平成17年12月09日   神田雑学大学定例講座NO291


伝説の映画スター・小史

映画史講座NO10「アメリカ映画 男優編」





講師 映画史研究家 坂田 純治






講師の坂田さん ●今日は皆様におなじみのスター特集になると思います。ゲイリー・クパー、ハンフリー・ボガート、ジョン・ウインなどの懐かしい面々、しかも西部劇中心のドンパチ映画で活躍したスターたち。皆さん学生時代、サラリーマン時代によく見た映画のアクティブな主人公です。

ゲイリー・クーパー
1901年5月生まれ、アメリカはモンタナ州の牧場で生まれました。父はイギリスからの
移民で、牧場主であると同時に、判事でもありました。母は大変な教育ママで、クーパーは9歳の時、イギリスに連れていかれ、3年間ミッチリ英国式の教育を受けます。大学では美術を専攻し、商業美術の道を択ぶのですが、一向にものにならず、たまたま巡り会った友達に薦められて、映画のエキストラになります。

190cmの長身、見るからに飄々として善良そうな雰囲気でしたが、B級の西部劇に出るようになり、段々に顔も売れてきました。そして、ついに1930年、ドイツから鳴り物入りでハリウッドにやってきたマリーネ・ディトリッヒと共演する機会に恵まれました。
「モロッコ」の登場です。ところが公開すると、パラマウントが宣伝に力をいれたデートリッヒよりも、相手役のクーパーの人気が大いに沸騰したのでした。

日本では、「モロッコ」がヒットしたのですが、特にクーパーの人気が高く、世界のクーパーの人気は日本が先導したといわれるほどになりました。容姿、風格、控え目な性格など、日本人好みだったのでしょう。そして、1935年から1957年までの23年間、ハリウッドを代表するドル箱スターに成長しました。「風とともに去りぬ」のクラーク・ゲーブルはキングと呼ばれましたが、クーパーの綽名は「クープ」でした。
ゲイリー・クーパー
クープには、ハリウッド好みの浮いた噂は全くなく、ゴシップやスキャンダルの餌食にならなかったことが幸いしました。しかし、たった一度だけミスを犯しています。1948年、「摩天楼」という作品で共演した、個性の強いパトリシア・ニール(21歳)という女優と恋に落ち、いままで保っていた清潔なイメージに傷がつきました。人気も急落しました。
ところが、女優出身の賢夫人ベロニカが、この事件を巧みに捌いて決着させたので、クープには二度とスキャンダルが起きなかったのであります。クープはベロニカ夫人と、29年間、変わらぬ愛に満ちた生活をまっとうしました。

「ハイヌーン」(1952年)で初出演したグレース・ケリーからモーションをかけられるが、
危うく土俵際でかわし、事無きをえたといわれます。グレース・ケリーはクーパーから始まってクラーク・ゲーブル、ウイリアム・ホールデンなどにモーションをかけ、結局モナコの国妃に収まりましたが、恋多き女優でした。

クーパーはラブシーンが苦手でした。そしてキスシーンが下手でした。
1933年、名作「戦場よさらば」に出演していますが、原作はアーネスト・ヘミングウェイです。この時から二人は親友同士となり、ヘンミングウェイはそれから十年後「誰がために鐘は鳴る」の主人公ロバート・ジョウダンを、ゲーリー・クーパーをイメージして書いたといわれます。これは「風と共に去りぬ」の原作者マーガレット・ミッチェル夫人が、
主人公レッド・パトラーをクラーク・ゲーブルをイメージして書いたというエピソードに比類するものがあります。

クーパーは、大体、柄で人気を得た人ですが、大根とよくいわれました。それでも1941年、1952年の二回「アカデミー主演男優賞」を獲得しており、大根の名を返上しています。
晩年は、益々奥が深く円熟した演技を見せた大スターですが、1966年、前立腺ガンのため
帰らぬ人となりました。60歳の寿命でしたが、最も多くの人々に愛された生涯を全うしたクーパーでありました。

ゲイリー・クーパー
イタリアのある新聞は書いた。
「彼と共に、ある種のアメリカは終わった。それは善悪の区別をはっきりするアメリカのことである」。誠実、素朴の塊のような世紀の大スターでありました。息を引き取る前に、彼はこう言ったそうです。
「すべては、神の思し召しだよ」

