平成17年11月11日 神田雑学大学定例講座NO287


伝説の映画スター・小史

NO9.アメリカ映画(女優編)


講師 映画史研究家 坂田 純治





● イングリット・バークマン
わが国では、あまりにも有名な女優であります。1915年8月、スエーデン、ストックホルム生まれ。父はカメラマンであるとともに画家でした。幼くして母を失い、芸術家の父も13歳のとき、亡くなったという淋しい生い立ちで、叔父さんに育てられましたが、少女時代から演劇に興味をもち、スエーデン王立演劇学校で演技を学びました。その美貌が評判となり、端役でしたがスエーデン、ドイツなどで11本の映画に出演しております。

1936年、スエーデンで間奏曲という映画に出演したのが、ハリウッドの大プロデューサーセルズニックの目にとまり、その再映画化「別離」をハリウッドでする際に招ねかれたのが、ハリウッド デビューとなりました。彼女には、その生い立ちからくる雰囲気があり、妻子のある年上の男性に恋する役がよく廻って来て、そして好演するので、以後3本の脇役をこなしました。

1942年(昭和17年)、「カサブランカ」でハリウッドのスターの座を獲得することになったのでした。この映画はワーナー・ブラザーズ社の製作、当初は専属のグラマー女優の起用を考えていたのですが、脚本が遅れているうちに、バークマンに役が廻ってきたという変った経緯があります。彼女のデリケートな演技と風格で映画は大成功をおさめ、相手役のハンフリー・ボガードも一躍人気を得て、大スターとなったのです。

「カサブランカ」の上映は、戦後の日本に大きなカルチャーショックを与えました。

その2年後の昭和19年、バークマンはスリラーの作品「ガス燈」に出演して、いち早く、アカデミー主演女優賞を獲得し、人気、実力ともトップスターとなりました。

しかし、優れた作品に次々と出演しているものの、何か満たされないものを感じていた彼女は、第二次世界大戦後のイタリアン・ネオ・リアリズムの作品に共感し、その牽引車である「無防備都市」「戦火のかなた」のロベルト・ロッセリーニの作品に強いショックを受けたのであります。そして、はげしいラブレターを送ったのです。

そのラブレターの原本は現在残っております。
「イタリア語はティアモ(愛してる)しか知らず、英語はうまくてスエーデン生れの女優が、もしご必要でしたら何時でもご一緒に映画を作る心準備ができております」と熱烈な恋心をロッセリーニへ伝えたのであります。そして、ハリウッドで医者をしていた夫と娘を捨てて、ロッセリーニのもとへ走ります。

このスキャンダルはアメリカ市民、特に婦人団体、カソリック宗教団体から総スカンを食う因となり、アメリカ映画団体からは抹殺・追放されてしまいました。
ロッセリーニと一緒になってからの二人は、1950年「ストロンボリ」というまあまあの作品のほか6本を撮りましたが、精気を失ったかのように、いい作品は出来ませんでした。

ロッセリーニは破産状態に陥りました。食べるに困った彼女は、1956年ジャン・ルノアール(仏)から誘われて「恋多き女」に出演しました。それはヨーロッパで好評を得ました。次の年、ハリウッドのアナトール・リトバークという監督が、ロンドンで撮影した「追想 アナスターシャ」が余りに良く出来ていたので、ハリウッドが受け入れて上映することになりました。あの美しさは少しも失われず、益々優雅さに磨きがかかった13年ぶりの彼女に、ハリウッドは二回目のアカデミー主演女優賞オスカーを授与したのであります。



6年間の結婚生活のあと、ロッセリーニと離婚して、ついに彼女はハリウッドに凱旋することになります。その年の3月、アカデミー賞受賞式にはさすがに敷居が高く、パリのアパートで朗報をラジオで聞いて、「アメリカ、ハリウッドは、私を許してくれた」と号泣したと伝えられています。授賞式に代理出席したのは、アルフレッド・ヒチッコクの「汚名」で、バークマンと長ぁいキスシーンを演じたケーリー・グラントでした。

