神田雑学大学講座 NO243
平成16年12月3日
 


「鹿との出会い38年」



講師  習志野市立袖ヶ浦西小学校 
中村 龍一 校長 佐久間 教務主任





昨年、日本動物愛護協会千葉県支部ができまして、そこの会長古川 仁郎氏がこちらでお話することになっていたのですが、急病で入院しましたので、びっくりしながら急遽代役として登場しました。「鹿との出会い38年」という古川氏が決めた題で、及ばずながらお話いたします。

「鹿のいる学校」 習志野市立袖ヶ浦西小学校

昭和43年の9月から当小学校では鹿を飼っております。日本住宅公社が袖ヶ浦団地に作った、社会科の教科書に載ったほど43倍の倍率の小学校でした。翌年、東小学校を建設しなければ成らないほど入学者が集中しました。その頃、

団地の子供たちにはどんな教育をしたらいいか、話題になり、団地教育研究会なる組織が立ち上がったりしました。
 
八千代市からきた袖ヶ浦西小学校の初代校長が、自分がいた小学校に香取神宮から貰った鹿がいたことを思い出し、団地では犬や猫は飼えないが、この学校で鹿を飼ってみようと、その中の一頭の鹿を連れてきたのが、ことの始めです。飼いはじめて十年ほど生活しております。鹿の名前は「太郎」でした。そのあと、昭和46年1月、谷津遊園が子供のためのミニ動物園を造りましたが、そこにいたメス鹿の「花子」を貰いうけて番(つがい)にしました。

谷津遊園で獣医をしていた瀧野先生が、西小学校の鹿の世話を長らくしてくださいましたが、三日ほど前にご病気のため辞任されました。鹿の病気治療のほか、鹿の角切りとか、脱走したときの捕獲法などを教えて戴き、大変お世話になりました。瀧野先生のような獣医さんがいてくれたからこそ、38年間も飼い続けることが出来たと思います。

ここで、昨年、日本動物愛護協会主催の「学校動物飼育フォーラム」で、全国から選ばれた3校に入った「袖ヶ浦西小学校」のビデオを先ず上映致します。

全国で野生の動物である鹿を飼っているのは、習志野市立袖ヶ浦小学校だけ。
鹿のクローズアップ。目が綺麗です。鹿小屋全景。当番制子供たちの世話風景。足りないところは上級生が補う。排泄物の処理。鹿はカメラを恐れる癖がある。
「じんぐう」という名前の鹿。(香取神宮から1998年12.9に貰った)

香取神宮とは関わりが深い。数年前、香取神宮の鹿が大量に野犬に食い殺されたことがあります。神宮から鹿が欲しいと言われたので、三頭の鹿を贈りました。
そのとき子供たちと鹿を送る会を持った。そのとき挨拶したのが本日講演する予定の古川仁郎さんであります。お手元のプリントは、そのときのご挨拶です。
 
受賞の喜び
千葉県習志野市立袖ヶ浦西小学校
初代PTA会長 古川 仁郎

日本動物愛護協会から「動物愛護功労者賞」を頂き、千葉県で、個人では初めてのこと、身に余る光栄と深く感激しております。思えば、小学校の動物飼育に携わったのは、三十一年も前にさかのぼります。

○動物飼育(荒む心に潤いを与えたい)
昭和四十二年創立の学校。ただ校舎のみ。東京湾の海を埋め立てて、五階建マンションで三千三百戸の中にあって、緑の木一本もない荒涼たる団地でした。放課後の児童たちは特別の遊び場もなく、イヌやネコを竹や棒で追いかけ叩いたり、捕らえては一階や二階の
ベランダから投げたりして、いじめていました。

これを見た故初代土屋校長は、低学年には「ウサギとニワトリ」、高学年に「シカ」の飼育を通じて、情操教育を提案されました。「生きものの命の大切さ、人を愛する心を育てよう」と言われ、「飼育の一切を教師と児童のみでやりたい。「シカ」の汚物の掃除も教育の一環です」と言われて父母は、餌の補給や環境整備を受け持った。

○狙い的中(動物いじめは姿消す)
早速、予算はないので廃材を集めて校長と二人で、手作りの粗末な小屋を作りました。
夏休み後、鹿島神宮にいたという屋久鹿で立派な角をかざした雄をもらい受けた。子供たちはとても喜び「太郎」と命名しました。
狙いは的中。不思議といじめはなくなり、たちまち太郎は、児童はもとより、地域の幼児や保育所の子どものアイドルとなりました。

○生死直視(命の大切さを体得した)
翌年には子供たちの要望を入れ、お嫁さんの花子が嫁入り。すぐに赤ちゃん誕生と、暫くは、平和な鹿の家族の日々が続きました。 でも、

悲しみもありました。狭い飼育小屋のため、長雨による肺炎で死亡。また、帝王切開で生まれた子鹿を、人工保育で先生と児童が、世話をして育てたり、虚弱な子鹿を教頭が朝晩連れて帰り手当てもした。

