神田雑学大学 bQ47 平成17年1月7日


「泥めんこ」ってなあーに?

講師 金刺 伸吾


 江戸時代から明治にかけて子供たちの間で遊ばれてきた泥めんこは、動物、家紋、歌舞伎役者、12支、力士、将棋の駒、などが型抜きされ素焼きの多種多様性が現代でも楽しめると同時に当初の時代背景もわかるものです。
泥めんこの会会長の金刺さんに語っていただきます。

めんことの出会い
今から約50年ほど前、私が中学生の頃のことです。遺跡に興味を持ち遺跡を歩いているときに、畑から土器や石器と一緒に人の顔・物の形をしたものや円盤状のものに文字や家紋等の様々な紋様があるのをみて、何かなと思って拾い集めたのが始まりです。当時はそれが「泥めんこ」だとは知らずに集めていましたが、だんだん関心を持ち、いつの間にか、その紋様等の魅力に引き込まれ今日に至っています。

 今日、お話をする泥めんこについてですが、遊びには、「遊ぶ物(材質)」と「遊び方法」との二つの要素があります。遊び方についてみると、縄文時代、もっと前になるかもしれませんが、例えば、子供が石を拾って木や物に目がけて当てたりすることを繰り返すようになると、それは一つの遊びの元になると思います。そして、遊ぶ道具についても、石・木・紙・金属等いろいろあり、それらを含めて話をすると大変難しいものになりますので、今日は素焼きで作られた「泥めんこ」についてお話しをします。

(1)「泥めんこ」ってどんなもの?
泥めんこ(畑からの採集品)

今日、ここに持ってきたこれが泥めんこです。粘土で型抜きし素焼きにしたもので、素焼きのままや着色したものがあります。大きく分けて人の顔や物の形をしているものと、円盤状をしたものとの二つの分けられます。現在の紙めんこのルーツで、江戸時代の後半から明治初期にかけて子供の間で流行った遊びの一つです。

(2)何で「泥めんこ」と呼ぶの?
最初から「泥めんこ」と呼ばれていたのではありません。文献によると、正徳2年(1712)和漢三才図会の意銭の項に、「和名世邇宇知俗二云フ穴伊知、穴撃の訛乎」また「今僮兒多ク之ヲ弄ブ」と銭での遊びがあります。次に嘉永6年(1853)近世風俗志の中に享保12年版(1727)見付絵見屋うの事の目付絵の中に「めんがた大坂下り」と面形売りの絵があります。

また、面形売りの項に「今は売巡らず番太郎店等にて売之土形也此形に土を納れあくれは面となるもの也今制は甚た小也」とあり、めんがたと呼ばれ、大坂上方からこの頃江戸に伝わったきたことが、また、泥めんこを売りに歩くのではなく、番太郎店等で売られていたことが分かります。

番太郎とは、町内ごとに設けられた木戸の木戸番のことで老人が多かったようです。町内で雇っていましたが給金が安いため、雑貨や駄菓子等を売ったりして生活の足しにしていました。その中に泥めんこも売っていました。次に寛延5年(1752)絵本家賀御伽に老人の面形売りの絵があり、それに「面の形売 あきないが面のかたとて売声も表の方に聞こえこそすれ」とあり、今度は泥めんこを売り歩いていたことが分かります。

次に文政13年(1830)嬉遊笑覧のめんかたの項に「今小兒玩物のめんがたは面模なり瓦の模に土を入てぬくなりまた芥子面とて唾にて指のはらに付る小き瓦の面ありしが今はかはりて銭のやうにて紋形いろいろ付たる面打となれり」とあり、泥めんこの形が小さいものや銭形をしたものがあることが分かります。以上のことから泥めんこが大坂上方から伝わったこと、呼称も「めんがた」「面模(めんがた)「芥子面」「面打(めんちょう)と変り、又、人の顔や物の形から小さいもの、そして銭の形のものへの推移が分かったかと思います。これらを総称して、現在では「泥めんこ」と呼んでいます。