アメリカに戻った彼女は、映画ばかりかブロード・ウェイの舞台にも出演し、大変な人気を盛り返します。やがて容色も漸く衰え、59歳になったときに巡ってきたのは、アガサ・クリスチーヌの、「オリエント急行殺人事件」の老婆の役。ここでも彼女はアカデミー助演女優賞を獲得しました。生涯、オスカーを3回受賞した素晴らしい女優であります。
その4年後1978、年スエーデンの名匠イングバル・ベルーマンが、「秋のソナタ」に彼女を起用したのが遺作となりました。

若いとき奔放な生活をして、夫と娘二人を捨てた女流ピアニスト。その晩年、母は娘の元に帰ろうとする。その葛藤を描いた作品は、まさに自伝でありました。彼女の伝記を書いたある評論家は、「彼女は、非常に純潔なものと、エロティックなものの両面を持ち合わせた稀有な女優である。近代性と土臭い百姓女の逞しさを兼備している。こんな女優は、再び出ないであろう。カサブランカのエルザのように、恋の二者選択に迫られた女の心理描写は、まさに絶妙である」と賞賛している。

イングリット・バークマンこそ、美しさだけではなく、生命感のある女優の鑑ともいえる。私たちの心をうち続ける彼女でしたが、残念ながら1982年(昭和57年)8月29日、本人67歳の誕生日にガンで亡くなりました。墓碑には彼女の遺言通り「生の最後まで演技をした」と刻まれております。
では、ビデオの上映。バークマンのデビュウの作品「ジキル氏とハイド博士」。
ロバート・スチーブンスンの小説ですが、大当たりして1922年から8回映画化されております。これは1941年MGM製。主演はスペンサー・トレーシー。バークマンはこの段階では、端役ですが堂々としています。

「カサブランカ」
反ナチ亡命者の避難の基地となっていた、モロッコの首都カサブランカ。
第二次世界大戦中の騒然とした世相を背景にした男と女の再会と葛藤、別れを演ずるイングリット・バークマン。感情を抑えた男の粋を如何なく発揮した、ハンフリー・ボガート扮するリックの切れのいいセリフ。 映画史上、不巧の名作です。

「ガス燈」
殺人者が被害者の娘と結婚し、遺産を狙うために精神異常の妻を作りだそうとする。その妻がバークマン。それを不審に思った刑事(ジョセフ・コットン)が助けにいく。悪い夫が、珍しやシャルル・ボワイエというサスペンス・ドラマの秀作。

「汚名」
1946年、アルフレッド・ヒチコックの作品。ナチスのスパイの娘という汚名を着せられた彼女。アメリカの諜報部員(ケーリー・グラント)と恋に落ちるが、なかなか結ばれない。美人女優の好きなヒチコックが、これでもか、これでもかとバークマンのキスシーンを長々と続けるのが評判となった話題作。

「ストロンボリ」
ロッセリーニの元に走ったバークマンの第一作。避難民になった彼女は、若いイタリア人青年と知り会って、結婚する。青年の実家がストロンボリという火山島。ある日火山が噴火する。妊娠していた彼女が島を抜け出そうとするラストシーン。この作品を含めてロッセリーニ監督の6本の映画はすべて失敗に終わった。

「追想 アナスターシャ」
1917年3月、ロシアの3月革命で300年続いたロマノフ王朝はあっけなく崩壊した。翌年の1918年7月17日、ニコライ2世一家全員銃殺刑に処せられる。ところがその時、末娘のアナスターシャが銃弾を遁れて生き残ったという風説が、ヨーロッパに広がった。色々な詐欺師が、これぞアナスターシャとして金儲けを企むが、元白軍将校(ユル・ブリンナー)が町の雑踏の中から、本当のアナスターシャを発見する…・・。本人かどうか判断できるのは、アナスターシャの祖母(ヘレン・ヘイズ=舞台女優の大物)一人だけ。バークマンとヘレン・ヘイズの対決場面が見もの。
バークマン2度目のアカデミー主演女優賞の受賞となった作品。

「秋のソナタ」
バークマンの体は歳とともに蝕まれてゆき、故国スエーデンに帰る。そこでイングマル・
ベリーマン監督の映画に出演する。この監督の名前を英語読みにすると、イングリット・バークマンとなるのも、不思議な偶然である。二人の娘を捨てた奔放な女流ピアニストの役が、63歳のバークマン。娘との葛藤に耐え切れず、母は寂しく家を出る。自伝のような遺作となった。