これに児童たちは感銘し、命の大切さを目の前で学びました。ビニール袋を食べたシカの死を、全校集会で涙ながら「みんなで気をつけなくては」と報告した女の子にも共感を呼びました。

このように「生」と「死」を見ながら感性豊かな児童たちは、動物とともに成長していきました。その数三千三百人にもなります。
今、盛んに言われている「心の教育」の、先駆けといっても過言ではないと思います。(十年後、太郎は死んだ。悲しむ児童に、時の高屋校長と父母は、剥製として保存し、現小泉校長の指示で、玄関に飾ってある」

○全面改築(市の予算で飼育小屋)
いつしか三十一年が過ぎました。この間、子鹿の死を受け、五年後、市の一部予算と寄付金で飼育小屋を建て直しました。親子が住めるようにしたり、増えたシカを他にあげたりしました。今年は富山市の自閉症児養護施設「めひの野園」に三頭を贈りました。
平成二年九月には、日本動物愛護協会から「功労校」として、初めて表彰されました。飼育の評価を外からしてくださいました。
おかげをもって、市の予算をいただき飼育小屋の「全面改築」となり、広くなりました。

○受賞続く(沢山の関係者に感謝)
日本動物愛護協会の後、昨年は読売教育賞「優秀賞」を頂きました。すぐ、千葉県教育委員会から、「教育功労者賞」(団体)として表彰されました。嬉しい知らせは続きます。
そして、今回、たんなる脇役の私まで、このような栄誉を頂けて、ご推戴された小泉校長をはじめ関係者に感謝しております。
(日本動物愛護協会機関誌「動物たち」平成9年10月号)
「鹿のいる学校」のHP
http://www.nkc.city.narashino.chiba.jp/soden/intro/sika.htm

    
古川仁郎さんのこと
古川さんは初代PTAの会長でした。初代土屋校長と一緒に鹿を飼う時にご尽力戴きました。その後も鹿のことや、学校のことを色々心配して下さいました。最近は「私は鹿で通す」と「鹿を止めないでくれ」といわれていましたが、日本動物愛護協会千葉県支部が
立ち上がったので、動物全般の仕事が増えた様子で、鹿だけに関わっていられなくなるのではないかと、心配しておりました。今回過労が溜まったのではないでしょうか。

うちの学校の生徒数は、一番多かったときは1300名の児童がおりました。いまは、1学年2学級、あとは特殊学級の「特別支援学級」が二つあり、全部で14学級、329人となっております。場所はJR津田沼駅から東京湾に向かってバス停3っほどの距離にあります。父兄のほとんどは東京方面に勤めている方々です。

鹿の系図

S43.09 雄鹿(太郎)八千代市阿蘇小学校から来る。
S46.01 雌鹿(花子)谷津遊園から来る。
S48.10  鹿を実籾小学校へ2頭、鹿野山少年自然の家に1頭送る。
S52.09 太郎死亡
S53.03 太郎剥製完成
H02.09 日本動物愛護協会より動物愛護功労賞を受賞
H08.07 読売教育優秀賞受賞


この20年、日本の学校で鹿を飼っている学校は他になかったこともあって、ジャーナリズムに大きく取り上げて戴いた。いまでも子供が生れたら是非取材させて欲しいとの要望が来ています。鹿を飼っている珍しい学校として、少しは知られるようになりました。

鹿とのふれあい
生れた子供は、色々なところに貰われて行きます。しかし、次第に血族結婚化して血が濃くなると、弱い子供が生れ、亡くなる場合も出てきます。学校の子供たちも、鹿の子が生れる感激と、すぐ死んでしまう悲しみを味わうことになり、先生たちも説明するのが大変でした。先生の中には生れた小鹿を家へ持ち帰って、ミルクを与えたり看病したりした方もいます。先生方の鹿の子育て苦心談をよく聞きました。

そういうこともあって三頭残したのですが、一頭が亡くなり、いまは元気な二頭になっております。動物愛護協会の話の中では、小屋の状態からみて二、三頭が適切だろうといわれておりますので、今の状況を続けていこうと考えているところです。鹿の子供を増やすと、学校の子供たちが喜ぶのですが、飼育小屋の地面がコンクリートなので、鹿にとっての生活環境として適切なのかどうか。

餌は子供がフスマをやったり、出荷できない人参を近所の方が持ってきたり、豆腐やさんがオカラを呉れたりしていますが、やはり鹿は草が好きなんです。学校の周りはあまり草刈りなどしないで、自然のまま伸ばし加減にしたものを子供たちが採って食べさせたり、特に鹿はニセアカシヤの新芽などが大好きですから、それを与えるとトゲの部分を上手に避けて、綺麗に食べ尽くします。

今まで、鹿の面倒を見た方の工夫でしょうか、鹿の好きな植物や樹木が学校の周囲に植えられております。ですから家の学校では、どんなに草が生え茂っても除草剤は絶対に使わないようにしております。