なぜ「泥めんこ」と呼ぶかというと、明治・大正時代になって、鉛めんこ・板めんこ・紙めんこ等が作られるようになり、それらと区別するために材質から「泥めんこ」と呼ばれるようになりました。
いつ頃から「泥めんこ」と呼ばれるようになったかははっきりしませんが、私の記憶で最も古いのは大正4年に記録されたのものがありますが、何時からかは分かりません。今日は明治時代の鉛めんこを持ってきましたので廻して見て下さい。

3)どこで作られたの?
「泥めんこ」は今でも作っている所があり、お土産品として買うことが出来ます。それらの多くは、全国各地の土人形を作っている土地で売られています。
 現在分かっている「泥めんこ」の作られているところ及び廃絶したところを含めて話しますと、


 
●弘前泥めんこ(青森県)  江戸〜明治初期頃の抜き型から復活したしたものです。比較的薄口に出来ていて着色は単色です。種類は多く、文字、花、扇、柱時計、鯛、灯籠等200種位あります。
 ●今町泥めんこ(新潟県)  型が総体的に大きく、着色されており重々しい感があります。鳩車、二股大根と大黒、猫等があります

 
●今戸泥めんこ(東京都)  江戸時代からのもので、泥めんこを調べる上では絶対に欠かせないものです。文化〜文政期頃のものを多く見かけます。紋様の種類は非常に多く数千種類はあると思います。家紋、相撲、町火消、将棋、人物や妖怪等の顔や姿、器物、動植物、文字等々があります。今戸は浅草の近くにあり、今でも一軒残っておりそこで泥めんこを作っています。
 
●栃木泥めんこ(栃木県)  素焼きが多いが、緑青、紅等で着色したものもあります。大黒、猿、狐、軍人、獅子頭等があります。
 ●益子泥めんこ(栃木県)  益子の泥めんこについては、はっきりしていませんが丁寧に作りで、着色されています。魚、椎茸等があります。なお、益子の義父等に聞いたところ見こことも聞いたこともないと話していました。
 ●千葉泥めんこ(千葉県)  昭和13年の一年間だけ作られています。見事な着色で、ニス掛がしてあります。松、竹、梅、猫、犬等20種くらいあります。
 ●富山泥めんこ(富山県)  大正時代の頃のもの。着色は単色のものもある。飛行機、戦車、トラック、落下傘、福助、般若、猿等があります。一つ分からないものがありました。それはラッパのようなものが幾つかで一つになったものでしたが、紙めんこに同じような絵柄があり、飛行機等の爆音を聞く聴音器だと分かりました。
 ●金沢泥めんこ(石川県)  明治末期の頃のもの。軍扇、鯛に籠、福良雀等があります。裏面を擦っておはじき遊びをしたようです。
 ●四日市泥めんこ(三重県) 明治時代のものと思われます。白色の万古焼で図柄はきれいです。乃木大将、牛若丸、清正等があります。
 ●伏見泥めんこ(京都府)  江戸時代からの原型(250種以上)や抜き型が多く保存されています。大変綺麗なもので格調高いものです。弁慶、武者、猟人、般若、猿、文字、家紋等があります。
 ●大阪泥めんこ(大阪府)  大正時代のものと思われます。種類が多く着色されており優れたものが多くあります。軍人、爆弾、花、神楽鈴、鏡台等があります。
 ●堺泥めんこ(大阪府)   昭和初期のもの。大阪や伏見とは別な構図が多いようです。平凡な感じのもので、汚い着色で数十種類はある。夷、大黒、花、蛙、おかめ等があります。
 ●田辺泥めんこ(和歌山県) 明治時代の頃のもの。昭和62年に民家の床下から抜き型が10種ほど発見されたことが地元の新聞で報道されました。その抜き型から再現されました。ここの持ってきたものが田辺の泥めんこです。
 ●洲本泥めんこ(兵庫県)  地元では「はじき面」として販売していました。大小二種の型があり、武士、犬、兵士、夷等があります。

