平成17年3月25日
No.257神田雑学大学講座

観覧車がやってきた

講師:福井 優子



ノーマン・アンダーソン氏との出会い

 私の研究は観覧車そのものより歴史がテーマである。特に観覧車が大好きだったわけではないし、飛行塔と観覧車の区別がつかないくらいの遊園地オンチだった。そんな私がなぜ観覧車の研究を始めたかというと、11年前に米ノースカロライナ州の州都、ローリーにあるノースカロライナ州立大学で英語の夏期講座を受講したとき、その大学の元科学教育学教授、ノーマン・アンダーソンさんと出会ったことから始まる。アンダーソンさんは「フェリスホイール・ニューズレター」という、観覧車に関するニュースレターを発行する観覧車の歴史研究の第一人者だった。そのニュースレターに、私が英語の勉強も兼ねて日本の観覧車情報を寄稿するようになり、次第に観覧車に興味を持つようになった。
ある時、アンダーソンさんから「日本の観覧車の歴史を調べてみないか」と勧められた。そうして調査を始めてすぐに、幸運にも「日本初の観覧車」を発見した。そのときに調べたことや、経緯をまとめたのが2005年1月に平凡社から出版した『観覧車物語─110年の歴史をめぐる』(
 参照)だ。
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は、アンダーソンさんとアンダーソンさんの部屋。アンダーソンさんはあらゆる観覧車グッズのコレクターで、自宅にプラモデルのメリーゴーランドや観覧車があるミニチュアの遊園地を自分で作って、楽しい人生を送っている。現在75歳。

観覧車とは何か
 観覧車とは、大辞典などによると「遊園地などにある乗り物の一つ」と説明されている。ゆっくりと回転する巨大な水車型の輪に吊るしたゴンドラに乗り、高い位置からの展望を楽しむもので、「垂直に回転する遊戯具」と言える。
観覧車の祖先は、17世紀ごろの中近東や、アフリカ、東ヨーロッパなどに存在した。観覧車を英語で「フェリスホイール(Ferris Wheel)」と言うが、そう呼ばれる以前は「プレジャーホイール(pleasure wheel)」(娯楽の回転輪)と呼ばれていた。その中でも土地によっていろいろな呼び名があった。丸い輪だけでなく、二組の腕木を十字に組み合わせ、その先に箱を取り付けて回転させるものもあった。このタイプは現在でもネパールやインド、パキスタン、アフリカあたりに残っている。(
3参照)
 観覧車の祖先の一つと考えられるのは水車で、子供たちが、輪の部分についている壷につかまって遊んだのが原型の一つではとも言われている(C参照)。また1620年、イギリスの探検家、ピーター・マンディがフィリップポリス(現在のブルガリア)の小さな村のお祭りに遭遇したときに見た、いくつかの遊戯具をスケッチしたものが彼の日記に描かれている(
5参照)。ブランコ、回転木馬、観覧車の原型のようだ。これが観覧車に関する最も古い記述らしい。

観覧車の呼び名
 1907年(明治40)、東京・上野で開催された東京勧業博覧会場の第一会場・竹の台と第二会場・池之端に、それぞれ観覧車が1基ずつ設置された。このときに初めて「観覧車」と呼ばれている。これは1904年にアメリカのセントルイスで開かれた博覧会で建設された観覧車が「オブザベーションホイール(Observation Wheel)」と呼ばれたからで、「オブザベーション」とは「見る」とか「観覧する」という意味があり、「観覧車」とは「オブザベーションホイール」の訳語である。現在、観覧車のことを英語では「フェリスホイール」と言うが、これは製作者であるジョージ・フェリスの名前から採ったものだ。その前は「プレジャーホイール」と呼ばれていた。プレジャーホイールの個々の名前としては、「アップス・アンド・ダウンズ(ups and downs)」、「ワーリング(whirling)」、「パーパンディキュラー(perpendicular)」(垂直の)、「ラウンドアバウト(roundabout)」(回り道)、「スイングス(swings)」、「オーバーボート(overboat)」などがある。
 プレジャーホイールは市(フェア)などの交易のある場所で、占い師、奇術師、アクロバットなどと同様に、娯楽の一つとして発展した。

