神田雑学大学 2005年5月13日講義録NO.262

古事記の紙芝居

講師 戀塚 弘



目 次

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最初に

古事記の紙芝居

施主との出会い

遊戯室の設計・舞台と観覧

設計者再び蘇る




最初に

 48歳のとき、クモ膜下出血で倒れましたが、殆ど死から蘇りました。リハビリ効果もあって社会復帰して一級建築事務所を再開しました。いままでの設計のうちの幼稚園数軒の設計監理から私の思考が万葉集、日本史、古事記へ到ったことが重なって幼児の為の紙芝居につながっていきました。

 私の「風景は甦った」心象水彩風景画個展も今年二月開催を以って三十四回目。紙芝居の実演と共に今日までの死、生、仕事、歴史、絵画を含めて、人生いろいろを話したいと思います。

古事記の紙芝居

 この紙芝居「古事記」の文章は限りなく原点に近い描写で、私個人の脚色は一切なしで書こうと思いました。
社会復帰して設計事務所を復活させた私は仕事をしながら絵の個展を始め、当初は三回で終わりにするつもりでおりました。ところがギャラリーの入口で両脇を二人の人に抱えられながら見にきてくれた女の方が翌年松葉杖をついて一人で来られて、その翌年には杖もなしに立ってきてくれて入口で「先生私一人できたのよ!」と言ってくれたのに大変感動しました。


 毎年開催してきた個展に来る方々の中に、そのような人がたくさんおられて展覧会を止めるということが出来なくなってしまいました。病気の時に脳裏に浮んだ美しい情景、とリハビリの時の苦しい記憶が重なって、普通の風景のなかに美しいものを出そうと心がけて絵を書き続けてきました。


 絵を書くということで失語症を克服できたということもあるのですが、もう一つは建築という仕事は絵を書くことが非常に勉強になるわけです。逆に建築をやることで絵の勉強にもなるわけです。

 建築は故郷の佐渡の町立中学校の体育館の設計をしたり住宅の設計もしてきました。
 設計事務所というのは有名になると普通住宅の設計はやりません。採算的に魅力がないからです。住宅を十軒設計すると事務所は赤字です。小さなビルを一つか二つてがけて全体でトントンのような状況です。

 佐渡の中学の校舎と体育館が関東信越のコンクールに入賞したりしてうれしいと思っています。




(紙芝居の実演:島さん)


施主との出会い

 平成13年(2002)の夏、戀塚弘の佐渡・小木個展(佐渡展第四回・通算30回、毎年「海の見える小さな美術館」で開催されている)の会場に中年男性と熟年3名の方が来場されました。ご観光で來島して、ふとご来場なさったそうです。 作品をご鑑賞された後コーヒー(私がブレンドして炒った豆をその場その時惹いてドリップした自慢?のもの)を飲んで頂きながら、お話をしました。
 相手の方々は、これから佐渡を回るそうなので、あれやこれや、名所や食べ物や、おけさを観るなら相川の〇〇で・・等々もお話して、お別れしました。

●その二日後、私は(佐渡展はまだ開催されていましたが)一旦、仕事の関係で東京に戻るために佐度小木港発の汽船に乗って、その船の食堂で佐渡の魚の肴(私の包丁のです)でお酒を飲んでいました。そしたら、肩を叩かれました。
 一昨日私の佐渡展にご来店されたあの三人の方でした。佐々木様とご両親です。私の手料理の「佐渡の魚の肴」でお酒を飲みながら再会のお話もお酒も、すすみました。
 佐々木様は岡崎の幼稚園の園長と理事長でした。

 話のなかで「私は中学校や小学校の生徒たちにお話をすることが好きだし、何回も各学校から呼ばれて生徒にお話をすることがあるのですよ」という話をすると、佐々木様が「幼稚園の園児にお話をしたことがありますか?」

 私「ありません」

「いちどお話してみませんか? でも幼児にお話することはとても難しいですよ」・・
 で、「ご招待しますから(岡崎の幼稚園で園児に)お話をしませんか?」ということになりました。私は「諾、諾・・です」その時は八月で、その後の十月に新宿のガスパークタワーで「バリアフリーと居住空間」という演題で講演することになっていたので、それが終わってから、ということになりました。

●十一月の当日の前日午後、新幹線で豊橋経由岡崎に着きました。佐々木様の経営する幼稚園は「レオナ第一第二幼稚園」です。
(子供たちが)小学校にはいると、話を聞かないと先生に叱られるから・・ジーッと我慢するけれど、幼児は、気に入らなければすぐ騒ぎます。5分、おとなしくお話を聞いていたら大成功ですよ、だそうです。

 午前中「第一」午後「第二」のスケジュールでした。私は緊張したし、事前に話の内容や仕方など何度も組替えたりして、でも、わかりませんでした。
 小,中,高,大学校や成人なら何回も体験してるし,場所や状態に合わせる等、話の内容も考えられるけど,今度は「難しい・・」と言われてかえってよけい心配と気苦労が増えてきます。

●「おはようございます!」(第二は午後なので、「こんにちは!」です。という私の一声に園児は揃って、しかもとても大きな声で「おはようございます」と言いました。

 子供達の、その反応で,私は一瞬で,緊張がすっかりなくなりました。黒板(後ろにある)にスケッチをしたり、紙で動物を作ったり,身振りをしたり、してお話をしました。幼稚園の子供たちはすごいのです。キリンをつくれば「きりん」で,ゾウを作れば「ゾウ」で、キツネやイヌは「キツネ」であり「イヌ」と答えます。