 
●博多泥めんこ(福岡県)  江戸時代からのもので現在でも数軒で作っていま
博多どろめんこ
す。今でも民芸店等で売っているところもあります。白色のもので着色されています。ここに有りますのが10年以上前に買った博多泥めんこです。以前は他でも作っていましたが、作る人が高齢化し今は作っていない人も見られます。
 ●芦屋泥めんこ(福岡県)  博多泥めんこと余り違いはありませんが、土質が異なります。福助、椎茸、猪等があります。
 ●乙川泥めんこ(愛知県)  明治時代のもの。ここについては、私が平成7年に泥めんこの話を電話で聞きました。家の人に明治38年生まれの定吉さん(90歳)に聞いてもらった話です。泥めんこは「福引き」と呼んでいた。「福引き」とは煎餅のことで、その中に泥めんこを入れて売った。私から「からからせんべい」の話をしたところそのような煎餅らしいとのことであった。泥めんこの抜き型にについては、定吉さんもいつ作られたかは分からないが100年以上たった古いもののようである。家は200年以上続いている。定吉さんは小さいころから人形作りをしているが、定吉さんが生まれる以前に作られたものである。抜き型は、家を50b程引越した時に汚れた箱に入ったまま放置してあったのを発見した。猫、鯉、家、夷、大黒等があります。

 以上が文献等で調べたものですが、他にも泥めんこを作っているところがあるようです。現在でも泥めんこを作っているところがありますので希望すれば作っていただけます。ただ、土人形等に比べて安いものなので、忙しい時や期限を切ると断わられることもあります。相手の都合に合わせて焦らずに注文するとよいと思います。
 
 さて、泥めんこの作り方ですが、泥めんこは器用な方ならば何方でも作ることが出来ます。初めに泥めんこの原型を作り、その原型から抜き型を作ります。その抜き型に粘土をつめ、抜いて十分に乾燥させてから焼けば出来上がります。粘土は乾燥したり、焼くと縮まりますのでその分だけ大きめに原型を作らないと小さなものになってしまいます。私の見た原型には横線があり、その線までの深さの抜き型を作れば同じものが作れます。また、抜きやすいようにつまみの付いているものもありました。

(4)何で畑から見つかるの?
 
東京都、千葉県、埼玉県、茨城県、神奈川県等を初めとして
伝世品(千葉県内の旧家から)
多くの地域で泥めんこの散布や採集されています。また、北海道を初めとして全国各地で発掘調査により泥めんこが出土していることが報告されています。特に船橋市から千葉市にかけての地域を中心として畑等から沢山の泥めんこが散布し、採集されることは広く知られています。それでは、なぜこの地域に泥めんこが集中して多く分布しているのかについて地元の人や知人から聞いたりした話しを総合してみると、おおよそ次の4つの要因が考えられます。

(1)畑に虫や病気が出ないように祈願して撒いた。
(2)江戸(東京)から船で積んできた生ごみ(肥料)の中に混じっていた泥めんこを肥料と一緒に撒いた。また、地域によっては船で運んだ下肥の中に混じっていた。
(3)農作物の五穀豊穣を祈願して畑の四方に撒いた。
(4)子供が死亡し埋葬するときに副葬品の一部として入れた。があります。

この中で(1)と(3)は、畑の作物が無事に成長し、収穫できるように祈願をしたという共通性があります。しかし、泥めんこについて見ると、畑に撒かれた泥めんこの種類や紋様、量等が具体的に分かれば、場所によって採集される泥めんこの種類等の違いが特定できるようになると解明が進みそうですが、大量に畑に撒いたとは考えずらいので地域的なものと考えられます。武蔵村山市内では、泥めんこを畑に撒くと、植えたものがよく出来る。虫除けという話しが残っており、時々、畑の中からみつかるとのことです。