博覧会と観覧車
 アメリカのステイトフェア(州のお祭り)にはカーニバルがつきもので、カーニバルには観覧車が不可欠である。
6の写真は、私が2003年の秋に、ノースカルライナ州のローリーで撮影した移動式観覧車で、長椅子型で後ろの方向に猛スピードで回る。高さ18mぐらいしかないが、とてもスリルがあった。日本と違って座席はオープン式になっているが、危険だからといって特に規制はない。映画「エデンの東」では、主人公の反抗的な弟キャルが兄の恋人のアブラと観覧車の上でキスするシーンに出てくるのが、この形の観覧車だ。  
 現在のような大型観覧車が建設されたのは、1893年にシカゴで開催されたコロンビア博覧会場。コロンブスがアメリカ大陸を発見してから400年を記念して開催された。観覧車は1889年のパリ万国博覧会場に建設されたエッフェル塔に対抗して建設された。建設したのは米国人の橋梁技師だったジョージ・フェリス。この大観覧車は高さ80,5m、直径76,3mで、60人乗りの客車が36台つき、総定員数は2,160人だった。この定員数を上回る観覧車は現在もまだ現れていない。客車は電車のようなかたち(
7参照)をした客車で動力は蒸気機関。この観覧車が大当たりして、フェリスは大儲けをした。博覧会が終わってからはシカゴ市内に移設されて営業を続けた。1904年にセントルス博覧会に運ばれ、ここでは「オブザベーションホイール」と呼ばれた。この観覧車のすぐ横に日本館が建っていたので、日本館の庭園からは観覧車が眺められた。
フェリスホイールは1906年に取り壊されたが、1895年、ロンドンのアールズコートで開催されたオリエンタル博覧会でフェリスホイールとそっくりな観覧車が建設された。「グレートホイール」(大観覧車)とか、設計者の名前を採って「グレイドンホイール」などと呼ばれた。この観覧車は、車輪の両側の中心には展望台があり、地上からエレベーターで昇降できた。また車軸の空洞部分が通路になっていて、見物客が行き来した。グレイドンホイールを実際に建設して運営したのは、英国の退役軍人だったウォルタ・バセットで、このあとブラックプール、ウィーン、パリにも大観覧車を建設する。これらヨーロッパで建設された4基の大観覧車は、観覧車の歴史の中でも画期的なものである。
 アールズコートの後、ウォルタ・バセットはイギリス有数の保養地で、映画「Shall We Dance?」でも紹介されたブラックプールに観覧車を建てた。ブラックプールには、それ以前から建っていたタワーが人気だったので、競争相手の娯楽会社がタワーに対抗するために観覧車を建てたのである。ところが客が海から吹く風を寒がり、また潮風のために鉄塔に錆がきたりして維持費が高くつき、結局、タワーに勝つことができず、結局、観覧車は取り壊されてしまった。
1898年の夏、ウィーンでは国王フランツ・ヨーゼフ1世戴冠50周年記念式典の娯楽の一つとして、カイザーガーデンに大観覧車(リーゼンラート)が建設した。リーゼンラートはブラックプールの観覧車とほとんど同じ規模で、当初、1客車24人乗りの客車が30台付いていたが、1945年、第二次世界大戦中に打撃を受けたことにより、観覧車への負担を少なくするために1客車定員数は15人、また客車数も15台に減らされた。リーゼンラートは映画「第三の男」の舞台となったことでも有名になった。(
8参照)
 最後はパリ。1900年に第5回パリ大博覧会が開かれた。バセットはここで「ラ・グラン・ルー」(フランス語で大観覧車)を建てた。直径93m、高さ96mで、ヨーロッパ4基のなかで一番大きな観覧車だった。 

