神田雑学大学 2004年11月26日講義録NO242

江戸開城の大博打と勝海舟

講師 鈴木 輝次



目 次

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講師紹介・はじめに

1.蘭学の黎明期

2.蘭学を志した海舟

3.凡人に非ず

4.艦長として渡米

5.江戸無血開城

6.日本国内の和

7.西郷隆盛との談判

8.維新以後




 

講師紹介・はじめに

講師紹介
 本日の講師、鈴木先生は船橋市で中学校の先生を一校されたあと、九校の小学校の先生をされた校長先生です。その方が同時に歴史の研究をされて、特に明治維新の頃の偉人を研究されております。
 今の時代特に必要な、明治維新を興した人たちのお話を聴かせて戴きます。(吉田 源司)

自己紹介
 ただ今ご紹介に預かりました鈴木でございます。大変身に余るご紹介を戴きましたが、私は間口が広く、奥行が狭い、そういう勉強ですから皆様方のお耳を汚すのではないかと心配しております。 私は学校を退職したあと、教育委員会に入り社会教育の指導員として8年間、公民館のこと、PTAのことなど色々なことを勉強させてもらいました。そのなかから、現在は公民館でサークルがあり、「文学・歴史の会」で、それぞれが月に一回ずつ、文学の舞台を歩くとか、歴史の舞台を歩くとかで皆様方と一緒に勉強してきております。

はじめに
 本日の「勝海舟」に関してはダイジェスト版が出ていますので、それらを色づけしていきながら進めて参りたいと思います。
小説で子母澤寛の「勝海舟」、昭和16年に新聞連載されてから多くの人に愛読されています。これが昭和49年、NHKの大河ドラマ「勝海舟」の原作にもなっています。また「父子鷹」、勝小吉と海舟との親子の触れ合いが書かれていますので、これらの本を読んでみては如何でしょうか。
津本陽の「勝海舟」、勝海舟の人間的な魅力に迫った作品を書いています。
海音寺潮五郎の「江戸開城」、江戸開城を中心にしながら勝の人間性を掘り下げています。 江藤淳の「氷川清話」、勝海舟の半生を振り返った回想録を纏めたものです。 これらを読んで頂くと、本日の話に深い肉付けが出来るかと思います。

1.蘭学の黎明期

 徳川慶喜の助命に奔走した勝海舟、彼の生れた時代を最初に見ていかなければならないかと思います。
 文政6(1823)年1月30日、江戸・本所亀沢町に生れました。明治で暦が代わってからは2月11日と定められています。この年は第十一代将軍家斉の時代で江戸庶民文化の爛熟期でありました。

 この年の7月にシーボルトが長崎出島に蘭館付医師として来日しました。シーボルトは翌年、文政7(1824)年、長崎郊外の鳴滝(ナルタキ)に診療所及び学塾を開くことを幕府から許され、高野長英ら50数名が鳴滝の学塾に集まりました。地元の長崎を除けば、九州から東北地方に亘るまで、19藩の医者ないし医学志望の学生、それぞれ蘭学に習熟していた20歳から30歳の若者が大部分を占めていました。この文政7年、ちょうど50年前の安永3(1774)年に杉田玄白・中川淳庵らによる「解体新書」(ターヘル・アナトミア―解剖学書)という翻訳書が出されています。

 前野良沢ら3人が小塚原の仕置場で処刑された女性の遺体を腑分けし、オランダの本と照合していきました。それがそのものズバリであったということ。その素晴らしさに感動し、それを翻訳しようと決心しました。3年半かけて完成しました。西洋の学術書の翻訳、これは前野良沢らの解体新書が最初の本となりました。これには、3年半という長い年月がかかりました。前野良沢は一年ほどオランダ語を勉強しました。中川淳庵は、オランダ語はまったく初歩的知識、杉田玄白に至ってはオランダ語の「オ」の字も分からない、そのような人たちが解体新書に取り組んだのですから、一日かかっても分からない、非常に苦心惨憺しました。

 解体新書の翻訳をした場所は、東京・築地に聖路加病院がありますが、そのところに石碑が建っています。
 これは単なる医学書ではなく、「日本の国の文化史上における画期的な出来事」でありました。言い換えれば、徳川の幕府体制というような大きな堤に一つの穴を開けていったのです。この解体新書を通して、彼らは西洋社会の実証精神、それが合理精神にまで発展していく。この物の見方は大きな幕府体制のなかに穴を開けていきました。
 家康以来の保守化した官僚制度、その場逃れの前例尊重主義の立場にあった幕府の役人にとって、この解体新書が投げかけた力は、大変なものであったのではないかと思います。

