神田雑学大学 2004年12月17日講義録NO246

巷談・本所の四季

講師 濱田 政男


目 次

(クリックすれば該当の項へ進みます。
ブラウザの「戻る」ボタンで目次に戻ります。)

@夏の夕暮れと下町風景

@要津寺の潮時地蔵

@江島杉山神社

@東京大空襲体験記

@相撲甚句




 私は昭和4年に生れました。父の話によりますと、不景気のどん底だったそうです。父は昭和2年に結婚しました。私の生母は昭和8年になくなりました。私は6人兄弟の一番上ですが、病死あるいは戦争で亡くなり、現在はその一番上の私だけが残っているという状態でございます。
 最初に、私が小学校を卒業する頃までの、子供の目に写った下町・本所深川界隈の話を、申し上げます。すこしの間、タイムスリップをしてください。

●夏の夕暮れと下町風景(朗読)

 僕が学校から帰るときは、暑い夏の太陽がギラギラ輝いていた。それが4時ごろになって、急に辺りが真っ暗になったかと思うと、ゴロゴロピカピカと雷様が鳴って、大粒の雨が降ってきて、家の前のドブがたちまち一杯になってきた。ドブ板が二、三枚流れ出してきた。僕が二階の手すりに出していた運動靴を急いでしまったけど、もう間に合わず、びしょ濡れになっていた。

 「シゲ坊、早く蚊帳の中に入いんな。雷様が落ちるぞ」とおばあさんが大きな声で怒鳴った。蚊帳の中に入るとどうして雷様が落ちないのか、僕にはよくわからない。僕が蚊帳の中で本を読んでいたら、お父さんが「これで大分蚊が少なくなるわ」といっていた。雨でドブが流されて、ボウフラがいなくなるからだと思った。暫くすると、辺りが明るくなった。

 すっかり雨が止んで、お日様が出てきた。窓から西日が差してきて、蚊帳の中まで入ってきてまぶしい。遠くの方でまだゴロゴロと雷が鳴っている。もうすぐ七夕様がくるが、去年は折角作った飾りの短冊や、折り紙の鶴や風船や紙の網が、雨でだめになってしまった。表の格子戸の桟に結びつけた笹の短冊が、びしょ濡れになり、下に落っこって、赤や青の折紙の色がゴチャゴチャになっていた。

 今年ももすぐ七夕様がやってくる。僕は毎年七夕様を二回づつやる。それは夏休みになると田舎へ行くからだ。田舎の七夕様は八月七日にやる。東京と違って短冊に字を書くとき、朝早く畑へ行ってさといもの葉っぱに溜まっている露をコップにとってきて、その水で字を書く。それで大きな竹に色々なものをたくさんつける。そして、その日になると朝早く起きてお日様の出ないうちに、近くの川で水浴びをする。こうすると一年中からだを壊さないのだそうだ。 だけど、とても水が冷たい。田舎の七夕に比べると、東京のはつまらない気がする。

 お父さんが物置から縁台をだしてきた。辺りが薄暗くなってきた。団扇をもって、お父さんが夕刊を読んでいたら、前の山田さんのおじさんがやってきた。今日もきっと縁台で夕涼みをしながらビールを飲むのだと思う。お父さんはビールを飲みながら、いつも団扇で脚をパタパタ叩く癖がある。お母さんが「ご飯だから家へ入りなさい」と言ってきた。おじさんとお父さんは、ご飯を食べないで、きっとビールを飲んでいると思う。

 でも、縁日のある日はビールを飲んでいた方がいい。なぜかと言うとお小遣い呉れるのに、文句を言わない。この間の縁日のとき、山田のおじさんはバナナをたくさん買ってきてくれた。こんどの縁日には、花火と塗り絵を買ってもらおうと思う。でも、この間、へんな手品と金魚すくいとでいっぺんに十銭も使って、さんざん叱られた。でも、縁日のある日は、縁台がとても賑やかだ。近所の人が縁日の帰りに入れ替わり寄って、涼んで行くからだ。

 ラジオが終わってもまだ帰らないときがある。でも縁台の周りで線香花火をやったり、縁日で買ったオモチャで遊んでいるうちは暑いのも忘れているけど、蚊帳の中に入って布団の上にごろりと横になると、汗が出てくる。僕は蚊帳が大嫌いだ。立ったまま出たり入ったりして、よく叱られる。僕は寝相が悪いから、蚊帳の中にいても足や腕が蚊に食われることがある。 でも僕は夏が好きだと思う。
                          朗読終わり

