平成17年7月8日神田雑学大学定例講座 bQ70

「日本の国技 相撲を語ろう」

講師 福島 和雄 

 
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福島和雄氏 紹介

相撲好きは小学生時代から

敗戦から相撲復活の足取り

戦後相撲の黄金時代へ

優勝記録で見る横綱の評価


福島和雄氏 紹介

昭和9年(1934年)、東京・千駄ヶ谷生まれ。小学生時代(当時は国民学校)から相撲に親しみ熱狂する。戦中、 戦後の相撲を目の当たりにし、早稲田大卒業後、東武鉄道勤務のかたわら、相撲観戦を続ける。 関連企業勤務をもってサラリーマン生活千秋楽とし、今は相撲観戦を楽しみに、毎場所初日の幕開きを首を長くして待つ。

福島氏が相撲とのふれあいを語る講演当日、雑学大学会員で元NHK相撲実況放送担当の阿部宏が、 相撲甚句の「あぁドスコイ、ドスコイ」の合いの手よろしく、福島氏の話の刺身のツマ役を務めた。

相撲好きは小学生時代から

福島 相撲とのとっかかりは小学校に入った昭和15年ごろでした。以来、 ずっと相撲とのつきあいを続けています。 昭和15年ごろは双葉山第一期黄金時代、戦後の長嶋,王のような存在でした。年2場所時代に築いた不滅の69連勝、 燦然と輝く記録です。 初めてナマの相撲を見たのは昭和18年、昔の両国国技館の二階席からで、双葉山が第二期黄金時代を迎えていました。

間もなく戦争が激しくなりました。 昭和19年になりますと国技館は軍に接収されました。風船爆弾の製造工場になったのです。

そこで昭和19年5月の夏場所は後楽園球場で開催されました。内野に土俵が作られ、 周囲が一等席、スタンドが二等席で私は二等席から注視したものです。雨が降ったり警戒警報が出ると延期されました。 この場所7日目は晴天、観客8万人。空前絶後の観客数です。

昭和20年になると出征する力士も多くなり、空襲も激しくなって国技館も3月の空襲で被災しました。 両国界隈の相撲部屋も多くが焼け出され、松浦潟、豊島といった幕内の人気力士が戦災死しました。

終戦間近の20年6月の夏場所は7日間の日程で破壊のひどい国技館を使って非公開の本場所。 平幕の備州山が7戦全勝で優勝しました。相撲協会としては番付は作らねばならぬことからこういう手段を取ったものと思われますが、 観客として傷痍軍人を土俵周りに招待し、景気づけとしました。

阿部 場所は非公開でしたが実況放送はしたのです。 戦況は不利ながら日本はまだまだ相撲の興行が行われるほど意気軒昂であると対外誇示のための放送でした。 そして国際放送として中国大陸、南方進駐の日本兵向けに送られました。藤倉修一アナウンサーが実況を担当しました。 戦後、「街頭録音」、「二十の扉」など社会派・教養派番組で鳴らした藤倉さんにこんなエピソードがあったのですね。

敗戦から相撲復活の足取り

福島 昭和20年8月終戦。その年、11月に早くも相撲が復活しました。 戦後初の本場所です。空襲の跡なまなましく、国技館のドーム屋根は爆弾の穴だらけでしたが、ここで復活興行が行われました。 しかし雨が降ると雨漏りが激しいので晴天10日間に限って開場しました。 埼玉県の疎開から帰った私はその場所に駆けつけました。優勝は横綱羽黒山、10戦全勝でした。 食糧・交通事情は困窮し、相撲界は苦難の再起の時にあたっていました。

この年12月、国技館は進駐軍に接収され、米軍の娯楽施設「メモリアルホール」になりました。 興行の本拠を失った大相撲は地方巡業中心の興行を余儀なくされました。 東京での大相撲は神宮外苑相撲場、現在の神宮第二球場あたりで行われた。晴天十日間。雨の日は中止。 野天興行だから寒い時期は避けての野外興行の本場所でした。

阿部 両国で焼け出された相撲部屋の内、 湘南その他東京近郊に疎開した部屋の力士達は列車や電車で神宮外苑の相撲場へ通勤した。 藤沢だったかに疎開した鶴ヶ嶺は「今日は雨だ。ゆっくり休もう」としていたら東京は晴れとの連絡、 慌てて飛び出したという話も残っている。