鹿は白衣とカメラが苦手です。白い服をきた男の人が入ると、追っかけます。取材の記者がカメラを構えると、すぐ飼育室に隠れて写真を撮らせない。どうしてそうなるのか、獣医の瀧野先生に訊ねましたら、かって鹿が脱走したとき、吹き矢の麻酔をした獣医さんが白衣を着ていたことを覚えているのではないか。

また飼育小屋の外側の柵についている扉は、内側に開く構造になっているから、鹿は開けられないけど、たまに子供が世話をする時に閉め忘れると、そこから脱走します。かっては、校庭を走り回ってから学校の塀を見事にジャンプして、国道14号線に逃げたこともあります。走っている車を止めて大騒ぎになったこともあります。

今年の脱走は、グランド内でしたから十分に走りまわせてから、地引網の要領で子供たちも一緒に大きな輪に囲い込んでから、次第に縮めて捕まえようとしたのです。しかし、敵もさるもの、1年生の女の子が手を繋いでいるところに駆け込むと、女の子は怖がって手を離してしまう。また一からやり直し。漸く餌で釣って最後に捕まえました。

今は、土、日曜日、祝祭日などに古川さんなどのボランティアの皆さんが中心になって、小屋の掃除をしてくれていますが、2,3人しかいないときに逃げられたら、捕まえるのが大変です。後ろから幾ら追いかけても、鹿のスピードには敵わないから、おじさんたちも息が切れて顔面蒼白になる。やはり餌で誘って鹿を檻に戻すことになります。

この話、校長には黙っていようと緘口令を引いたらしいのですが、3ヶ月後の動物愛護協会の懇親会で、誰かがうっかり喋った話題が巡りめぐって、私の耳に入ったニュースでした。しかし、幸いにも鹿を飼いはじめて38年間、一度も子供の被害がなかったのであります。鹿も判っているのでしょうか、怪我をさせたりすることは決してありません。

事故がなかったことは、実に幸いだったと思います。もし途中で事故があったなら、38年間も続けられなかったでしょう。私に4歳になる孫の男の子おりまして、たまたま正月に鹿の前に連れていきました。柵の中に餌を持って入りましたが、雄鹿の「じんぐう」が孫の後ろに廻って鼻で尻を押しました。孫はたまらず転んで泣きましたが、それ以上のことはなく、何事もおきませんでした。
 
5,6年生になると鹿当番ができます。子供たちも先生たちも、みんな喜んで当番をしています。夏休みも土、日、祝祭日以外は全部当番が廻ってきます。卒業生に「どうだ。鹿当番は嫌だったんじゃない?西小に鹿がいなくなってもいいかい」と訊ねると、「思い出に残ることだから、ずっと飼いつづけて欲しい」という答えが一様に返ってきます。やはり、適正な数で飼いつづけたいなあと思うのです。

「西小・鹿の会」発足のご挨拶 
葛岡 篤


私達は、市立袖ヶ浦西小学校に飼育されている「鹿」の応援隊です。
西小は開校以来「鹿」のいる学校として全国に紹介され「生き物のいのちの大切さや人を愛する心を培いたいという理念のもと・動物を慈しむ心の教育」の実践校として、文部省や県を始め、教育団体やマスコミから注目を浴びてきました。
また、学校動物飼育校としても、日本動物愛護協会からも、飼育についても高い評価を頂いています。 ここまで来れたのは、行政や地域の皆さんのご支援と先生・児童の努力のおかげです。鹿の飼育は街の宝でもあり、誇りでもあります。
 
しかしながら、問題もあります。 ご承知のように、少子化のため、児童数が最盛期の四分の一になり、先生方も少なくなりました。従って、児童も先生も飼育当番が増えるなど負担が増えており、飼育方法を検討する必要に迫られていました。
それに加え、新学期からは、週五日制がしかれます。このために学校の休日が増えます。 そこで、せめて西小区の父母を含む住民が、土・日・祭日に「鹿小屋の掃除」のお手伝いをして先生の負担を少なくしたらと、いう事になりました。

はじめは、お手伝い中の「事故」を校長先生は心配されましたが、グループを結成して保険に加入すれば、との教育委員会のご指導を頂きこの点は解決できました。
昨年一年間は試行期間として、有志の者が校長・教頭・教務主任の先生と土・日・祭日を交替で、小屋の掃除をして参りました。
 
幸いに事故もなく、鹿の里帰りや、小屋の整備もお手伝いできました。
その上、「西小・鹿の会」も作れました。
今年は、西小の伝統を守る意味でも動物を好きな方々の参加を呼びかけたいと存じます。心の教育に励まれる先生方の負担を少なくしていきたい所存です。ご協力をお願いします。
平成十四年 元旦
習志野市立袖ヶ浦西小学校
西小・鹿の会 会長 葛岡 篤
(袖ヶ浦団地自治会 副会長)
会員 飯田 守ほか13名
(地域コミュニテイ誌 平成十五年) 

終わり



講座企画・運営:吉田源司
文責:三上 卓治
写真撮影:橋本 曜
HTML制作:和田 節子