10月14日 NO283神田雑学大学 定例講座  世界映画史講座〜第8項


 『伝説の映画スター・小史』

 日本男優編





講師 映画史研究家 坂田 純治



映画スターは、日本では男女合わせて約5000名、外国では約 8,000名存在する。この中からこのシリーズに合わせて15名の俳優を選び出しました。公不公平の段平にご容赦願います。伝説のと銘打ちましたが、亡くなった方もいるし、いまなお健在の方おられますが、今回は生粋のスクリーン育ちの人だけを選びました。

例えば、滝沢修や宇野重吉などの演劇育ちの役者にはスクリーン育ちの俳優は絶対に敵わないのですが、今日は主としてスクリーン育ちのスター3人を中心に取り上げます。

笠 智衆といえば、スターの中でも最もスターらしくない大スターであります。全映画人生336本に出演しております。こんなに多く映画に出演しているスターはおりません。人柄、演技力がそうさせているのでしょう。明治37年(1904年)熊本県天水町に生まれ、浄土真宗の寺の子供でした。住職である父の朝夕の勤行指導に耐えられず、家を飛び出して勤めた先が松竹蒲田撮影所の俳優研究所でした。大部屋の手当てとして月給28円は、決して多くはないがまあまあの金額だったようです。

ここに10年いて仕事をしている間に、小津安二郎監督が彼の生来の不器用さ、素朴な性格、演技に対する熱意を認めて、チョイ役ながらもよく使っていました。大部屋時代に約60本に出演しています。昭和12年漸く「仰げば尊し」という作品で主役の座を勝ち取ります。この時の月給は35円になりました。昭和17年、小津安二郎が父ひとり、子ひとりの境遇を描いた「父ありき」を撮ることになり、この父の役を笠智衆にやらせた…というより、笠智衆のために書いた脚本である…という経緯から、笠は一躍幹部スターとなった。

復員してきた小津安二郎の戦後第1作、「長屋紳士録」を皮切りに、小津監督の戦後の全作品に笠は出演しているという大変な縁となった。特に昭和24年、小津監督は原 節子を使って「晩春」を撮るのですが、オールドミスになりかけた娘(原節子)を相手に演ずる男やもめの父の役の演技が絶品とうたわれて、これ以降も小津安二郎の作品には、続けて出演するようになります。

ここで面白いのは、「晩春」では、笠智衆の役は曾宮周吉という名前で、32年の「東京暮色」では杉山周吉、33年の「彼岸花」では三上周吉、35年の「秋日和」では三輪周吉と「しゅうきち」が続く。小津監督最後の作品となった37年の「秋刀魚の味」では平山周平となったのであります。

小津さんは戦前、坂本 武、飯田蝶子を使って下町の人情話「喜八」を撮っていますが、これと周平、周吉は繋がっております。時には、笠智衆を使った小津作品はマンネリではないかの批判もありましたが、しかし、娘の縁談に悩み、老境の孤独を

噛みしめる紳士の役を演じるには、笠智衆以外の役者を小津監督は見出し得なかったと思う。彼自身も自分では何も解らず、一から十まで小津先生のいう通りに演じたと述懐しております。まさに俳優らしからぬ、職業に対する誠実な人格の賜物であります。

小津監督が「秋刀魚の味」を撮って、亡くなりましたあと、笠智集は諸々の監督作品に出演して味わい深い演技を披露しておりますが、昭和44年山田洋次監督が寅さんシリーズ全部で48作をスタートさせますが、このうち第1作から45作まで出演して渥美 清の寅さんに付き合っています。柴又帝釈天の住職御前様として、飄々とした演技はまことに出色であります。山田洋次監督の名作「家族」「故郷」などにも重要な役で出演しており、黒澤 明監督の最後の作品「夢」に長台詞を語る老人役に起用されています。

笠智衆は、セリフ覚えが早くて、どんな長ゼリフでも撮影開始までに完全に覚えてしまうという素晴らしい才能を持っている。「夢」では18分の長ゼリフをよどみなく語り、黒澤の期待に応えました。平成5年(1993年)3月、笠智衆は膀胱ガンのため88歳で世を去ったのですが、亡くなるまでの53年間の映画人人生でした。生涯出演336作品は映画界において、前人未踏の誇るべき記録であります。

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「父ありき」小津安二郎監督 1942年作。父ひとり子ひとりの境遇。子は中学入学以来東京と郷里に別れて生活。息子が成人した日、久しぶりに語り合う二人。自己犠牲と父性愛映画。笠智衆の初主演。