福島 昭和23年夏場所、神宮外苑の場所で大関東富士が優勝、10月の大阪本場所、福島公園仮設国技館、関脇増位山優勝。角界の新旧交代の機運が醸成されます。大阪での相撲は、このあと阿倍野、難波と場所を移します。

阿部  昭和22、3年ごろ、大相撲の地方巡業は米巡業と呼ばれました。巡業の一行は食べ物が得やすい地方を廻り、入場料も米で受け取りました。  食糧の多くは経済統制品でした。取り締まりの経済警察の目をくらますために、車の荷台に米を積み、ゴザやムシロをかぶせってその上に若い行司や呼び出し連中が乗ってカモフラージュし、町から村を巡り歩いて食いしのいだ時期があったのです。興行用の幕やら幟を押し立てて町から村へと、今思えばまこと牧歌的な情景に見えますが、食うために懸命な時代でした。

福島  そうした状況を経て、昭和24年ごろから大相撲は復活への動きを見せ始めます。24年に東京・浜町公園に仮設国技館が完成、1月、晴雨に関係なく興行できるようになった。積み樽が飾られ、相撲茶屋、触れ太鼓などが復活しました。  土俵では戦中から引き続き照國、東冨士、前田山、羽黒山らが横綱として相撲の伝統を引き継ぎましたが、日本の復興に足並みを揃えるように千代ノ山、力道山等が台頭し、新しい潮流が生まれてきます。

福島  昭和25年、大相撲の本拠は東京・蔵前に移ります。突貫工事で作られた仮設の国技館ながら場所ごとに拡充し大相撲は着実に繁栄の軌道に乗ります。

 後の出抽C理事長になった武蔵川親方(先代)がこの時期、協会の財政運営の衝にあったことが幸いでした。親方はたいへんな知恵者でした。現役時代(前頭・出茶m花)、夜学に通って簿記を勉強するなどした努力家でしたが、それだけ先見の明があったということでしょう。  蔵前国技館の建設にあたってはうまく手を回して元飛行機工場の資材を入手し、これで基礎工事の一切を作り上げた。相撲復興の基礎がこれで固まったんで/から、その功績たるやたいへんなものです。

阿部  先代武蔵川親方の話だと、浜町も蔵前も、進駐軍から興行許可を得やすくするため、仮設国技館として申請した。仮設だから興行が終わると取り壊さなければならない。しかし、全部を取り壊してまた建て替えるとなると手間も経費もたいへんだ。知恵者武蔵川、一計を案じ、場所が終わるとGHQに取り壊し日時を連絡、監視官の派遣を要請し、監視官が来ると入口を派手に動き回って取っ払う。

監視官はその様子を確認しOK,OKと言って帰ってゆく。取り壊しはそこでストップ、次の場所は改めて入口だけをきらびやかに再建して何食わぬ顔で開場したそうです。  また、蔵前の初期の頃には、場所中でも屋根の工事などは行われて、工事やら修理やらの溶接の火花が土俵で仕切る力士の尻に落ち、熱さで力士が飛び上がったというエピソードも伝わっていますが、うそやら本当やら……。

福島  最初は仮設でスタートした蔵前国技館も、昭和29年には本格的な設備に生まれ変わりました。以後昭和59年まで30年間、蔵前国技館が戦後期の相撲のメッカになりました。もはや戦後ではないと言われる時代になるのと足並みは重なります。 このころの力士と言えば、東富士、千代の山、栃錦、鏡里、吉葉山、三根山、大内山、鶴ヶ嶺ら。懐かしい名前です。 昭和27年、四本柱廃止、相撲が見やすくなった。28年にはTV中継も正式にスタートし、時あたかも多彩な技を誇る力士が台頭します。その代表が栃錦。

昭和28年になり、一月東京、三月大阪、五月東京、九月東京と年4場所制になりました。この後、昭和32年に11月九州場所が設けられ、引き続き33年に7月名古屋場所ができ、今の年6場所制の形が整いました。

