神田雑学大学講座 第261回 平成17年4月22日講義録

和魂洋才の人・榎本武揚

講師 鈴木 輝次



目 次

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講師紹介

1.忘れられた不思議な人

2.父円兵衛とその影響

3.オランダへの留学

4.開陽丸との絆

5.北海道共和国大統領

6.函館・五稜郭の血戦

7.二ヶ年の牢獄生活

8.再び北海道へ

9.樺太・千島交換条約

10.シベリア横断

11.万能のピンチヒッター




講師紹介

 先生には昨年11月、「江戸開城の大博打と勝海舟」というテーマーでお話を戴きました。先生は明治維新の頃の偉人・賢人の方・異質の方、特に陰にまわって活躍された地味な方を念入りに研究されております。ですから、表立って活躍された方のお話ではなく、本日は榎本武揚(エノモトタケアキ)の異質の才能ぶりについて語って戴きます。

1.忘れられた不思議な人

 和魂洋才の人・榎本武揚とは、どんな人物であろうか、と皆様方はいろいろと想像されていたことと思います。本日の話を最後まで聞いて戴くと、和魂洋才とはこんなものなのか、と分かって戴けると思います。
「心はシッカリと大和魂を持つ。満ち溢れた広々とした優れた才能を持った人」と辞典にはこのように書かれておりますが、それだけでは武揚の人柄を纏めてお話するのは難しいと思います。

 榎本武揚というと、誰でも五稜郭に立て篭もり、旧幕府勢力が官軍と戦って粉砕されていったなかで、北海道・箱館で最後まで戦い抜いた意地っ張りの旧幕臣、というのが武揚のイメージの大部分を占めているのではないでしょうか?確かに、箱館戦争は戊辰戦争を締めくくる戦でした。榎本の生涯においても、最もドラマチックな場面だったのではないでしょうか?

 しかし、彼の生涯はここで終った訳ではありません。その後、明治政府に登用されて、ロシアの全権公使、海軍卿また清の全権公使、逓信大臣、文部大臣、外務大臣、農商務大臣等々を歴任し、子爵に任ぜられました。旧幕臣でありながら、薩長閥が完全に支配していた新政府のなかで、これだけの地位を与えられ、これだけの仕事をした人は他にいないのではないかと思います。

 旧幕臣の代表である勝海舟でさえ、ほんの僅かな間、海軍卿として政局に参加しましたが、何故榎本だけが特別な活動を認められたのか、それは薩長土肥の藩閥のなかで誰もが持っていなかった才能を彼が持っていたからです。その上、榎本には自分のために権力、地位、財産を求めようとする心が全く無かったからです。ですから、薩長は何の警戒心を持たずに、彼の才能を活用していったのではないでしょうか。
 もし、武揚が薩摩・長州・土佐・肥後らの縁(ユカリ)の藩士に生れていたら、伊藤博文や山県有朋・板垣退助ら明治の元勲と同じくらいの栄光に飾られていたに違いないと思います。

 彼は江戸っ子らしいスカッとした性格、意地を張るべきときは意地を張り、事が落ち着けばカラッとして何のこだわりも持たない、誰とでも「べらんめー調」で気さくに話をする、洒落た冗談を飛ばす、武揚の才能は異常なほどと言っていいと思います。
 先ず、海軍軍人として幕末の第一人者で、もともと才知が優れて理解が早いこの男がオランダに留学し、五ヵ年にわたって海軍技術を学びました。当時の日本の海軍の水準を遥かに抜いていました。それが武揚でした。

 オランダで武揚は造船、船舶、軍用術、砲術、蒸気機関等を専攻しました。その他に化学(バケガク)も学びました。榎本が化学に関して修めた知識は、驚くほど広いものがあります。後に、自身の化学知識は現在日本第一である、と自信をもって述べています。
 更にオランダ留学中、国際法を深く勉強しました。その分野に於いても、その知識は当時の並を越えたものであったと思われます。それらのことが遣外国使節として登用されていったのも、榎本の知識ぶりを物語っているのではないでしょうか。

 男ぶりが良く、気風(キップ)が良くて、軍事、化学、国際法、その第一流の知識を持つ、多くの実績を残した榎本ほどの人が、その割には人に知られていない、その功績を十分に評価されていない、ただ五稜郭の反逆の大将として記憶されている、これは何故なのでしょうか?