● マリリン・モンロウ
モンロウは、1926年(昭和2年)6月、ロスアンゼルスの貧民街で私生児として生まれました。母親はすでに精神異常者になっており、モンロウは幼い時に8〜9人の里親の元に預けられたのちに、引き受け手がなくなり孤児院に入れられたといわれております。16歳でロッキード社に勤めていた工員ジエムス・ダハティという若者と結婚しました。そんな境遇から一刻も早く遁れるためだったと、彼女は述懐しています。

19歳ごろから、主に男性向けの雑誌のカバーガールになりました。相当にきわどいシーンを撮ると、1回50ドルくらいになったようです。映画にもちょっとした縁があって、ちょくちょく顔を出していましたが、1952年26歳のとき、かって撮ったオールヌードのカレンダーが出回って、大騒ぎになりました。ところが、この時「これはすごいヌードではないか。モンロウは二十世紀のビーナスだ」という後援者が現れたのであります。

1946年20歳、ある縁で20世紀フォックス社の幹部と接近、週給125ドルで契約し、端役で同社の作品に出ることが出来ました。彼女がはじめて大役を得たのは、ご存知「ナイヤガラ」であります。ここでは例の「モンロウウォーク」を見せて評判になりました。
同じ年に、「紳士は金髪がお好き」でグラマースターのジェーン・ラッセルと共演し、ラッセル顔まけのグラマー振りを発揮しました。

口のさがない連中は「お脳の弱いブロンド娘」登場と揶揄したものでした。などなど、セックス・シンボルとしてのモンロウの名は急上昇しました。特にこの2作で、会社はセックス・シンボルとしての魅力を強調するだけ強調したのであります。
加えてモンロウの魅力は、声にありました。甘くハスキーな歌声が評判を呼びました。
するとフォックス社は、その歌いっぷりを映画化する企画を立てました。

1954年の「帰らざる河」が、それでした。
その翌年55年には「7年目の浮気」という作品で、地下鉄の通風孔の上に立って、風でまくれるスカートの前を抑えるカットを披露しました。これもまた大評判となりました。
ところが、結婚相手のジョー・デマジオがカンカンに怒って、僅か8ヵ月の結婚生活で破局となりました。大体その頃からモンロウは情緒不安定となって、遅刻常習、我が侭し放題でしたが、反省してニューヨークのアクターズスタジオに入学します。

そこでジョシア・ローガンというブロード・ウエイの劇作家の演劇「バスストップ」に出演、それを映画化するともに、自ら主演。かと思うと、著名な劇作家アーサー・ミラー(セールスマンの死など)と同棲してみたり、いわば背伸びして自分の情緒を満たすことを

考えたようです。一方、ゴシップ、スキャンダルも賑わしく、エリア・カザン、マーロン・ブランド、イブ・モンタン、ジョンF・ケネディ大統領、ロバート・ケネディなどと浮名を流し、反面彼女は荒ぶ一方となったのであります。そして1962年、ロスの自宅のベットで、ほとんど全裸の状態で受話器を握り締めたまま、死んでいました。

これについては、いまだに解明されていない。あるいは睡眠薬の飲みすぎとか、世を儚んだ末の自殺であろうとか言われたのですが、色々検証の結果、ケネディ一家とあまりに関わり過ぎたことからCIAが謀殺したのではないか、という説が有力になったきました。
私、坂田純治はこの説を支持しております。理由は話せば長くなりますので、省略します。

時あたかも、ジョン・F・ケネディはキュウバ危機を乗り切りましたが、ニューフロンティア政策は崩壊し、泥沼ベトナム戦争へ突っ込み、翌年暗殺されるという話題の多い大統領でした。43年も経て、未だにその死が解明されないモンロウの匂いが、ぷんぷん漂うような気がします。彼女の存在感がいかに大きかったかという証左でありましょう。まさに世紀のスター、マリリン・モンロウ36歳であります。