日本初の観覧車
日本初の観覧車は長年、1907年(明治40)に上野で開催された東京勧業博覧会場に設置されたものというのが通説となっていたが、前年の1906年(明治39)に、大阪で開催された大阪戦捷紀念博覧会という、日露戦争の勝利を祝して開催された博覧会場に、すでに登場していたことがわかった。これは石井研堂(明治のエンサイクロペディアと言われる人物)が、『明治事物起原』という著書のなかで記述していたが、長らく無視されていた。私はこの一行にこだわり、調査した結果、その説の正しいことを立証した。これが観覧車の写った当時の毎日新聞記事(
9参照)。「展望旋回車」「グレートホイール」、単に「旋回車」などと呼ばれていた。「観覧車」という呼び名はまだ存在しなかった。料金は2回転で大人10銭、子供5銭だった。会場内には親子丼、ミルクスタンドなどもあった。
 東京勧業博覧会の観覧車(
10参照)。2基あって、1基は竹の台に設置された。竹の台は現在、現在の恩賜公園の噴水あたりで、この観覧車は「展望観覧車」、「空中観覧車」「観覧車」などと呼ばれた。2基目の観覧車は第二会場の池之端にあった。これは「空中回転車」「観覧車」などと呼ばれていた。第一会場の観覧車より小さかった。
 第一会場にあった観覧車は、明治41年に浅草六区に移設された。またこの観覧車が撤去されたあとに金龍館が建った。明治40年5月、臨時大勅祭が執り行われた靖国神社にも観覧車が設置されたが、動力は人力だった。
明治43年、九州・博多で開催された第13回九州沖縄8県連合共進会場にも観覧車が設置された。高さ21m程度のものだったが、博多の人々は怖がって不評だったので、これを第1号として九州全域の遊園地に観覧車を置く計画は挫折した。このあと大阪・箕面で開かれた「箕面こども博覧会」にも観覧車が登場した。

大正、昭和初期の観覧車
大正期には観覧車が設置されたという情報はほとんどない。第一次世界大戦と重なる時期だったからかもしれない。日本が観覧車を輸入する相手国が戦時態勢だったので、遊戯機械に回すお金や鉄材などが戦争にまわったのかもしれない。しかし例外として、アンダーソンさんのコレクションの中に、横浜にあった花月園の観覧車の絵葉書がある。これが大正期のものなのか、または昭和の初めのものなのかは定かではないが、もしこれが大正期の観覧車の情報だとすれば、手がかりはこの絵葉書1枚だけということになる。
1937年(昭和15)に開催された名古屋汎太平洋平和博覧会の会場に建設された観覧車。これが国産第1号ではないかと思われる。製作は土井萬蔵氏で、飛行塔など大型遊戯機械の製作者として知られている。

戦後の観覧車
 昭和20年代後半から30年代にかけて、デパートの屋上遊園地が流行したが、これは名古屋三越の屋上に現在もある、日本最古の屋上観覧車。この他にもこのような小型観覧車が全国各地に設置された。
1955年(昭和30)に建設された後楽園遊園地のジェットコースター(
11参照)。アメリカでは「ローラーコースター」と呼ぶが、当時、日本では「少年ジェット」というマンガが人気だったこともあって、「ジェットコースター」という名称がついた。以来、日本ではローラーコースターをジェットコースターと呼ぶようになる。ジェットコースターの横に移っているのが二重大観覧車。製作者は現在も両国にお住まいの温品(ぬくしな)利郎さん。

博覧会場に大型観覧車の誕生
 1970年に大阪で開催された日本万国博覧会場に建てられた観覧車(高さ40m)は、博覧会場に建設された観覧車としては破格の大きさだった。この観覧車が大好評を博し、以後、観覧車の大型化が進む。万博会場にはこれ以外にも「空中ビッフェ」と呼ばれた楕円形の観覧車が5基、建設された。1981年、神戸ポートアイランド博覧会に建設された観覧車は高さ63,5m、直径が61mあり、世界一の大きさとしてギネスブックにも載ったが、観覧車のある神戸ポートピアは2006年に閉園されることになっている。1985年に筑波で開催された国際科学技術博覧会場のテクノコスモス館の大観覧車は高さが85mあった。現在はエキスポランドに移設され、「テクノスター」と名前が変わった。