 いろいろな理由が考えられますが、その第一としては、戊辰戦争の大詰めとなった五稜郭の戦が、あまりにも劇的で強烈な印象を人々の頭に刻み付けたこと、また新政府における榎本が藩閥のどれにも属さなかったこと、これらのことがその功績を不当に軽く見られ、しかも旧幕臣の方々は、敵に降った異端者として見ていました。

 それらのことは榎本にとって不運であったかも知れませんが、榎本自身は名誉などには無頓着、自分の功績を少しも語らなかったのです。その忘れられた男・榎本武揚の波乱に満ちた生涯を、優れた武人であると共に最も優秀な官僚でもあった、一流の化学者でもあった、不思議な男・榎本武揚を追求していきたいと思います。

2.父円兵衛とその影響

 武揚を語る前に、その父親・円兵衛をみていかなければなりません。武揚の父・箱田円兵衛良助(ハコダエンベエリョウスケ)は今の岡山県・備後国箱田村の郷士でした(郷士とは武士でも一番身分の低い人のこと)。15〜16歳の頃、江戸に出て伊能忠敬の内弟子となって天文学・測量学を学びました。忠敬に伴って日本各地の測量に歩きました。地図の製作にも携わりました。文政元(1818)年に忠敬が亡くなりましたが、その頃には既に優れた数学者・測量家として世に知られていました。

 この箱田良助が榎本家に養子として入りました。忠敬の亡くなった7月と言われています。この時、良助は千両で御徒士(オカチ)―五人扶持・五十五俵―の株を買って、榎本武兵衛武由(タケベエタケヨシ)の娘婿となりました。そして良助改め、榎本円兵衛武規(エンベエタケノリ)と名乗り、幕府天文方に出て働くようになり、暦法の研究に当たりました。

 文政10(1827)年、妻が亡くなったので後妻を娶りました。その後妻との間に長男鍋太郎、次男釜次郎を儲けました。天保4(1833)年、西の丸の御徒士目付となり、第十一代将軍家斉の御付となりました。円兵衛は西の丸や本丸で将軍家の御用を勤め、江戸城内紅葉山、霊廟・拝殿の修理を行うなど、下級武士としては身に余る栄光に浴する仕事をさせられました。

 父の生涯が釜次郎に多大な影響を与えています。第一は「強烈な幕臣意識」、もともと榎本家は直参の家柄で、円兵衛は自ら養子として入ったのですから、榎本家の再興の意欲に燃えていました。しかも、釜次郎の少年時代、円兵衛は江戸城内将軍家の近くで仕事をしていましたから、将軍家と榎本家との関係を特別密接なものと感じていました。それが幕臣意識を高揚めていった理由です。

 第二は「技術工学への志向」です。円兵衛は最初、釜次郎を儒学者―当時、幕府は儒教を推し進めていた―にさせようと昌平黌へ入学させました。しかし、儒学の道は断念しました。それは天文・測量・地誌・洋書の翻訳といった天文方の仕事を専門としていた円兵衛の血が、釜次郎に脈々と伝わっていったからです。物理学・化学を主とした自然科学や技術工学の方面に関心が大きく育っていったからです。

 三番目は「北方への関心」です。円兵衛は伊能忠敬が初めて蝦夷地(北海道)測量した寛政12(1800)年、まだその門下生にはなっていませんでしたが、入門して測量に従事するようになりました。文化4(1807)年4月頃、ロシア艦船による択捉島事件等、ロシアからいろいろな圧力が加わってきました。日本はロシアの南下勢力に危機感を感じていました。伊能忠敬の弟子である間宮林蔵が樺太探検を行って、間宮海峡発見という一大偉業を成し遂げました。高田屋嘉兵衛の問題やいろいろな事があって、北方への目がドンドン注がれていきました。

 円兵衛が抱いていた筈の北方への関心は、ペリー(米)とプチャーチン(露)が来航した時に、大きな危機感を伴って甦ってきました。その推測を裏付けるものとして、安政元(1854)年、次男の釜次郎を堀織部正(ホリオリベノショウ)に従って蝦夷地から樺太まで行かせたことです。恐らくこの時は、堀の私的な小間使いとして釜次郎を行かせた訳です―堀織部正は幕府最初の外務官僚―が、彼に従って蝦夷地を見て廻ったことが釜次郎の生涯を決定付けた、といっても過言ではありません。

