平成17年12月16日
神田雑学大学定例講座 NO292

ボトルシアターにようこそ
講師 庄司 太一
プロフィル
1948年仙台生まれ、東京育ち
上智大学英文学学部大学院終了。武蔵大学で教鞭をとる傍ら、全国の廃村や廃屋をたずね、瓶を集めて、その身元調査を行なう。役目を終えた60,000本の瓶たちが演ずる第二の人生を、自ら館長を勤めるボトルシアターに再現する変わり種収集家。毎月一回新井薬師の骨董市に出店する。

●瓶だけに入れこんで30年間、生活もままならない中、あと3年で還暦を迎えます。あの手この手で集めた瓶に思いを託して、詩を綴ったりしたのですが、23歳で夭折したミュジシアンの弟の形見のギターでメロディをつけ、旋律を奏でているうちに、大学でもちょっと評判になりました。そのうちにある音楽会社から話があって「ボトルフラグメント」というCDを出版しました。12月20日発売です。出だしに「瓶のイルージョン」という曲を流します。瓶は楽器にもなるのです。

瓶神様との出会い

ある日、吉祥寺の骨董やで、変わった小瓶を見つけました。元々店内にあったものですが、売れないし、古くなったので、店の軒下に抛っといてありました。店主は勝手に持ってけというので、戴いたものですが、ふっとそれを見たときにある匂いがしたのです。それはバリカン油の匂いでした。戦前に流行ったバリカン刈りをするための、「バリカンセット」の中に入っているバリカン油の小瓶でした。

 この瓶、よく見るとゆがんでいたり、気泡が入っていたりで、趣がある。懐かしい何かによって胸がキューンとする感じでした。この小瓶がなぜ切ない気持ちをもたらすのかを考えたとき、じつは大げさにいうと、「瓶神様」に出会ったのではないか、とすら思うのです。その時初めて、瓶というものをマジに見たのです。

子どもの頃に見た瓶 

子どもの時から、生活環境の中にある瓶というものを知っているわけですが、しっかり認識したのは、この時が最初です。ガラスで出来て、中身が空になった空瓶。新鮮でした。あとで気がついたのですが、それは手作りの瓶でした。町工場などで、作る型吹きという工法で作る瓶です。その手作りの瓶のぬくもりに、心打たれたのでした。

 そう、自分が子どもの頃は、こんな瓶だった。草野球をして、ふと見上げた工場の窓ガラスは、波打って西日を反射していたっけ。昔の、子どもの頃のガラス感覚が呼び戻されたのです。そんなことから古い瓶に対する妄想が、ワーッと沸きあがってき、そこには、一つの世界があることに気づきました。それまでは瓶なんて眼中になかった。

 それと、もう一つ。子どもの頃(2,3歳)に、母親がフト居なくなって、淋しい思いがして、見まわした部屋の茶箪笥の上にあった緑色の小瓶を、何故か覚えているのです。心理学者がいうように、人間は最初に出会ったものが、その人にとって潜在的に大きな意味を持つ・…とすれば、その瓶は私に何か切ないもの、不安なものを伝えているように思ったのです。

 その瓶というのは、あとで調べて見ると「肝油」の瓶でした。多分飲まされていた、まずいものだったでしょう。しかし、西日があたって、それは綺麗でした。そのようなことを吉祥寺の骨董やで戴いた小瓶から、一つのイルージョンのように思い浮かべ、瓶というものに初めて開眼した訳です。


製瓶の話
 さて、ここで、製瓶の話を致します。
じつは、加賀屋というギヤマン問屋の加賀屋貞次郎が明治2年に鳥越のガラス工場で吹いたのが始まりといわれ、こんにちまで続いていますが。しかし、昭和20年代半に、カラス製法は、様変わりします。アメリカからISマシンンが導入され、20年代後半には機械で作られるようになりました。

 骨董やで発見した手作りのガラスの小瓶が、私にとって衝撃的であったということは、1970年代において、既にほとんどのガラス瓶は機械生産に代わっていたということであります。機械で作られた瓶は、形、厚み、色合い、表面等、すべて均質で、美しい製品に仕上がっています。気泡など混入していたら、即センサーで発見され、排除されてしまいます。確かに技術的には素晴らしい。それゆえに、日本の工業力は高く評価されました。