(4)子供が死亡したときに副葬品として埋葬された例は、県内では佐倉市市内で、着色されたままの泥めんこが100個位出土したものを見たことがあります。また、県外では20個程が埼玉県大井町の寺跡の墓地から出土しています。この2例から見ると、墓地という特定された場所からの発見であり、量的にも少ない。しかし、年代がある程度特定されるため、泥めんこの年代を調べる上では良好な資料となります。

(2)の江戸からの肥料に混入していたということについては、江戸は大消費地であり、それを取巻く周辺は生産地として江戸へ物資を供給することを考えると、生産することにより土地がやせてきます。それを補うために生ごみを利用することは資源をうまくリサイクルしていることが窺われます。船橋市周辺では船に積まれた生ごみを川の河口に運び、陸揚げされた際に生ごみの中の危険物や大きな邪魔物を取り除いた。

これを大ふるいといいます。この取り除いた生ごみを肥料として使われたものの中に多くの泥めんこが混入されていた。それが腐らずにそのまま残り、現在畑等に散布しているというものです。なお、生ごみは戦前頃まで長い期間にわたって使われていたので、畑等から沢山の泥めんこが散布していることも合理的に考えられます。下肥も同様に考えられます。

 以上からして、船橋周辺からで沢山の泥めんこが見つかるのは、江戸からの生ごみに混入したものと考えられますが、なぜ多くの泥めんこが混入しているかは今後の課題です。それにしても、船橋から千葉にかけての地域の畑等を全部ひっくり返して集めたとすると数十万個以上見つかるのではないかとおもわれます。長期間とはいえ大量の泥めんこが作られたものです。

(5)泥めんこで何が分かるの?
 ここに用意しました約200個程の泥めんこの紋様を見てお分かりになると思いますが、力士、歌舞伎役者の紋、将棋、貨幣、文字、船等様々なものがあります。これらの紋様を一つ一つ絵解きをしていきますと、この泥めんこが作られた江戸時代庶民の生活の一端を垣間見ることが出来ます。船を見ると、入船・米・酒の文字が見られます。是は当時の海運、米・酒廻船のことや番船のことが分かります。

力士を見ると、荒馬・源氏山・千田川、そして力士の姿をしたものの廻しには柏戸の文字が見られます。泥めんこの中で力士名が分かるものは17名位います。江戸時代の幕内番付に限定して泥めんこをみると、番付に名前が1回出ているのは、立神が文化、有馬山が文政、錦が天保、猪王山が弘化、一力が嘉永、雲龍が嘉永、両国が元治の7名が見られます。

古いところを見ると、宝暦に源氏山・戸田川・大空、明和に玉垣・稲川・千田川が見られます。例えば、柏戸は江戸時代だけでも6代続いています。そうすると泥めんこの柏戸は何代目かを特定することは難しいです。ただ、全体的に見ると文化文政期に相撲が大変流行っていたことと泥めんこの力士名が多いことを見ると、相撲から限ってみると泥めんこもこの頃に流行っていたことが窺われます。

 社会思想社の教養文庫に「柳多留」という川柳の本がありますが、それを読んでいると泥めんこの紋様に関係するものが見られます。いくつか例をあげてみます。
 泥めんこに武蔵坊弁慶が七つ道具を背負っているのがあり、次の二句を思い出しながらこの泥めんこを眺めているとつい顔がほころんできます。
 ●武さし坊とかく支度に手間がとれ
 ●むさし坊水車程しよつて出る
  この二句は、武蔵坊弁慶が掛矢、大鋸等の七つ道具を背負って支度をするには随分手間がかかることであろう。また、七つ道具を丸く開いて背中に背負っている様子は、まるで水車を背負ったほどの大仰なありさまである。

 泥めんこに将棋の駒を現したものがあります。私の持っている将棋の駒の中で足りなしのは歩だけです。川柳の中で将棋を題材にしたものが20句以上あります
穴一 きずのたちぐわえ