 一日も早く幕府海軍をつくり「北を守る」、それが釜次郎の使命感でした。それから二年後の安政3(1856)年4月、21歳の釜次郎が長崎の海軍伝習所(海軍技術を身に付ける学校で、第一回の入学生には勝燐太郎、二回目の入学生の中に榎本がいました)に入りました。二人の友情はここの海軍伝習所でつくられていきました。この海軍伝習所も三年半余りで閉鎖されましたが、日本の近代的海軍の中堅となった多くの人々がここから生れていきました。日本の海軍史のなかで、長崎の海軍伝習所は大きな役割を果たしました。

 安政2(1855)年8月、長崎に海軍伝習所を開いた時、オランダ海軍の知識と技術を導入しようとした幕府、更に六年後の文久元(1861)年11月、アメリカ公使タウンゼント・ハリスの斡旋で蒸気軍艦2隻または3隻をアメリカ政府に註文して、同時に海軍留学生をアメリカに派遣して、海軍のいろいろな技術を学ばせることにしました。この留学生の中に釜次郎は選ばれました。ところが幕府の申し出をアメリカ政府は断ってきました。当時、アメリカは南北戦争を抱え、幕府の急な求めには応じられない事情がありました。

3.オランダへの留学

 そこで幕府は急遽、方針を替えて、蒸気軍艦1隻の発註先をオランダとし、留学生もそれに従いオランダに派遣しました。
 文久2(1862)年3月13日、派遣を決定し、9月11日に長崎を出発した船は、ジャワの北東で暴風に遭い、暗礁に乗り上げ、ボートに乗り移って4日間漂流し、マレー人の船に引き揚げられ、そしてオランダ軍艦に迎えられてバタビヤにたどり着き、そこで客船に乗り換えてアフリカを周ってロッテルダムにようやく到着しました。

 途中、ナポレオンの流されたセントヘレナ島にも立寄りました。多感な若い魂はいろいろな感動を船旅の中で受けました。でも驚くなかれ、日本を出てから215日もかかっていたのです。
 長崎時代の教官カッティンディーケが海軍大臣になっていました。その誼(ヨシミ)でいろいろな便宜を与えられ、ハーグのオランダ海軍兵学校へ入学しました。榎本の知識欲は非常に貪欲でした。
 本来の目的である船舶運用術とか砲術・蒸気機関を勉強するだけでは満足せず、化学を研究し、更に手を広げて鉱物学を、その上、フィッセリング博士について国際法をも学びました。

 慶応2(1866)年、幕府が註文しておいた軍艦開陽丸が出来上がり、それに乗り組んで帰国の途につきました。リオデジャネイロから太平洋を横断して157日間の長い航路でした。開陽丸は慶応2年7月17日、三年半の歳月をかけて完成し、同年10月25日オランダのブリッシング港を出航し、慶応3(1867)年4月30日、オランダ政府より軍艦開陽丸が幕府に引き渡されました。

4.開陽丸との絆

 オランダから日本に回航する時に、日本人の士官及び下士官が乗り組んでいました。9名の第一回の留学生たちは、日本が外国に造らせた最初の軍艦に乗り込んで帰国しました。その喜びは想像以上のものがあったものと思われます。
 オランダを出た開陽丸は、南米ブラジル・リオデジャネイロなどを経由して日本へ向った訳ですが、榎本は港に着く度に彼の機関学の先生であった開陽丸のエンジンを設計したヘンドリック・ホイゲンに手紙を書き、開陽丸の性能を一つひとつ報告しています。

 ですから、開陽丸との宿命的な絆はこのなかから生れていったのではないかと思われます。開陽丸は当時としては、世界的にも最新鋭のフリゲート艦でした。
 間もなく榎本は軍艦頭(カシラ)となって、名前も「榎本和泉守武揚」と名乗り、開陽丸の船将(センショウ)に仰せつかりました。

 開陽丸は最初大砲26門でしたが、これを35門に増やし、乗組員の定員も500名に増やし、重装備にしました。しかし、榎本がオランダ留学中に、天下の形勢は全く変ってしまい、江戸幕府は最期の瀬戸際に追い詰められていました。そのような時代背景を十分に飲み込む暇もなく、榎本は開陽丸に乗って大坂に赴き、「将軍の守護と近畿海辺の警護」に当たりました。 榎本は「幕府海軍は絶対負けない」という自信を持っていました。実際、薩摩軍軍艦に大きな打撃を与えています。その当時の薩摩軍は、イギリスがバックアップしていましたが‥‥。