 それは、ガラス瓶が人間の手を離れて、規格統一化が行なわれ、機械によって生産が行なわれるということになりました。1970年の後半から、自分の手になじんだ手作りのものが、どんどん失われていくようになりました。奇しくも、手作りのガラスの小瓶に巡り会ったのは、ちょうどその時期だったのです。
そして、瓶というものに、目覚めました。

色々と調べると
 それから、瓶のことを色々と調べはじめました。
骨董やで貰った瓶を窓辺において、まず、瓶の歴史からです。ところが、本屋へいっても図書館へ行っても、瓶のことが書かれている本は、まったくありませんでした。日本ガラス工業史という本の中に、一部瓶について触れているだけで、それ以外には、瓶について書かれたものは、全くありませんでした。これは驚きでした。

 瓶の歴史は、わが国では全く無視されている。語り継がれていない。そこで、判らない。判らないから、益々私の好奇心が触発されて、それから骨董やを巡ったり、友達に声をかけたりしながら、手当たり次第、面白いのがあったら教えてくれと、瓶のコレクションを始めたというわけです。とりあえず、20本くらい並べることができました。しかし、何の瓶か、いつ頃のものか、皆目判らない。


ワシントン州立大学
 当時の私は、色々な意味で行き詰まっており、生活もままならず、打開策が必要な環境でした。その打開策がアメリカへ行くことでした。アメリカのワシントン州立大学に留学することになりました。留学生と言えば、聞こえはいいが、何とかなるだろうと夜逃げをしたようなものです。

 出発に際して、母親が飛行場まで見送りに来ました。
「お前、アメリカの大学にまで行って、瓶なんか集めないよね」と真剣な眼差しの意見に、廻りのみんなもバカ笑い。私も釣られてバカ笑いしたものの、今まで迷いに迷ったが、今度こそは気合を入れて、勉学に勤しむぞ、と心に誓ったのでした。 大学は英文学学部でした。大変な学部を択んだものです。

「瓶の値段表」
 私は、シアトルに暫く滞在してから、ワシントン州立大学に行く予定でした。
煩悩というものは中々消えないものです。シアトルのある本屋さんの書棚を眺めていたら、
視線の先に、何と「Bottle Price Guide Book」があったのです。すなわち瓶の値段が書いてある本なんですよ。何と言う皮肉な展開でしょうか。せっかく瓶を忘れて、勉学に勤しもうとする自分の目の前に、「瓶の値段表」が現れるとは。
 
 本を手に取って開いて見ると、色んな瓶の写真と値段が印刷してある。
「ああ、これはまずい。まずい」と呟きながら、私はその本を買ってしまいました。しかし、買ったものの、こんなこと関わっていけないと自戒して、本に封印をしたのであります。ついふらふら、骨董やを廻って見入ると、ソーダの瓶などが置いてあったりする。

 日本では、ほとんど無視されているものが、アメリカではちゃんと骨董やに君臨している。そして、まずいまずいと思いながらも古本屋を漁っていたら、親子三代に渡ってアメリカン・フラスコ(著名なアメリカ酒の瓶)を研究した分厚い本を発見したり、ボトル・クラブ(雑誌)を見つけたりしました。これは、瓶の文化はありえないと思っていた私にとっては、大きなカルチャーショックでありました。
 
 そんなことがあって、ついつい1本か2本の瓶を買ってしまいました。住んでいたエマーソン通りの名と同じドラッグカンパニーと印刷した瓶が、ある骨董やにあったので、これはエマーソン通りに住んでいた記念に買うものだと、自分に言い聞かせたりしながら、ワシントン州立大学では勉学・研究に勤しんでおりました。そして、色々なアメリカ人先生や日本から来た教授を紹介してもらったり、学生の友人がたくさんできました。