 幼児たちは決して間違えません。大人は「上手です」とはいいますが、キリンを「ウマ」といったり,キツネとイヌがわからない事がざらにあるというのに・・・。
(子供の感性は素早く正確なのです)今の汽車は「シュッシュッポッポ」ではないのです。

 黒板に横に長い四角を書いて,全部,後部を丸くして、「ピカピカ、ゴーッ」です。ピカピカはパンタグラフの火花です。ゴーッは新幹線です。
 第一第二とも十五分位話をして、終わったら園児たちが集まってきて、握手をしたり「たかいたかい」、をしたり、私から離れないのでした。

●その晩園長夫婦からお食事を招待されて、そこで初めて、幼稚園の建築の話しになり、その設計監理業務を依頼されました。(その時まで建物や設計の話は一度もなかったのです)喜んで受託しました。

 何回も打ち合わせをしましたが、園児の(動作)を見にいったり、子供達のイベントに参加したり、幼児たちと遊んだりしたほうがオーナーとの打ち合わせより、はるかに多いのでした。(住宅を設計するとき、特に子供のある住宅では、子供の性格とその子の生活を知る為にその子と付き合い、その子の成長のために最適な空間を見つけることが住宅の設計であるのと私が信じ、実行しているのと同じです)

遊戯室の設計・舞台と観覧

遊戯室の設計
●その翌年十一月、基本設計は終わり、実施設計に関っているころ、奥様(第一の園長)から「園児たちの遊戯会(小学校の学芸会みたいもの)があるから観にきませんか」と言われました。偶々その日は別の用件で岡崎(その幼稚園の所在地)には行けそうもありません。

 奥様は「後でビデオをお送りしましょう」と言われました。実際のところ、今までに「幼稚園の設計」は数回あったし、遊戯室のステージとか観覧席の設計も終わっていたし・・という時期でした。

 つまり、園児は舞台で遊戯をしたり合奏したりを父兄たちが見る場所である。舞台の高さは床から35センチでした。(勿論オーナーの了解済みです)
 でも、何があるかは判らないけれど,なぜか気になってきはじめました。その遊戯会の日が近づくしたがってこの気がかりはマスマス大きくなってきます。

 子供達は、舞台に上がると、客席のお母様やお父様を探します。そして、自分の父や母を見つけます。そして見つけて初めて安心して唄を歌い遊戯をするのです。舞台に立った子供たちの不安の顔が、親を見つけた瞬間にホッとした顔に変ります。そして、親たちはその時我が子を再認識するのです。いや、逆に「子供たちが親を認識」するのです。

 その日、子供達はステージの上からわたしを見て手を振ったり笑ったりしていました。
 私は私のそばにその子の親が居るだろう・・と周りを見回しました。佐々木様が「子供達はみんな先生(私のこと)に手を振っているのだから.(先生も)手を振ってあげてください」というのでした。

 私はやっと気が付いて、手を振っている子供達に応えました。もう堪りません。涙が出てきます。その日一日中,私は泣きながら手を振り,笑い、また泣いては唄や遊戯を見ていたのでした。

舞台と観覧
●幼稚園の遊戯室の舞台と観覧席は「演じる場所」とそれを「見る客席」ではありません。ひろしは親を見つけて元気になります。みのるは母を見て安心します。ちかこは手を振っていて歌がおくれることがあります。まちこは両手を広げます。
 ひろしとおや・みのると母・ちかことかぞく・まちことおやたち・・夫々が視線という糸で交差してお互いの愛情を確認します。

 舞台と観覧席に子供の数の糸が張り巡らされえています。夫々の糸は交差してもこんがらないのです。
「舞台」と「観覧席」では無いのです。「子供と親の愛情がある確認の空間」そのものです。子供が親を見つけて,初めて「始まる」のです。親を見付けなければなんにも始まらないのです。子供が親を確認して、ことが始まるのです。

●実施設計の舞台の高さ(客席との段差)は35センチから15センチに変更。逆に観覧席はひな壇みたいに階段状に上がっていく形になりました。子供たちが親を見つけやすいように! 子供と親とは一緒の空間にいるように!

 親は、じぶんを自分の子供が見つけやすい場所にするために!実際には,(観覧の場所は遊戯などがない時には、室内の運動場所なので,観覧台は取り外すことが出きる)ようにしなければいけません。

設計者再び甦る

●私は設計事務所を独立して,四十年の生き様、意気込み、が間違っていないと思っています。二十年前、くも膜下出血で倒れ、死と右半身不自由と重度失語症とリハビリで社会復帰(設計事務所再開)したとき、私は大きく変りました。新しく,命が蘇り,設計が蘇り,設計者が甦ったのでした。

 その後の二十年(設計者として)の生き様も正しかったと思っています。その自分がもう一度甦ったのです。改めて設計とは、「ある生活をする為に最高な空間を,オーナーと家族が一緒になって創ること」です。みつけ出すことです。「設計」は「創作者の独創」でつくった「芸術作品」では,絶対にないのです。この考えは私が独立したときからの「私の生き様と意気込み」でした。

 それを、もう一度、自分が自分に確認させるために神様が私を{蜘蛛膜下出血に}させたのでした。
 そして設計者として二十年過ぎたとき、それを更に再び再認識させる為に、神様が私を遊戯会に行かせ、園児たちに手を振らせたのだ・・と思っています。
 私は(四十年のキャリアがある)新人の建築家であります。               
おわり

文責:得猪外明

講座企画・運営:吉田源司 会場写真撮影:橋本 曜 HTML制作:大野令治