アメリカ一周15000`鉄道の旅
講師 原田 公平


 まず初めに、この旅を思いついたいきさつと私の「旅の目覚め」を、お話しします。
 50歳になったとき、人生の折り返しを切実に感じ、何か急き立てられ、それは海外旅行だと思い立った。そんな時に中国の出張で見つけた日本仏教ゆかりの寺々。坐禅の仲間に声をかけできるだけ当時の状態のコースをと準備に1年かけた。数ある印象の1つは、寧波の天童寺、道元禅師の坐禅した場所へ案内された、勇気を持って頼んだら、同じ場所で坐禅をさせてくれた。3年後のインドの釈迦を訪ねる旅では釈迦の説法した霊鷲山で観音経を読み、菩提樹の下で坐禅、ガンジスで沐浴。旅も一歩踏み出し五感を使い、旅行記を書くとその旅が50倍、100倍楽しめることに気付く。

アメリカ一周鉄道の旅の動機と準備
 61歳、退職数ヶ月前に読んだ江坂彰氏「退職後に笑う人」の結びに70歳になった著者の「チャップリンのライムライト」から人生に必要なのは「少しのお金と勇気と想像力」、「勇気」に電気が走った。勇気を試すには「旅」だ、そして子供の頃からの夢、アメリカ1周を計画した。旅は道連れ、2人が断然面白い、元の会社の上司で性格は違うが気の合った彼に電話、2つ返事でOK。彼は会計と地図とガイドブック、僕は渉外担当。
 旅の前に3つのことを決め公言、@できるだけ安く上げる A公共乗り物を使う B紀行文を書く。

 1ヶ月近い旅、しかも海外だ、持ち物には増えザックが15`、ショルダーバッグが5`。最も活躍したのが電子辞書、時計つき磁石(日本時間をセット)、本・地球の歩き方、ウインドブレーカー上下であった。


旅のスター
(初日)ロスの広い空港からユニオン駅(*アムトラック駅)までが最初の仕事、インフォメイションセンターで聞いたら機関銃のような英語が飛んできた、I can’t follow you. と180度態度が変わってジェスチャーを交え親切にシャトルバスを教えてくれた。

 2番目の仕事はユニオン駅で明日の夜乗るグランドキャニオンまでの鉄道とバスの乗り継ぎチケット購入。メモを片手にゆっくりと大きな声で喋るとちゃんと通じ、航空券のような大きなチケット2人分が手に入った。この日はロスアンゼルスで時差調整。

(2日目)は駅に荷物を預け、サンジェゴまで日帰りのアムトラックの試乗。2階建列車、座席は新幹線のグリーン並、ジュウタンが敷かれ、足置きもありゆったりとして快適、片道207`、約3時間。左は赤茶けた砂漠に右は青い太平洋、いくら見ても飽きない。メキシコ国境の町、ヒスパニック系が多く、小錦並の肥満の多さに目をパチクリ。
 *アムトラックとはアメリカ+トラック、広いアメリカをゆっくり鉄道で楽しんで下さいと1971年に半官半民で設立された観光用の鉄道。今回はシーズンオフで1ヶ月間全米乗り放題“USAレイルパス”を385ドル使用。

最初のトラブル
 サンジェゴから戻り、列車出発前に荷物を引き出しに行ったらシャッターが下りている。2人とも真っ青、手分けして駅員らしき人に尋ねるが誰も相手にしてくれない、万事休す、この出発が狂うと後の計画が大きく変わってくる。思案に暮れていると顔見知りになっていた荷物係がニコニコしながら帰ってきた。急ぎ荷物を取り出しホームへ、間一髪で列車に。車窓から日没寸前の夕日が旅情を演出。食いぱっぐれた夕食もドキドキしながらの食堂車、無事空腹をみたすことができた。

グランドキャニオン
(3日目)アメリカ横断鉄道4本の1つ、ルート66に沿って走るシカゴ行きのサウス・ウエスト・チーフ号に乗りアリゾナ州フラッグスタッフで早朝に下車。ここで2泊のため宿を探す。日本の学生が多く、ユースホステルを紹介してくれたが駅前のモーテルにする、木造で手入れが行き届き清潔。荷物を置いて、グランドキャニオンへ、砂漠の中を127`、バス代はパスに含まれる。

 とてつもない地球の裂け目に2人は、今まで発したことない叫び声。いつしか明るかったキャニオンも夕闇が迫り陰影が深くなって最終バスに乗る。砂漠の地平線に沈む太陽を見ながら帰途に。