 そのような蘭学が幕府体制に大きな風穴を開けていく、一つの大きな役割を果たしたのではないでしょうか。でも、全体的に見れば、蘭学を勉強している人は非常に少なく、幕府においても体制批判的な力が弱い、そのような時代に勝海舟は生まれてきました。

2.蘭学を志した海舟

 勝が何時から蘭学の勉強を始めたかは正確には分かっていません。父親の小吉が天保9(1838)年に隠居して、16歳の勝が家督を継ぐ、それより前から彼は自分の小吉の長兄である男谷下総守信友の道場に入門して剣術を習い、続いて同門の島田虎之助について剣術・柔術を学んでいました。

 そして、海舟に西洋兵学を学ぶことを薦めたのがこの島田虎之助でした。当時の志士といわれる人たちは、みな免許皆伝の腕前で、自分の身は自分で守らなければならない状態なので剣術に傾けました。坂本竜馬にしても誰にしても剣術はみな免許皆伝、免許皆伝を取る鍛錬を進めていきました。  その頃、江戸城内にオランダから献納された大砲がありました。勝は大砲に刻まれている横文字を眺めて驚きました。文字に敏感な少年であったようです。大砲の文字を見て、初めて今まで耳にしていた外国人の存在感を初めて体得していきました。

 自分たちと違う文字を使う人間がいることを認識すると同時に、西洋の兵学を学ぶには、また、この大砲を操作するには、西洋の兵学を学ばなければならない。それにはオランダ語の書物を読まなければならない。文字の読めない悔しさとオランダ語への憧れを胸に刻みこみ、勝はこれも人間が作った文字ならば、「読めないはずもあるものか」、と言って文字の解読に一生懸命オランダ語の勉強に取り組みました。また、18歳の時に世界地図を見てビックリしました。世界を周るには蟹のように横に走る西洋の文書を勉強しなければならない。勝が20歳ころからオランダの本を読み始めたと言われています。

 ところが、オランダ語が少し読み書き出来るようになると、世間の人々はそれを恐れました。「あいつも何れ禍に遭うだろう」、といって誰も近寄ろうとはしませんでした。勝が訪れて行きますと、「俺にまで禍を持ってくるのか」と会う人は断りました。勝はその頃、島田虎之助の代稽古をして、大名の藩邸で教えに行っていましたが、蘭学を始めたという評判がたっただけで断られ、次第に出稽古も断られることが多くなりました。

 彼は貧乏のどん底にありました。蘭学に対する当時の世間一般の態度は、「蘭学は身を滅ぼすものだ。そんなもの学んでいる奴は俺のところに近づけるな!」というのが当時の流れでした。 実際、勝が小さい頃、シーボルト事件がありました。高橋景保が獄死しています。シーボルトの国外追放、勝が17歳の時に「蛮社の獄」―渡辺崋山が自殺、高野長英が捕らえられ、後に脱獄するが自殺する。高野長英の脱獄に関しては吉村昭の「逃亡」のなかに詳しく書かれています―がありました。

 幕府の命令によって、徳丸原で西洋式の訓練を実演してみせた高島秋帆も投獄されました。そのように、蘭学を学んでいる人たちには非常に大きな迫害事件が数多く歴史の中に残っています。ですから、「蘭学の勉強は自分を危険に導く」、周囲の人たちはそういう印象付けをしていました。 そのような風潮のなかで蘭学を志した勝、その血のなかには江戸有数の剣客でありながら暴れ者の異名をとった小吉、その血が脈々と流れていたのではないかと感じられます。

 勝がオランダの学問の先生として最初に、幕府天文方の箕作阮甫(ミヅクリゲンポ)の門を叩きました。燐太郎はその素晴らしい名前に、オランダの学問も優れている、その名士に憧れて、入門を願い出たのですが、「江戸っ子には根気が無い。難しいから駄目だ」と言って断られてしまいました。

3.凡人に非ず

 その後、筑前藩の永井青崖(ナガイセイガイ)の門に入って勉強を始めました。23歳の時でした。3年間ほど独学の期間があったとも言われております。それからの10年間、「蕃書翻訳御用」を命じられ、初めて役職に就きました。当時、蕃書取調所(九段坂下、昭和館の入口に記念碑)では幕府の人たちが外国の学問をしていました。