   幕府海軍を大坂・天保山沖に移動させて、幕府陸軍と連携して新政府軍に備えることでした。ところが、榎本の自信が最も強まった時点で、幕府の陸軍が敗れ大坂城に引き揚げてきました。榎本は陸軍首脳部と連絡をとるため、慶応4(1868)年正月6日の午後、大坂に上陸しました。しかし、その晩、大変珍しい事が起りました。「珍事」と言ってよいでしょう。将軍慶喜がそれぞれの隊長を大坂城の大広間に集めて、出馬宣言をしました。全将兵の勇み・励ましをやっているスキに、慶喜は大坂城を脱出してしまいました。

 慶喜一行は7日の朝、開陽丸に乗り組み、8日の朝江戸に向いました。最高司令官の「敵前逃亡」ともいえる行動でした。しかも、この時の開陽丸には、たまたま上陸していた軍艦奉行と船頭(フナガシラ)の榎本を置き去りにして出航しました。
 副長が「たとえ将軍が乗り組んでも、艦長が不在では艦を動かすことは出来ない」と拒否をしました。榎本たちの帰艦を待つように慶喜に言上しましたが、彼は聞く耳を持たず、「江戸までの航海は副長が艦長の代理をしろ」と命じました。そのため開陽丸は止むを得ず出航しました。

 慶喜が江戸に帰ったことを知った幕府軍は、戦う意欲を無くし、総崩れとなり、江戸や各藩に逃げ帰ってしまいました。後に残された榎本と矢田堀軍艦奉行は、大坂城で後始末をして、榎本は大坂城内にあった18万両という大金を富士丸に積んで、大坂を出航し品川沖に入って来ました。
 朝廷は慶喜追討の軍を江戸に向け出発させました。江戸城内では、朝廷に恭順するのか、または徹底的に戦うのか、両者の激論がなされましたが、肝心の慶喜は戦う意欲を無くし、恭順論になってしまいました。そこで和平派の勝海舟が主導権を握り、江戸城開城に向け手を打っていきました。

 それに対して榎本は、徹底抗戦を唱え、何が何でも幕府を盛り上げていかなければならない、最後まで戦うべきだ、という考えでした。
 4月11日、江戸城は明け渡されました。でも幕府の軍艦を一手に握っていた武揚は、その軍艦を官軍に引き渡すことを拒否して、8隻を連れて品川沖から館山に退去しました。しかし、勝の泣き落としで4隻だけを官軍に引渡し―その年の5月、彰義隊が上野で敗れ、旧家来たちは各地に脱走して戦い、東北各藩も同盟して戦う気構えを見せている―残りの軍艦を率いて脱走することを決意しました。

 榎本は徳川譜代の家来ではありませんが、直参の旗本の一人として崩れていく徳川家の悲運を黙ってみていくことが出来なかった、「武士の意地」、これが榎本の大きな支えでした。最新の最高水準の西洋知識を身に付けていた榎本の魂は、極めて古い武士の意地を凝結していった、とみてよいでしょう。

5.北海道共和国大統領

 榎本には蝦夷に土地勘がありました。旧幕臣たちを蝦夷地に連れて行き、開拓に従事させる。そのことについて勝を訪れ、考えを述べました。しかし、勝はその考えを押さえました。旧幕臣が軍艦で大挙北に向う過激な方法に反対しました。また、何れ徳川家から新政府に正式な要請として提案する、と蝦夷地開拓には反対しませんでした。

 徳川家も70万石に切り詰められ、旧幕府の反政府の人たちは、新しく生まれ変わる徳川家にとっては歓迎されざる存在でした。

 明治と改められた1868年8月19日、榎本は軍艦開陽丸や回天など8隻を率いて品川沖から脱走しました。乗組員2千人を超えていました。そのなかにフランス海軍士官たち10名が乗り組んでいました。彼らは慶応元(1865)年、フランス公使ロッシュの仲介で幕府が教官として招いた方々です。
 脱走にあたって榎本は、「徳川家臣大挙告文」(ダイキョコクブン)という趣意書を発表しました。「王政復古は名目だけで、事実は薩長らの藩が我々の主人である徳川氏から領地を没収し、その家来を窮地に陥れているに過ぎない。我々徳川家臣たちは、生きる道を求めて蝦夷地開拓のために出帆する」というような意味です。