 ●将棋ばんさし上げていて是乳母よ
  主人が客と将棋を差していると、幼児が這ってきて駒をいじくりそうなのであわてて将棋盤をを差上げて、乳母を呼んでいる情景がいかにもありそうで目に浮かびます。
 
 ●とこ見せの将棊は一人腰をかけ
  床見世は人家の軒下、橋詰、空地等に出す小さな店のことで、間口九尺、奥行三尺ぐらいの狭い店で古着屋、古道具屋が多かった。狭いから将棋を差すのにも一人しか腰掛けられない様子から生活の一端がが窺われます。

(6)どうやって遊んだのかな?
 皆さんも子供の頃に、ビー玉、ベーゴマ、おはじき等をして取り合いの遊んだことがあると思います。泥めんこも江戸時代の子供達の間で流行った賭け事遊びの一つです。泥めんこ遊びをするとすぐに欠けてしまうのではと思う人がいると思いますが、今は地面が舗装等がされているところでも、当時は土の地面ですからそんなに欠けないと思います。泥めんこの代表的な遊びには、「穴一」、「よせ」、「きずの立ちぐわえ」、「升入れ」、「なめかた」等がありますので、

 ●「穴一」は、地面に10a程の穴を掘り、穴から数b離れた踏切線から穴を狙って泥めんこを投げます。穴に入った者を勝ちとし、穴から出たり、他の泥めんこに当たったら負けになります。

 ●「よせ」は、地面に小枝をさし、数b離れた踏切線から小枝を目がけて泥めんこを投げます。小枝に一番近くに投げた者が勝ちとし、他の泥めんこを全て取れます。
 
 ●「きずの立ちぐわえ」は、「きず」の一種です。地面に「女」の字に似た図を描きます。中心の三角形の中に泥めんこを一つ置き、図の脇に立って目の下あたりから泥めんこを落とします。下の泥めんこに重なったり、ひっくり返って打ち付けた泥めんこの上に乗れば勝ちとなります。これを「くわえる」といいます。この遊びはやってみるとかなり難しいものです。

 ●「升入れ」は、地面に「三升」の紋の図を描きます。この三区画を外側から甲・乙・丙と呼び、この図から数b離れた踏切線から区画を狙って泥めんこを投げます。線にかからずに甲に入れば一個、乙に入れば二個、丙に入れば三個がそれぞれ他の人から泥めんこがもらえます。
 ●「なめかた」は、泥めんこの表か裏かを当てるだけの遊びです。空中に投げ上げて、それを受け取り、手の中の泥めんこの表裏を当てます。また、50a位のところから泥めんこを落とし表裏を当てます。「なめ」が裏で、「かた」が表です。「字か無か」とも言います。

 これで、私の話は終りにします。それでは、今日は、皆さんに泥めんこ遊びをしていただこうと思い、私が泥めんこから抜き型を作り、型抜きしたものや粘土の抜き型から、石粉粘土で代用泥めんこを作りましたので、それを使っていただきます。なお、皆さんの手元に家に持って帰っていただくために用意したものには、神田雑学大学と言うことで「神田」の文字、昨年は「申年」、今年は「酉年」と言うことで干支等5個を袋に入れました。

 さて、皆さんに遊んでいただくわけですが、簡単なルールの説明だけで細かな決まりがありません。この中には、昔ガキ大将だった人もいると思いますので、遊び方の難しいものはそれぞれのグループ毎にルールを
決めて工夫したり、踏切線からの距離を近くにしてもよいと思います。下が固いので弾みやすくて難しいと思いますが始めてください。

 このあと、金刺先生の指導のもと、全員童心に帰って泥メンコ遊びに興じたことはいうまでもありません。シニアボーイズの表情をご覧下さい。(三上記)


文責、泥めんこ写真;金刺伸吾   会場写真;橋本曜  HTML/写真編集;山本啓一