 それまでは、勝は生活費を稼がなくてはならない。貧乏のどん底のなかで蘭学の勉強に励んでいました。そのあいだ、勝は23歳で2歳年上の妻「たみ」を迎えました。24歳で長女、28歳の時父小吉が亡くなりました。貧乏のどん底のなかで、こんなエピソードがあります。
 オランダの辞書「ヅーフ=ハルマ」を買いたい。でもそれを買う金が無い。この辞書を持っている人に1ヶ年10両の謝礼金で借り受けて、昼夜その辞書を写しました。1年半掛かって2部写しました。その1部を売って生活に当て、本の謝礼に当てました。

 紙は和紙、礬砂(ドウサ)をかけてインクが滲まないようにする。そのインクも自分で本を見て調合しました。ペンは鳥の羽根を削って作り、全てが手作りの辞書を作り上げていきました。2冊作ったうち1部は自分のもの、あと1部は30両で売却しました。辞書の借り賃、文房具代、それと新たな生活費代等に当てました。彼には並々ならぬ才覚があったようです。
 また、次のようなエピソードもあります。その時は夏でも蚊帳は無い。冬も布団が無い。ただ日夜、机に向ってただ眠るだけ、天井板や柱を薪にまでしてしまった、貧乏この上無し、彼は着物も無く剣道の稽古着で過ごした、というような話も残されております。

 また、本屋でオランダの兵書がどうしても欲しい。でも値段が50両もする。とても手が出ない。彼はあらゆる伝を使って金を工面して本屋へ行ったら、既にその本は売れていた。諦めきれない勝は、それを買い上げた四谷の大番町の与力宅を訪れて、「どうか私に譲って下さい」と言ったが、その与力はOKを出さなかった。そのため彼は、その方が寝ている間、与力宅でその本を借りて見させてもらう。本所から1里半の道程を毎晩往復して半年がかりでそれを写し取りしました。勝のバイタリティ、根気、それらの良さを示すもの、また人間の能力を超えている。本の係わりから彼の人間性が見えてきます。

 それをみた与力は、「野人玉を抱くも益無し」、自分みたいなものが持っていても益は無い、と言ってその原本を勝に差し上げました。写し取った本を売ると1部8巻、値にして30両也、と後に勝は言っておりました。辞書の場合は2部写して1部を売って金に換え、兵書の場合は1部写して、その与力から原本を貰ったので自分の写した本は売る、そのような悪戦苦闘のなかで彼はオランダ語を学んでいきました。彼は28歳の時に西洋兵式の私塾を開きました。杉享二を塾長として蘭学を修めました。

 その頃、野戦砲の鋳造を試みております。飽くまでも兵書を基にしながら、日本で大砲を造っていくことを心掛けていきました。川口の鋳物師に命じて野戦砲を造らせました。その頃の鋳物師は、銅の目方を減らしたり、人目を誤魔化したりするのが常套手段でした。その鋳物師は勝のところへ訪ねて行き、「これはお神酒料です」と言って500両を差し上げました。勝は「これは大砲を造る金で、お祝いのために呉れるのはとんでもないことだ。この金でもっと精巧な大砲をチャンと造る。誤魔化し仕事をしたり、私の名前汚すような、そのような事はするな!」と叱りつけました。十二斤の野戦砲。一台造るのに600両かかりました。

 それに対して半額の300両の謝礼は監督・指導ということで蘭学者が戴きました。それが慣例になっていました。ですから、その鋳物師もその積もりで勝のところへ行ったのですが、勝はそれを撥ねつけ、その金があるならもっと素晴らしい立派なものを造れ、と鋳物師を叱りつけたのです。
 その話が世間の噂になると、幕臣の大久保忠寛の耳に入りました。忠寛は「勝は凡人に非ず」、といって注目し、彼を呼び話し合いをしました。それが縁となって、勝の出世の道が開けていきました。勝は蕃書翻訳御用を命じられて、海岸検分役として大久保忠寛に随行して大坂近海・伊勢海岸等を廻っていました。大久保は目付です。海防掛の要職にあります。その七月勝は長崎表においてオランダ寄贈の蒸気船の運用方を命じられました。

 ようやく彼は活躍の場が得られていきました。長崎海軍伝習所生徒監の身分となって長崎に赴き、我が国の海軍創設史の第一歩を踏み出しました。海軍伝習所は、勝が33歳の時につくられました。ペリー来航後の2年後ですが、ここで海舟はオランダの士官から大砲を造る・大砲を操作する・航海術・造船学などをみっちりと学びました。そして海軍の専門家として育ちました。やがて日本人とし、初めて太平洋を自力で横断し、アメリカへ向うのです。