「東京物語」小津安二郎監督。1953年。老夫婦が東京の息子達の家庭を歴訪する。長男の嫁・未亡人がいちばん温かく迎えてくれる。岡山に帰り、老妻は死ぬ。

「秋刀魚の味」小津安二郎監督。1962年。妻に先立たれ、娘に(岩下志麻)に家事一切を任せている中年男。結局娘は嫁ぐ日を迎える。淡々とした父の心境。

「男はつらいよ」(フーテンの寅)1969年。山田 洋次監督。疎外された人間の、哀れさと善意の中からの笑いとペーソスを生み出す(寅さん48作)シリーズ。御前様の役で45回出演。

三船 敏郎
大正9年4月、三船敏郎は中国の青島で生まれました。徴兵で陸軍航空隊に入隊。6年間で上等兵どまりというから、あまり優秀な兵隊ではなかったようです。終戦のときは熊本の飛行隊におり、戦争が終わって、これからの暮らしを考えていた。たまたま、知人が東宝映画の撮影所におったのですが、三船の実家が写真屋だったこともあるので、カメラの知識があるだろうと思い、三船の履歴書を会社の技術部に提出した。その履歴書が、何故か新人俳優募集の方に廻り、結局俳優として面接試験を受けることになりました。

三船が面接のため前に出ると、その試験官が「笑ってみろ」という。その時三船は「そんな簡単に笑えるもんじゃないですよ」と応酬した。試験官一同には「なんて生意気なヤツだ」と顰蹙をかったが、それを抑えたのは山本嘉次郎監督でした。「いいから取れ」のひと言が効いて新人募集の補欠で採用されたのであります。この時の応募人数は4,000人。採用は16名でしたから三船は16番目の合格だったでしょう。伊豆 肇などが同期入社です。
 
当時、東宝は労働争議の真最中で、社員は東宝と新東宝の二社に分裂しました。三船は東宝に入社しました。そのデビュー作品は、北アルプスで撮影した「銀嶺の果て」(谷口千吉監督)です。3人の銀行強盗の一人に抜擢され、ふてぶてしい演技が注目されました。谷口監督が俳優部に三船を指名したところ、「アイツは不良みたいな奴だから、止めた方がいい」と念をされたというエピソードが残っています。
  
翌23年、黒澤 明は「酔いどれ天使」を発表します。志村 喬を主役に人情家の町医 者、これに対抗するのが復員兵で結核のヤクザという設定で、黒澤はヤクザ役に三船敏 郎を選びました。以降、昭和27年の「生きる」(志村 喬主演)を除いて、黒澤 明と三船敏郎の国際的ともいえる名コンビがずーっと続くのであります。当時、三船が街をあ るくと、本物のチンピラが挨拶をしたいう伝説が残っております。

翌24年「野良犬」。25年「羅生門」でベネチュア映画祭でグランプリを取った辺りか ら、三船の不良臭さは次第に抜けて、国際的スターとなる。三船は上手い役者とは決していえない。しかし、人間の内側に抑圧されている動物的衝動を思いっきり解放させた演技表現が持ち味であるのです。黒澤 明は「羅生門」の撮影に入る前に、三船を個室に呼んで動物映画を見せた。特に豹をよく観察するように指示したといわれております。

果たして藪の中を駆け巡る三船は、豹のように精悍な動きをして、見るものを圧倒しました。24年「静かなる決闘」。25年「スキャンダル」、26年「白痴」などは、彼の演技は失敗作であったといえるでしょう。しかし、29年の「七人の侍」は、実に黒澤と三船のコンビらしい躍動的な作品として喝采を浴びたのであります。30年には「生き物の記録」という反原爆のブラジルでの生活を求める老人の役で出演して、フケ役の演技に高い評価を受けました。

そして、いよいよ用心棒シリーズとなります。
36年の「用心棒」。37年「椿三十郎」などの豪放で、時には喜劇味を加えた演技は、さらに役者としての厚みを見せたのであります。そして三船敏郎の演技の集大成ともいえる昭和40年の

「赤ひげ」で、この年の内外の映画界の男優賞を総ナメにしたのであります。そして、海外の大物映画監督からオファが続出という事態になり、
あの演技の下手だった東宝の三船が、この年の活躍により世界の三船になりましたが、平成9年(1997 年)12月、全身ガンに侵され、77歳で世を去りました。

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「酔いどれ天使」1948年 黒澤明監督。酔いどれだが社会悪を憎み、気の毒な人に手を尽くす町医者。そこに現れた肺を止む復員兵ヤクザとの絡み。戦後風俗史。