 しかし、この脱走は最初から不運が付き纏いました。犬吠埼で暴風に遭い、咸臨丸が政府軍に捕まり、運送の座礁等があり、ようやく9月26日仙台港に集まり、修理に進めました。ところが、この時既に会津若松城は落城し、仙台藩も降伏を決定していました。奥羽の各反政府同盟(奥羽越列藩同盟)は早くも壊滅状態で、希望を失った旧幕臣たちは最後の抵抗を試みるため榎本の元に集まりました。

 土方歳三ら700余名の軍勢を従えて参加しました。そして総勢2千百余名を超えた榎本軍は、10月12日新たな船を加えて蝦夷地に向いました。しかし、既に箱館は新政府の統治下にあり、清水谷知事が駐在していました。榎本軍が上陸すると知事は津軽に逃げ帰ってしまい、榎本は難なく、五稜郭と箱館の街を占領することが出来ました。
 艦隊を函館湾に集結させ、続いて松前城、江差を攻め取り、忽ちのうちに蝦夷地から政府軍勢力を追い出すことが出来、戦いは榎本軍に有利に展開しました。蝦夷地を事実上征服した榎本は、天皇や政府に嘆願書を提出しました。「蝦夷地に来たのは徳川家の一人を迎えて主君とし、旧幕臣たちの生活が出来るよう、この地を開拓し、産業を興し、北方の守りを固めるためである。天皇に対し反逆の意志は無い」というものでした。

 しかし、実力で政府勢力を蝦夷地から追い出したことは通る話ではありません。新政府は榎本軍を反逆者として取り扱いましたが、諸外国は榎本軍を事実上の独立政権と認めて、中立を宣言しました。12月15日、榎本は蝦夷地平定の祝賀会を開きました。箱館駐在の各国の公使・領事や外国艦長を招いて、貿易は従来通り続ける、函館港の税金、その他の事務は榎本軍の手で決済する等を話しました。事実上の独立政府として行動しました。

 その新政府の首脳部を士官以上の者が集まって投票によって決めていく、この方法はアメリカ合衆国の大統領選挙に倣ったもので、当時の日本においては、政府の首脳部を決定するのに、投票で行う例は全く無く、日本最初の共和政体を採用しました。投票の結果、榎本が圧倒的な多数をもって総裁に選ばれました。因みに土方歳三は陸軍奉行並でした。榎本は日本で最初に生れた「北海道共和国」の大統領になったといってもよい。利害関係を度外視して、旧徳川家遺臣たちの意思を貫こうとしました。一面から見ますと、極めて古い武士道的な根性、一方では、投票によって決めていく民主的な政体、それを実施していきました。極めて新しい知恵と古い意地を何の矛盾も無く榎本のなかにはありました。

6.函館・五稜郭の血戦

 海上から応援させ、いよいよ総攻撃に移りました。本格的な海、陸の両面から戦闘が政府軍は黒田清隆に命じて、青森の陸軍2千人を率いて江差に上陸させ、軍艦も開始され、敵味方の砲撃は猛烈を極め、幕府の回天は砲弾80発を受け、動かすことができなくなり、浅瀬に乗り上げて、砲台代わりにして応戦しましたが、榎本軍はこの戦争で軍艦の全てを失いました。

   弁天砲台、五稜郭、千代ヶ岡砲台が残りました。箱館の三分の一は焼け野原になりました。官軍の黒田参謀は密かに和平の手を差し伸べましたが、榎本はどうしても承諾しませんでした。その返事の中に、自分がオランダ留学中に研究した「海律全書」―国際法に関する書物―を戦争で焼いてしまうのは勿体無い、残念だ、と黒田にその本2巻と手紙を送りました。  榎本は最後の決戦の覚悟をし、傷病兵250名を官軍の許可を得て、湯ノ川村に移しました。夜中に脱走した兵もおり、次々と敗れ、強いて戦えばまだ五日や十日は戦えるだろうが、800の兵を何の益もなく死なすのは忍び無い、と榎本ら幹部四名が五稜郭を出て、黒田参謀に会い、降伏を申し出ました。

 5月18日、五稜郭は落城しました。榎本ら四名は政府軍の本陣であった浄玄寺に収容されました。当然、榎本はそこで切腹を命じられる、ものと覚悟していましたが、網駕籠に乗せられ青森から陸路東京に送られました。

