神田雑学大学定例講座 平成17年1月28日 講義録


講義名 マジックに魅せられて


講師 村山正幸
 

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それは戦後の闇市から始まった

私は、日暮里で駄菓子オモチャ卸商をしている、村上商店の村上正幸です。 自分が夜学に通っていた高校2年、戦後の闇市から始まった駄菓子卸商は数えて今年50年になります。 新宿あたりで露天商をしていたヤクザの人たちが、新宿を追われて日暮里駅前に店を出したのが始まりと聞いています。

はじめはアスレチンガスで灯りを取り、布や筵を敷いて品物を並べ、朝の4時から昼前の10時までに完売。とにかく商品はあれば何でも売れた時代です。 むしろ品物を探すのに、仕入れが大変でした。

私の父の店は、おもにアメ玉、おせんべい、餅菓子などを売っていました。 その後、闇市が終わるころに、今写真で回しているバラック建て、これが駄菓子の問屋街になりました。  露店商ははじめ布や筵を敷いての商売から片屋根つきの店となり、何年か過ぎて親分衆が建てたバラックの店になりました。 店は綺麗になったけど、その代わり毎日「ゴミ代」というお金を徴収されたそうです。

まだ「おせんべい」などは統制でしたから、隠していたのを見つけられ警察に取り上げられたこともありました。 小学校5年のとき、給食におせんべいが出たことを覚えております。おいしかったですね。他には食べるものが碌になかった時代でしたから。 それは、やや小ぶりのせんべいに海苔が巻いてありました。一般に品川巻きという種類ですが、業者はこれを「腰巻」といっていました。

子供の遊び(昭和25年頃)

疎開さきの新潟から帰ってきて、日暮里五丁目(三河島駅近く)に住みました。転校した小学校では子供たちがローマ字を習っていました。 新潟ではローマ字どころかABCもやっていませんでしたから、これには驚きました。最近パソコン教室へ通っていますが、いまだにローマ字は苦手です。

そのころの子供の遊びは「ベーゴマ」「メンコ」「ビー玉」が主で、それ以外には石ケリ、五寸釘遊び(釘の頭を潰して土に打ちつけクモの巣状に発展させる)、 竹フェンシングなどがありました。自分が得意だったのは、リンゴ箱を潰して木製の刀を作り、三人の仲間とのチャンバラでした。遊んで夕方、 銭湯へ行ったら近所のおじさんに「坊や、おめえ強いな」と褒められました。それもその筈、私は体が小さかったから、 遊び相手も小さい2,3年下の学年の子でした。その子たちが相手では、強いのは当たり前でした。

ところで、ベーゴマを回せる方いらっしゃいますか?ベーゴマにはたんこぶがついています。離れているのに縄を巻く方が男巻き、 くっついているのに巻くのが女巻きです。べーごまには角と丸があります。子供の世界の約束事で、元から角のものは使わず、 丸を自分で摺って角にしてものだけ、バケツの底の土俵に出場することができます。ベーゴマの取りっこする。女の子は、あまりしなかったと思います。 【佐藤俊雄氏が挑戦したが、60年の空白に勝てず、巻きに失敗】。 上手な子は、獲ったベーゴマをオモチャ屋さんに売りに来たものです。

両親が店舗を購入

両親は戦前、田端(北区)でもち菓子屋をしておりました。 親父が作って、おふくろが店に運んで売っておりました。戦争で新潟に疎開し昭和24年に東京に帰って、 あんこ玉を作り日暮里のバラックの店に卸したのです。

ところが材料がろくに手に入らないので、小豆と一緒にさつま芋を入れて売り歩いた。 小豆はよかったが、混ぜものの芋が入ると日持ちがしないため返品が多く、儲けにはならなかったようでした。

駄菓子問屋にデッチ奉公していた二番目の兄が、辞めて帰ってきて間もなく、その問屋が店を畳むことになったので、 おふくろが親戚・知人から金を借りて20万円で譲りうけました。そこで、両親と兄、私の四人で駄菓子屋をはじめたのです。 バラックが建っている場所は東京都の土地でした。いずれ取り払いになることは、判っていたので、 測量などがはじまると、ヒヤヒヤしたとおふくろが言っていました。

