると居なくなりました。

選ばれて優秀セールスマンに
 私の持ち場は東京の下町で。売り込み対象のお客さんは中小企業がほとんどです。
 ここでは企業形態、生活習慣からいって、上層階級や上級サラリーマンを相手に夜遅くまで粘る、朝早くから顔を出すという山の手地帯での「夜討ち・朝駆け」スタイルはなじまない土地柄です。私は下町の中小企業の社長が事務所に居る時に訪ねて行き、そこで社長に会うように努めました。こうしてマメに回ることで少しずつ顔つなぎができるようになりました。一方、三菱、いすゞ、マツダなどが乗用車を売り始めると、自動車メーカーの競争も激しくなりました。会社からの「売れ、売れ」というハッパも大きくなりました。
 従来の定価販売から値引きもしなきゃならなくなる。下取りの値段の幅も広がりました。

 日本の人口が1億を超えた1966年から「新三種の神器」として、クーラー、カー、カラーテレビがもてはやされるようになりました。いわゆる3C時代の到来です。車の需要が伸びました。当時、ガソリンはリッター50円でした。
 相前後してこのころ、日産のブルーバードから三角窓がなくなりました。
 車から三角窓をなくしたのは世界で初めての試みでした。大衆車にエアコンを採用するための先駆でした。すっきりしたデザインの日産車の人気が高まり、販売数が伸びました。日産がトヨタの販売台数にいちばん接近したのがこの時期でした。

 1967年、ブルーバードがモデルチェンジした年、優秀セールスマンとして、私は会社から新車ブルーバードを貸与されました。これは優秀セールスマンだけに与えられる勲章で「所長と同じ特権」を得たことになります。販売実績が落ちるとこの特権は剥奪されるという、アメとムチですが、ともかく「新車貸与」が励みで、一度タイトルを手にすると成績は落とすまいと頑張るようになるわけです。私は毎年、「新車」を乗り継いでいけましたが、思えばありがたい制度でした。

 年間65〜70何台売ると、このタイトルが取れました。
 年度末になるとタイトル保持をかけて周囲と競り合ったものです。私は一度ランク落ちしましたが、一年で復活してまた優秀セールスマンを続けることができました。そのためには月に6台以上売ることが最低の目標達成基準になります。言い換えればこの数字はタイトル獲得、保持のノルマと言えます。

 1973年、オイルショック、経済もマイナス成長で車の売れ行きも伸びなくなりました。さいわい車の場合は回復が早かった。伸び率が悪くはなりましたが、そこそこの線は保っていました。

 1978年になりますと、会社とセールスマンとの間で契約制度というか、半期6か月にどれだけ売るかということを前もって会社と契約し、それが達成されると達成金を貰い、成績に応じて表彰されることになりました。
 1980年、アメリカを抜いて日本の自動車生産台数が世界一になります。1100万台以上達成という金字塔をうち立てました。
 
労働組合を結成 消費税施行がかえって追い風に

 82年、会社と交渉するためにセールスマンの労働組合を作ることになりました。
 セールス部門では各人それぞれの事情を抱え、団結は難しいかと懸念されましたが、何とかまとまった。この点、プロ野球の選手会より結成の段取りは早かったと思います。
 84年、日本社会で自分の生活は中流と考える人が90%に達する。車を持つことは決して贅沢ではないという考えが共通の認識になっていく。
 89年に消費税3%がスタートします。従来、車、宝石はそれ以前は物品税15%が付いていたのですが、消費税施行によって物品税がなくなったために、かえって車の販売には有利な追い風となりました。

 バブル経済謳歌の時期がしばらくは続きました。
 しかし、経済が停滞、バブル崩壊の時が来ました。
 時あたかも、日産は高級車「インフィニティ」を売り出しました。「シーマ」、「プレジデント」の後継車です。ところが時を同じくしてトヨタは「セルシオ」をぶつけてきた。

 我々日産のセールスマンからみても、セルシオはいい車でした。インフィニティーは発音もしにくく、どうにも勝手がよくない(笑)。
 セルシオは値引率は低くともお客が付きましたが、インフィニティは値引きしても売れ行きが伸びない。これくらいの高級車のお客さんは、多少の値引きなんか意に介さないのです。品質が良ければ値段に拘泥はしないのです。

 ほぼ、この時期から日産の車販売には陰りが出て来ました。ホンダの追い上げも急だった。このままでは21世紀にはホンダに追い越されそうだというのが、日産のセールスマンの懸念でしたが、残念ながらそれよりもはやく事態は展開してしまいました。
 2000年、カルロス・ゴーンが社長に就任、その後の展開は皆さんご承知のとおりです。赤字の解消は進みましたが……。
 現在、カーセールスでは、トヨタ、ホンダに次いで日産は第3位ということになっております。日産のセールスに関わった者として残念なことです。

 セールス、下取り、値引率、新車、中古車、新古車、ローン等々、皆さんの関心が高い個別の方法については多岐にわたりますので別途、お尋ねください。

お客様に教えられ育てられた40年
 私が仕事の本拠としたのは、東京の下町です。ここは自営の中小企業主の工場や商店が多い地域です。私が担当した顧客の業種は120種類ぐらいありました。

 お得意様を訪ねると、そこでいろんな話を聞くことができました。私にはこれが非常に楽しかったんです。自分が知らなかった分野の話って興味が湧くし、好奇心が刺激されます。

 最初にも話したように、私は話すことはあまり得意じゃない。もっぱら聞き役でした。お客様との間でもそうでした。こうして得た教訓が、「セールスではしゃべりすぎてはかえって売れない」ということでした。お客さんがしゃべる。セールスマンがそれを黙って聞いているうち、しゃべっているほうが疲れてくる、黙る(笑)。

 向こうが黙った頃合いに、「お宅もそろそろ車を換えたら……」と持ちかける。
 そうすると案外、スムーズに話題が車に移れることが分かってきたのです。下町の自営業者は元々下町か、北関東、東北地方の出身者が多い。私自身、北関東の出身なので、幸いなことに話の呼吸もうまく同調したこともあったのでしょう。フーテンの寅さん流の立て板に水の名調子もセールス手法なら、その対極にある訥弁、しかし、相手の話を聞き、おもむろに身を入れた話し方で商談に移ることもまた、立派なセールス話法であることが自然と身に付きました。

 もうひとつ、中小企業をお客にした場合、直接、社長と話せることが大きなメリットです。直決で話がまとまるのです。大企業ではこうはいかない。幾つもの段階を踏んで決済に至るのですから……。下町では経営のトップとマンツーマンで話が通ります。

 私はこうして車を売るセールスを、高度成長期、バブル期を通して続けることができました。セールスというのは時期に左右される。折りも折り、流れが変わったと見えたとき、私はリタイアの頃合いを迎えました。仕事を離れ、今の生活に入りました。

「天の時、地の利、人の和」という言葉があります。セールスマンとして私は時期に恵まれた、担当が下町という地の利に恵まれた、そして何よりも人。育ちも言葉遣いも似通ったお得意様と、しゃべりすぎないやりとりの中で、お互いのためになる仕事ができた。

 お客様は神様と言ったのは三波春夫。ですが、私は、お客様も人間、私も人間。たとえ黙っていて分かり合えることこそセールスの第一の核心だと私は今も確信しています。
 以上、私の車セールス40年、まとめてみるとこういう次第です。(拍手)。



                     
文責;阿部 宏   会場写真;橋本 曜  HTML 作成;山本 啓一