西部劇の故郷 モニュメントバレー
(4日目)6:30、バスツアーでジョンフォード監督、ジョンウエン主演「駅馬車」の舞台のモニュメンバレーへ2組の夫婦と一緒に片道288`砂漠を行く。1組はペンシルバニア州ゲティスバーグから、僕はリンカーン演説“――and that government of the people, by the people, shall not perish from this earth”を知っていて言葉に出し、親しくなる。下手な英語、不完全でも使うことによって思わぬ親近感の触媒となる。
 ドライバー兼ガイドは喋りっぱなし、日本の観光地のタクシーとは大違い。ナバホインディアンについても詳しく説明している、僕たちも同じモンゴロイドだというと「そうだ、そうだ」と日本人に気配りしてくれる。
 砂漠にニョキニョキと突出した小山を残丘という。その中をインディアンの運転する駅馬車風の小型トラックで自然の中を左右に上下にバウンドしながら残丘の間を通り西部劇の追いつ、追われつの疑似体験。ビュ―ポイントでは写真撮影。地平線に黒い雲が現れ、雨と風と砂嵐も体験。帰途には今は保護されているアメリカンバイソンに面会。同乗者と親しみのあるガイドドライバーが印象に残った。

大西部砂漠の中1000`移動
5日目)早朝、一昨日乗ってきた同列車に。360度砂漠一色、夜明けの太陽が右やそのうち左の車窓から差し込む。昨日、一昨日も砂漠のドライブ、僕たちは西部劇に熱中した世代、日本にない砂漠は興味が尽きない。(帰国してモニュメントバレーで撮影した映画は全て観、感動を新たにした) 560`でニューメキシコ州のアルバカーキーで下車、時計を1時間進める。ここの北、車で2時間半のロスアラモス研究所で原爆が開発され、45年7月16日、州南部のホワイトサンズで実験され成功、広島に投下されたという。昼食をした小さなレストラン、帰りに素敵な女性店主が「さようなら」にびっくり、美術学校があり日本人が多いという。車中で書いた絵葉書の切手を買う。

グレイハウンドバス(アムトラックと提携)に乗り換えメキシコの国境の町エルパソへ、車中は完全にスペイン語圏。バスはリオ・グランデ川を左に南下。夕日が落ちると東から中秋の名月と大接近の赤い火星。真っ暗な砂漠の地平線に光の帯が出現しては消えてゆく、人口の明りがないから幻想的だ。21:30にエルパソに着く。不気味な未知の夜の町を歩き、「地球の歩き方」すすめのホテルへ。部屋は確保できたがレストランは閉まっていたがピザ配達がありオーダー。アルバカーキーで買ったバーボンウィスキーとピザはうまかった。

「9.11」はエルパソで
(6日目)朝、テレビはマンハッタンのグランド・ゼロから中継、子供たちがテロの犠牲者の名前を1人ずつ読み上げている。僕にとっても2001年9月11日は記念すべき日で、初めてあるサークルの本を作り上げた、また、WTCで食事もしており、退職月の9月にアメリカへ来た理由の1つでもある。
 国境を越えるとかくも世界が変わるものか、メキシコに入る。記念にレストランでビールを飲みメキシコ料理を食べる。15:46分の列車に乗るためアメリカへ再入国と長蛇の列、一人一人厳密に検査。行きはノーチェックだったが帰りは1時間余待たされ、僕たちもカバン、ポケットは全部検査された。
2本目の大陸横断列車サンセットリミテッド号 西部から南部へ
 サンセットリミテッド号はロスとフロリダ州のオークランド4458`を結んでいるが僕たちは途中のニューオリンズで下車、1755`乗車する。エルパソの駅員が僕のチケットを見てファイティング原田のファンと聞き、驚くやらうれしいやら。松井やイチロウとアメリカでスポーツ選手は有名である。列車は3時間遅れて出発、結局は6時間遅れて車中2泊、延べ3日間社内で過ごした。でも車中は日本に来ていた軍人さん2人や多くの方と展望車で会話を楽しめた。車窓は砂漠からサンベルトに相応しいグリーンベルトに変わった。

ニューオリンズ(ルイジアナ州
(8日目)列車は6時間遅れて朝3時にニューオリンズ着。駅は完全にガードされ宿舎に。冷房の効かした大きな駅の待合室で朝を迎えるが寒くてウインドブレーカを着て眠った。列車内も冷房が効きすぎるのでウインドブレーカーは重宝した。
アメリカに着いて8日目となり、当地で2日間の休養。ルイアームストロング公園やフレンチコーターなどのジャズ演奏に触れ、ミシシッピ川に手を入れ、遊覧船にも乗る。テレビでは大型ハリケーン、イザベラの接近が連日大きく報道されている。

ポンチャートレイ湖
(10目)朝、ワシントンに向かってクレッセント号に乗る。ニューオリンズとボストン間は電化されて列車はすべて1階建、窮屈で少しガッカリ。ニューオリンズを出ると昨年ニューオリンズを水浸しにした巨大湖ポンチャートレイ湖の上を水上船のよう走る。ワシントンDCまで1854`車中で1泊、この間は南北戦争の舞台でもある。