戦後相撲の黄金時代へ

相撲の戦後第一次黄金時代は昭和29年小兵横綱栃錦の誕生、初代若乃花の台頭による栃若時代によってもたらされた。 小兵同士、激しい動きの応酬、角逐が相撲ファンの層を広げました。 こうして盛り上がった機運が柏鵬時代に引き継がれました。第二次黄金時代が柏鵬時代、 悠揚迫らざる大鵬はいかにも大形力士の風格を備え、対する柏戸は爆発力を売り物にした馬力相撲と、 対照的な取り口で相撲の楽しさ、面白さをファンに満喫させました。

大鵬の強さは群を抜き、並び称された柏戸は実力者ではあったが怪我が多いこともあって優勝回数ではるかに及ばず、 豊山などは準優勝はあっても優勝は大鵬にさらわれるという大ワリを食って泣いた大関でありました。

優勝記録で見る横綱の評価

福島  ここで横綱の評価を優勝回数で見ましょう。 大鵬の6連勝2回は当時前人未踏の大記録と言われました。のち朝青龍が7連覇を達成しますが、大鵬の優勝回数は32回。次いで千代の富士31回、北の湖24回、貴乃花22回です。

大鵬は二所ノ関親方の至宝でした。漢籍で大鵬という言葉を見つけた二所ノ関親方はこれをしこ名とし、 それにふさわしい逸材が現れたらしこ名として与えようとずっと温めていたという。 背は高いがひょろりとやせた納谷少年を見込んで大鵬という雄大なしこ名を与えた。 その少年が師匠の指導薫陶にこたえ大力士に成長していくプロセスはさながら角界感動の一大巨編といっていいと思いますが、 大鵬の出現で相撲は新聞のスポーツ欄から、社会面、芸能面へと幅を広げた趣があった。

芸能雑誌が力士を取り上げるなんて大鵬以前には考えられない現象でしたし、「巨人、大鵬、卵焼き」という言葉は、 男だけのものだった相撲が、婦人・子ども達にも浸透した状況を端的に物語っています。

阿部  柏鵬時代という言葉の名付け親はTBSの相撲アナウンサー小坂秀二氏でした。美術史上華やかな印象を与える白鳳時代からヒントを得た氏は自らの放送にこの言葉を使うと同時に、相撲記者クラブの黒板に「柏鵬時代という言葉を創りました。ご賛同の記者の方、よろしかったらどうぞお使い下さい」と張り紙をし、これよりこの言葉が一般化した。 ひとつの時代が生まれるにあたってはこういうエピソードもあった。

福島 連勝記録を見ると双葉山69連勝、千代の富士が53連勝、大鵬45連勝です。勝ち続けるというのがいかに大変かを思うと、大横綱と呼ばれる人の大きさが分かりますね。

阿部  実は私、大鵬46連勝成らずという一番のラジオ放送を担当していました。昭和44年春場所2日目でしたが、この日の朝、立浪部屋へ行き、この場所新十両の黒姫山、旭國にインタビューの録音を録りました。 その日、私はラジオ放送を担当することになっており、立浪部屋の新鋭戸田が大鵬に挑戦するので、ちょっと戸田の様子も取材しておこうと軽い気持で戸田の部屋を覗いたのです。戸田は布団をかぶっていましたが目はあけていました。枕許には郷里宮崎県から届いたたくさんの電報がありました。そのうちの一通に「日本一を破るよき日、がんばれ」とありました。私はその言葉をメモさせて貰い、戸田の顔を見ました。

普段から赤いほおがこの時はいちだんと赤かったように思います。「日本一を破るといってもな。どう考えても勝てっこないよ。 当たるだけ当たってみるが……」と言って布団をかぶりました。 放送では、仕切の間にこの電報の文言と本人の言葉を紹介し、 押し相撲の戸田の当たりがツボにはまるれば大鵬といえどもイヤだろうとはコメントしました。

しかし内心、破竹の45連勝の大鵬が、ここで平幕にとりこぼすことなどよもやあるまいとも思っていました。 ところが、軍配が返り、戸田がのど輪からもろはずで押して出ると大鵬は防戦一方。 土俵際、回り込んで大鵬が捨て身のはたき込みをみせると、両者ほとんど同時に土俵から飛び出した。 軍配は大鵬に挙がったが物言いがつき戸田の勝ちとなりました。