 昭和13年頃の、自分の少年時代はこんなものでした。(拍手)
 多分、皆さんにも同じような経験がおありになると思いますが、私の生れた所は、本所区徳右衛門町(現在の墨田区立川三丁目)という場所で、典型的な下町でありました。立川(たてかわ)とは、隅田川から葛西方面へ竪(たて)に掘割があったからで、横へ行く掘割は横川といいました。竪という字が難しくて書けないというので、立川としたと伝えられいます。区役所では立川談志という落語家を「たちかわだんし」と読む人はいませんから、これでいいと言いました。

 立川には一、二、三丁目で約六百所帯の人が住んでいたのですが、現在は一割しか残っていません。竪川に愛着のある方が少ないから、そうなったのでしょう。私が生れた家は、一軒の家を壁で仕切る棟割り長屋でした。当時勤め人はほとんどおらず、家で仕事をしているか、職人かでした。特にメリヤス関係、手袋の加工、染屋が多かった。といっても工場なんてものではなく、玄関に釜が据えてあって、竹に糸を通して染める家内職程度のもの。買い物は町内の肉屋、惣菜屋、八百屋、魚屋で行い、その他に曳き売りがいたという生活でした。

 寅さんではないけれど、縁台で上がランニングにステテコに毛糸の腹巻、夕涼みよくぞ男に生れけるという姿が常識だった。縁日は林町(立川一丁目)にあった弥勒寺、元徳稲荷、回向院の裏の大徳院など、人が出て大賑わいがありました。子供のお小遣いで買える程度の値段の出店がたくさん出ました。中にはインチキなものがあって、万年筆屋が夕べ火事になり、灰だらけ万年筆だが、磨くとこんな立派なもの、幾らでもいいから買ってくれとかいうので、買って家で使ったらすぐダメになったとか…。

 手品にはずいぶん騙されました。羽織の紐をお碗の中に入れて蓋をする。すると羽織の紐が、まるで生きているようにお椀の中から、しゅるしゅるっと出てくる。確かにスゴイと袋に入った手品の道具を買って、家へ帰って見てみると、黒い馬の尻尾の毛が一本入っている。羽織の先にそれを結んで、見る人に解らないようにお椀から引っ張り出せと印刷した紙があった。親父にさんざん怒られました。

 それでも縁日が楽しみでした。縁日は月に四回もありましたから、親も大変でした。兄弟の多いところは、縁日の日に雨が降ると親は大喜びです。雨でも降りそうになると、今日は早く降んないか、早く降ってくれとやります。そころのアイスキャンディは、氷を砕いた桶の中にミカン水を入れた試験管を突っ込み、氷に塩を入れてガラガラ回すと箸の周りのミカン水が凍って、出来上がり。これは時間がかかるけど、お金を握って待っている間も楽しい。

 今は、発がん性があるとかで、食紅など使用禁止になったものが多いですが、そのころ縁日で売っていた飴など、口が苦くなるほど赤い色をつけたものでしたが、それを食べていた子供たち誰一人病気にもならずに済みました。刀を持った蝦蟇の油売りなどには、子供が前で見ていると危ないからと怒られたものでした。この口上は関西弁でしたが、何度聞いても面白い。

 昭和四年に生まれ、小学校を卒業したのは昭和十六年三月二十五日が卒業式でしたから、ほとんど戦争時代に育ったことになります。今は、子供の年が五年十年違っても、やって来たことにそんなに差がないと思います。我々の昭和一桁は一年違っても、大変な差がありました。前の年まで修学旅行があったのに、今年から無くなったとか、尋常小学校が国民学校になったとか。と、まあそんな時代でありました。

 本所では清澄通りを境にして、昔の林町、徳右衛門町、こちらは千歳町、両国になりますが、大変な違いがありました。昭和20年まで私たちの住まいは汲み取り式便所でしたが、千歳町のほうは私たちが小学校へ上がる頃に既に水洗式でありました。しかも、台所にはガスが引いてありました。水道も戸別でした。両国小学校には制服がありましたが、私たちの学校は制服どころではなく、下駄履いて行ってもよかったという具合でした。

●要津寺(ようしんじ)の潮時地蔵

 元禄年間の切り地図に出ている要津寺は、慶安年間(1648-1652)本郷に創建された古刹ですが、徳川綱吉の時代に本所に移ってきたと言われる寺であります。ここには俳句の碑がたくさんあって、その中でも俳聖芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」の安永二年の面影塚が有名です。