4.艦長として渡米

 安政5(1858)年に締結した「日米修好通商条約」批准のためにアメリカに渡る使節団を乗せた船、これはアメリカの船ですが、この護衛に咸臨丸が付いて行ったのです。咸臨丸が渡米すると決まった時に、勝は自分が乗るのは当然だと思いました。長崎海軍伝習所で、訓練のために毎日のように咸臨丸に乗って活躍していましたから。ですから、咸臨丸を護衛艦として送ると決まった時は、当然指令官として自分のところに役目が回ってくるものだと思っていましたが、木村摂津守が指令官になりました。

 大変な航海であったようです。38日間掛かってアメリカに行く訳ですが、そのうち晴れた日はたった4〜5日しかなかったのです。アメリカの士官も付き添ったとも言われていますが、これは日本人初の航海をサポートする、そのためアメリカ人クルーが11人咸臨丸に乗りました。日本人だけで十分だ、と勝はアメリカ人クルーの乗船に反対をしたのですが、幕府に押し切られてしましました。

 そのなかには、ジョン万次郎・福沢諭吉の方々も咸臨丸の乗員の一員として、合計96名の方が乗りました。アメリカの士官が付き添っていたのですが、日本の海軍士官は全然海軍の規律を知らない、と怒るほどでした。艦長の上に指令官がいる。幕府の体制ですから上の命令は絶対服従ですから、艦長としての腕の振るいようがない。いろいろな問題がありました。そのために、彼は太平洋の真ん中で、「ボートを降ろせ、おれはこれで日本に帰る」というようなイザコザもありました。

 サンフランシスコに到着し、そこでアメリカの近代社会を目にしました。能力主義・実力主義というか、能力・実力のある者が上に出てくる。家柄とか血筋とかで社会が出来ていない。日本とは大変大きな違いがある。そのことを勝は勉強してきました。勝がアメリカに行った時は、アメリカの社会構造はよく分からなかったのです。だから州政府の役人や連邦政府の役人はサムライだと思っていました。ところが、サムライどもが株式会社の取締役になったり、何々商会の主(アルジ)になったりする。サムライを辞めて商人になる。これは面白い。そこでこそ経済が発展していくのだ、と感心している。そういう物の見方、勝海舟の着眼点の新しさである。

 その後、神戸に海軍操練所をつくりました。40歳の時、軍艦奉行に任ぜられ、禄高千石を与えられました。その頃、坂本竜馬が弟子入りしました。第十四代将軍家茂が大坂湾を視察した際には、神戸海軍操練所の設立許可を得る、幕府だけのものではなく、勝の理想は諸藩から有志を募って実(ジツ)のある日本の海軍をつくっていきたい、という考えでした。その海軍操練所の塾頭には坂本竜馬がなりました。坂本竜馬が塾頭になっていますから、当然土佐出身の者たちも非常に多かった訳ですが、勝を慕う男たちが全国から集まって来ました。その中には、陸奥宗光などが塾生として勉強しました。

5.江戸無血開城

 そんななか、徳川慶喜が慶応3(1867)年「大政奉還」しました。勝や大久保忠寛が願ってきたことが、ようやく実現しました。しかし、その後始末が問題でありました。慶喜は大政奉還しても、依然として徳川家が400万石の実録を持っています。主導権を握って、各藩をリードして、郡県制へ移行しようと慶喜は争っていました。一方、岩倉具視や西郷・大久保(利通)らの討幕派は、徳川氏の領地を召上げて、官位を辞退させて、公卿や薩長の手で主導権を握ろう、とのぶつかり合いがあり、徳川・薩長らの主導権争いが起りました。

 勝にしてみれば、どちらも私事・エゴである。慶喜は慶喜で400万石の実力を持って、主導権を握って、大政奉還をしても自分が今だ主権を握っているのだから、もう一度やっていこう。もう一方では、岩倉具視や西郷・薩長は自分たちがはやく主導権を握ろう。勝にしてみれば、これらはすべて私事に過ぎない。両者の主導権争い、これはエゴとエゴのぶつかり合いでしかない。これが鳥羽伏見の戦いとなっていきました。