 その内に、ワシントン州立大学に留学していた生物学の教授が、「庄司さん、素晴らしい人に巡りあった。近く紹介するよ。庄司さん、瓶好きだからね」というのでした。それはドクター・ハイパーさんという昆虫学の先生で、昆虫に使う毒瓶のコレクターらしい。そんな方がワシントン州立大学に、いらっしゃるのだ。早速その先生にお会いしました。部屋にダーッと瓶が並んでいるし、学校の周辺にもボトル愛好者がたくさんいるし、アメリカでは各州に3,4のボトルクラブがあるというほど、瓶はポピュラーなものと知らされました。

コレクターのランキング
 アメリカでは、まずコレクターのランキングでいうと、1960年代には切手、コインについでボトルコレクティングが第3位であることが判りました。しかし、切手、コインについで瓶が3位とは何故だろうかと文化的興味から調べてみました。日本では陶器、磁器があるので、ガラス瓶の美しさを発見できる状況にないのですが、アメリカではトレジャーハンティング(宝探し)といって、ゴーストタウン化した金鉱の街を探検して、昔のお宝を跡地から発見する遊びがあります。

 西部の街では酒飲みが多かったので、跡地にはまず酒瓶がいっぱい掘り起こされます。ついで多いのは、回虫下しの瓶でした。回虫(さなだ虫)保持者が多かったのですね。馬車で巡回する薬売りが適当な口上で、スネーク・メディスンというインチキ薬を売りさばいたこともあったでしょう。何にもない西部の砂漠に、酒瓶や虫下し瓶など埋もれていたのが、夕陽を浴びてキラッと光るとすれば、芭蕉でなくても俳句の一つをひねりたくなるような趣があります。

ボトル・ハンテング
 何もない沙漠地帯。そこにキラリと光る埋もれた瓶。確かにアメリカという国には、瓶を際立てるステージがあるのです。そのような要因があって、瓶は人間の生活を象徴しているように写るため、この国にはボトル・コレクターが多く存在するのでなないか、と思うわけです。アメリカには、ボトル・ディギングという半ばスポーツ化された遊びがあります。

 昔の野外トイレ跡を掘り起こすと、そこから様々なものが出て来るのですが、その中には大量の瓶があるのです。アメリカの開拓時代はアウトハウスと言って、トイレは外にありました。排泄物でいっぱいになったら、それを埋めて次のトイレの穴に移る。繰り返し移動している間に、前の排泄物は土になる。広い土地があれば便利なシステムです。

 この野外トイレ跡をボトル・プロービングロットという、竿を土の中に差し込んで探ることをやります。アウトハウスは野外トイレであると同時にゴミ捨て場でもあったのです。そこで探しあてた瓶には珍しいものもあるので、ある種の宝探しの要素があります。特に、禁酒法の時代には、酒をトイレに隠れて飲んだらしく、変わった酒瓶がよく出てきたようです。

 あるホテルの跡地にあるアウトハウス跡からは、何百とういボトルが出て来たということでした。それが、昔の手作りの瓶で、味があるものだったのですね。というようなことで、アメリカという国は、ボトルを文化にしてしまう国であることが判って、カルチャー・ショックをうけました。

 次のビデオは、私がドキュメンタリーに出たときのフィルムです。大げさにいうと、日本でボトル・ディギングをした、初めての映像です。誰も評価しませんが、こうやって掘るということがよく分かります。場所はワシントン州立大学の近く。ワシントン州のものすごい田舎にあります。ボトル・クラブのマニアたちが、ボトルを掘り当てるシーン。

 この経験を顧みると、アメリカという国は面白い国だと思います。いけない、いけないと思いながら、英文学よりはボトルの研究の方が自分に向いていると思いました。
アメリカから帰国したときの荷物は、開けてみれば瓶ばかりだったということから、それを見た父が怒り出して、あわや親子ケンカの一幕もありそうでした。

瓶の体系化
 私は今、瓶の体系化が出来ないかと考えています。アメリカでは野外を掘れば、瓶が出てきます。ところが、日本では野原からは何も出てこない。野外便所に瓶を捨てたりする風習は全くないからです。わが国では、ガラスや陶器の破片はハケ(崖淵=道の斜面)に捨てたのです。特に、危険物はハケの中でも、竹やぶに捨てたと思われます。そこで、まずい、まずいと思いながら、そう言うところを掘れば、瓶が出てくるのでなないか。