 なぜこの寺に碑がたくさんあるかというと、ご住職の話では、夫々の家で石碑を持っていたが、家の建て直しに際して、置き場に苦しんで寺に運んできたのではないかといいます。芭蕉の面影塚は大きい碑で、台座を含めると170cmはあるでしょう。拓本を取りに、たくさんの人が訪れます。

 この寺にある潮時地蔵というお地蔵さんがあります。なぜ潮時というか。あの辺りには堀川がいっぱいありました。家の前にも六間堀というのがあったくらい。その先には五間堀があるという風に、堀が交通の便をなしていた。その堀はすべて隅田川に通じており、隅田川満潮になると堀川の水も水位が上がる。

 すると、要津寺の地蔵さんもびっしょり濡れる。潮が引くとまた乾く。お地蔵さんを見ると、潮の満ち引きがわかる。舟の行き来も、潮の満ち引きで決まるから、その意味では便利である…とまあ、そんなことから潮時地蔵と言われた。その他、この地蔵さんの前には、なぜか拍子木がいっぱい積んであったとか。

 お寺の歴史には、こんな記述が残っているそうです。ある時、夜回りの頭(かしらのことを番太郎といったらしい)が火の番をしていた。その男の子供が風邪を引いた。医者は簡単には治らない百日咳だという。頭はお地蔵さんに願をかけた。願いがかなって子供の病気は治った。番太郎はお寺に礼をしようと思ったが、金がない。そこで、商売道具の拍子木を地蔵さんに納めたという。

 すると、誰いうとなくその噂が町中に広がり、子供が風邪をひくとその拍子木を借りてきて、オモチャにして遊ばせ、子供を外に出さないようにした。そして風邪が治ると、元通り地蔵さんに返した。不思議に風邪が治ると、その内に拍子木を倍にして地蔵さんに納める人が出てきた。だから地蔵さんの前には、何時でも拍子木が、山になっていたということです。

 その地蔵さんも、関東大震災と東京大空襲の戦火に焼かれ、顔も崩れ落ちたので、今は首から上に袱紗をかけて本堂の中に安置してあると、ご住職から話を聞きました。これが、本所の要津寺という珍しい寺のエピソードでございます。

 明治28年の人口調査では、本所は約8万人、向島は6千人でした。昭和15年には、本所地区が28万人、向島が20万人と計48万人に増加しました。 それが疎開や移動もありましたが、昭和20年3月の空襲による戦災で命を失った人が多く、本所1万2千人、向島6万5千人、何と、計7万7千人になってしまったのでした。

 墨田区の様子もずいぶん変わりました。一番変わったのは土地の名前です。下町というのは、明暦の大火をはじめ火事が多く、水が出る、地震がくれば被害が多い場所でした。常に災害に見舞われるので、なるべくお目出度い名前にしようと、緑町、亀沢町、千歳町、松坂町、相生町とかの謡曲から取ったいい名前の町になっています。現在の墨田区は、23万人程度の人口です。

本所七不思議

 本所界隈に七不思議というのが昔からありまして、ご披露すると
1、おいてけ堀
錦糸堀(いまの錦糸町)には白木屋があって、その下から市電が出ていました。その錦糸堀というところは魚がよく釣れた。ところが帰ろうとすると、後ろから声がして「おいてけ」という。釣った人は怖くなって魚を置いてきた。それで不思議の第一がおいてけ堀となった。
2、バカ囃子
  本所では夜中に目を覚ますと、何処からか一晩中お囃子の音が聞こえる。音の元を探して歩いても、何処から聞こえるのか解らない。
3、送り提灯
夜がふけて道を歩いていると、前の方に提灯が見える。これに向かって進んで行くと、提灯も先に進み、何時までも追いつけない。
4、落ち葉なき椎
人呼んで椎の木屋敷と言った大川端の松浦家の上屋敷内にあった椎の大木が、どんな時でも葉が落ちた事が無い。
5、津軽の太鼓
江戸時代、大名屋敷では火事があると半鐘ではなく、版木(はんぎ)を打った。 ところが南割下水(石原町・亀沢町あたり)の津軽家だけは太鼓を打つことを許されていた。南割下水とは、幕府御用の御米蔵に水運で米を運ぶ、道の中央に作った水路。船を両側の道から綱で曳く。最近まで残っていたのは曳舟川。
6、片葉の葦
本所藤代町の駒止橋付近の、隅田川の入り江に生える葦を片葉の葦と言った。その葦の葉は、何故かすべて一方にだけ生えていた。
7、消えずの行燈
江戸時代の二八蕎麦の行燈で、夜中いつ見ても火は消えたことが無いのがあった。