 黒田は榎本が最新の西洋化学知識を取得していること、人望がある、単なる武人だけではない、死を目前にして国の将来のために有用な海律全書を送るとは見上げたものだ、と武揚の心に惹かれました。黒田は非常に情に脆い男、熱血漢で、武揚の行動にコロリと参ってしまいました。実際に榎本に会ってみると、颯爽たる美丈夫ぶり、益々強く打たれ、これだけの人物を殺してはならない、何としてでも命を助けなければならない、と黒田は腹に決めました。

 政府首脳部のなかでは、榎本を反逆罪で死刑せよ、と主張する者が多かったなか、木戸孝允、大村益次郎などは榎本の力を高く評価していましたが、それだけに却って、危険人物として彼を抹殺しようとしていました。これは榎本の軍事的能力だけをみてきた訳ですが、黒田はむしろ軍事的能力よりも、他の方面における才能をより高く買い、日本の将来のために有用な人材だと熱心に説き、特に上官である西郷隆盛を説き、助命に力を注ぎました。

 黒田は死刑を主張する人たちに対し、どうしても榎本を斬るなら、その前に俺の首を斬れ、とまで反撃しました。昨日の敵だった人物をこれまで力を尽くしたのは黒田の一本気な情熱があったからで、それが遂に効果を表わし、榎本は罪を許され、新しい第二の人生を歩みはじめることになるのですが、榎本としては死ぬことは当然のこととして覚悟し―赦免されることを期待してはいませんでした―第二の人生を拒否しようとしましたが、黒田に誘われ断ることが出来ませんでした。

7.二ヶ年の牢獄生活

 榎本はじめ反乱軍首脳部の十名は辰の口の兵部省の仮監獄に入れられ、明治5(1872)年1月出獄するまでの約二ヶ年を過ごしました。獄中生活ですから苦衷が多かったことは言うまでも無いことですが、榎本はある意味では、獄舎生活を楽しみました。どんな境遇におかれても常に明るさを失わず、牢獄生活で久しぶりにユックリ本を読み、勉学をする機会を与えられたことに感謝さえしています。

 箱館戦争の英雄として、囚人からは別格視され、牢に入った日から牢名主として、他の囚人たちは下男のように榎本に仕えました。獄中の中で榎本が一番気に懸っていたのは老いたる母、生計の道に苦しんでいる兄弟、若い妻で、彼が獄中から家族に送った手紙には鶏や鴨の卵の人工孵化器の作り方、ジャガイモから焼酎を作る方法、石鹸や蝋燭・硫酸を作る方法、藍の摂り方、新式の養蚕業、鍍金(メッキ)の方法等々を利用して生活の足しにするよう手紙で指導し、そして旧幕臣たちにも教えるように指示しています。

 その時、徳川氏は駿府70万石に移され、これまでのように家臣たちを養うだけの力は無く、非常に困窮していました。駿府に従って行った家臣たちは、殿様から俸禄を貰わなくても、我々は殿様に仕えるのだ、という覚悟の上でしたから、それを聞いた榎本が心配していろいろな作り方を教え、生計を立てられるよう指導したのです。
 榎本は常に自分自身のことよりも他人のことに気を遣っています。家族を、旧幕臣たちを、そして同じ房に入っている囚人たちの出獄後の生活についても相談しています。仕事を教え、いろいろな面倒をみています。

 彼は獄中での勉強も相当なものでした。差し入は洋書と紙、洋書は化学関係の専門書が多く、獄中で分析学の洋書をひもとき、「開成雑俎(カイセイザッソ)」を書き上げました。この開成雑俎は、人工孵化器や焼酎、石鹸、蝋燭などの作り方を本に表わしたものです。それを本文3冊、図解1冊に纏めました。彼にとって、獄中生活は充実の毎日でした。
 黒田の助命運動が功を奏して、明治5年1月6日、この反逆者に釈放の知らせが届きました。

8.再び北海道へ

 黒田は明治3(1870)年、北海道開拓次官に任命されました。長官の東久世は飾り物に過ぎず、事実上は黒田が北海道開拓の最高指揮者でした。黒田はこの新しい仕事に情熱を注ぎました。北海道内の資源の科学的調査を行い、近代的な産業をこの未開の地に植えつけようと考え、明治4(1871)年8月、アメリカからケブロンを招き、指導を受けました。