ワシントンDCへ
(11日目)洗練された大きなワシントン駅は鉄道の役割の大きさを感じさせた。色んな博物館を訪れたがどこも無料に驚く。宿泊は始めて全米1というユースホステルに泊まる。夜、日本の学生と話し合う、慶応の学生は福沢諭吉の「西洋事情」に対して「福沢諭吉が見た現在の西洋事情」を書くといっていた。ケネディの話題が出て学生の前で僕は“And so my fellow Americas: ask not what you country can do for you ――ask what you can do for your country”(国が何をしてくれるかでなく、国のために何ができるかを考えよ)を英語で言った、学生はすぐに意味を理解した。が、この有名な演説を彼らは全く知らなかったのに驚いた。無理はないか、40年も前の人だ。翌日、ケネディを墓参してフラデルフィアに向かう。

フラデルフィア
(12日目)アメリカの独立の記念の地に足跡を刻み、築150年の建物が自慢のホテルで泊まる。大型ハリケーン、イザベラの接近が微妙、ホテルの支配人に聞くと東に行くのに支障はないと聞き、146`先のニューヨーク出発。

ニューヨーク・グランドゼロ
(13日目)ニューヨーク・マンハッタンのペンシルバニア駅から島の南端、ブロードウエイ、ワシントンスクエア、ソーフォーなど通りウォール街まで歩く。グランド・ゼロは囲いされ新たな工事が始まっている。バスが次々到着、多くの方が訪れる。犠牲者全員のネームプレート、母音入りの日本人名には胸が熱くなり手を合わせる。帰りは地下鉄を使う。駅に戻るとワシントン方面の列車は全面ストップ、幸いにボストン行きはダイヤ通り、ボストンまで370`の旅。今までずっと晴天だったが天気はだんだん怪しくなってきた。

ボストンのできごと
 ボストンを東の折り返し点としたのはボストン茶会事件がアメリカ独立の発火点だから。
ニューヨークから夜の8時過ぎに大改装中のボストンに着き予定のホテルに行くと満室、他のホテルを紹介してもらう。黒人の少年が迎えに来て郊外のホテルに向かうが2人だから安心、1人だと心細いだろう。
(14日目)翌朝、駅へはバスを使えという。バス停に韓国人がいて行き先を聞くもわからないという、しかたなく来たバスに乗る乗車時に黒人の運転手に目的地をいうも返事が聞き取れず朝のラッシュアワー、後ろから奥に押し込まれた。2度目の万事休す、2人で思案していると前の男性が地下鉄への乗り換え駅を教えてくれた。見知らぬ土地の助け舟、仏様のように見えた。入口での話を聞いてくれてたのだ、そういえば朝の通勤車はどこも無口だ。でも声の大きいのは特技の1つと知る。降りたとこは何故か縁のないハーバード駅だった。

レイクショアリミティッド(五大湖線)
 東の折り返し点、ハリケーン影響の雨のボストンを出発、シカゴに向かう1628`、列車は展望のいい2階建て。途中オールバーニでニューヨークからの便と連結する。オールバーニはニューヨーク州都、小さな町だ、これが政治と経済の分離なのだ。五大湖線だが湖はほとんど見えず、車中1泊。ナイアガラの滝はカットする。

シカゴとミルゥォーキー
(15日目)鉄道王国の中心はシカゴ、シカゴから全米へ放射線状に列車が出る。鉄道記念のシカゴに「Tokyo Hotel」という日本に縁のある筑80年のホテルに1泊する。
 16日目、相棒が地図からミルゥォーキーを見つけ、行くことする。ミシガン湖の西岸を140`北上、そこはアメリカ3大ビールの1つ、ミラー工場がある。要はビールを飲みに行くだけ。僕はビール大好き、これでTVCM、ミュンヘン、サッポロ、ミルウォーキを制した。これらはすべてドイツ人が開発したビール、もう1つ加えるなら中国山東省青島のビールもドイツ人だから4大ビールの地に足を刻んだことになる。これも旅の満足の1つ。日本に縁のあるマッカサーの記念碑にも出会う、一泊。

カルフォルニアゼファー号 大穀倉地帯を走る(シカゴ〜サンフランシスコ)
(17日目)ミルゥォーキーから戻りシカゴからコロラド州デンバーに向かう、1668`。
 車窓はコーンの収穫期で360度黄金色に包まれ、日本では味わえない風景に浸る。途中夕立が来て2本の虹、異国で見る虹は印象強い。この線のもう1つの楽しみはミシシッピ川との再会である。走り去る駅名を読み取り地図と首っ引き、夕暮れが迫る中、黒っぽいミシシッピが行く手に現れ、還暦を過ぎた2人の男が歓声を上げる。