ところが翌日の新聞の写真を見ると戸田の右足が一瞬早く土俵を割っています。しかし、 判定は覆りようもなく大鵬の連勝は45でストップし、この場所5日目から大鵬は休場しました。 後に「世紀の大誤審」とまでいわれたこの勝負がきっかけとなって物言いの際、ビデオ映像を参考にすることになりました。 いろんな意味で記憶に残る一番です。戸田はのち改名して羽黒岩、今は雷(いかずち)親方です。

福島 華麗な柏鵬時代から北玉時代へと移りますが、玉の海が早世したこともあって北玉時代は長くは続かなかった。速攻の横綱北の富士さんは現在、解説者として皆さんにおなじみです。

次いで輪湖時代。学生横綱輪島が鳴り物入りでプロ入りし、アレヨアレヨの急上昇で土俵を席巻して大きな話題を呼びました。天衣無縫の言動が常に話題になりましたが、本業の土俵での優勝も14回、なかなかの実力者です。

こうしてみると土俵は常に新しい風を求める。それに応える偉材が出現するという巡り合わせに驚きますね。 北の湖はたたき上げの怪童、中学生で幕下に進出した逸材です。しかし初めは輪島に歯が立たなかった。隠忍自重を強いられた。しかし北の湖は時を経て輪島の牙城に迫り、ついに並び立つ。そしてついに土俵の覇王となる。このプロセスも昭和相撲史の掉尾を飾った幾つもの情景を思い返すと、今でも体が熱くなる。

阿部 その北の湖さんにして、自分の子どもさんには強かったとは信じてもらえなかった。というのは、力士が引退する時、思い出の一番を語ります。何人、何十人もの力士が大横綱北の湖を倒した相撲を最高の思い出に挙げる。そしてそれがビデオで再生される。子どもさんにすれば「パパまた負けた」(笑)。だから子どもには「強かったパパ」とは信じて貰えないと北の湖理事長が苦笑いしてぼやいたことがありました。

福島 昭和末期から平成にかけては千代の富士の時代です。 千代の富士ワンマン期とでもいいますか、双璧となるライバルが居なかった。 だからといって大鵬に次ぐ31回の優勝の価値を減ずるものではないとは思います。 とにかく第一人者の地位を守り続けることは並大抵ではありませんから。 地位に甘んずることなく常に自分を高く持すること、これは己を相手に戦った横綱でありました。

琴風、小錦ら最初は分の悪かった相手を研究に研究を重ね、最後は完膚無きまでにたたきのめしたプロセスに千代の富士の意地、根性、相撲をどうとらえていたかがうかがえる気がします。小兵が築き上げた大事業が千代の富士の相撲人生と言っていいでしょう。

このあと空前の相撲ブームが湧き起こりました。ご存じ若・貴人気です。横綱・初代若乃花のおい、 炎の大関貴乃花の息子という角界のサラブレッド、しかも兄弟そろって横綱になるという絵に描いたような成功物語の主人公。

平成2.3年から10年ぐらいにかけて相撲人気はすさまじいバブルとなりました。切符は買おうにも買えない、相撲を見に行きたくても行けない状況になりました。 1980年九州場所から1997年夏場所まで666日間、連続して満員御礼が続いた。

阿部 私は当時、相撲雑誌の編集をしていたが、店頭に並ぶ相撲専門の三誌は軒並み売れ行き好調で、恐らくこういうことは空前絶後でしょうね。それまで相撲誌を手に取ったことのない婦人層、それもおばちゃんからギャルに至るまで等しく買ってくれたんです。選挙にたとえると浮動票をどっとかき集めた。ブームがすぎたあとの反動もまたすさまじいものがありましたが……。

土俵の丸さは地球の円さ……

福島 戦後、神宮外苑の相撲場から復活した戦後の大相撲史を時代を飾った横綱ら力士名とともに振り返ったが、この中にも盛衰というか、大きな時のうねり、流れがありました 相撲の時代相は横綱が象徴すると見て、横綱をその品格、力量を独断と偏見によってランク付けしてみます。