 しかし、何時も黒田の頭の中にあったのは榎本、あの男こそ北海道開拓事業にはうってつけの人物である、と思っていましたから、一日も早い赦免を要求していました。榎本が出獄すると、一週間後には黒田から「新政府に出仕せよ」の話がきました。しかし、榎本はその話を受けませんでした。反乱軍のキャプテンとして新政府に仕えるということは、抵抗を感じました。黒田は言葉を尽くして仕えることを薦めました。命を救ってくれたばかりでなく、これほど自分の才能を高く買ってくれる黒田の温情には報いなければならない、と遂に榎本は承諾し、心新たにして北海道開拓へ向っていきました。

 横浜でスイス商人から時計、晴雨計、磁石などを買い、アメリカ船で箱館に向いました。その船中でロシア人からシベリアの現状を詳しく聞き、何時しかシベリアを探検してみたいと考えました。榎本は何でも興味を持って、自分の目で確かめたい、という探究心が強くありました。箱館に上陸すると、直ちに馬でその近辺を調査して、石油・石炭・砂鉄・硫黄などの鉱物資源の調査を始めました。また、箱館に日本最初の気象観測所を設置しました。彼の軍艦がいつも悪天候に阻まれ、多くの被害を受けた経験から海軍や海運の発展のためには、気象観測を整備することが絶対に必要であると考えました。

 箱館付近の調査が終わると、今度は石狩・日高・十勝・釧路・根室などと地質・鉱物資源などの調査を始めました。
 明治6(1873 )年1月、黒田は榎本を中判官に昇進させましたが、中央の反対が強くてそれが出来なかったらしい。札幌に拠点を置いて石狩の空知郡の山を調査して、九州の石炭より良質な「幌内炭鉱」を発見しました。この時期、榎本は全くの化学技術者で、政府軍を相手に戦った武人とは同一人物とは思われないほどの変りようでした。

9.樺太・千島交換条約

 樺太が日本の領土なのか、ロシアのものなのか、樺太の所有権問題が新しい政府の当初からの懸案事項でした。実際には樺太では、日本人とロシア人が雑居生活を続けていました。しかし、明治5〜6年になるとロシア側の態度が強硬になって、日本人は次第に圧迫されてきていた。樺太を実際に調査した黒田は、このままでは樺太を維持できないと考えました。

 丁度そのころ、政府の西郷隆盛を中心とした対強硬論者が征韓論に敗れて一斉に辞任しています。そのため政府首脳部では、樺太を放棄する意見が主流を占めていました。しかし、ただ簡単に樺太を手放すのは馬鹿な方法なので、ロシアと交渉して何らかの代償を獲得すべきであるが、交渉に当たる然るべき適当な人物が見当たらない。
 そこで黒田は榎本を推薦しました。国際法の知識、語学、榎本以上の適材はいない、と黒田は強行に主張しました。反対派も榎本以上の人材を挙げることが出来ず、榎本を駐露日本公使として決定しました。ここで注目すべきは、この決定に先だって榎本が海軍中将に任命されていることです。

 当時、日本の海軍には将官はいません。海軍中将は最高の位です。何故最高の位を授けたかと言いますと、ヨーロッパ各国の外交官は将官の位を持った人が非常に多いことです。ロシアの社交界では将官が尊敬されており、そのような訳で榎本を海軍中将の位に付けて、ロシアに全権公使として遣わしたのです。現在、墨田川の墨堤に木母寺がありますが、そこに武揚の銅像があります。海軍中将の堂々たる銅像が建っています。

 海軍中将特命全権公使榎本武揚、樺太問題についてロシア政府と談判をするため、インド洋からフランス・オランダ・ドイツを経てロシアの首都ペテルブルグに着きました。
 ロシアとの交渉はかなり難航しました。しばしば決裂の状態になりましたが、榎本はよく粘り、遂に話を決めてきました。
 第一は樺太全島をロシアに譲り、その代わり千島列島は日本のものとする。
 第二はクシュンコタンにいたる日本の船舶に対しては十年間、税金をとっては駄目。樺太の日本人の建物・不動産の代償として弁償金を払う。オホーツク海及びカムチャッカにおける日本人の漁業権を認めさせる。

 こういう案をロシアに飲まさせ、「樺太・千島交換条約」が明治8(1875)年5月7日に調印され、8月22日に批准交換されました。現在ロシアとの間で北方領土問題が起きていますが、この問題は既にこの時代に批准されたものです。
 この条約締結は日本国内では弱腰外交と非難されました。しかし、当時の日本の国力からして、これ以上粘ることは出来ませんでした。