平成の大型観覧車
1989年(平成元年)、福岡で開催されたアジア太平洋博覧会(通称よかトピア)の観覧車は直径100mで、当時は世界一のおおきだった。この観覧車以降、平成に建設される観覧車は直径が100m以上の大型が多くなった。例えば、高さ105m、直径が100mある「横浜コスモクロック21」の観覧車、葛西臨海公園の「ダイヤと花の大観覧車」(高さ117m)、福岡にある東洋一の大観覧車、「SKY DREAM FUKUOKA」の観覧車(高さ120m、直径110m)などである。
その他には大阪のキタにあるHEPファイブのビルにはビルドインされた赤い観覧車(
12参照)が建設された。ビルの高さを含めると高さが106mである。
 現在あるユニークな観覧車としては、2003年に建設された後楽園ドームシティには「ビッグ・オー」(
13参照)と呼ばれる、初の車軸のないセンターレス観覧車が登場した。また、2005年3月には、名古屋市栄の複合商業ビルに建設された「スカイボート」(14参照)や、大阪・道頓堀に開店したディスカウントショップ、ドンキホーテのビルの壁面に、楕円形の観覧車(15参照)が設置されている。

終わりに
 これからどのような観覧車が生れるかというと、現在、世界一の高いのはロンドン・アイ(高さ135m)だが、2005年の末にはシンガポールに高さ150m級が建設される予定。日本のあるメーカーも「高さ200mの観覧車を建設する用意はできているそうだ。観覧車はこれからもますます大型化されるだろう。

Q&A
Q.観覧車の魅力とは、どんなところにあるのでしょうか?

A.第一に「眺望」です。昔は自分住んでいる町を高いところから眺める機会はあまりなかったので、とてもそれが魅力だったと思いますタワーや展望閣のようにまっすぐに上るのではなく、動いている「乗りもの」だったことも魅力でした。また「ランドマーク」(目印)としての役割も果たしています。それに観覧車は遊園地の中でも「女王さま」のような貫禄がありますしね。少しずつ高く上って期待が高まり、頂上では遠くの眺望を楽しむ。やがて下降しはじめると少し失望を感じる。まるで「人生の縮図」がそこにあるようです。
Q.事故というのはこれまで、どのくらいあったのでしょうか?
A.日本では死亡事故はこれまでありません。韓国か、北朝鮮でロシア製の観覧車が落下した事故があったと聞いています。亡くなられた方があったかどうかは知りません。大阪万博の時は、空中ビュッフェが傾いたりしたことがあるようですが、日本では法規制が厳しく、速度なども制限があるので事故は比較的少ないです。しかし、それがかえって観覧車の魅力を失わせているとも言えます。
A.移動遊園地というのは日本の昔の、サーカスの小屋がけのようなものでしょうか?
Q.似ていると思います。カーニバルというのは、華やかな反面、すこし薄暗いというか不気味な雰囲気をもっています。アメリカのカーニバルを舞台にした小説にも、そのように出てきます。楽しいけれど何か怖さがある世界ですね。」
Q.観覧車は外から見ていますと、止まっている感じがします。回るスピードは決まっているのでしょうか?
A.現在のような大型観覧車になりますと、分速20mくらいです。人間が歩く速度に準じて決められています。100m級の観覧車になりますと、長さ25mのプラットホームが必要です。そこを毎分20mで客車が通過すると、プラットホームの端から端まで約75秒かかります。乗客が乗り降りに利用時間が10秒として、75秒÷10秒=7.5すなわち約7人。そこから算出して分速200mとなっています。


文責 三上 卓治    会場写真編集 山本 啓一  ホームページ制作 山本 啓一