江島杉山神社と杉山真伝流」

 墨田区千歳町に、江島杉山神社という名の神社があります。名前が二つという神社も珍しい。千歳町は1丁目、2丁目、3丁目までありますが、1丁目、2丁目だけが氏子になっており、3丁目は、何故か深川の神明様の氏子になっているのです。お祭りは6月18日ですが、東京で一番小さいお祭りではないでしょうか。

 江島杉山神社の江島は、相州江ノ島にある江島神社の分社であります。杉山神社は、杉山検校が亡くなってお寺同様にお祀りしたものです。明治の神仏分離令で別々になっていたものを、昭和二十七年、二つの名前を合せて復興したものです。さて、この杉山検校という人は如何なる人物であったか。

 杉山検校の父は、三十二万石藤堂和泉守高虎に使えた二百石の碌高の杉山権右衛門重正といった。和一は十歳にして疱瘡を患って視力を失い、鍼治療の道に進んだ。当時、鍼治療の先達者だった山瀬琢一に身を寄せ、弟子となった。
しかし、山瀬琢一の弟子は、和一ただ一人。弟子といっても飯炊き同然、しかも山瀬琢一は、鍼治療を盲人に教えた経験もなく、ひとりで悩むばかりでした。

 和一は、江島神社に鍼治療上達の願かけに赴いた。江島神社(弁財天)は芸能の神様としてご利益があると同時に、盲人の守護神といわれている。和一は江ノ島の岩窟にこもり、八日間に渉り断食しながら一心に願かけをした。今日で最後という日、和一が岩に躓いて転んだとき、手に触ったものがあった。それは笹の葉であった。その笹の葉に、包まれるように松の葉が残っていた。

 和一は閃いた。そうだ、鍼(針)だけを刺そうとするから難しいのだ。この松の葉のように、管を通して鍼を刺せば、目の見えない人にも鍼は打てる。そして江戸に帰り、師匠の山瀬琢一と共同して、管を通してツボに鍼を打つ技術を完成させたという。三百五十年たった今でも、管鍼医はそのやり方で治療を行っている。管鍼法の創始者になった和一は、毎月欠かさず江ノ島弁天様にお参りをしました。

 和一は生計が立つようになり、女中せつを迎えました。ある時、和一が大病した。せつは弁天様にお参りして、和一の病気快癒祈願をし、もし和一の病を治して戴けた暁には、私は江ノ島の海に身を捧げますと祈った。和一の病が治ってせつは、弁天様への約束通り江ノ島の海に身を投げました。今でも和一の墓は江島神社にありますが、その横に、寄り添うようにせつ女の墓があります。 和一は、弁天様に祈願する際、妻は一生持たないと誓ったので、本当に妻は持たなかった。

 寛文十年正月、和一は六十一歳で検校の位を受けた。座頭、校頭、別頭と進み、検校は最高位であります。各位は十六段階、七十三刻み。一つ刻みに金十両を要したという。検校千両と言われる所以であります。和一門下には優れた鍼灸医が集まりました。和一は、当初自宅で教えていたのですが、やがて学問所を作りました。これは、世界の盲人教育史上、特筆すべきことであります。

 その後、盲人の教育所が百年経ってやっとフランスに出来ました。そんなわけで、杉山和一こそは、鍼を中心とした盲人教育の先駆者でありました。元禄二年(1689)、神田小川町に屋敷を拝領して、年俸三百俵となりました。和一は財をなすとともに、将軍綱吉に寵愛され、目が見えないからという理由で、駕篭のまま大奥にも自由に出入りが許されました。

 八十二歳にはさらに二百俵を加え、その翌年には検校の総まとめ、総検校の地位に任ぜられました。緋紋白の袈裟を着て、権大僧都の僧監を持っていたそうであります。将軍が総検校の和一に対して、この上さらに望むものは何かと 訊ねると、「ただ一つでも目が欲しうございます」と答えた。そこで、元禄六年六月十八日、将軍は本所「一つ目」に領地を下さった。

 それは千八百九十坪に、外河岸付き七百九十二坪。町屋敷として使用することを許し、歳をとって月参りも大儀であろうと、江ノ島の弁財天を古跡として招換するがよいとのご朱印を賜った。明治以降に神社の取り潰しがあった際に、残ったのは、古跡であるとしたためである。江島杉山神社には岩屋があり、中には蛇体の弁天様が安置されている。