食べなきゃいけない、金を返さなきゃいけないで、両親は真剣そのもの、おかげで店は大繁盛だったそうです。 昭和25年頃の話ですが、売り上げは一円札でしたから、こんな束(約一千枚20cm程)でした。 米軍が使った段ボールへ、その一円の札束を詰め込んだということです。ですから私が中学生になったとき、サージの詰襟の学生服を注文してくれました。 普通14インチのカラーサイズですが、小柄な私の襟カラーは12インチでした。

商売のきっかけは

中学3年の終わり頃、浅草の千束町に住まいを移しました。昔は、、駄菓子類はオモチャ屋で売っていました。 アメ、せんべい、菓子屋、生菓子屋はそれぞれ独立して商売ができていたのです。店はバラックから写真にあるように、 それぞれ木造の二階建てに移りました。二年後の昭和30年、長男の独立がきっかけで、まだ夜間高校の私がこの商売に入りました。 朝6時、住まいの浅草から店に出ますと、そんな時間なのに駄菓子屋のお客さんでごった返しです。

お客さんも資金があまりないので、良く売れるときは一日に2回も仕入れにやってきます。午前6時の出勤なのに、兄貴に「遅いぞ!」と怒られました。 いま思うと、二度とない好景気でした。長男も独立して2年目に、親に「一千万円たまったよ」と報告していたのを、聞いたことがあります。 私の給料は食事つき、一月3千円でした。確か、コッペパンの縦半分に切ってジャムがついたヤツが15円、ラーメンが30円でした。

長男が結婚。私が兄の仕事を手伝って5年経ちました。そこから再び親の店を手伝ったのですが、そのときの給料一万円になりました。 その後、となりのせんべい屋が廃業することになったので、親が私名義でその店を買ってくれました。つまり、お店が倍の広さになったのです。 もとの店は一小間五坪でしたから、十坪の店になったので、商品を増やして、駄菓子屋がせんべいも置くようになった。

これまでは、駄菓子屋は駄菓子しか置いてなかったのですが、その頃から森永、ロッテなどの一流メーカーのポケットものも置くようになり、 品ぞろいが充実してきました。いま無くなった駄菓子「チュウチュウニッキ」を覚えていますか?

ウイスキーの角瓶に似せた小さいガラス瓶で、ニッキ水が入っていました。蓋はコルク、ビニールの管で赤いニッキ水を吸う仕組みですが、当時は保健所もうるさくなかったので、 自家製造販売していました。

ジュースとか、ブラジルコーヒーなども製造していました。そのほか、ハマグリに赤いニッキを塗った菓子を覚えていませんか?あるでしょう。 これは一度、猫に舐めさせたことがあります。すると舐めた途端、猫はびゅっと飛び出して逃げました。あとを追って見にいったら、泡を吹いていましたね。 ニッキはこの他に、紙ニッキという赤やピンクの色紙がクジになっているヤツがありました。1等が出ると大きいニッキが取れる仕組みです。

ガラスの管に寒天が入っている一本一円のもの。寒天を吸って食べて、ガラスは店に返すのです。赤い色つきジュースもありました。そのほか今は無いものに、 芯抜きアメ、型抜きアメ、型抜きせんべい、などがあります。大きい台紙に紙袋に入った甘納豆が貼ってあるクジはご存知でしょう。 当れば大きい袋の甘納豆がもらえるが、回転が悪いから小豆の甘納豆が乾いて硬くなってしまっている。タンコタン吉という仁丹よりは大き目のチョコレートの玉が、 同じやり方でよく売れました。あの時代に、よくチョコレートを入手できたものです。

廃品がオモチャに

ものがない時代でしたから、捨てるものでもオモチャになりました。マッチのレッテルがそれです。 紙メンコのように、裏返しして獲りっこするという遊びがありました。一番売れたのがミシン糸の芯です。 これを繋げ刀の替わりにしてチャンバラで遊ぶのですが、ものすごく売れました。原動機つきの自転車で、あちこち仕入れに廻ったことをよく覚えております。