ビデオの上映

「アスファルト・ジャングル」
1950年、駆け出し端役時代のモンロウ。ギャングの一味が宝石泥棒に成功するが、次第に仲間割れをする。モンロウ24歳でした。

「ナイヤガラ」
これがモンロウ・ウォーク。男にだらしのない人妻の役。事実上の主演でした。共演は夫役のジョセフ・コットン。夫殺しを情夫にけしかける悪女を演じて好演して、格が上昇した。

「紳士は金髪がお好き」
 共演はグラマー女優のジェーン・ラッセル。お色気は満点だが、おつむは弱いブロンド娘という評判のモンロウだった頃。すごい劣等感を抱いたといわれる。この2作でFOX社はモンロウがソロで歌う映画の企画を思いついた。

「帰らざる河」
相手役は、ロバート・ミッチャム。
西部の酒場で歌うモンロウの甘くハスキーな声。この曲は大ヒットしました。

「七年目の浮気」
ブロードウェイのロングランステージ(ジョージ・アクセルロット作)を名匠ビリー・
ワイルダーがモンロウ向けに脚色して、きわどく、そして楽しい映画に仕立てました。
出版社に勤めるサラリーマン。妻子を避暑に送り出して、さて今宵はどうしよう。同じアパートに住む、かねて気になっていたブロンド娘を街に連れ出してはみたが・…
地下鉄の通風孔でスカートがまくりあがるシーンは、デイマジオならずとも腹が立つ(?)。

「バス停留所」
“おつむの弱いブロンド娘”から脱皮しようと、モンロウは必死。ニューヨークの演劇の
名門アクターズ・スタジオで演技の基本を学び、ジョシア・ガーデンとか、アーサー・ミラーなどの劇団の大物と接触を保つ。その成果をこの作品で問う。

「荒馬と女」(1961年)
同棲し、数々の奇行に眉をひそめていた大劇作家アーサー・ミラーもやはり彼女の魅力とは断絶できなかった。彼女のため書いたオリジナル シナリオである。荒っぽいカーボーイとの叙情。モンロウはこの可愛い女をインテリジェンスィも加味して、巧みに、また見事に演じた。そして、この作品が彼女の遺作となった。さらなる奇縁は、相手役を演じたクラーク・ゲイブルにとっても最後の作品、また共演のモンゴメリー・クリフトは、この作品の完成後に顔面に大怪我を負い、かっての精彩を欠いて、再びあの美貌をスクリーンに見せることのなかった、まさにいわく付きの一作となった。

● オードリー・ベップバーン
1929年5月。ベルギーのブリュッセルに生まれました。父はイギリス人で貿易商。母はオランダの王室直系の男爵家の出身。オードリー5歳の折に英国にわたり、ロンドン郊外の私立寄宿学校に入学。10歳のとき、両親が離婚。大2次世界大戦勃発を機に母とオランダに引き上げます。オランダについて母娘の気を惹いたのはバレエの世界でした。しかし、当時のオランダはナチスの占領下にあり、叔父が殺される目にあったり、厳しい窮乏生活を強いられます。

大戦が終わると、モデルをして生活を支え、やがて再びロンドンに渡ります。ロンドンでは本格的にバレエに取り組み、あの妖精のような美しさが人の目を惹き、映画界も食指を動かして端役ながら六本ほど映画出演をします。1952年バレリーナを描いた「初恋」で主役に抜擢され、バレエと美貌を披露します。この頃、小説家で劇作家のコレット女史と出会う機会に恵まれ、女史の指名で女史自作の「ジジ」のブロードウェイ公演の主役「ジジ」を獲得、まさに運命的出会いでありました。

さらなる大きな出会いは、ハリウッドの名匠ウイリアム・ワイラーであります。ワイラーは、次回作「ローマの休日」のヒロイン王女役を誰にしようか悩んでいました。たまたま、近頃話題の「ジジ」を見に行き、とっさのインスペーレ−ションでその夜のジジを演じているオードリー・ヘップバーンしか王女役はいないと決断し、直ちに出演交渉に入りました。美しく、優雅で、気高く、そして無邪気でチャーミングな王女。これまでのハリウッドの女優にはない新鮮な個性を見ぬき、彼女こそ、プリンセス・アンそのものだと確信をもったワイラーの眼力は流石でした。