 上席奥医師であった和一は元禄七年六月二十六日、八十五歳で没した。その時にさらに三百俵の加碌があり、計八百俵の俸碌となった。和一は五月十八日を命日とせよと、観音信仰による遺言をした。和一の遺品は、関東大震災、東京大空襲にも耐えた蔵の中に残っていた。昭和二十七年には、町の人たちの寄付金六十二万五千円。杉山検校遺徳顕彰会から八十万円。その他合計二百五万円の募金で、江島杉山神社が総桧権現造りで再建された。

 神社の蔵を整理すると、古い琵琶と綱吉が書いたという弁財天という字の掛け軸が出てきた。ある先生の話によると、本物だろうという評価だった。鑑定理由は「字が下手だったから」であった。綱吉は学問には優れていたが、字は極めて下手だったらしい。綱吉のサインはあったが、花押はない。綱という字もやや誤字風である。

 古い琵琶は、由緒ありげなものの、演奏には耐えられないので、専門家に依頼して復元した。そして仙台から平曲(平家物語)の演奏家を招いて、神社で重々しく演奏して戴きました。しかし、蔵には、それらの骨董品よりさらに価値あるものが残されていたのであります。それが「杉山真伝流」という秘伝の管鍼術の奥義を伝える書でありました。

秘伝の鍼広く世に 管鍼術考案 杉山眞伝流
流儀書復刻、出版へ 墨田の顕彰会



 現在の鍼治療の基を築いたとされる江戸時代の盲目の鍼科医、杉山和一(1610-94)の業績をたたえる「杉山検校遺徳顕彰会」は、杉山和一とその弟子たちが確立した針治療の方法や、臨床例をまとめた流儀書「杉山眞伝流」を復刻、近く出版する。関係者は「杉山流の免許皆伝者にしか伝えられなかった術を記しており、貴重な資料」と話している。



 杉山和一は将軍綱吉の持医を務め、今の鍼治療の主流である「管鍼術」を考案した。管鍼術は管に針を通して、打つ方法。今では多くの鍼科医が使っている方法だ。江戸時代に「杉山眞伝流」の流儀書が作られ、奥義が家元や免許皆伝された弟子に代々引き継がれてきたという。昭和の初めに一度復刻されたが、誤字脱字や、意図的な削除部分もあり、全文解読するのは困難だったという。  その後、原本は行方がわからなくなったが、昨年一月、杉山和一をまつり、顕彰する同顕彰会の事務所がある江島杉山神社(墨田区千歳)の金庫で見つかった。

 北里研究所東洋医学総合研究所の鑑定によると、見つかった杉山眞伝流は、表之巻二冊、中巻三冊、竜虎之巻一冊など、計九点。昭和初期、61代目の杉山眞伝流継承者だった馬場美静氏の死後、同顕彰会に寄贈されたと見られる。  今回の復刻書は919ページで、原本をそのまま収録。はりの手技に関する重要な部分は、鑑定した同研究所の大浦慈観・客員研究員(49)が漢文を日本語読みにした。管鍼術の細かな手法や、具体的な疾病の治療例、治療法を記載している。

 また、三代目の島浦和田一・惣検校が鍼科医の心構えを述べた「皆伝之巻」では、針を刺すに当っては、「一に須らく人品を高くすべし。二に須らく古の法を師とすべし。三に須らく紳志の穏やかなるを務むべし」としている。 鑑定した大浦さんは「現在、はり治療の主流となっている管鍼術の全容が明らかになった。日本鍼灸の原点でもあり、貴重だ。今後は、流儀書に記載されている治療法がどうして始まったのか研究するのが課題」と話す。

 復刻版は一部¥15,000。350部出版する予定で、既に盲学校やはり・きゅうの専門学校などから約280部注文があった。問合せは、同顕彰会の鹿浜秋信さん(03-3899-2383)へ。
                    ● 読売新聞平成16年5月8日 江東版  

●東京空襲体験記「語りつづる平和への願い」

 私は墨田区に住んでおります。昭和20年3月10日の空襲こよって一番大きな被害にった墨田区は、28万人が被災し、26,000余の尊い命が2時間半の空襲で失われたのでございます。墨田区では平成7年に、「語り継ごう平和への願い」と題しまして、「東京大空襲墨田体験記録集」を発行いたしました。私もこれに寄稿いたしましたので、その一部をご披露させて戴きます。