 これこそ、ジャパニーズ・ボトル・ディギングではないか、と竹やぶを掘っていると、お巡りさんがきて「何をしているのか」と訊ねられたりします。「これこれです」と
答えると「ちょっと来い」ということになり、正直にいうことが仇になったりします。
多摩川の河口などでも、引き潮のときには、葦の茂みなどに手作りの目薬の瓶などが引っかかっていたりします。ヘドロにも瓶が埋まっていることもあります。

 私の完全な道楽で多摩川で瓶を探したり、特許庁の意匠登録などを調べたり、文献を漁ったり、瓶の情報を積極的に集め出したりすると、今度は色々な問合せが来たり、取材を受けたり、場合によっては、瓶なんて他に調べている人はいませんから、瓶博士などといわれるようになりました。つまり、少しづつ世間に認知されるようになってきたのです。

 最近では、全国の遺跡調査団から問合せがあって、ほとんど私が時代考証をするようになりました。意外にも、水害があったとして、地層から発見される遺物の中に陶器があったり、瓶が出たりすることがあります。陶器は長く使われるものですから、すぐ捨てられる瓶の方が、時代の特定に役立つことが多いのです。

 たまたま、ある遺跡調査団から瓶の写真が送られてきたことがあります。この瓶は何時頃の時代のものかという問い合わせでした。それは大正時代の固形ラムネの瓶でしたから、地層の年代を割り出すことができ、喜ばれました。古い瓶も意外に役に立つことがあると、
私も嬉しく思った次第です。しかし、とは言え、飽くまでもこれは私の道楽であって、学問という大それたものではありません。

ボトルシアター
 瓶のジャンルは非常に幅広いのですが、集めた瓶60,000本を全部チェックして、自宅にボトルシアター(http://www.sayanet.com/~bottle/)を作りました。私が館長ですが、お金にもならないし、逆に生活が圧迫されて、実際はカミさんに迷惑をかけている状況です。瓶でビンボウでは洒落にもならず、追いこまれております。しかし、追いこまれているから、何かできそうな気が致します。

 瓶は西洋から日本へ入ってきた文化ですが、それなりに風土を吸収して日本化していることに気がつきました。偉そうにいうと、「ジャポナイゼィション」でしょうか。子どもの飲みものに、かってミカン水、ニッキ水、ラムネなどがありました。シロップはそれより高級品でしたから、瓶のデザインもなるべく舶来モノ風に西洋流にしてあります。ところが、三流の飲み物だったミカン水、ニッキ水は単純に目立つスタイルです。

ラムネは、瓶の中にビー玉が入っている不思議な飲み物でしたから、子どもの好奇心を集めるようなデザインになっている。中身はさることながら、瓶の形で勝負するという日本人の〔庶民〕の、知恵の反映のようなものが、窺われるのであります。というような、微視的なものかも知れないが、西洋からそれて日本人の生活の姿としての「瓶のカタチ」が生み出されていることに気がつきました。


「日本の瓶」
 瓶については色々なテーマがありますが、私は「日本の瓶」を見つめていきたい。
飲料瓶に関しては「日本清涼飲料史」という出版物がありますが、しかし、これは大手を中心としているので、ミカン水の類は三流品として削られております。そこで私は、日本の瓶のデザインを写真集にして、その瓶の背景にある、日本の零細企業の社長さんの手記などを綴って、盛り上げて行こうと思うのです。ある意味での庶民の生活史のような本を出版しようと、準備しております。

 機会があれば、この話の続編でもやりましょう。廃屋に入って瓶を探していたら、警察に捕まったり、様々は失敗談があります。ボトルシアターに集まってくるマニアックなコレクターの話や、若き日の恋の思い出がいっぱいの香水瓶を預けにきた美人など、瓶の話は尽きません。
                      終わり(拍手)
文責 三上 卓治    会場写真 橋本 曜   HTML編集 山本啓一