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「モロッコ」1930年、ジョセフ・ホン・スタンバーグ監督。主演女優マリーネ・ディートリッヒ。クーパーは共演。トーキーが始まって三年目。画像の下部に現れるスーパーインポーズは、わが国ではこれが最初の記念すべき第一作であります。沙漠へ進む軍隊の行進を追って、脱ぎ捨てるディートリッヒの白いハイヒール。

「平原児」1936年、大作を得意とするセシル・B・デイビル監督。西部の英雄ワイルド・ビル・ヒコックを描いて大ヒットした西部劇。共演はジーン・アーサー(戦後、シェーンの母親役で登場)。カラミテイ・ジェーンとの絡み。

「青ひげ八人目の妻」1938年、七人の妻を娶るが、慰謝料欲しさの妻に離婚をされた男。ようやく八人目の奥さんを迎えた。クローデット・コルベールが共演。

「打撃王」1947年、ニューヨーク・ヤンキースのルー・ゲーリックの物語。2,130試合に連続出場した記録保持者の役。身体障害の少年からべーブ・ルースと共にホームランを約束させられ、それを果たすエピソードはあまりにも有名である。不世出の打撃王であったが、後年ALS「筋萎縮性側索硬化症」にかかり引退するまでの感動の巨編。

「誰がために鐘は鳴る」1943年。ヘミング・ウェイがクーパーをイメージして書き下ろしたという作品。画面はそのラストシーン。相手役はイングリット・バークマン。スペイン内乱には世界各国の若者たちが革命軍に加わった。ヘミング・ウェイ自身も参戦した。
クーパー扮する主役ロバート・ジョウダンは重傷を負って、味方の退却に死を覚悟のしんがりを引き受ける。

朗読  詩「誰がために鐘は鳴る」

我もまた人の子なれば 
誰の死も 身をさいなむ
ゆえに問うなかれ
誰がために鐘はなると
そは汝がための弔鐘なり
  (アーネスト・ヘミングウェイ)

ゲイリー・クーパー 「摩天楼」妥協を嫌う建築家。設計図を改竄され、ついにはそのビルの爆破を計る。
そのビルのオーナーの娘がパトリシア・ニール。前述の不倫の相手となった女優。

「真昼の決闘」1952年
西部の町に、クーパー扮する保安官にかって捕えられた乱暴者を首魁とする兄弟4人がお礼参りにやってくる。彼らの列車は正午に停車場につく。通りには誰も通らない。町の人は4人を恐れて、誰一人味方するものがいない。保安官は独りで彼らを迎え打つ。スリリングな音楽が危機感を一層際立たせる。アシストするのは新婦だけであった。

ハンフリー・ボガート
1899年、ニューヨーク生まれ、自称19世紀最後の男と自慢していました。父は医者、母はイラストレーターという裕福な家庭であった。父は彼をエール大学に進学させ、医師の後継ぎにしたかったようでしたが、彼はそれを嫌い、海軍に志願。復員後ブロードウエィの大プロデューサーの事務所に就職しました。仕事柄俳優に接触する内に役者に魅力を覚え、七年ほど舞台俳優を務めました。
ハンフリー・ボガード
それからハリウッドのワーナー・ブラザースの目にとまり、端役だが10本ほど出演しています。転機は1934年でした。「化石の森」というブロード・ウエィの演劇で脱獄囚を演じて好評を博し、この映画化に際しては、同じ役を演じることになったのです。この映画もヒットし、当時ギャング役はエドワード・ロンビンソンの独壇場であったのですが、映画化権をもつレスリー・ハワードが、強くボガードを推薦して実現したものであります。

1936年〜40年の間にボガートは29本の映画に出演しているが、その内19本は殺されるか、死刑になるかの役でした。この特異な個性をかねて評価していたジョン・ヒューストン監督が1941年、「マルタの鷹」の私立探偵サム・スペードの役にボガートを起用。これが大成功。以来、ハードボイルドスタイルはボガートという定評が確立しました。

