神田雑学大学定例講座 平成17年3月18日 講義録


平成17年3月18日 神田雑学大学講座 第265回



幻の郷土料理に挑む


講師 松本忠久氏 

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シモツカレとは

もっとも古い文献

なぜ近江から北関東、
奥会津に伝播したか?

その後の「しもつかれ料理



1.シモツカレとは

シモツカレとは、炒った大豆を、「鬼卸し」という卸し器で荒くおろした大根とにんじん、 塩鮭の頭、油揚げ、酒粕などといっしょに蒸し煮した郷土料理です。年に一度だけ、二月 の初午の日だけにつくり、お稲荷さまに供えるあまり知られていない行事料理です。 これが食べられているのは、北関東の茨城、栃木、群馬、埼玉、千葉県と、福島県の会津 だけで、この地域以外の人は見たことも聞いたこともないでしょう。

  

2.もっとも古い文献

「古事談」「宇治拾遺物語(うじしゅういものがたり)」の「酢むつかり」 この起源は、なんと遠く離れた滋賀、京都だと思われます。平安時代から鎌倉時代にかけて書かれた「古事談」「宇治拾遺物語」に、 「酢むつかり」という料理が出てきます。これは、炒った大豆に酢をかけただけのものでした。当時は料理の技術が非常に低く、 宮中の宴会でも、炒り豆が結構なおつまみでした。堅いので酢をかけてやわらげたり、塩で味つけして食べたのだと思われます。

二つの本には、こんな話がのっています。比叡山延暦寺の戒壇が壊れたので、元三大師が修復しようと思いましたが、 人夫が集まりませんでした。そこで、炒り豆を投げさせ、箸で受け止めるという賭けをしました。大師はみごとに受け止めたので、 戒壇を修復することができたというのです。話の中に「酢むつかり」が出てきます。



3.なぜ近江から北関東、奥会津に伝播したか?

江戸時代の初め、徳川家康が亡くなりました。激しい宗教論争の末、天台宗の天海大僧 正が勝利をおさめました。日光の東照宮に遺体をおさめ、上野の寛永寺で菩提を弔うこと になりました。今の上野公園や上野駅は、みんな寛永寺の敷地で、多数の寺院が建てられ 享した。ここに、延暦寺で修行した天台宗の坊さんが無数に集められました。「酢むつかり」 という食べものは、そのとき北関東に持ち込まれたのだと思います。

  そのころは、卸し器が普及していたので、大根卸しを加え、「豆なます」にして食べられていたようです。 このような食べものの伝播は、いろいろな例があります。上野に「笹の雪」という豆腐料 理店がありますが、その先祖は、寛永寺の輪王寺宮が京都から招いたのです。江戸の豆腐 は固かったのですが、はじめて絹漉し豆腐が伝わったのです。栃木県の名産「かんぴょう」 も、近江国水口から伝わったものです。

室町時代以降、西日本には醤油が普及しました。「酢むつかり」は、もっと味がよい「醤油豆」に置き換えられました。こうして、今の滋賀県や京都には「酢むつかり」は姿を消してしまいました。

いっぽう、北関東では、陸路はもちろん、利根川、江戸川や霞ケ浦などを利用した水運によって、農村に普及しました。 昔、大根やにんじんは、冬のあいだ地中に埋めて保存しました。春になると腐るので、その前に食べてしまおうとしたのが、 大根卸しをかけた豆なます「酢むつかり」と結びつきました。それに、ちょうどこの頃できあがる酒粕、 初午にお稲荷さんの狐に供える油揚げ、節分にまいた残りの炒り豆、正月のごちそうの塩鮭の残った頭など、 みんないっしょに煮て食べるようになりました。冬の残り物をみな食べつくし、春を迎える行事食になりました。また、 節分豆を食べると雷にあわないという俗信もありました。これによって初午の日に食べる習慣ができました。

4.その後の「しもつかれ料理」

こうして、最初は酢をかけた炒り豆だった「酢むつかり」は、」北関東ではいろんな材料 を入れた蒸し煮料理に変化しました。名前も「しもつかれ」など、百種類ぐらいに変化し ました。しかし、農村と比較にならないほど食べものが贅沢だった江戸では、野暮だとさ れ、広まりませんでした。武士階級も農民の習俗になじまなかったようです。だから、今 の東京ではぜんぜん知られていません。料理の本にもあまり出てきませんが、モー娘が「ロ ックンロール県庁所在地」で「♪しもつかれ、しもつかれ」と唄っているのがこれです。
   
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終わり
 
   (文責 松本 忠久)
・会場撮影 : 橋本 曜   ・HTML制作 : 上野 治子