「野良犬」1949年 黒沢明監督。戦後の社会。犯罪の発生する生態を克明に追及。戦争が一人の男に与えた精神的荒廃を鮮やかに描き出した。 

「羅生門」1950年 黒澤明監督。平安朝、山科の山中で旅の侍が殺害される。侍の妻、山賊、夫々に検非違使庁で証言するが、どこか異なる。芥川の《やぶの中》。

「七人の侍」1954年 黒澤明監督。戦国時代、貧農に雇われた七人の素浪人。彼らは荒廃する村の貧しい人たちを援けて大活躍をする。ハリウッドの《荒野の七人》の原型。

「蜘蛛の巣城」1957年 黒澤明監督。シェクスペアの「マクベス」の翻案。勇猛な武将が
冷血な妻に唆されて主君を殺し、一度は城主となるが、悲惨な末路を迎える。

「用心棒」1961年 黒澤明監督。ある宿場のヤクザの縄張り争いの渦中、両者に勢力争い を演じさせて、結局双方とも自滅させる。マカロニ西部劇映画《荒野の用心棒》の原型。

「椿三十郎」1962年 黒澤明監督。某藩のお家騒動に巻き込まれた素浪人。《山本周五郎原作(日々平安)》。

「赤ひげ」1965年 黒澤明監督。貧しい境遇の中で精一杯生きてゆく庶民と、彼等のために診療所で懸命の〈赤ひげ〉。《山本周五郎原作(赤ひげ診療談)》。

「日本海大海戦」1988年 舛田利雄監督。東郷平八郎の風格。 

市川 雷蔵
昭和6年京都に生まれる。その出生には複雑な事情があり、彼が亡くなる二年前に、初めて、しかも密かに生母と対面したという経緯があります。この辺りの宿命が、彼のニヒルな雰囲気を醸成していったとも言えるでしょう。

生後すぐに、関西歌舞伎の市川九団次の養子となり、15歳にして三世市川筵蔵の名で初舞台。20歳で長老市川寿海の養子となり、八世市川雷蔵を襲名する。
 
当時評判の高かった武智歌舞伎の舞台にも参加。そこで知り合った中村(萬屋)錦之 助と親友となりました。昭和29年、大映からの強い要請で、梨園から映画界に転出、同時入社の勝新太郎と「花の白虎隊」でデビュー。

はじめの頃は会社側の言いなりの白塗りの美剣士スターの道を歩んでいましたが、次第に自分の意思を主張するようになり、遂に昭和33年三島由紀夫原作「金閣寺」を「炎上」と改題して主人公を演ずる。言語障害、小心が故に愛に満たされず、国宝に放火して鉄道自殺を遂げる若き僧侶を好演し、この年の数々の演技賞に輝きました。

彼の性格演技を引き出した「炎上」の市川 昆監督は、この四年後に島村藤村原作の「破戒」の瀬川丑松にも起用して成功。悲壮感をあわせ持った時代、現代ものの何れににも通じる力を発揮。また、「ぼんち」のごとき軽妙な味、「華岡青洲の妻」のような重厚なインテリ性を表現して、一作ごとに円熟した演技を披露していったのであります。

特に、「忍びの者(8作)」「眠狂四郎(12作)」「若親分(8作)「陸軍中野学校(5作)」と、シリーズ物が多いのは、その演技力と人気の所以で、まさに経営悪化の大映を支えるドル箱スターでありました。昭和43年8月、直腸ガンで順天堂にて手術。一時回復を 見たのですが、全身ガンに進行。結局44年7月 帰らぬ人となりました。15年間の映画スターの人生。37歳の若さでありました。

亡くなってから生前を上回る評価を得るのは、美術界の人などには多いのですが、映画スターとしては彼ほどの例は珍しく、今もって圧倒的なファンの会によって墓前の香 煙は絶えることはないのであります。
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「銭形平次」1956年森一生監督。大映の重訳スター長谷川一夫の平次に助演。

「炎上」1958年 市川 昆監督。言語障害、そして愛に飢えた暗い青春を送った青年が 汚れた母、信頼を裏切った師らに反抗し、ついに国宝に火を放つ。《三島(金閣寺)》。

「大菩薩峠」1960年三隅研次監督。中里介山未完の大作を雷蔵で映画化。この机龍之介は極め付との評判。

「忍びの者(一)」1962年 山本薩夫監督。忍者の非人間的生活の中に、人間味を捨てきれず反逆して行く忍者。《村山知義原作》

「眠狂四郎(一)」1963年 三隅研次監督。 《柴田錬三郎原作(眠狂四郎 円月殺法)》
 雷蔵のニヒルな味は、原作者も共感。「陸軍中野学校(一)」1966年 増村保造監督。親兄弟、恋人にも所在を不明にして訓練に徹するスパイ学校。恋人を自らの手で殺す破目に。
終わり

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「上映作品の製作会社」

 松竹  東宝     新東宝      大映     日活   

「参考文献の出版社」

文芸春秋社   白水社  創元社  岩波書店 中央公論社 
 集英社  秋田書店   近代映画社   キネマ旬報社  など

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文責 三上 卓治
写真撮影 橋本 曜
HTML製作 和田 節子