 慶喜は京都に向って兵を進めましたが、朝敵・逆賊のレッテルを貼られてしまいました。薩長はいまや官軍、天皇を担いで「錦の御旗」を翻して大義名分を唱えて徳川氏を滅ぼし、慶喜の首を捕るために東海道・その他から江戸を囲んで攻撃しようと攻め上がってきました。これに対して、江戸城内の議論はタカ派・ハト派に分かれました。タカ派は徹底的な抗戦、薩長を迎え撃って一泡吹かせてやろう、談判はそれからで良い。一方ハト派はこの際、恭順・謹慎して江戸城を明け渡そう、武器も渡そう、徳川氏の家名と慶喜の命は守ろう、という和平路線に分かれました。

 タカ派は小栗上野介・榎本武揚・大鳥圭介らで、後者は勝・大久保忠寛らです。こうなると当然、タカ派の方が勇ましく恰好よく感じられ、ハト派は臆病者、意気地なし、腰抜けと軽蔑されました。特に勝は前から薩長に知人が多かったです。そのために薩長の味方をする奴だ、薩長の回し者だ、薩長の犬だ、徳川を敵に売る裏切り者だ、と言われて誰も勝を理解しようとしませんでした。
 そのような中で勝は孤立していきました。外に出れば暗殺しようと狙う連中がウロウロしている。家に帰れば妻や子供までが反対、勝はこのような孤立に耐えて、徳川のエゴと薩長のエゴをともに捨てさせて、新しい統一国家をつくる方向に、世の中を引っ張って行こうと全力を挙げました。

6.日本国内の和

 政治家としての勝の常に留意していたことは、日本国内の和を保つという点であった。これまで幾つかの勢力が分裂し、対立し競争を繰り返す、これは止むを得ないことだが、しかしその抗争に、争いにけりがついた後、負けた者をそのままにしていてはいけない。心の中に怨恨が残る。それらを残してはいけない、というのが勝の考え方です。 なるべくはやく手を打って、対立する両者の溝を埋めて、心の傷を癒すのが国内の和を維持する、と取り組んで参りました。

 その例として、明治(1877)10年、西南戦争の後始末として勝が密かに行ったことは、西郷隆盛の遺児寅太郎を東京に呼んで、天皇の思し召しとしてお手許金の中から留学費を出していただいてドイツの士官学校へ留学させることなど、宮廷工作のために侍従の山岡鉄舟から有栖川宮熾人親王を通して明治天皇に話をしてもらう。そのようなことが世の中に知られていくと、西郷家ならびに西郷さんに従って賊軍視されていた遺族たちは、初めて自分たちは間違っていなかった、結局西郷さんは悪くなかった、ということになって、これまで肩身の狭い思いをしてきた東京政府に恨みつらみを抱いていた連中も、ようやくコダワリが解けてきました。このようにして西南戦争の後遺症を癒していきました。

 もう一つは徳川慶喜が皇居に参内して、戊辰戦争以降初めて天皇皇后に拝謁して、皇室と徳川氏の和解が成立するのです。そのことも演出したのは勝でありました。この時も有栖川宮熾人親王を煩わしています。これまで朝敵視されていた皇室や薩長を恨んでいた旧幕臣たちも、天皇と慶喜の謁見からイサカイが無くなってきました。要するに勝は、国内の中でのいろんな勢力の分裂・対立・争いをそのままほっとかないで、必ず和解の道を拓く、という手立てをしました。そこに勝の人間関係論のポイントがあるように感じられます。

7.西郷隆盛との談判

 西郷隆盛との談判、いよいよ本論に入っていきたいと思います。慶喜の心が恭順に傾いて、江戸城を出て上野の寛永寺・大慈院の一室に引篭って、謹慎することになりました。慶応4(1868)年2月12日のことです。ハト派の勝が陸軍総裁、大久保忠寛が会計総裁に任命されて、幕府側の実権を握りましたが、この時海舟は46歳でした。

 東海道を抵抗らしい抵抗も受けずに、一気に兵を進めてきた官軍、江戸城へ火蓋を切ろうと、陸軍総裁となった勝の肩には幕府と江戸百万市民の運命がかかっていました。そのため勝がした仕事の第一歩は、これまで幕府に肩入れをし、協力的であったフランスのレオン・ロッシュ公使に、また陸軍教官のシャモアンに会って、従来の契約を解除して協力を辞退しました。先ず、フランスの援助を絶って、フランスを中立の立場においておく、次に薩長を支持してきた英国公使パークスに働きかけて、薩摩藩と英国との関係の力を弱めていく、むしろ徳川方に有利に動くように働きかけました。フランスとイギリスの狭間で内戦回避の重要性を説きました。