特A横綱は大鵬・優勝32回、千代の富士31回、北の湖24回、貴乃花22回。

A級横綱は優勝10回の栃錦、同じく10回の初代若乃花、輪島14回 北の富士10回。ハワイ勢の曙11回、武蔵丸12回もここで肩を並べますね。

B級横綱は北勝海の優勝8回、東富士6回、千代の山6回、佐田の山6回、玉の海6回。

C級横綱は鏡里4回、旭富士4回、朝潮5回、柏戸5回、琴桜4回 二代目若乃花4回、三重の海3回、隆の里3回。

D級、厳しいようですが、これは名前は横綱でも、実績としては落第。前田山1回、吉葉山1回、栃の海3回、双羽黒0、大乃國2回、

横綱は力士最高の栄誉で、誰もがその地位を狙うのは当然だが、周りの情勢から押し上げられた横綱もないではなし、 大関でなら名大関として名を残したであろうという人たちがこのグループには居ます。お兄ちゃんの若乃花は優勝5回ですが、 若乃花は大関までの印象は鮮烈だったけど、横綱になってからの印象は希薄です。優勝もありませんでした。

お兄ちゃん若乃花のように4場所という短命横綱ではファンの気持ちとしてもう一つ、しっくりこない面もあるのではないでしょうか。 また前田山、双羽黒も大関としての土俵人生の光は際だっているだけにそんな感じを強くします。

それにしても東富士、千代の山の登場に終戦直後の世相を思う、栃若時代に復興期、柏鵬時代に成長期、輪湖時代に充実期、曙・小錦・武蔵丸に海外勢力台頭期、若・貴時代にバブル現出期と、土俵はみごとに社会の歩みと軌を一にしていることを思います。 そして昨今、大学出身力士の大挙進出、モンゴルに限らず欧州、ユーラシア系の入門多数と、いまや国技とは国際技と見つけたりといって過言ではない現実となりました。土俵の丸さは地球の円さを表しているようですね。

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事情あって講演録の構成作業が遅れた。その1年の間に外国人力士が外国人力士が台頭した。驚異的な数、瞠目的な進出ぶりである。 以下、福島和雄氏に電話で伺った追加取材である。
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福島 終戦前、豊錦という二世の米国籍幕内力士がいましたが、純粋に外国人として大相撲に入って三役まで上がったのは見山が初めてです。見山をハワイから引っ張ったのが元横綱前田山の高砂親方でした。 「物好きな……」、ハワイの青年ジェシーを入門させた高砂を冷笑する声を尻目に高砂は見山を関脇に育てた。

見山のあと、小錦、曙、武蔵丸と巨体と馬力のハワイ勢が大関、横綱に、続いて旭鷲山、旭天鵬らが道をつけて朝青龍ら野性味あふれるモンゴル力士の入門ラッシュ、そのあとは世界地図のそこからも、ここからもといった感じで、琴欧州、黒海、露鵬、把瑠都らが大相撲の門をたたいた。

今、外国人力士の活躍を見ると、周囲の冷笑もなんのその、外国人を相撲に招き入れた高砂親方の英断のすごさを思います。横綱としては及第点はつけかねる前田山でしたが、親方としては名伯楽、外国人力士入門の道を開いた高砂の、先見の明に舌を巻きます。 阿部
土俵がこういう状況になるという予兆はお感じでしたか。

福島 小錦が初顔で千代の富士を吹っ飛ばしたときは正に黒船襲来という驚きでした。 しかし、今、朝青龍、琴欧州、白鵬らをみるとなるべくしてなったというナチュラルな印象がありますね。 相撲は特殊なスポーツではなく、ワールドワイドなスタンダードになったというような……。

阿部 外国人力士同士の対戦で、栃若戦を彷彿させる展開もしばしば。

福島 前相撲から入り、勝てばみいりが良くなる。幕下7万円の場所手当てが、 十両になれば一躍100万余円の月給を手にすることができるということもモチベーションとしては大きいでしょう。 そうしたすべてを背景に、昭和18年名古屋場所では、外国人関取は史上最多の16人、内訳はモンゴル10、 ロシア2、ブルガリア、グルジア、韓国、エストニアが各1となります。

阿部 三役になったら大関、大関になったら横綱へと、 上を狙う気構えも外国人力士は気後れすることなく口にしますね

福島 つまらぬ遠慮などしないところが爽やかでいい。だけど、 相撲ファンとしては、ここらで雅山、稀勢の里らにもヤマトダマシイの発揮を期待したいですね。そうしてこそ相撲が 「国際技」といわれることになるんですから……。

日本相撲協会のHP

(構成 神田雑学大学・阿部宏)



会場撮影 橋本 曜    HTML制作 上野治子