競輪の投票券もオモチャのキップ用として売れました。廃品ではありませんが、少年雑誌の付録の中で人気のあるものなどが、 売れる商品になりました。しかし、オモチャには売れ残りがでます。年に2度、それらを5、6点袋に入れ値段は50円くらいでバーゲンセールします。

オモチャ屋には大物屋と、小物屋に別れています。私は小物屋でした。今感覚でいえば、50円100円200円が中心で、 せいぜい1000円止まりの価格構成です。大物屋は一流大メーカーのバンダイ、タカラ、トミー、ツクダ等のオモチャを扱うのです。 小物屋は、たとえば大物のフラフープが売れたとすると、そのコピー(ニセモノ)を作って販売します。ひどいヤツは水道管を繋げて売ったものもあります。 ダッコちゃんは、あまりニセモノが出ませんでした。

超ロングセラー出現のアレコレ

オモチヤのヒット商品は、言葉に出せないくらい数々あるのですが、紅梅キャラメルの野球選手カードが一番でしょう。 プロ野球各チームの監督・選手のメンバーを揃えると、野球用品が貰えるというシステムでした。 有名監督や、人気選手のカードは中々出ないようになっていましたが、ホームランが出ると、キャラメルをもう一箱もらえます。 システムも新機軸でしたが、キャラメルはアメ玉より美味しかったためでしょう。

ところが、人気のあまり商品が中々廻ってきませんでした。 問屋が玉を隠して、上得意にしか売らなかったらしいと聞いています。 最後には、カードが揃っても、メーカーから景品が送られて来なかったようでした。うちは駄菓子の方でしたから、 紅梅キャラメルはほとんど扱っていませんでした。ブロマイドは印刷でしたが、プロレスの力道山や、ルー・テーズ、オルテガなど、 時代劇の錦之助、市川歌右衛門、片岡知恵蔵などが人気商品で、これは紙袋に入ってクジがついており、当りは大型ブロマイドを貰えました。

昭和30年が過ぎた頃、石原裕次郎のブロマイドが本プロ(本当の写真)で商品化され、一枚20円でしたが、ものすごく売れました。 日暮里の山を越えて台東区にそのメーカーの家があり、夫婦で♪おいらはドラマー・・と唄いながら、六畳一間で写真を混ぜて紙袋に入れていました。 たまたま仕入れに行って見た光景ですが、強く印象に残っています。

 塗り絵は、ミッチー(正田美智子さん)の白いショール姿の絵がよく売れました。その頃はテレビものの絵は無かったですが、 今ではポケモンはじめ、テレビもの全盛です。仮面ライダーチップは昭和48年頃によく出ました。中に入っているカードが欲しかったのでしょうが、 道を歩くと、そこいらに中身のスナックが捨ててあるのを見かけました。

メーカーは仮面ライダーだけを注文したのでは送ってこないので、カッパえびせん、じゅうボールなど抱き合わせで買いました。しかし、 自分は抱き合わせ販売が下手でしたから、残ったりして困りました。でもカッパえびせんでしたから、何とかなりました。そのあとはウルトラマンの消しゴム、 スーパーカーの消しゴムや写真、ブロマイドが50年代に売れた商品です。

カッチン玉、ガンダムのプラモデル、キューブ(ツクダ)のコピー商品などが売れたオモチャです。特にカチン玉は朝、店の前にお客が待っていたほどで、 一人5個づつとか数量制限をしたものです。たまたま店にカッチン玉が残っていましたから持ってきました。これご存知ですよね。こんな風にやって遊びます。 これは簡単そうに見えて、ビーゴマより難しい。 ナメ猫シリーズも人気がありましたね。着せ替え人形風ナメ猫も一世風靡でした。

引越し4回

日暮里駅前再開発やら、親元から自分の家へとか、何やかにやで私は4回も引越しました。昭和48年、結婚して浅草に住みました。 6年後に日暮里の店の近くに住居を買って移りました。 その時に、親父が涙ぐんでいたのをよく覚えております。広い道に面していた店を持っていた兄が辞めるので、狭い私道に面した店で営業していた私が、 それを買いうけ店を広げました。私の商売の中で、その時が一番好調に売れていたように思います。家に帰るのは、寝に帰るためという状況でした。