コロラド州デンバー
(18日目)ワンマイルシティ・デンバーに着く、抜けるような真っ青、高地だから涼しい。ホテルはボストンで失敗したのでミルゥォーキーから予約してあった。歴史規制地区にある由緒ある木造のホテル。アメリカは古い建物の特徴を生かしホテルにとしている。高齢の優しいオーナーはきれいな英語でゆっくりと喋ってくれた。ホテルのオーナーからレストランを紹介されていたがこの頃は日本の味に恋焦がれており、商店街でモンゴルバーベキューを見つけ飛び込む、ファーストフードだったが欲望を少し満たしてくれた。オーナーにそのレストランの話しをすると宿の覚書ノートに書いてくれといわれ、日本語で1ページ、そのときの心境も交えて書いた。
(19日目)コロラド国立公園、ツアーバスに乗る。この頃は日本に帰れるのを指折りしていた。

夢にまで見たロッキー越え(カルフォルニアゼファー号)
(20日目)今日はロッキーを越えてサンフランシスコに向かう2240`。列車は昨日シカゴからのと同じ、人気路線だけに展望車の右側は既に満席。左に座り車窓に食い入る。すぐに山間部に入る、むき出しの岩が顔面に迫り、曲がりくねりながら何度もトンネルをくぐる、照明は消したままなので歓声が上がる。右手下をコロラド川が流れるがこの当たりは澄んだ水だ。期待した紅葉は日本とは異なり樹木も少ないがそれでも黄色の色彩が秋の到来を告げている。アメリカの鉄道は大きな湖や大きな山を通して乗客を楽しませるのには感心。ロッキー越え、つくづく着てよかった。車中1泊、夜遅くサンフランシスコ着。

ヨセミテ国立公園
(22日目)ヨセミテ国立公園、鉄道を利用する。372`列車バスを乗り継ぐ、バス代はパスに入っている。巨岩に圧倒される。
 帰途、列車が遅れ、一度乗った線だ、後は帰るだけと気が緩み2人は寝込んで終着駅まで運ばれた。一瞬ヒヤッとしたがそこはオークランド、サンフランシスコの隣町、タクシーで事なきを得た。

太平洋岸を走る人気1、コースト・スターライト号(サンフランシスコ〜ロスアンゼルス)
(23日目)アムトラック人気1のコースト・スターライト号、ロスまで740`は日中の車窓だ。西部の砂漠地帯、スプリンクラーで野菜や果樹の栽培を眺め、右は太平洋岸をギリギリまで走り、青い海と空と山際と海際を交互に楽しませてくれる。途中、石油の発掘地帯はSF世界の錯覚を覚えた。でも鉄道ファンにとって最高のエキサイティングは樹木のない山の尾根をアムトラックは曲がりくねり、展望車から列車の頭部と最後尾を同時に眺めることができたのは列車旅の醍醐味、最高のプレゼントであった。夜遅くロスに着き途中一緒になった日本の若者も交えてリトルトウキョウの寿司屋で祝杯を挙げた。

列車の旅を終えて
 この列車の旅の目的は定年後に必要なものの1つ「勇気」を求めてであった。つくづく思ったのは昔からあることわざ“聞くは一時の恥、知らぬは一生の恥”である。
日常の仕事や生活で「聞く」は最大の勇気がいることに気付いた。
 未知の土地は、聞くことから始まる、しかも不十分な英語である、でも聞かなければならない、英語の下手など全く気にしておれない、持ってる物すべてさらけ出して。
食堂車は込み相席となる、必ずこちらから先に下手な英語で自己紹介した。これも簡単に見えて勇気が要る、展望車でも同じ隣席の人にはこちらから声を掛けた。それが機縁に異文化交流がスタートする。
困ったときも、声をかけるとみんな耳を傾け、一緒に探してくれたりアドバイスしてくれた。
渡る世間に鬼はない、ちょっと勇気を出して「聞く」という行動を1歩踏み出すと思わぬ道が開かれることの発見の旅でもあった。
 現代はいずこもスピードの時代、しかし「鉄道の旅」はゆったりと時は流れ、車窓と時を共有できる仲間たちであること。
 新しい行動は新しい出会いが生まれる、今日ここに招待した25歳の寄田恭直さんは僕のホームページに書いた「アムトラック一周の旅」で知合い、この夏、同じコースを乗ってきた方である。
今日の出会いありがとうございました。
 旅を終えて、今日みなさまに話し、また「鉄道の旅」の虫が起きてきたようだ。


文 原田 公平   会場写真 橋本 曜    HTML編集 山本 啓一