 本格的な内戦が始まれば、江戸は戦火に包まれます。日本の国の内乱をついて欧米の強国が襲いかかり、日本が植民地化していく、これは清の例がその通りです。近代日本の最大の国難という事態がすぐ目の前にある。一刻の猶予も出来ない。そこで勝は薩長軍の総督である西郷に直接談判に及ぶ訳です。その前にフランスやイギリスに色々と裏工作をして、手を回していくのですが、この工作のお陰でイギリス公使パークスが薩長軍の攻撃に待ったをかけました。3月9日、勝は密かに幕臣の山岡鉄舟を西郷の下に遣わして、総攻撃の中止を訴え、江戸で西郷を待ちました。

 そこには和解の条件七項目を出したのですが、それを確認して海舟のところに山岡が帰ってきました。しかし3月15日が官軍の江戸城総攻撃の予定日であることは、依然として既定の事実として、続々と官軍は江戸の周辺に迫ってきています。海舟は江戸城総攻撃の直前まで満を持して動きませんでした。その間に、もし西郷との談判が決裂して、いよいよ戦争という段になったら、を予想して三つの準備をしました。

 その一つとして、将軍慶喜を英国に亡命させる。そのためにはパークスを通じて亡命受け入れの了解を取付ける。横浜にきている英軍艦の艦長キップルに会って、その船を品川に向わせて出航するのを延期させる。
 第二は江戸を焼け野原にさせる。これはナポレオンに侵略されたロシアがモスクワを焦土化し、そして敵を苦しめた。そのことを彼は学んでいました。その準備として、予め江戸城下の火消組の親分・鳶職・魚市場・青物市場の兄さんたち・博徒・無頼の衆らにまで呼びかけて―主だった者36人だったと言われている―組織をつくり、合図があったら火を点けて、同時に錦切れ(官兵)とみたら斬りつける、というゲリラ戦術を用意しました。新門辰五郎も大きな役割を果たしました。

 三番目としては、江戸城にいる静寛院宮(皇女和宮)・天璋院(第十三代将軍家定の未亡人)はじめ奥女中・江戸の女、子どもたちの命を助けるために、房州の舟をチャーターして、隅田川の河口に集める。イザとなったら千葉の海岸、木更津当たりまで疎開させる用意をしておく、そういう三つの準備をした上で、3月13日、西郷と第一回の会見が高輪の薩摩屋敷で行われました。
 しかし、この日の勝は、ただ皇女和宮のことだけを話して、あとは何も話をしませんでした。というのは、勝の見積りでは、その日の官軍の参謀木梨精一郎が横浜でイギリス公使パークスに会っている。その結果の報告を持って西郷のところへ帰ってくるはずだ、それを読んでいました。

 果たして木梨精一郎のもたらした英公使パークスの意見は、西郷は驚かせ、困惑させました。何故なら、パークスは江戸の戦争に反対している。理由は江戸で戦争が起れば、当然その火は横浜にも及ぶ。横浜には既に各国の公館・領事館がある、各国の商社もある、在留外人の家族も多勢居留地に居る、それらの人たちの生命・財産の安全のためにも戦争は反対である。
次にもう大政奉還して恭順している慶喜を殺すということは、人道上からも国際法からもこれは認められない。しかし、もし慶喜が政治亡命を望むなら、英国としてはこれを受け入れる。これまで薩摩は、英国は自分たちの味方であると思っていたのに、とんでもないパークスの話でした。

 そうなると、3月15日の総攻撃は難しくなってきた、そういう読みを勝はしておりました。そして、また3月14日、再び何食わぬ顔で田町の薩摩藩の蔵屋敷へ行き、西郷と二回目の会見をしました。西郷もパークスのことは?気(オクビ)にも出しません。既にその時は勝の方が優勢勝ち。山岡が駿府から持ち帰った七ヶ条はここですべて改訂されて、徳川方に有利になりました。14日、両者の和解は成立し、西郷は予ねて15日に迫っていた江戸城総攻撃の中止を命じ、総督府へ使いを出してこの一件が収まりました。

 この会見の成功の原因は何か?一番大きな原因は、外国勢力と薩摩との関係を勝がはやく掴んでいた。イギリス公使パークスが薩摩に近い、薩摩側が行う事をパークスは何でも支持するだろう、と楽観的な態度でありました。ところが、海舟はアーネスト・サトウという通訳を通して、パークスとしばしば折衝をしていました。裏工作をドンドン行っていました。そして内乱回避の重要性を説いていきました。