天性の魅力を存分に発揮して、オードリーは期待以上の名演技で応えました。特にあのラストシーンの眼の演技などは、充分に計算されたデリケートな表現力で、当然のように、この年のアカデミー賞女優演技賞を手中に収めました。翌年のブロードウェイ公演は「オンデイーヌ」でしたが、ここでも「トニー賞(演劇賞)」を獲得しています。その舞台で共演したメル・ファーラと結婚することになりますが、翌年メルの女性問題で破局を迎え、14年目で離婚することになります。まさに、女優の美しさの基準を塗り替えてしまう新鮮で衝撃的なハリウッド デビュウでした。

演技ばかりでなく、ヘップバーン・カットとかジパンシー・ファッションとか、おしゃれセンスは抜群で、しかも、それがアメリカより日本で流行したことも、面白い現象でありました。映画の出演本数は決して多くはないが、60歳まで現役、前後してユニセフ大使なども勤め、難民救済活動に尽力されたことも、大きな足跡です。
1993年1月、結腸ガンで亡くなりました。63歳でした。

ビデオを見る
「ローマの休日」(前述の通り)
「麗しのサブリナ」
才人ビリー・ワイルダー監督がハリウッド二作目のオードリーを料理する。大資産家のお抱え運転手の娘が料理の勉強にパリに留学。見違えるばかりに洗練されたマドモアゼルになって帰ってくる。ハンフリー・ボガードの謹厳実直な後継者役も珍しい。ワイルダーは唸る。「ふくらんだ胸の魅力を過去のものにしてしまうだろう」と。
流れるシャンソンは【ラ・ビ,アン,ローズ】

「昼下がりの情事」
再びワイルダーがメガホンを取る。音楽学校生で私立探偵の娘が、ゲイリー・クーパー扮する名うてのプレィボーイが、たじたじになるまで振りまわすコメディ。クーパーも渋くてスマートだが、父親役のモーリス・シバリエも粋。パリの味を満喫させてくれる。
流れるシャンソンは【魅惑のワルツ】

「許されざる者」
O・ヘップバーン生涯27作品のうち、唯一の西部劇。カイオワ族の血が流れている娘は
赤ん坊の時に白人の家庭に拾われる。美しく成人した娘を酋長達が奪い返しに、一家を襲撃するが・・…。育ての母親を、往年の名女優リリアン・ギッシュ。長兄をバート・ランカスターとキャストも豪華。

「テイファニーで朝食を」
早朝、テイファニー宝石店のウインドウを覗きながらパンを齧る高級コールガール。同じ安アパートに住む作家の卵と結ばれるまでのラブロマンス。ジバンシーのファッションを優雅に着こなし、ヘンリー・マシーニの【ムーン・リバー】をギターを抱えて歌う。原作者のトルーマン・カポティはマリリン・モンロウをイメージして書いたというが、果たしてどちらが適役であったか。

「マイ・フェアレディ」
バーナード・ショウの「ピグマリオン」をブロードウェイでミュージカル化し、1956年の初演では2,717回という記録的続演でヒットした。その功労者は主役を演じたジュリー・アンドリュースであったが、映画化に当たっては知名度の故に下されて、悔し涙を飲んだ。
ところが、アカデミー賞選出にあたっては、歌声を吹き替え(マーナ・ニクソン)にしたオードリーが落選し、皮肉にも「メリー・ポピンズ」で好演したジュリーがオスカーを手にした・

「ロビンとマリアン」(1976年作品)
1976年の「暗くなるまで待って」を最後に引退声明したオードリーを口説き落として出演させた9年ぶりの作品である。シャーウッドの森の英雄ロビン・フッド(ショーン・コネリー)が悪徳役人に対して最後の挑戦をし、武運つたなく瀕死の重傷を負う。彼を見守る聖女マリアンは、最早これまでと共に毒酒をあおる。コネリーの豪放さとオードリーのしっとりした味わいは、単なる活劇映画に留めなかった。

● このあと、1979年「華麗なる相続人」、1989年「オールウェイズ」(60歳)のニ作をもって、オードリーはスクリーンから永遠に、その姿を消した。終わり

(文責 三上 卓治)

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写真撮影:橋本 曜
HTML:和田 節子