ところが、だんだん景気が悪くなり、駄菓子屋の減りはじめ、店の年間売上が最盛時の60%くらいになってきたのです。 女房が店を一緒にやっていたのですが、居酒屋をやりたいといいます。私一人で店をやるのは忙しくて困るのですが、 駄菓子より儲かるのではないか、とやって見ることにしました。元の店は倉庫にしていましたが、そこに戻り営業を続けていたら、 建築会社(地上げ屋)が来て駅前開発地と等価交換の話をしに来ました。

駄菓子問屋は売上が落ちている時期でしたし、バブルがはじける前でしたから、好条件で話が進め易かったのでしょう。 3分の2の問屋は諒解して、再開発ビルに入居したのですが、廃業した店もあり、建築の都合で各店が分散する結果になりました。 すなわち、以前のように問屋街として軒を連ねていないので、お客さんには不便になりました。中には私の店に「この辺に駄菓子問屋街はありませんでしたかね?」 と聞きにくる人もおりました。
  
「うちにいっぱいありますよ」といいたいのですが、実は再開発の結果、駄菓子問屋街は50-60m離れた場所になりました。 やはり、この商売はお店同士がくっついてないと駄目だと痛切に思ったことでした。そんなこともあって、私の店は元にいた場所に建った 8階建てのビルに戻ったわけですが、売上の方も元に戻りました。売上も卸だけではなく、一般の方にも売りましたが、 比率は卸より一般の方が多くなったので、助かりました。

ところが、再び再開発の話になり、去年の12月上旬にまた引越しです。それも現在地から約100mくらい離れているところです。 それは立派なビルで、駄菓子屋がオモチャの指輪なんぞ売っているような構えではありません。本物の指輪を売りたいくらい素晴らしいビルなんです。 しかし、惜しい事に今までの店の広さに比べて80%しかない。ですから種類が今までのように置けない。自分の車庫に品物を置いて、 車の車庫は他所に借りているという状態です。

日暮里駅前再開発事業

公の再開発は、条件が厳しくて、そういっては何ですが、どちらかというとマイナスの感じです。一番のマイナスは同業者が無くなちゃったことです。 たった3軒だけ残って、一階と二階で営業しております。最も多いときには、百軒以上の店があったと聞いています。 この再開発は平成11年頃に始まりましたが、うちも再開発準備委員にさせられました。準備委員会とはいうものの、月に一度集まっての勉強会でした。

4年後の平成15年2月に本組合ができて、現在進行中です。日暮里駅前にできるビルは3棟あり、駅よりの西地区が最初にでき、これが28階。 1年遅れで中央地区(駄菓子屋街がある)には高さ153m、地上40階地下2階、延べ面積52,800平方メートルのビルが出来ます。店舗、事務所、 マンションの構成です。スーパーかデパートが入る予定です。

駄菓子屋横丁とは、お客さんが勝手に呼んでいる名前です。正式名は菓子玩具問屋組合なんですね。 しかし、駄菓子屋横丁の方が、聞きやすく通りがいい。 去年(平成16年)9月26日で、そこは取り壊してなくなりました。私の店があった8階建てのビルは、これから取り壊しになります。

今、3店舗が入っている素晴らしいビルの完成は、3年後です。完成の暁に、お客さんが今まで通り来てくれるかどうか、これが一番の心配であります。 軒数がいっぱいあればこそ競争になって、お客も集まるわけです。 駄菓子ブームと言われているのですが、平均すると実態はあまりよくない。どんどん辞めていく店もあります。しかし、お客さんには元気づけられる。

「村山さん、続けてくださいよ」
私は今年67歳になります。16歳からはじめたこの仕事、大分くたびれましたが、お客さんにも喜んで戴いていますから、 まだまだがんばりたいと思っています。日暮里駅東口のすぐ傍です。皆さんもお暇な折には、ぜひ駄菓子横丁にお出で下さい。

終わり

(文責 三上 卓治)
会場撮影 橋本 曜  HTML作成 上野 治子