おりしも、ワーナー・ブラザースは「サカブランカ」を企画中でした。そのシナリオが未完成のまま、変更につぐ変更で、ボガートもバークマンも配役は決まったものの、人物像が決まらず、再三マイケル・カーチス監督に詰め寄ったというエピソードがあります。
ボガートが演じたリックの役は、4人目でボガートに決まったそうです。

ボガートのニックネームはボギーでした。結婚は三度していますが、三人目のメイヨ・モソッドは大変な悪妻でした。嫉妬深くヒステリーで、ボガートが帰宅すると隅々まで調べ浮気の証拠を探すという日常。1945年「脱出」で共演したローレン・バコール(20歳)と恋愛し、三人目の悪妻には多額の慰謝料を払って別れてから四回目の結婚をしました。
バコールは見かけによらず貞淑な妻で、ボガートは晩年まで暖かい家庭に恵まれました。

ボガートは「麗しのサブリナ」では、謹厳実直な紳士を演じましたが、このとき、ヘップバーンの役を、愛妻ローレン・バコールにと会社に訴えたが実現しなかったと言われております。ハリウッドでは、「BB夫妻」として稀にみる幸せな夫婦として有名でした。1951年「アフリカの女王」では、名女優キャサリン・ヘップバーンと共演し、これまでとはがらり変わった役柄でアカデミー主演男優賞を受賞しています。

しかし、ハードボイルドを地でいったような男でしたが、1957年1月、惜しくも食道ガンのため亡くなりました。57歳。じつに惜しい年齢であります。
ローレン・バコールは、ボガートと初共演した「脱出」の一場面、“あなた、なにかあったら、この笛を吹いて”の小道具に使った笛と、ヨットの鐘を柩に入れて、彼を送りました。
 
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ハンフリー・ボガード
「化石の森」1934年、ボガートの実質的デビュー作でした。田舎のガソリンスタンドに脱獄囚が逃げ込んでくる。自警団の人達と揉める展開。ボガートのハードボイルドスタイルはこれで決まる。
 
「マルタの鷹」1941年、ダシェード・ハメッド原作。ハードボイルド私立探偵サム・スペードの登場である。ギャング一味の女の泣き落としにも、一顧だにせぬ強い男サム・スペード。
 
「脱出」1954年、 演劇経験なしの初出演ローレン・バコールとの共演。ボガートが、捉えられた仲間を助けるために、隙を見て机の引出の中からピストルをゲシュタボに撃つ。バコールが歌っているが、吹き替え。二人の詳細は前述。

「キーラーゴ」1948年。小さな港町のさびれたホテル。殺人犯一味が占拠して、横暴の限りを尽くす。ヨットの上での1:4の決闘が見もの。一味のボスのエドワード.G・ロビンソンが凄い。

「アフリカの女王」1951年、ジョン・ヒューストン監督。相手役はキャサリン・ヘップバーン。第1次大戦時、アフリカの奥地で教会の司教を勤めるヘップバーン。兄はドイツ軍に殺され、独りになるが、飲んだくれの「アフリカの女王丸」のごろつき船長が救出に向う。様々な困難を乗り越え、魚雷を積んだボートで脱出する寸前にドイツ軍艦に捉えられ、あわや絞首刑に。ところが魚雷を積んだボートが軍艦に突進! 
ボガートはこの作品で、初のアカデミー主演男優賞を獲得。オスカー賞を受賞する会場でのボガートのスピーチ。「アフリカのコンゴから、この会場まで、よく生きて来られたもんだ」と言って会場を沸かした。

ジョン・ウェン
ジョン・ウェン 1907年5月、アイオワ州の薬剤師の、七人目の息子として生まれました。両親ともアイルランド系。生涯の名コンビといわれたジョン・フォード監督もアイルランド系であったことから、大いに息投合してアイルランドへの思いを託した作品が多い。たとえば、1940年「果てなき船路」、1952年「静かなる男」などがそれです。二人は西部劇もたくさん作っていますが、随所にアイルランド民謡が流れております。

ジョン・ウェンの父が病気がちだったため、11歳頃から苦労して新聞配達などして自活を余儀なくされました。カレッジではフットボールの選手として頭角を現し、将来を約束されていましたが、肩を傷めて断念、ハリウッドへ出て、小道具係、雑用係、エキストラの道を歩むのですが、やがて端役でB級西部劇などへ出演するようになり、その数なんと78作を数え、早撮り作品のスターとなりました。