 当時、日本の貿易の主流は生糸です。横浜の居留地にドンドン積み込まれています。それを損傷、燃やしてしまっては、日本が安定した市場として、英国と貿易を続けることが出来ない、イギリスの国益は達成できない、そこでパークスは西郷たちに意外なことに、勝に同情的な立場を示したのです。  ここで大きな内乱をさせたくない、イギリスもまた戦争を回避して、日本を貿易相手国として無傷にしておきたい、という気持ちがありました。だからパークスの線を押していけば、西郷を抑えることが出来る、これが一番大きな筋として考えられます。

 このイギリスを利用するということだけではなく、江戸城が開城した、徳川慶喜の身柄が果たしてどうなるのか、と思う時に勝はイギリスという国を上手く使った訳です。
   勝はもともと西郷を買っていました。西郷もまた勝を非常に買っていました。英雄、英雄を知る、という信頼関係にありました。であるからこそ、江戸の無血開城も出来たと言えるのですけれど、面白いのはその裏なのです。勝の偉いところは、信頼を最後まで守りきるためには、あらゆる不信にそなえなければならない、実際にこれを実行していきます。

 勝はパークスにもう一度じかに会いに行き、品川沖に泊まっていたイギリスの軍艦を出航間際に止め、ひと月ほど繰り延べさせました。もし万が一、慶喜の命を奪おうとする企てがあったなら、ボートに乗せて浜御殿から英国の軍艦に乗せて海外に亡命させる、ことまで考えました。
 国内分裂をどうしても避けたい、外国をワンクッションおいて、外国の力を上手く利用して西郷や薩長に愛国心を訴え、日本人としての自覚を導く、非常に巧妙な努力の過程がありました。これは勝の素晴らしさ、力がなければ出来なかったことです。

 慶喜は水戸藩へ預けることになりました。屈辱的なものではなくなった。次に江戸城の明け渡し、兵器・軍艦の引継ぎ、これも徳川方の自主性を重んじて、手続き上の形式だけに留まりました。徳川藩を再建出来るよう、幕臣の生活が確保出来るよう、そういう了解事項もあります。そして戦争責任者の処罰はしない、ことまでもこの場面で大きく働きかけをしました。西郷らが考えていた無条件降伏は、条件付降伏に変って、「慶喜の首をとり徳川をぶっ潰す」、という原案はそこで消えてしまいました。謂わば西郷と勝の相撲は、土俵際で勝にうっちゃられた訳です。

 西郷と談判、これは勝の一世一代の大芝居であって、幕末政治家としての大きな功績、これだけの仕事に賭けた海舟の情熱と献身は比べるものがないと思います。  蛇足ですが、池上本門寺に小堀遠州が造った庭園・松涛園がありますが、慶応4(1868)年、そこで勝と西郷により江戸城明け渡しの話し合いがされています。本門寺の記録に残っています。歴史上では、薩摩藩の屋敷で13日、14日の両日の談判になっていますが、その前に根回しも進めていたようです。

8.維新以後

 勝が一番恐れたのは国内分裂です。明治維新の後は、スムーズに45年続いて世界の大国になっていったように見えますが、これはとんでもない誤りです。維新戦争後、明治30年代になるまでは、たえず国が割れるような時代でもありました。明治7(1874)年、佐賀の乱―士族の反乱です。明治10(1877)年、西南戦争、この二つは薩長土佐肥後の政府の中での権力闘争であり、それに触発されて自由民権運動が出てきました。

 しかし、忘れてならないのは新政府の一番の敵は旧幕臣である、幕府方、慶喜も生きている、第十六代の家達もいる、この二人が「やれ!」と言って、もし反旗を翻せれば、国中がもう一回二つに割れて大きな内乱が起る、そういうことがあってはならないと、勝は努力を続けて参りました。先ずは西南戦争、彼の友であり、交渉相手だった西郷が今度は賊になりました。ここでまた国が割れるようになった。陸奥宗光が加担したと言われる新政府要人の暗殺計画もあった。これは西郷の西南戦争の挙兵とともに行う予定であった。そのような事件がいろいろと明治の時代には数多くありました。
 第十六代家達に対して建白書の提出を求め、幕臣の軽はずみな挙動を戒めることに力を注ぐよう求めました。