 私の一家は、堅川(立川)3丁目で軍用の靴下の加工で生計を立てておりました。私は当時中学4年生で、中学1年の弟、国民学校2年の弟、そして6歳になる妹、19歳になる年季奉公のキエさんという山形から来ている女工が住み込んでおりました。下の弟と妹は群馬県のおばさんのところに疎開をしていたのでございますが、3月3日におばさんが亡くなったので、妹だけ帰ってきていたわけでございます。父はその法事のため、いませんでした。 

 3月9日、この日は春一番とでもいうのか、とても風の強い日でした。夜、8時ごろ空襲警報が出たのですが、すぐに解除になり、ほっとしてゲートルを巻いたまま床につきました。しかし、しばらくして母に揺り起こされました。気がつくと、外が明るいのです。物干しに上がって見ると、両国方面が火の海でした。私たちは妹をおぶった母と弟とキエの5人で三ツ目通りを横切り、菊川国民学校に向かって行ったのですが、学校は既に避難民でいっぱいでした。

 仕方なく避難場所の江東区猿江の恩賜公園まで行くことにしたのです。しかし、菊川橋まで来たとき、人と荷車で立ち往生してしまい、動けなくなってしまいました。そのとき、すぐ後ろの家に火がついたのです。母は、「ここにいれば大丈夫だよ」と言って、橋のたもとの防火用水の水をかけていました。そのとき後ろで一段と火の柱が大きくなったと思うと、炎が強風にあおられ私たちの身体を覆ったのです。「ギャー」、妹の髪の毛に火がつきました。「母ちゃん、川へ逃げようよ」、私は思わず走り出し、川へ飛び込んだのです。これが、母、弟、妹、キエさんとの最後の別れとなったのです。

   私は今でも風の強い日、夜中に目を覚ますと、遠くから聞こえてくる車のざわめきが、あのときの声に聞こえたりすることがあります。そして、空が明るくなって、焼けた筏の上に這い上がって助かった人は指で数えるほどでした。見えない目、靴のない裸足、夢中で焼け残った学校へ行き、目を洗い、火傷の手当をしてもらい、炊き出しのお粥をもらって、濡れたまま一夜を明かしたのです。

   翌日、千住にありました母の実家で、自転車を借りて焼け跡へ行きました。焼け跡で、群馬から自転車で帰ってきた父と会いました。何か言おうとしても声にならず、ただ抱き合っていました。中和国民学校へ行くと、そこには火傷をした避難民で、目を覆うばかりの光景でした。生きているのか、死んでいるのかわからない老人、おなかの大きい人が目だけ開けて、何か言いたそうに口だけをばくばくさせているのです。

   区の職員らしい人が2、3人で罹災証明を書いていたのですが、間に合わないので手伝いました。そして最後に自分のを自分で書いたのです。それは今でも大切に保存してあります。母が、弟が、妹が、キエさんが一度に死んだのに涙を流すこともできなかったのですが、ただ、早く戦争が終わればいい、と思うだけでした。

●相撲甚句


 昭和27年1月5日、日本相撲協会が、巣鴨プリズンに収容されていたA級戦犯の皆さんを対象に慰問大相撲を行いました。その際、名呼び出し多賀之丞さんが作った文句で相撲甚句を唄ったところ、戦犯の皆さんが全員涙してこれを聞いたということでした。

サウンド(クリック)
   新生日本
   ああ、どすこい どすこい
あー 世界第二のあの戦いもよー
はー 遂に昭和の二十年 月日は八月十五日、
   恐れ多くも畏くも 大和島根の民草に
   大御心を偲ばされ 血涙絞る玉音に 
   停戦命令は下りたり 
   血をもて築きしわが国も 無常の風に誘われて
   今は昔の夢と消え されど忘るな同胞よ
   あの有名な韓信が 股をくぐりし試しあり  
   花の司の牡丹でも 冬は菰着て寒しのぐ
   与えられたる民主主義 老いも若きも手をとりて
   やがて訪る春を待ち ぱーっと咲かせよ桜花よ
   ああ、どすこい どすこい
 
   せっかく馴染んだ皆様方と
   今日はお別れせにゃならぬ
   何時また何処で会えるやら
   それともこのまま会えぬやら
   思えば涙がぱらーりぱらーりと
   ああ、どすこい どすこい   (拍手・拍手・拍手)
                          
おわり

文責:三上卓治

会場写真撮影:橋本 曜    音声データ編集:山本 啓一 HTML制作:大野令治