ところが、その頃から目をかけていたのが、ジョン・フォード監督です。1939年、「駅馬車」の主役に抜擢したことが、ウェンの一大転機となりました。西部劇、活劇、戦争ものなどのアクションスターに成長して行くのでした。ジョン・フォードはその後1948年〜1950年の騎兵隊3部作を制作し、ウェンは遂にビッグスターとなったのです。その人気は民衆に「アメリカの英雄」と称えられるほどでした。

彼は共和党(タカ派)の超シンパでした。戦争映画(硫黄島の砂、グリーン・ベレィなど)にも出演しています。しかし、レーガンやシュワルツ・ネーガーのように、直接政治に関与することは、避けているようでしたが、アクション・スターとしての地位は揺るぎ無いものがありました。

一般にアクション・スターはアカデミー賞などの、演技を中心とする賞には恵まれない傾向があります。しかし、1969年「勇気ある追跡」では、長年の努力が報われてアカデミー主演男優賞を初めて獲得したのであります。オスカーの授賞式では、涙を流して「こんなことなら、30年前からアイ・パッチ(片目の眼帯)をつけておけばよかったよなぁ…」と言って場内を沸かせました。

1976年、ウェンは「ラスト・シュウテスト」という映画を、最後に亡くなりました。この映画はガン・マンが主人公ですが、俳優ジョン・ウェンもガンに冒されて死に至りました。肺ガンから胃ガン、最後は腸ガンのために帰らぬ人となりました。1979年6月、72歳で50年にわたるスクリーンから姿を消す事になったのです。ニックネームは学生時代からの愛犬と同じ“デュウク=公爵”でした。墓碑には、生前の彼が指示したように「彼は、醜く、強く、誇り高い男だった」刻まれています。

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ジョン・ウェン

「駅馬車」1939年、ジョン・フォード監督、この有名なテーマソングは、西部の民謡“私を土に埋めないで”からのアレンジ。駅馬車がインディアンに襲われ、あわや全滅のときに、ラッパとともに救援に現れる騎兵隊。50年代の日本の観衆は拍手喝采した。
ウェン扮するリンゴ・キッドが危機を乗り越えて街につくと、三人組みの悪党が待ち構えているという二段構えの設定・…。

「アパッチ砦」1948年〜1950年、騎兵隊三部作の一つ。全滅した軍を指揮したカスター将軍をモデルにしたサーティス大佐役を、ヘンリー・フォンダ。騎兵隊は全滅し、旗も奪われる。ウェン扮する大尉の部隊は辛うじて生き残る。

「黄色いリボン」おなじみの行進曲が響くオープニング。近く退役する年寄の隊長がジョン・ウエン。西部の叙情を見事に描き上げた傑作。ウェンも初めてのフケ役だった。

「リオ・グランデの砦」別居中の奥さんはモーリン・オハラ。太っちょのおじさんはビクター・マクラグレン。ジョン・フォード監督は、インデイアン達からは神様のように崇められていた。フォードが西部劇を作れば、エキストラの仕事にありつけるからだ。

「静かなる男」1952年、舞台は英国。もとボクサーだった男(ウェン)が故郷アイルランドに帰る。一目惚れした土地の娘モーリン・オハラと結婚するが、兄ビクター・マクラグレンと反りが合わず、喧嘩が始まって大騒ぎとなる。

「リオ・ブラボー」1959年、“皆殺しの歌”の主題歌が懐かしい。

「勇気ある追跡」片目の保安官が、親を殺された少女敵討ちを助ける。アカデミー賞主演男優賞を受賞した傑作。前述。

「ラストシュウテスト」1976年、遺作。ウエンの最後の出演ということで、多くのスター達が友情出演している。ジョン・フォードすでに亡く、監督はドン・シーゲル。切れ味のいい演出をする。ウェン69歳。このあと、ガンのためげっそり痩せ、そして死んだ。

カーテンコール
「駅馬車」をもう一度。さらば、ジョン・ウェン。
                             
 終わり
  

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文責:三上 卓治
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