 明治以降の勝の行動は、一面においては高位高官を極めたことになる。何か一貫性を欠いているようにみえます。日本人の責任の執り方は―これは腹を切る―で完結しています。ところが、勝は非常に西洋的な考え方で、長生きをして、完結しないで、歴史に対して最後まで面倒を見る、というような人でした。最後まで責任を持って陰でいろいろと動いていました。

 勝を非常に喜ばせることがありました。明治13(1880)年3月2日、江戸城明け渡しの直ぐ後で、勝の屋敷に「あれは西郷さんを誑(タブラ)かしている狐だ」、と言って薩長の兵隊がなだれ込み、いろいろな物的証拠を持ち帰った時に、「あれは馴れ合いだった」という罵声を浴びせ掛けた徳川慶喜が、明治維新後初めて、自分のかっての城であった江戸城の門をくぐって、明治天皇のご招待で参内した、ということです。

 その頃になると、明治天皇もかっては朝敵で、絶対顔も見たくない、許してやらない、と言っていたのが許す心境になってきました。もともとは、天皇家と徳川家は親類の関係にありました。皇女和宮の嫁入りなどがありましたから。朝廷と旧幕臣方の対立感情、それが初めて一つに和やかな儀式となって、天皇と慶喜の謁見が行われた訳です。勝の一番恐れていた国内分裂の大きな根本、その原因を取り除いていきました。

 それから勝は一年と生きていませんでしたが、伯爵になる前に最初子爵をやろうと言われましたが、「今までは 人並みなりと思ひしに 五尺に足りぬ 四尺(子爵)となりとは」と歌を詠んで突っ返したといいます。
 一介の蘭学者から、幕府にとっては部外者・門外者・批判的な者に過ぎなかった勝が、やがて国際政治の中における日本というものに視点を据えて、西欧列強の領土的野心・植民地化していくのを克服し、ある時は内部告発、幕府を揺り動かす、またある時は幕府の終戦処理に身を挺し、徳川幕府が新しい統一国家への発展的に改宗してきた後には、徳川氏の存在、それと慶喜の命乞いに奔走しました。そしてそれに成功していきました。

 維新後、勝が新政府に仕えて高官の道を歩んだ時、これを裏切り者という旧幕臣の方々が多かったですが、勝は黙々と汚名に耐えて、かつ批判に対してそれを聞き逃していきました。「行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張、我に与からず我に関せずと存候」と、人目のつかないところで徳川家の存続と旧幕臣の金銭的援助に努力し、幕臣の軽挙妄動を戒めることに力を注ぎました。
 勝の最後の仕事となったのは、徳川慶喜と明治天皇を謁見させることにあった訳ですが、77歳をもって大往生しました。政治家としても世界的にも第一級の人物としてみていくことが出来ます。

 そんな勝ですが、銅像、それも全身像はありません。いまは墨田区役所の前に出来ましたが、それまでは勝の銅像はありませんでした。勝の銅像を造ろうという市民運動が展開され、平成11年日本大学の鵜沢教授が勝海舟について講演しました。その時に、西郷や坂本竜馬の銅像は数多くあるが、勝海舟の全身像は一つも無い、これはとても寂しいことだ、ということを話しました。
 その講演がきっかけで、勝の銅像を造ろう、という機運が盛り上がって墨田区役所に出来た訳です。何故勝の銅像が出来なかったのか、日本人の判官贔屓があるのではないでしょうか。西郷隆盛も坂本竜馬も最期は悲劇で終わっています。

 比べて勝は旧幕臣でありながら、明治政府の要職に付き、伯爵の位も貰い、刺客に何度も襲われはしたが、その都度助かって77歳の天寿を全うした、つまり勝は悲劇のヒーローではなくて、栄誉を極めて亡くなった、そのために判官贔屓の大好きな日本人には不満であったのではないでしょうか。そのために勝の全身像が生まれてこなかったのでしょう。

 いま墨田区役所の前に、江戸城無血開城の時の46歳ごろのモデルで全身像が建っています。江戸城の無血開城を果たし、日本の国の混乱を大きく防ぎ、明治へと移り変わる大きな活躍者でありながら無かったのです。
 同じ旧幕臣であっても、榎本武揚の銅像は墨田川沿いに大きな全身像が建っています。勝の全身像が無いということで、墨田区の人たちは心配し、見事6千万円の寄付金を集めて銅像を造り上げました。そして墨田区が勝の生誕の地であれば、墓は洗足池にあります。明治32年脳溢血で亡くなりました。
おわり

文責:桑垣 俊宏

会場写真撮影:橋本 曜 HTML制作:大野令治