 榎本は交渉の間も、ロシアを始めヨーロッパ各国の事情について絶えず注意を払い、その時々の情勢について的確な判断を日本政府に送り、このような条約を作り上げていきました。
 条約が締結されたので、榎本は日本に帰ろうとしましたが、その時、ロシアとトルコの間で戦争が起りました。その結果を見守るため帰国を延期しましたが、明治11(1878)年1月31日、休戦条約が結ばれたので帰国が実現しました。

10.シベリア横断

 帰国に当たって以前から考えていたシベリア横断を決行しようと思いました。当時のシベリアは鉄道も無く、道路も整備されておらず、大部分は荒野(アレノ)です。主として犯罪者の流刑地でした。9月30日にウラジオストックに到着するおよそ二ヶ月の間、悪天候、悪道路との戦い、旅館といっても設備は無い状態でした。

 榎本は疲労困憊しつつも視察旅行を続け、極寒の流刑地、荒涼たる原野しかないと考えられていたシベリアに対し、無限の興味を持って非常に精細な科学的な視察を行い、これを日記につけました。この優れた「シベリア日記」の記録は、当時のロシア本国においても比べるものがないほど立派なシベリア調査書でした。

 しかも驚くべきことに、これが帰国後も発表されておりません。家の人さえも知らず、彼の死後十六年、関東大震災によって家が壊れ、その整理をしていた時に、偶然発見されたのです。昭和14年に至って初めて南満洲鉄道会社によって本が出版されました。
 もし、彼がこの日記を公表していたならば、彼に対する評価も変っていただろうと思いますが、名誉など求めず、ただ自分の研究心を満たせば良かったのです。
 シベリア横断と言えば、福島中佐が馬でやってのけましたので、天下にその名前は知られていますが、これは単にシベリアの一部を専ら軍事的見方から偵察したものであって、榎本の場合は、広い角度から偵察を試みたものです。従って、福島中佐と榎本の視察は大きな価値観の違いがあります。

11.万能のピンチヒッター

 明治政府は政局困難のときに、難局を切り抜けるためにのみ彼をピンチヒッターとして利用しました。でも榎本はいつでも全力を尽くしてその任を果たし、その任が終わると黙々として退場していきます。
 海軍中将も海軍卿も名称だけを与えられるままに過ぎなかった。海軍中将は外交官として職務につく上での飾り、海軍卿は海上法規整備の上での権威としての意識していなかった。駐清特命全権大使として北京に赴き、伊藤博文が内閣総理大臣になると逓信大臣、その後、農商務大臣、文部大臣、外務大臣といろいろな大臣を経験しましたが、どの場合も榎本が求めたものでなく、他に適任者がいないので引っ張り出されたものです。

 明治30(1897)年、榎本は2度目の農商務大臣を辞任し、以後は旧幕臣関係に骨をおりました。葵会、徳川育英会、日光保晃会、また気象学会、日本電友協会などの会長として公共のために働きました。
明治38(1905)年以降は向島の屋敷に住み、酒と漢詩、百花園の花を愛し、悠々自適の生活をし、明治41(1908)年10月26日、73歳でこの世を去りました。

 榎本は父親の代に江戸に移住しましたので、所謂三代続いた生粋の江戸っ子とは言えませんが、その性格はどんな江戸っ子よりも江戸っ子らしい気質を備えていました。感じやすく、熱しやすく、同時に気が大きく、サッパリして、誰とでも何の隔たりも無く付き合う、困難な時局に頼まれれば何時でもピンチヒッターの役を買って出る、そして、その役が終ればサッと身を引いてしまう、ですから誰もが安心して付き合うことが出来ました。

 驚くべきは、百科辞典的才能を持った人で、その趣味も古器物の研究、俗曲の嗜み、囲碁、書道など広範囲にわたって生活を楽しみました。酒の量も抜群で、晩年に至っても1升や2升飲んでも平然としていました。
 彼は「べらんめー」という言葉をよく連発しました。オランダ留学中、あまりに「べらんめー」、「べらんめー」というので、一体どういう意味なのか、オランダ人が辞書を引きましたが、「べらんめー」などという言葉は出ていない、と大笑いしたエピソードも残っています。
 気持ちの上ではシッカリとした大和魂を持ち、でも行動は新しい知識を求めて、それを実現に向かっていった、それが榎本武揚そのものであります。
 以上で榎本武揚のお話は終りたいと思います。(大拍手)

(文責 桑垣 俊宏)

会場写真撮影:橋本 曜 HTML制作:大野 令治
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